Wednesday, December 05, 2007

演出意図(3)

最初、この劇場の天井の高さと客席の狭さに戸惑った。
しかし、今じぶんの考えている日本の芸能の本質的な流れを、その空間形式によって試みることができるのではないか、と思ったのです。
私は、日本の伝統芸能のうち茶道を第一と考えています。それは禅の教えを基本とし、建築、華道、能楽、絵画、書、庭園、香りと食の道など、生活を基盤とした総合芸術である。
そこには主人の招きによって客人は参加し、なんらかの実世界にはない“ゆとり”と“精神性”を得て帰るのです。これには客席が少ない方がいい。

茶道の動作は能楽からきている。出演者の精神性が同じように求められる。場面の配列は、出だしの瀧と影の部分を一番目ものの「脇能」(全員)として、二番目ものは「修羅」(山下浩人)、三番目の「女もの」は「女面」(村田みほ子)とした。四番目は「狂女」(浅沼尚子)、五番目の「切能」は「切り」(及川廣信)とした。
演技形式に関しては舞踏の“アチチュード”に対して“ジェスチャー”部門を強調し、肉体の枠から逸脱する演技空間と、面からはじまる身体的表情を重要視した。ダンスの種別は舞踏と区別するため、あえて歌舞伎から歌を除いた“舞妓(ブギ)”とした。

天井の高さは歌舞伎的仕組みで工作し、場所の意味性を移動させることに務めた。「実と虚」の問題、“おくのほそみち”、舞台設定案とこれらの問題は、最初大串孝二から提案されたものである。大串孝二は、ほかに鐘の実音も演奏し、天井裏にて外部空間を演技者として受け持った。

音響の弦間隆は、スピーカーを上に向け、壁に反射させて空中に音響の渦を巻かせ、客席からそれを間接的に聴く音響構成をとった。
照明の坂本明浩は、光と影を精神性の問題として表現し、電燈のほんのりとした色合いから、場面々々の状態を色と捉え、白光の太陽の光りで宇宙の広がりを感じさせる構成をした。

演出意図(2)

先のブログで[肉体]と[形態]ということばが出てきた。そのことばが出てきた背後に表現としての[舞踏]と学問としての[形態学]がある。
舞踏は神秘主義と生命哲学をベースに、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの<ムーブメント>に対して、<アチチュード>を表現形態の基本としている。形態学は医学・生物学の身体と器官のフォルムを対象とする“差異”の比較から始まったものである。元は“人類学”で、分科系の“文化人類学”に対して“差異人類学”ともいった。やがて計測の対象が身体から顔面に向い、また内部は内蔵から大脳に移動した。それがユングなどの影響によって「心理形態学」「唯脳主義」となり、それらをより表出するものとして「顔面表情」が注目されている。ここで、能楽の「面(おもて)」の表情・キャラクターから始まる表現形式があらためて見直されなくてはいけない。

ここで社会学者コントの学説の宇宙的世界/形而上学の世界/リアリズムの世界から敷衍した、古典演劇の宏大な空間の中にいる表現/形而上の空間を感じさせる点と線と角度の幾何学的表現/皮膚と接触と感覚を基盤にするリアリズム表現を思い起していただきたい。
そして、この3つの世界の下部にラカンのいう想像界/象徴界/現実界がどのような位置を占めて交錯しているかが問題なのである。

映像はイメージである。それはラカンのいう想像界に属すると同時に、「実と虚」の“虚”に属する。だが、カメラで対象を写すカメラマンの行為は“実”である。
加藤英弘のつくった映像の、胎蔵マンダラと金剛界マンダラは、虚でありながらこの世界の実像を両面から伝えようとしている。

美術、音楽、舞伎については、次回に記します。

Tuesday, December 04, 2007

演出意図(1)

12月1日(土)、2日(日)のキッド・アイラック・アート・ホールでの“アートは症状である”の3回公演は無事終了致しました。ご来場いただきました皆様方に深く御礼申し上げます。
さて、今回の公演のねらいは、先に申し上げた通り「実と虚」の問題を出発点としておりますが、それから思考が“おくのほそみち”を辿って、なにやら明るさを見出したような気がします。そのことを前のブログを受け継いだかたちで語ってゆくことにします。

先ず、ルイ・アラゴンとシュル・リアリスムのことから入りましょう。シュル・リアリスムは超現実主義と訳されています。シュル・リアリスムの提唱者のルイ・アラゴンはフロイトの精神分析から影響され、それを文学に適用したのですが、無意識の世界を、現実の世界とは離れた“夢”と通底する世界と捉えている。
ところが、シュル・リアリスム運動に参加したアントナン・アルトーは幼児に脳膜炎を煩い、以後、生涯頭痛と神経症に悩まされつづける。それゆえ、彼にとっては無意識の世界こそが現実の世界であったのです。この点で彼だけが、シュルな運動をしているのではなく、そこにこそ現実のリアリスムがあったのです。

じぶんの意識が置かれている処が、リアルな場所なので、日常的な現実の方が架空なのです。それは仏教がこの世を仮空と捉えるのに相似している。ただ、仏教のばあいは、“こころ”のみが唯一、確かなもので、この世には実体がない、としているのです。この「ない」は“無”とは違う。“空”です。“空”は“無”でもあり、“有”でもあるもの。このあたりに仏教のややこしさがあります。

そこは“物自体”、“物そのもの”が置かれてもいい格好な場所かもしれません。人間でいえば衣服を脱いだ裸の身体から、さらに意味と価値をはぎ取られた[肉体]が。
しかし、その肉体の中に内蔵があり、骨があり、細胞があるー それらを切断する。<分節化>し、<分子化>する。(この2つが、形而上学の世界と宇宙的世界の、それぞれの下部空間における変身的身体表現。ムーンとマーキュリーとサタンが交互に表出する)

そこに、いわば[形態]を排除された断片と浮遊する分子群の動きの様態を見ることができます。それが“象徴界”をはぎ取られた、最終的な“現実界”なので、現象、物体の中にもそれを感じとれる人にとっては、それがリアルな現実の世界なのです。
ラカンが理論化する前に感じとった現実界は、たぶんアルトーが感じとったものとは違うかもしれません。しかし、この下部の“現実界”から、慣習と意味性と視覚の幻覚をまとった日常の世界を眺めていたのでしょう。

ラカンの理論は難解といわれます。ある高名な精神医学者がラカンの講座に出席したが、「なにが何だか皆目分からなかった」と告白してくれましたが、ラカンのいう、日常の地下にあるこの“現実界”を知ったものでないと理解できない筈なのです。
では、ラカン自身は、なぜそれを知り得たのでしょうか。私の推測では、それはアルトーからではなく、ジョルジュ・バタイユからの影響だと思うのです。

Friday, November 30, 2007

舞台空間

社会学の創始者といわれる19世紀のエマヌエル・コントの説は、舞台を創る場合にひじょうに参考になる。
彼によると、ギリシャ時代の人間は宇宙的世界に生きており、ルネッサスから18世紀までの人たちの思考は形而上学的であり、コントの時代である19世紀は、現実的なリアリズムの世界だというのである。

それを舞台芸術に当てはめて考えると、古代ギリシャ劇とローマ時代の中世の神秘劇、それに日本の能楽は、たしかに宇宙的な空間の中で演じられている。能楽はそれに幾何学的な構図があるから中世的な要素も加えられているが。また、ルネッサンスに発生したオペラ・バレエの空間表現は、なるほど幾何学的な、点、線、角度の上に演じられ、腕は直接からだに触れられることはなく、舞台の空間構図、演技者の身体表現すべてが幾何学的な構図に乗っている。

ここで、はなはだ興味を惹かれるのは九鬼周造という日本の哲学者の著した『いきの構造』という本の中の“ものの考え方”である。九鬼はハイデッカーの下で学んだというが、かならずしも、現象学という理論だけでは捉えられないものがある。日本伝来の感性から生まれた直観的な“遊びの自由さ”にあふれている。そして、このコントの形而上学的な空間構造が、彼が説く歌舞伎の形式に相応するとしても、観念の網の目から抜け落ちた部分にこそ彼の目は注がれ、小唄の情緒的な音声にこそ、この時代区分の特性を見ているのである。

それに、歌舞伎の隆盛時の江戸時代は、もはや中世的な文楽の形式に近代的なリアリズムの演技を加えつつあったのである。
ところで、19世紀以来のリアリズムの世界に生きるわれわれにとって、“リアルな表現”とはいったい何か。リアルな感覚、直接的な感性、生理的な体感。より直接的な“物そのもの”に当たる身体的な実感にこそリアリズムの土台がある、と人々は考えていた。

ところが19世紀末に、はからずもフロイトのような人間の内面に関心を持つ人間が現れたのである。
それは、日常生活の表の部分とちょくせつ連動する人間の内的心理とは違う。人間のこころの奥に潜む深層心理と、その葛藤のコンプレックスを扱ったものである。その深層心理が隠された通路を通って現実の目に見える人間の生活を動かす、という。

現実の事象を逆転させる視点が提出されたのである。
ならば、演劇空間としては、19世紀のコントが考えた3つの空間理念に、またひとつ内部空間を追加したらいいのであろうか?
しかし、ここで「現実」とはいったい何か?「リアリズム」とはどこまでを言うのか? という疑問が湧いてくる。
この問いに対して、ジャック.ラカンとアントナン・アルトーが登場してくることになる。

Thursday, November 29, 2007

「アートは症状である」の構成

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール

まず、“おくのほそみち”の細部から入ること。ダンス・パフォーマンスの進行、構成は以下の通りです。

開演 VTRスタート 瀧のVTR + シルエット      3'30"
1場 修羅(山下浩人) ほんのりとした電燈の色合い  10'00"
2場 女面(村田みほ子)状況としての色がかわる    10'00"
3場 狂女(浅沼尚子) 状況としての色がかわる    10'00"
4場 切り(及川廣信) ちょっと明るく        12'00"
胎臟マンダラ 金剛界マンダラ
ラスト 再生(浅沼/村田/山下)           6'00"
太陽の光 青白い明るい光り
オーゼの死 地底にとぐろ巻くへび 耳 宇宙への聴覚 
瀧の逆流するVTR  照明 F.O  VTRが終わる 客電   計)51'30"

 たちこめるそらいちめんのむらさきのくも
    荒川堤赤水門河川敷
 ころされたおとこのしたいがそこにみえる
 てれびでみたえいがのひとこま
 はなしの虚のなかの実のからだ

 わたしはいまここにたっている
 ゆったりとしたみづのながれと
 きしベにうごくくさぐさの細部
  
  象徴界地底現実界曼陀羅図
 ほそみちをおりてゆくひとの影
 おくにきこえるぴあののおとはー

この作品は「虚と実」をテーマにしています。虚と実は、“アートは症状である”という名言を発した精神分析家のラカンの理論によると、<実>は“現実界”に、<虚>は“象徴界”に当たります。彼のいう“現実界”というのは、日常のリアルな世界ではなく、リアルな現実の中に潜む“物自体”ともいうべき世界です。その上を覆っているのが“象徴界”で、言語を基底に意味作用をなす世界です。
われわれは、混合した2つの世界の境界において、空間表現の側からそのテーマに当たるため、地上と地下、太陽と影の面からそれに向ってゆくことにしました。アートの各分野からのコラボレーションによるものです。

Wednesday, November 28, 2007

「アートは症状である」の第2回公演

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
 空間演出:大串孝二/構成演出:及川廣信/ 映像構成:加藤英弘
 音楽構成:弦間 隆/照明構成:坂本明浩/スタッフ:渡辺アルト
               
     
“アートは症状である”の今回は、<美術を前提>にして、各分野のアーティストが関わっています。互いに話し合っているうちに、最初に浮かび上がったのは「虚と実」の問題で、このことが中心となってさらにいろいろなことが討論されたようです。というのは、各ジャンルによって技法が異なりますし、技術の上からしか新しいアイデアは生まれないからです。

今は精神医学と社会学が勢いがいい時代です。われわれはその時代の流れに乗るわけではなく、むしろ時代の慢性的な流れの底辺にある忘れられたものを掘り出したいのです。その意味では今の社会学の“レフレクション(回顧)”の方向に同意します。なぜなら、ポスト・モダンということばには、近代は終わったというニューアンスがあるからです。

果たして近代は終わっているのでしょうか。ウェブの世界ではグーテンベルク以来の革命の時期だという観点から、回顧どころか新進化論を唱えている人々がいます。前へ進むものと、振り向くもの、しかし今は一人の人間の中に、この強力な逆方向の引力が働いている時代なのだと思います。

新しい発想、発見。優れた学説や技術があるなら、その中にもぐって、さらに独自なものを創り出せ。ここにも、愚化しない孤高の精神と、共同作業が生み出すものへの期待があります。
アートは症状であるのでしょうか。それは精神医学的症状なのでしょうか。多分それは気質的なものではなく、その時代の意識・感覚を、日常の枠を越えて仮想として表現する(再現 レプレザンタシオン)からなのでしょう。

Sunday, November 25, 2007

こころと空間

モダンダンスからコンテンポラリーダンスへと、時代の流れにそってそのスタイルが変わってきたが、そのどちらが優れているかという優劣は付け難い。
モダンダンスはソロ・ダンスから始まった。したがって内的な自分の内面を描くことができた。それがコンテンポラリーダンスになるに及んで、動きのスピードとダンサーの中性化が起こり、個人的なものから公共的なテーマを選ぶことになった。
空間的な場としては、モダンダンスのばあいにはダンサーの身体を取り巻く曖昧な宇宙空間として捉えられており、コンテンポラリーダンスのばあいは、照明によって幻想的部分が加えられるものの、原則的には躍るためのスペースと計算されているのである。

一方、舞踏の場合は前の2つとは違って日本固有の発想から出た、正しくウェブのオープンソースの世界のようなものだった筈が、ソースコードがオープンになっているようでいて、その実、日本独自の神秘主義的な囲い込みが働いているため、せっかくの進行の道を止めている。舞踏は個人的な心理というより、ユングの集合的無意識に近く、また肉体の“生命哲学”を土台にした踊り、というのがいちばん相応している。
踊り手の肉体が、彼の内部の魂と生命の動きを表現する場となっており、その表象作用が大宇宙に呼応する働きをなしている。

今後、ダンスの道としては、その中間領域にあったポストモダンのダンスとパフォーマンスの試みの方に参考になるものが多く含まれているように思う。
又、“こころ”の面ではラカン、ジジェクが拓いた<想像界、象徴界、現実世界>が、内部空間の分析としてフロイトを継いで、新しいアート空間を築くベースになってくれる。
また、20世紀の量子力学と言語学が導いた“細分化”と“分節化”が“実体と虚像(シミュラークル)”といっしょに世紀の新しい舞台を形成して行くことと思う。
(このことについては、これから記するラベル“おくのほそみち”を参照していただきたい。)

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(2)

前述した先駆者を含めて、以下のいくつかに分類された領域のダンス傾向を、コンテンポラリーダンスと捉えたい。私はその大きな動きを5つに分類する。

1つは、モーリス・ベジャールが59年にベルギーのブリュッセルのモネ劇場に活動拠点を移し、ストラビンスキーの『春の祭典』成功後の60年には、モネ劇場専属バレエ団「20世紀バレエ団」を結成、新バロック形式のブームを巻き起こす。ヌーベルダンスとして活躍するメンバーとしては、20世紀バレエ団からはドミニック・バグエがその出身者であり、ベジャールが主宰するバレエ学校「ムードラ」からはマギー・マラン、アンリ=テレサ・ド・ケースマイケルなどを排出したこと。

2つ目は、モダンダンスのクルト・ヨースの2人の弟子がアメリカに渡り、そこで新しいダンスの息吹に触れ、帰国後“タンツ セアター”というダンス劇を創造し、ダンス界に旋風を巻き起こしたピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン。それにスザンヌ・リンケを加えてクルト・ヨースの“3人姉妹”という。
それに、マリー・ヴィグマンの流れも含まれるダンス実験集団「ダンス工場ベルリン」を加えておこう。

3つ目は、パリ・オペラ座を発祥とする。アメリカのアルヴィン・ニコライの弟子のカロリン・カールソンがパリ・オペラ座に招かれてモダンダンス研究所GRTOPを創ったのが最初で、それをジャック・ガルニエが継いでGRCOPとなる。周辺にジャン・クロード・ガロッタ、ドミニック・バグエ、また「ムードラ」の出身者たちも加わり、フランスのヌーベルダンスと呼ばれる一派を形成し、ドイツの表現主義に対抗することになる。

4つ目は、ベジャールの場合と同じように、クラシックバレエからの流れなのだが、ドイツのジョン・クランコのシュツットガルト バレエ団を出発点とする、オランダの「ネザーランド・ダンス・シアター」のイリ・キリアンと「フランクフルト・バレエ団」のウィリアム・フォーサイス。それに、「ハンブルク・バレエ団」のジョン・ノイマイヤーもいる。

5つ目は、同じベルギーでもフランス語圏のブリュッセルとは違って、フラマンのアントワープ出身のヤン・ファーブルとその弟子ヴィム・ヴァンデケビュス。
それにカナダの「ラララ・ヒューマン・ステップス」とイスラエルの「バットシェバ舞踊団」を加えようか。英国から入れるなら、マイケル・クラークだ。


日本のモダンダンスとコンテンポラリーダンスとが見分けが付かないのは、コンテンポラリーダンスが始まる以前から、モダンダンサーを対象にして、東京新聞の主催で新人コンクールと現代舞踊展が毎年開催されるうちに、時の流れにつれて二つのジャンルが混同しはじめたからであり、またユーロッパのコンテンポラリーダンスが日本に遅れて吸入されたからでもある。
さらに混乱を招いているのは、江口隆哉・宮操子、邦正美、津田信敏などのモダンダンスとはちがって、モダンバレエという分野が存在していることである。
1912年、チェッケッティの弟子イタリア人のバレエダンサー、ジョバンニ・ビットリオ・ローシーが、帝国劇場に新設された歌劇部の研究生の教師として招聘され、そこで学んだ石井漠と高田雅夫・せい子は独立して舞踊をはじめ、自分たちの踊りをモダンバレエと命名しており、その後継者たちがドイツ系のモダンダンスといっしょになっていて、今になっては判別が付かなくなっている。だが、内実には差がある。

(なお、この記事は「モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界」のテーマに添って、その概略を記したもので、近代以降のダンスの歴史を語ったものではない。そのため当然、重要なイベント、作品、振付け家、ダンサーについて触れていない部分が多々あることを了承していただきたい。)

Wednesday, November 21, 2007

仲野惠子

仲野惠子をはじめて知ったのは、international dance festival in theater X のGeneral Directer(第1回〜第3回) をやっていたときのことだった。その'94年の第1回のフェスティバルに彼女が選抜されていたのだ。
その時の作品についで3作品を観ているのだが、当時はある程度の水準には達しているが、なにか自分の殻を抜けきれないでいるところがあった。

それが2006年の“現代舞踊展”(東京新聞主催 於メルパルクホール)に参加した彼女の作品『アイネ・クライネ・ブルーネ』では、すっきり抜け切った青天のなかにいる彼女を見出したのである。その公演についで2007年の“現代舞踊展”での『コスミック・ダンス』と、今度の“わびすけ舞踊倶楽部”の『自分の卵』の彼女の作品を観ても作品のレベルが同じ次元を保っている。
当然、彼女自身も承知していることだろうが、『アイネ・クライネ・ブルーネ』の公演の直前に起こった、あの事が原因だったようだ。

それは、彼女がインドネシアのダンス・フェスティバルに招聘されて現地に趣き、公演直前に、彼女にとって何ものにも換え難い、大切な母の危篤を突然知らされたのだ。一応舞台を終え、急いで帰国し、やっと母の死に目に間に合うことが出来たのだが、その時の経験が彼女の存在を根底から変えたようだ。
存在を変えたことが、しぜん彼女の作品を変えたことになる。
踊りというものを“存在”をベースに創りはじめたのである。

仲野惠子の踊りと直接関係したことではないのだが、そこから連想するかたちで、次にモダンダンスとコンテンポラリーダンスの差異を“こころ”と“空間”の側から考えてみることにしよう。

Sunday, November 18, 2007

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(1)

先に記した仲野惠子の作品『自分の卵』は、2007年11月9日(金)、きゅリあん小ホールで行なわれた“わびすけ舞踊倶楽部”(在外研修員ダンスパフォーマンス)の第1回公演の中で行なわれたものである。
この際、ついでにモダンダンスとコンテンポラリーダンスについて触れたい。
いまになって、モダンダスとコンテンポラリーダンスの差は何かと言っても、技法と空間の捉え方(=振付け者の内面)の違いというより、むしろ研究所の歴史とその教授法から来ている。しかし、これは旧い研究所ほど旧いシステムでやっているとは限らず、それなりに努力して改革されていることもあるし、また、その出身の優秀なダンサーが海外に研修生として派遣されるか、または自費で渡航して向こうのダンスグループに加わることもある。

一方、モダンダンスの世界からその独自の主張の下に“舞踏”という名を掲げて分離した土方巽、大野一雄の一派があるが、その中の中心的な3人のメンバー大野慶人、石井満隆、笠井叡のうちの笠井叡はじぶんの踊りの分野をダンスと称している。

ヨーロッパにおいては、舞踏の名になにか東洋の神秘的な幻想を抱く人が多いらしく、日本人の踊りに舞踏という名が付くと、期待または、自分なりに解釈し納得する傾向があるようだ。そしてまた安易にそれを利用する舞踏家もいる。その点からいうと、自ら舞踏の道を拓いた一人である笠井叡が自分の踊りをダンスと名称するのは彼なりの信念からなのだろう。
しかし、ヨーロッパではすべての踊りを総合してダンスというのであって、バレエもダンスクラシックなのである。
こういう風に語って行っても、はっきりしない部分があると思うが、その混乱の一つの原因はダンスの歴史の流れと、欧米からの日本のダンスの受け入れ状況から来ているようだ。

ダンスとバレエの関係をも含めて、これらの世界的な発展の“ねじれ現象”は1954.5年頃から起こっているようだ。その顕著なものとしては、1955年クラシックバレエのモーリス・ベジャールが彼の“エッフェル塔バレエ団”で、作曲家のピエール・アンリとピエール・シェフェールとともに創った『孤独な男のためのシンフォニー』という「具体音楽」をバレエ化している。また同年に、パリオペラ座に戦後はじめて招聘されたニューヨーク・シティ・バレエ団のジョージ・バランシンの作品といっしょにジェローム・ロビンスの作品も招聘され、そのドビュシーの『牧神の午後』(53)では、ロシアンバレエのニジンスキーの振付けとは全くちがって、誰もいない稽古場で、一人の男性舞踊手が鏡に映る自分の踊る姿を見てナルシシスムに浸るのだった。
それと、まだ潜伏されたかたちだったが、サドラーズ・ウェールズ・バレレ団の内部ではジョン・クランコが最初の創作を行ないながらも、居心地の悪さを感じて外部でも活動を開始している。それがやがてドイツのシュツットガルト バレエ団に移転することによって才能が一気に花ひらいて行く。
これが後のコンテンポラリーダンスの基盤となる、準備期の時代と言っていいのであろう。

ダンスの様相の変化が明かになるのは、アメリカからだった。マーサ・グラハムの下を離れて音楽家のジョン・ケージの協力を得、先鋭的な画家たちとコラボレーションを行なったマース・カニングハムのアヴァンチュール。さらに、その研究所の出身者でアンナ・ハルプリンの影響を受けたイヴォンヌ・レイナやトリシャ・ブラウンが中心となって、ジャドソン・チャーチで身体への記号的な新しい試みを行う。
そしてジャドソン・チャーチから場所が移っても、各地でトワイラ・サープ、ルシンダ・チャイルズ、ローラ・ディーン、メレディス・モンクなどが活動の手を広げ、アメリカのポストモダンの運動を展開して行くのである。
また、西海岸ではパフォーマンス活動が後続して起こっており、海を越えては、ピナ・バウシュやヤン・ファーブルが、日本では勅使川原三郎がパフォーマンスを経過して、ポスト・モダンからコンテンポラリーダンスへの橋渡しを担うことになる。
(ただし、ポスト・モダンの名称、概念、時代区分、内容、技術などにについては後述する。)

Saturday, November 10, 2007

仲野惠子の『自分の卵』

ステージ中央前にあるガラスの花。左右の天井からスポットライトが当たっている。それがこれから踊られる『自分の卵』と、どのような繋がりを持つのだろうと考えているうちにベルが鳴り舞台がはじまる。
儀式なのだろうか。上手奥から赤い衣服と白いターバンの一人の女性の踊り手が、地球儀のような金色の球を抱いて、明け染めた白光の中を、花に向ってすすむ。背面は黒一色の緞帳。微かに小鳥のさえずる声が聴こえる。そして、彼女はその球を銀色に咲きひらいた花の中に沈める。
方形に描く彼女の歩行の線が、聖なる域をつくりだす。そして、彼女の記号的な踊りがはじまる。冷たい、速度の早い、線的な踊りである。彼女のからだが踊っているというより、空中に描かれた記号そのものに見える。もう失われた古代民族の祈りを込めた仕儀のように。遠い古層の記憶の踊り。ヴァイオリンの響きが、見えない空間の殻を内側から少しづつ割っていく。混沌の中から、形のあるもの、意味のあるものが生まれようとしている。

ハンナ・アレントは名著『人間の条件』の中で、マルクスの理論が労働と消費の対比のみを中心にしていることを批判し、労働から仕事(工作)という、より人間的・精神的な面を強調して、取り上げている。また、老子の“タオ”、荘子の“混沌”から捉える方法もあるのだろう。あるいは“書”の墨で描かれた「一」という漢字の中に、記号の“意味するもの”と“意味されるもの”が分離される以前の、“全一なるもの”の生命のエネルギーを感じ取ることもできるだろう。
一つの卵、それは自分の卵であって、しかも鳥類、動物、人間、すべての卵でもある。
アントナン・アルトーはメキシコに渡ったとき、タラフマラの岩の上に神が啓示する記号を見た。そして古代人は記号的に踊ることによって、神との交感を得たのだ。

Tuesday, October 23, 2007

ラインヒルトとオペラ

ケイ・タケイと久し振りに新宿の中村屋で会った後、そのことを含めてラインヒルト・ホフマンに手紙を出した。シアターXでのコラボレーション以来10年も会っていないので彼女のメールアドレスが分からない。
先のラインヒルトからの手紙には、最近、ワグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の演出をしたことを知らせてくれたが、それがとても嬉しかった、と前のブログでも書いたが、そのことに少し追加しよう。
最初、二人でやろうとしていたのはワグナーの『リング』をダンス化することだった。それが『シミュラークル』に変更になったのだが、私がべつにそのことを気にしていなかった。その頃、ラインヒルトはロラン・バルトの『表徴の帝国』に夢中になっていたのだし、私もロラン・バルトを通じて言語の象徴世界に興味を抱いていて,イメージのダンスよりも、日常の現実世界を仮想と見るシミュラークルの世界をテーマにすることに反対ではなかった。
しかし、心の何処かに、折角の魚を穫り逃がしたような気持もあったのも確かで、それは多分、ラインヒルトが誰よりも『リング』のヒロインのブリュンヒルデの役に適していたからである。

ドイツの“タンツ・シアター”を初めて日本で公開したのはピナ・バウシュでなく、ラインヒルトだったのだが、そのとき私が観て感動したのは『マリア・カラス』という作品だった。それは確かにダンス劇であったが、新しいオペラとも言えるものだった。今になって思うのだが、ボブ・ウィルソンやメレディス・モンクの、またヤン・ファーブルのオペラに先駆けるものだったような気がする。そういうことからも、私は無意識にラインヒルトに彼女の新しいオペラを創ってもらいたかったのだろう。しかもワグナーのオペラの曲で。

ワグナーのイゾルデとブリュンヒルデのエンディングがショーペンハウエルの哲学の影響を受け、現実と自我を通り抜けて涅槃寂静の超越世界に入っているというのは、当たっているかもしれない。ワグナーの題材のドイツ神話の解釈は、ユングの「原型論」では埋めつくせないものがある。
しかし、演出は必ずしもワグナーや初期仏教の影響を受けたショーペンハウエルに従う必要はない。そこに解釈の“ずれ”があっても良い筈で、ラインヒルトのばあいは、むしろ大乗仏教の“空”の観念か、または空海の五大、地・水・火・風・空の“空”を“空間”と捉える道を選ぶ方が新鮮なような気もする。
仏教はダライ・ラマ14世が言うように宗教としてよりも、先ず哲学として捉えることが大事なので、私は日本に独自な哲学があるとしたら、それは仏教だと思っている。西田幾太郎にしても禅宗がベースなのである。
そして、われわれがデリダやラカン、ジジェクを学ぶように、『オートポイエーシス』の著者フランスコ・ヴァレラは大乗仏教を学んで『身体化された心』を著し、西洋の文化にまた新らしい東洋の流れを濯ぎ込んでいる。私はそのようなことをラインヒルトへの手紙に書いた。

Tuesday, October 16, 2007

ジャドソン・チャーチのメンバーたち

もう一つ、ケイに訊きたいことがある。彼女がアメリカに渡った時の、向こうのダンスの状況だ。
「ケイさんがニューヨークに着いた頃は、ジャドソン・チャーチのメンバーはまだ活動していましたか?」「やっていましたよ。イヴォンヌ・レイナーとかトリシャ・ブラウン、それにデヴィット・ゴードンにデボラ・ヘイ。みんな美術館でもギャラリーでも、スペースがあればどこにでも集まって。トリシャ・ブラウンなんか屋上に上って、ビルからビルへ信号を送り、次々と踊りをこう変えてゆくんです」と上体で演技してみせる。「ああ、あの有名なのをね、観たんですか!」とからだを乗り出す。それは『メン・ウォーキング・オブ・ザ・ビルディング』(1969)のことだ。ビルの屋上だけでなく、ロープで吊るされたダンサーがビルの外壁を横歩きしたりもする。ほとんでダンスからパフォーマンスに移動する典型的な作品なのだ。

ジャドソン・チャーチだけでなくグランド・ユニオンの話も出てくるし、また、デヴィッド・ゴードンのジーンズとスニーカーでの踊りも、スティーヴ・バクストンのコンタクト・インプロビゼーションも話題になる。

「ところで、イヴォンヌ・レイーのことだけど、彼女だけはよく分からないんだけど、どういう人?」ケイはなんとなく真剣な顔になって「う〜ん、彼女はすごく変わった人なんですよ。確かにあまり紹介されてないようね。最初のジャドソン・チャーチから中心的に動いた人なんです。情緒的でない、ちょっと普通のダンスとは違った、単純な動きの中にー ああ、ちょうど彼女の本がありますので送りましょう」。
それは有り難い。彼女は確かルシンダ・チャルズといっしょに作品を作ったりしていたようだ。要するにその後のミニマリズムの先駆者なのかもしれない。
「じゃ、ケイさんが向こうに渡って2年ほどしてデビュー頃は、ミニマリズムの時代ですか?」「そうそう、ルシンダ・チャルズとか、ローラ・ディーンとか。それにトワイラ・サープ、ああ、メレディス・モンクも踊っていたわ」。「え? あのメレディス・モンクが踊っていたんですか? ぼくは彼女はボイス・パフォーマーだとばかり思っていましたが」「彼女は最初ダンサーだったの。それからアメリカン・インディアンの発声法を学んで、その技術を使ってオペラを創ったんです」。
私はルシンダ・チャイルズがフィリップ・グラスの音に乗って、分節しながら華麗に踊りつづけたロバート・ウィルソンのオペラ『海辺のアインシュタイン』といっしょに、メレディス・モンクの観客の目と耳を惹き付けて離さない、異空間のオペラのイメージを思い描く。

「結局、私も学んだんだけど、みんなアンナ・ハルプリンの影響なのね」「ほとんでマース・カニングハイムのところで学んだ人たちでしょう?」「からだはカニングハイムのところで作って、精神はアンナ・ハルプリンのところで学んだんです」「ニューヨークとサンフランシスコは離れていますね」「みんなサンフランシスコまで出かけて行ったんです。まあ、セラピーですね。海辺で波のしぶきを受けながら裸で踊るんです。映像があります! それもDVDにして送りましょう」。

Monday, October 15, 2007

大沼鉄郎の『傾斜の存在』

ケイ・タケイに訊きたかったのは、彼女がアメリカに留学する前に草月ホールで行なわれたVAVの公演のことだった。VAVというグループはケイと三浦一壮と西森守の3人が創ったグループで、この最初の『傾斜の存在』(1965年)の只1回だけの公演で終わっている。
ケイはその後 '66年のアルトー館第1回公演の『爆弾』(河野典生作)、'67年のアルトー館第2回公演の『ゲスラー・テル群論』(大沼鉄郎作)に出演しているが、それが終わるとすぐにフルブライト給費生として渡米している。次いで西森守はフランスのメーリングのマイム劇団に入り、ただ一人VAVスタジオに残った三浦一壮は舞踊批評家の池宮信夫といっしょにモダンダンスの実験的な試みをしていたが、彼もやがてヨーロッパのワークショップの巡業へと旅立つ。

このようにケイの突然のフルブライト給費生決定から、このグループは解体してゆくのだが、この1回だけの公演、『傾斜の存在』がいまだに強く印象に残っている。その時の舞台装置をつくった石井さんの名をケイに訊いてみた。確か石井研さんでしょう、という。舞台いっぱいの、白い“はりぼて”の三角錐の下で演じていた3人のダンサーとマイマーが、やがて傾斜してゆく三角錐の上に静かによじ登ってゆく。
生演奏のトリオは一柳慧と小杉武久と、たしか近藤さんという人がヴァイオリンを弾いていた。その近藤さんの名前が分からない。訊かれたケイもウーンと言ったきりである。近藤譲氏かもしれない。その時の一柳慧と小杉武久の楽器は何だったのだろう。電子音だったような気がする。

演出の役だった私がこんな状態なので、ほんとうに頼りない。頭の中にふっと浮かぶものがある。「そうだ、大沼さんが8mmで撮っていたような気がする!」。それを聴いてケイは急に明るい顔になり、「大沼さんに電話してみましょうよ!」。台本作者の大沼鉄郎は記録映画の監督だから、きっと大丈夫。
この時のプログラムを作った村田東治は、その後コム・デ・ガルソンのカタログとシュウ・ウエムラの『VISAE』に素晴らしい仕事を残して夭逝した。石井さんと村田さんの2人は、この時はまだ桑沢デザインスクールを卒業したばかりだった。驚いたことに、村田さんはプログラムを公演が終了してお客が帰ってから運んできた。だが、そのプログラムを、2人とも今、捜せないでいるからこんなことになる。
ケイは言う「あの傾いて行くところが良いですよね。『傾斜の存在』は好きだなあ。もう一度やりましょうよ!」。

Saturday, October 13, 2007

ラインヒルト・ホフマン

中村屋で久し振りに会ったケイは、相変わらず元気な様子だった。「ラインヒルトから手紙がありましたよ」と言うと、「どんなこと書いてありました?」と問うてくる。
1998 年にケイの仲介で、ラインヒルトと仕事をしたとき、最初ワグナーの『リング』のブリュンヒルデをダンスでやろうとしていた。ラインヒルトは『リング』関係の重い本をぎっしりとトランクに詰め込んで羽田に到着した。さて、制作に掛かった段階で、ラインヒルトは悩み出したようだ。「じつは自分はワグナーをそんなに研究していない。無理だと思う」とラインヒルトは下を向いて静かに言った。私は黙っていた。「“シミュラーク”ならどうですか?」とラインヒルとは言った。二人は“シミュラーク”についても話し合っていたのだ。そしてシアターXでの公演は『リング』から『シミュラークル』に代わったのだ。

受け取ったラインヒルトからの手紙は、次のようなことを記してあった。
「私はあれから貴方のことを時々思い出しています。貴方のスタジオでいっしょに仕事をしたときのことを。貴方は熱心にブリュンヒルデの最後の場面を仏教と関連づけて哲学的な考えを述べてくれました。最近、私はオペラ『トリスタンとイゾルデ』を演出しました。その時からワグナーの本を読んでいます。ショーペンハウエルの哲学と関係づけて。ということは仏教と関係づけてなのですが。
じっさい、ショーペンハウエルの哲学はワグナーに影響を与えていたのです。そしてイゾルデとブリュンヒルデの最後の場面は超越的な涅槃の域に達していたのです。
そのように、あの時あなたは私の仕事に対して言いつづけていたのでした。今になって貴方の意図が理解できます。さらに『シミュラークル』においても。 ー これが私の言いたいことです。」
オペラ歌手にワグナー歌手がいるように、ラインヒルトはワグナー作品にイメージピッタリのダンサーである。彼女がワグナーの『トリスタンとイゾルデ』を演出したという知らせは、本当にうれしい。
ケイがラインヒルトを私に紹介し、ラインヒルトが私にスザンヌ・リンケを紹介してくれた。リンケについても、あのパリ私立劇場での晴れ姿が目に浮かぶ。
ケイに訊いたらば、二人とも体調を崩してもう舞台には出ていないという。寂しいことだ。

Friday, October 12, 2007

ピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン

今日、新宿中村屋の地下のカフェでケイ・タケイと久し振りに待ち合わせた。ドイツでラインヒルト・ホフマンに会ったみたいで、その時の彼女の写真を同封した手紙を送ってくれた。しかし、生憎こちらはちょど入院していて、そのままになっていたのを詫びるのと、ブログを書くに当たって彼女に訊きたいことがいくつかあった。
ラインヒルトはケイの紹介でいっしょに仕事もしたこともあるし、1ヶ月ほど私のスタジオで稽古をした間柄なのでとても懐かしい。そのとき、彼女をお寺の座禅にも、茶道の稽古にも誘ってあげた。クルト・ヨースの学校でピナ・バウシュの後輩にあたるのだが、当時のクラシックバレエの攻勢に対して、2人とも一所懸命対策を考えたようだ。『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』のようながっしりした作品を創らなければと苦労したようだ。その結果、生まれたのが2人の「タンツテアター」だった、ということだ。

ホフマンがクルト・ヨースがエッセンに創ったフォルクヴァンク芸術大学ダンス科の4年に在籍していたとき、スザンヌ・リンケはマリー・ヴィグマンのところから2年に編入している。ピナは、その頃は卒業生たちの活動団体であるフォルクヴァンク・ダンス・スタジオで振付けとダンサーの仕事をしていたのでる。その後、ピナはヴッパタール・舞踊団のディレクターに招聘され、代わってホフマンとリンケの2人がその席を受け持つ。そして数年後にはホフマンはボッフム舞踊団のディレクターでタンツテアターの創作に入り、リンケはソロ活動を出発することになる。

日本での最初のタンツテアターの公演は1954年の“ドイツ祭”に組まれていたホフマンのボッフム舞踊団の国立劇場での公演だった。私はその時、プログラムの1つの作品『マリア・カラス』を観たのだが、はじめてのタンツテアターの経験は驚きであった。一方、ピナは1979 年のパリのテアトル・ド・ラ・ヴィルでの公演(『七つの大罪」『青ひげ』)で注目を集めて以来、トマ・エルドスのプロデュースによって世界各地を巡業して評判をとる。最初の来日公演(『春の祭典』『カフェ・ミューラー』『コンタクトホーフ』)は1986に国立劇場で行なわれた。1990年のリンケの来日公演では、彼女をダンスの道に導いたドーレ・ホイヤーのための作品『ドーレ・ホイヤーに捧ぐ』が上演された。

Tuesday, October 02, 2007

ヴィグマンとクルト・ヨース

明らかにダンサーと分かる男女の2人がスポーツカーで劇場にやってくる。同じダンサーでも、フランス人とは違って、ドイツ人は背が高くすらりとしている。私は窓口で当日券を買う、まだ開演まで時間がある。その間に空腹を癒して適当なホテルを捜そう。
マリー・ヴィグマン(1886~1973)は、最初ダルクローズにリズムダンスを学んでいたが、表現主義のモダンダンスの最初のシステムを創ったルドルフ・フォン・ラバン(1879~1958)の門下生となる。ラバンは最初、アクの強いヴィグマンを嫌っていた。だが彼女のドレスデンとハンブルグでの公演が成功し、ドレスデンに舞踊学校を設立する(1920)。やがて、ヴィグマンは彼女の強烈なソロ・ダンス「悪魔の踊り」(1931)などによって、モデルネタンツの中心的な存在となる。日本の江口隆哉、宮操子も彼女のドレスデンの学校で学んでいる。
一方、ラバンの同門のクルト・ヨースは、シュツットガルドの音楽学校のラバンに学び、助手を務める。その後ミュンスター私立劇場のバレーマスターとなるが、彼の本拠地となるエッセンに移り、フォルクヴァング学校を設立したのは1927年である。代表作「緑のテーブル」(1932)は各地に巡演してセンセーションを起す。

この対立する2人の舞踊家の運命を分つたのは、ヒットラーが渾身の力を投じた1936年の“ベルリン・オリンピック式典”だった。ラバンがその演出を担当し、ヴィグマンが群舞を振り付け、自分も踊った。その後ヒットラーの危険を感じたラバンがロンドンに逃亡し、ヨースはその後を追う。しかし、ナチスのシンパの愛人を持つヴィグマンはそのまま留まる。
戦後になってみると、ヴィグマンのドレスデンの舞踊学校は解体し、クルト・ヨースはエッセンに再び帰ってきて活動を開始する。ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団、ラインヒルト・ホフマンのボッフム舞踊団の“タンツテアター”とスザンヌ・リンケのソロ活動が、エッセンのフォルクヴァング学校とフォルクヴァング・ダンス・スタジオから生まれる。
リンケだけは、戦後に残存したベルリンのヴィグマン研究所に最初学んだが、後にフォルクヴァング学校に移転している。ヴィグマンの門下生で世界の表舞台に出てくるのは“ベルリンダンス工場”である。
しかし、上の3人のダンサーが活動するのは70年代に入ってからで、“ベルリンダンス工場”は80年代からである。

1955年にマンハイムで観たヴィグマンの群舞は、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」にヴィグマンが円形舞台上に振付けたものだった。カール・オルフといえば、あのヴィグマンが振付けた「ベルリン・オリンピック輪舞」の作曲者である。「カルミナ・ブラーナ」はオリンピックの翌年の1937年に創られ、大変な評判を呼び、この前年の'54年にレコード化されて一般に普及した。
さて、この作品はどのような劇作品であったのか。しかし、ここでは暗示的に述べることにしよう。オルフは以前からダルクローズのリトミックに感心を持っていた。そして<身振り、手振りの>の動きに合う劇作品をつくることを目指していた。また、音楽学者のザックスの指導の下に、オペラの原初であるモンテヴェルディの劇作品を発見し、1925年には、このマンハイムで彼が編曲した「オルフォイス」を初演して成功している。

Sunday, September 30, 2007

マリー・ヴィグマン

2年目のビザを取るため、いちどフランスから国外に出る必要があった。1955年のことである。パリではベジャールが「孤独な男のためのシンフォニー」でデビューし、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団のクランコはパリ・オペラ座のために「美しきエレーヌ」を創っている。一方、パリのモダンダンスといえば、まだ底辺に埋もれて、その存在すら知られていない。
私は現実のバレエよりも、その技法を創ったカルロ・ブラジス(1797~1878)の文献の方に興味を抱きはじめていた。何故こんなバレエの技法がつくられたのか。アラベスクとアチチュードはどういう意味をもっているのか。バレエの聖典といわれるノヴェール(1727~1810)の『舞踊とバレエに関する手紙』は、私にとって日本の芸能史との比較の好材料だった。日本にいた時は、コポー、デュラン、バローの演出台本を紀伊国屋を通じて取り寄せていて、パリではブレヒトの演劇に触発されたせいか、大学都市の日本館の図書館で歌舞伎の脚本にイメージを膨らませていた。

まず、ドイツのフランクフルトに降り立った。戦災の跡が生々しい。あこがれのハイデルベルクに立ち寄った後、かってノベールが本拠地とした、高地の森の都シュツットガルトに向った。坂道を散策し、下に広がる街の姿を眺めながら戦後の日本とドイツのことを考える。
ジョン・クランコがイギリスからシュツットガルト・バレエ団の芸術監督として招聘されるのは、この後の'61年のことである。ドイツのバレエはまだ黎明期のままでいる。クランコがこの地にやって来てからは、バレリーナ、マリシア・ハイデと組んで「オネーギン」「じゃじゃ馬馴らし」などの名作を生み出してヨーロッパのバレエの震源地となる。ネザーランド・ダンス・シアターのイリ・キリアン(1947~)、ハンクブルク・バレエ団のジョン・ノイマイヤー(1942~)、フランクフルト・バレエ団のウィリアム・フォーサイス(1942~)の3人の振付師が、このクランコの門下から出発するのだが、まだこの時には彼らは生まれてもいない。

シュツットガルトからの帰りに、なんとなくマンハイムの駅に降りてみる。この地を巡行したモーツアルトのことを連想したのだ。すると思いがけなく、州立劇場でマリー・ヴィグマンのモダン・ダンス公演をやっている。しかも、曲はカール・オルフの「カルミナ・プラーナ」だ。

Sunday, September 23, 2007

マルセル・マルソー

今日、マルセル・マルソーが亡くなった。テレビで放送されたそうだ。
仏式に手を合わせ、瞼を閉じて冥福を祈った。マルソーは、私が直接マイムを教わった師ではないが、ドゥクルーの“動きの芸術”の学校を紹介してくれた恩人であり、彼の舞台には教わることが多かった。祈りながら、私は彼の生前の面影を思い浮かべようとした。浮かんできたのは舞台姿ではなかった。来日公演を終えて、成田を発つ時の、待ち時間を持て余した彼が見送る私へのサービスの積もりか、こう話しかけたのだ。「ねえ君、あそこに写真があるでしょう。こうやると、動いてるように見えるんだよ。」と、写真を観ながら激しく瞬きをしたのだった。それを見て私も同じように写真に向って激しく瞬きをしたのだが、互いに競争し合うかたちになって、2人で無邪気に子供のように笑った。その時の瞬きをしつづける彼の顔が浮かんだのだ。

私はクラシックバレエを学ぶために渡仏した。しかし、それまで日本に紹介されていないマイムの技術も取り入れて来ようと思った。
1954年の春のことである。神戸からマルセーユまで貨客船で45日経った。途中、港々に1,2日停泊して貨物を下ろし、その間8人の乗船客は上陸することができた。当時、ドル制限があって、年に1度試験があり、芸術家は30人だけ私費留学を許可された。しかも1年間だけのビザで、それ以上は1度国外に出てビザを取り直さなくてはいけない時代だった。

バレエの方は予めレオ・スターツのコンセルヴァトワールに決まっていたが、マイムの方はマルソーとジャン・ルイ・バローの師である、目指すエティエンヌ・ドゥクルーの住所が分からない。3ヶ月ほど経って、マルセーユでマルソーの友人だったという女流詩人に出合う。まず、マルソーに紹介してもらって、マルソーからドゥクルーの住所を聞くことにする。マルソーの公演を観てから、楽屋に訪ねてみると愛想よく、彼が描いたスケッチなどを見せてくれた。それは彼の舞台のようにファンタジックなもので、淡い色だった。マルソーはマルセーユ時代には幼稚園で教えていた。

築地小劇場を小山内薫といっしょに創った土方与志がマルセーユに立ち寄った際、マルソーは日本の領事館の紹介で土方と会っている。マルソーは日本が好きだった。能や歌舞伎がある国はマイムの聖地のように思われたのだろう。土方与志は持参していた松井須磨子の「カチューシャの歌」のレコードを聴かせてくれた。マルソーはそれを聴いて、あこがれの日本への思いを馳せたという。

私が2年の留学を終えて帰国する前年の1955年に、マルソーが最初の来日公演を行なってマイム ブームを巻き起こしていた。2度目のマルソーの来日公演は1960年だった。私は日本マイムスタジオにマルソーを招待した。そして歓迎の意味で、生徒代表として大野慶人がマイムを演じた。先の空港での“瞬きの演技”は、この来日の時だった。
マルソーのパントマイムは彼独自のものだ。私はマラルメの詩に近いシンボリズムを感じる。

Saturday, September 22, 2007

ブレヒトからハイナー・ミュラーへ

セリフと身体を分離させたブレヒト演劇。多くの“ブレヒチアン”たちに宿題を残したまま、ブレヒト本人はこの世を去る。10年後の1964年、ジャック・ラングの国際演劇祭はポーランドのイエジー・グロトフスキイの「持たざる演劇」を招聘する。'71年には同じポーランドからタディオス・カントール、アメリカからロバート・ウィルソン、日本からは寺山修司を招待する。この頃から演劇の身体性は言語から独立して歩きはじめ、'80年代半ばまで、対立するセリフと身体は葛藤を演じつづけるのである。それに、イオネスコの“アンチ テアトル”とベケットの演劇。アントナン・アルトーの演劇論の再認識が拍車をかける。

日本でも、それと連結する現象が '67年から起こっている。“全学連”と舞踏の動きに触発された寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」と太田省吾の「転形劇場」。それに鈴木忠志の「早稲田小劇場」と佐藤信の「黒テント」の創造活動である。

さて、'68年のパリの“五月革命”の嵐に煽られて、アヴィニヨン・フェスティバルを先頭に世界各地に乱立してフェスティバルが開かれるのだが、セリフを見失い、迷子探しの演劇がひとつの山を越えて、衝撃的なかたちで現れたのはハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシン』という脚本であった。
計らずも、ハイナー・ミュラーは東ベルリンのベルリーナ アンサンブルのブレヒトの後継者だったのは皮肉なことだ。演劇の再生を待ち望んでいた批評家の西堂行人は早速、「ハイナー・ミュラー研究会」をつくり、演劇運動の核とする。だが、従来の演劇の枠に治まることを敢えて承知しない豊島重之は「絶対演劇」を宣言する。一方、清水信臣の「解体社」は身体的なグロトフスキイ、カントール、ヤン・ファーブルの線をストイックに守りつづける。

Thursday, September 20, 2007

ベルトルト・ブレヒト

1954年の春、パリに到着してみると、街の壁に取り残されたポスターが貼られたままでいる。ブレヒトが率いる“ベルリーナー アンサンブル”の「肝っ玉おっ母とその子どもたち」。前年に開かれた第1回国際演劇祭(主催ITI)の時のもの。会場は、現在コンテンポラリーダンス用に改築されているパリ市民劇場の前身、サラ・ベルナール劇場だ。それは演劇史に残る画期的な事件とも言える公演だった。なにしろ1770年のディドロの『逆説・俳優術』刊行以来の論議を呼んだ、ブレヒトが演劇論と俳優術を引っ提げての公演だった。幸いにもその数ヶ月後の、第2回の国際演劇祭にも同劇団が招待されていて、今回は『コーカサスの白墨の輪』である。“ベルリーナー アンサンブル”は噂こそ聞いてはいたものの、“鉄のカーテン”の向こう側で、よもやそれを観れるとは思わなかった。

さて、当日は恐ろしいほどの緊張感で芝居がすすむ。終演になるや、観客は全員立ち上がって出演者に拍手を送ったのだが、、急に誰からともなく、後ろ向きになり2階の全面に坐っていたブレヒトに敬意の拍手を表する。それにブレヒトが軽く手を挙げて応えたのだが、驚いたことに、それから全員がさっと足早にホールに向い、そこで各々の仲間同志が騒然と討論をはじめ合ったのだ。それはお祭りやスポーツ競技などの後で起こる騒音に似たもので、観劇の後でこんな光景は初めてだった。私は呆然としてひとりその中に佇んでいた。私は芝居の内容にはあまり驚きを感じなかった。ただ、戸惑いながら、どこかで見たような、奇異な思いがしていた。これがブレヒトのいう「異化効果」なのか、「観客に思考を求める教育劇」なのか?ブレヒトは京劇に接したことがあると聞いていたが、これは偶然なのか、50%歌舞伎なのだ。

ジャン・ヴィラールの「テアトル ポピュレール」と、ベルナール・ドルト、ロラン・バルトへの影響力が大きかったが、これはことばの芝居ではない。歌舞伎の脚本と同じように、ことば以外のものをつくり上げる演技術が問題なのだ。ベンヤミンは「ブレヒトの演劇はジェスチャーである」と言った。ということは、「時代と階級によって、その人間のジェスチャーは違う」ということだ。そいう意味では、立派にマルクス主義の演劇だった。ブレヒトは、その2年後の1956年8月に死亡している。

Tuesday, September 18, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(3)

アルトーは肉体よりも精神の方が大事だと言った。そして、父なる神に使わされてこの地に来たり、我が身を犠牲にしたのが神の子イエス キリストである。その十字架像と、母に抱かれる死せるキリストの“ピエタ”は信者の精神性を高める。そのためには、キリストは衣服を纏ってはいけない。身体はギリシャ的なふくよかな美しい体ではなく、そぎ落とされ悲劇性を持たなくてはいけない。画家と彫刻家たちは、中世からミケランジェロの時代に至までそのことを求め続けた。

結果として、十字架上のキリストの姿体は、十字よりY字の方が悲劇性が勝っていること。躯幹については、胸は肉をそぎ落とされ、あばら骨が見え、腹部は陥没しながらも痩せ細った筋肉が苦悶の波を見せている。躯体のどこにも丸みはなく、冷たく、北方的に硬質である。悲劇性のポイントは胸から腹部への境界線の傾斜、腰と上脚の線、そして膝頭。また、末端の手首、足首の表情に加えて、頭部の傾き。それらの纏まりはゆるやかなフォルムをつくり、部分が悲劇性を呼び起させながらも。上から流れるリズムを感じさせること。

じつは、土方巽が密かに自分の体作づくりに励んでいたのは、この十字架と“ピエタ”のキリストの身体だったのである。クラシックバレエもモダンダンスも方法は違うが、しょせんギリシャの理想的な体なのである。それは精神のために肉体を犠牲にすることはない。ただ、東洋のヨーガだけがこれに近い。ヨーガと言ってもウパニシャッド ヨーガとパタンジェリの古典ヨーガだ。
大野一雄の研究の対象は皮膚であったが、土方巽は筋肉と骨格であった。したがって一方が感覚から感情にすすみ、他方は直観から知性へと向っている。これは、2人とも特殊である。

Sunday, September 16, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(2)

ドイツ統一の精神として、ヒットラーが掲げたシラーの「ウィリアム テル」。2年後に、イスラエル空港での無差別乱射事件の際、パレスチナ過激派は「ウィリアム テルの精神でそれを行なった」と宣言。
アメリカの『裸のランチ』の詩人、ウィリアム・S・バロウズは、酒に酔った勢いで“ウィリアム テルごっこ”をし、誤って妻を射殺したのだが、似たようなかたちで土方巽が台本の「神ともテロリストともつかぬ一人の男」を演じる。分裂した1967年の世界の様相が投射され、意識化され、断片化された行為がランダムに“カット・アップ技法”で進行してゆく。

客席の中に配置された“ピンポン台”上の、穴を穿たれたタイツ姿で踊るケイ・タケイの分裂症ダンス/そこに、しゃがみこむ裸形の土方巽/肩から背にかけて、バケツいっぱいの赤い塗料が注ぎ落とされる/立ち上がった土方は舞台に上り、緞帳前で悲劇性の肉体の踊りを演じる。ジョン・レノンの「イマジン」が流れる/踊りが陶酔状態に入り、キリストのY字型の十字架の姿体でそのまま緞帳に寄りかかる/背の塗料が真っ赤に染まったまま西陣織の緞帳が上がる(これが草月ホール側と問題になる)/ステージ奥に、赤いリンゴを頭上に載せた女の子が立っている/土方が舞台袖から銃を取り出してきて、女の子の頭上のリンゴを狙って乱雑に銃を打つ/女の子は無様に床に倒れる/ファッションモデルが出てきて無音でコースのパターンを演じる/客席の通路をステージに向ってガラガラと音をさせながら、小刻みな足取りで石井満隆がやってくる/見ると、裸の満隆の頸に紐で空き缶が下げてあり、その中で小石が動く音なのだ/通り過ぎる満隆の背には「ああ、忙しい、忙しい!」という看板が懸かっている/大野慶人が舞台下手でボンゴの音を激しく打つ/写真家西宮正明が小学生時代のクラスの記念写真を投影する/土方が再び登場、ゴシック風の鋭角的な舞踏。青江三奈の「雨のブルース」が流れる/小杉武久の音/女装したチャイナ服の笠井叡が踊るシーンがつづく。ーーー/。

Saturday, September 15, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(1)

土方巽の暗黒舞踏の中でいちばん優れた、というより飛び抜けて印象に残った作品は、1965年11月に千日谷ホールで行なわれた「バラ色ダンス」だろう。これは白黒の映像フィルムが残ってはいるが、臨場感と色彩の鮮烈さにおいて公演当日のリアルな場面の方が勝っていた。
千日谷ホールと言っても、じつはお寺の本堂なので、当時は貸ホールとしても使用されていたのだ。開演の扉が開くと、そこは浄土の世界だ。一面真っ白。本堂のステージと床の全面が白い布で敷き詰められ、その上に椅子が蓮の華のように並べられている。奥の壁面の高い窪みには、全身白塗りの男たちが後ろ向きで仏像のようにじっと立ったままでいる。やがて舞台袖から車夫に引かれた3台の人力車が現れ、上には鹿鳴館風の華麗な洋装姿の大野慶人、石井満隆、笠井叡の3人のダンサーが乗っている。帽子には羽を付け、扇子を煽ぎながら微笑む、白面の貴婦人たちである。

次いで、奇異と幻想の舞踏が繰り広げられるのだが、中でも白と赤の強烈な色彩で、今だに記憶に刻まれている場面がある。ステージ中央の椅子に坐した石井満隆の頭を土方巽がバリカンで刈りはじめるのだが、土方の乱暴な手捌きが原因で、満隆の頭から血が流れ出し、白塗りの満隆の顔を真っ赤に染めてゆく。そして、土方はさっと舞台袖に去り、満隆はやおら立ち上がって踊り出したのである。

土方巽がダンサーとして開眼したのは、1967年4月、草月ホールで行なわれた「ゲスラー・テル群論」の公演でだった。台本は大沼鉄郎だが、彼の本業は記録映画監督である。作品「マリンスノー」でベネチェア映画祭の短編部門の金賞を獲得している。
では、この時の土方の踊りがどれほど素晴らしかったを言葉で言うより、現実面からのレポートで応えよう。それ以前の土方の踊りは3分以上は続いたことがなかったが、この時の彼の踊りは観客を呪縛させながら、ソロで30分も続いた。公演後、観客の多くは約1週間ほど、彼の踊りの強烈なイメージを頭から振り払うことができず、すぐその話が口に出た。さらに、宝塚ファンのある女性は、その公演を観た後、1週間ほど寝込み、下痢が止まらなかったのである。

Thursday, September 13, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(3)

新しいアートを創り出す人、文化をプロモートする創造的なプロデュースの役割を演ずる人を、pro-cre-art(プロクレアート)ともいう。1968年以降、世界中に広まった演劇、ダンスを中心にした先鋭的なフェスティバルの先鞭を振ったのは、ナンシー国際演劇祭を創立、実行したジャック・ラングだった。彼はこの功績によって、フランス文化行政の文化相になるのだが、このミッテラン大統領との名コンビは、かってのド・ゴール大統領とアンドレ・マルロー文化相に相似したものだった。

国の文化を興隆させるためには、他国の文化との交流が必要だ。その役を担うのはコーディネーターである。フェスティバルの企画の芸術面をディレクトするのがアート・ディレクターで、経営面を担当するのがマネージメント・ディレクターである。この両輪の才能があってはじめて企画が成功する。
塩谷敬はジャック・ラングの信頼によってコーディネーターの役を務めた。ただし、彼の場合は2国間の文化交流の事務的な橋渡しではなく、下記のように身を労しての貢献であった。

ジャック・ラングがナンンシーのフェスティバルと平行して、1972年からパリの国立シャイヨー宮劇場の総支配人に任命された後、ラングに“文楽”のヨーロッパ公演の解説を依頼されてから、塩谷の連続的な文化交流の仕事がはじまる。
それは以下のような内容のものだった。宝塚歌劇パリ公演の舞台監督/能楽パリ公演の舞台通訳/雅楽パリ公演の舞台通訳/日本舞踊の花柳徳兵衛の舞台通訳/東山魁夷の唐招提寺のふすま絵展示の仕事/笈田・ヨシのワークショップ「日本の声と動き」の講師兼通訳、などである。
私の周辺でいうと、モレキュラー シアターの出発点となった豊島和子の「アテルイ」パリ公演のコーディネート/ヤン・ファーブルの「劇的狂気の力」日本公演の際のミッション/シュウ ウエムラのメイクショーとパフォーマンス公演の時のカルダン劇場との交渉も、彼の仕事であった。

Monday, September 10, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(2)

塩谷敬(静岡大学教)について記したい。日仏文化交流とナンシー国際演劇祭を語る上で欠かせない人物だからである。
ジャンク・ラングの下でフェスティバルの選考委員と実行委員も兼ねていた彼は、ジャック・ラングがナンシーを離れ、ミッテラン大統領体制の文化相に任ぜられるのと平行して、パリ大学の大学院に移転する。そして、フランスに於ける日本演劇の受容の歴史をテーマにした彼の博士論文がパリで出版され、文化人類学者クロード=レヴィ・ストロースの強い推薦を受けて、アカデミー.フランセーズより1987年度のロラン・ド・ジュブネル文学賞を日本人として初めて受賞する。

昨日のブログで紹介した、塩谷敬の小冊子での記録によると、1972年にジャック・ラングの招聘でナンシー国際演劇祭の事務局に入ったのだが、前年の1971年は「芸術的に最も実りの多い演劇祭となった。ポーランドのタディオス・カントール、アメリカのロバート・ウィルソンそして我が国の寺山修司がナンシーから世界にデビューした。結城人形座と青年座の合同劇団も参加している」。そして1973年には、事務局にいた彼は鈴木忠志の早稲田小劇場と白石加代子を受け入れている。

彼が選考委員のミッションとして日本に向ったのは1974年である。フェスティバル出演の交渉相手は唐十郎と土方巽だった。しかし、唐十郎には「今のところ外国に出るつもりはない」と断られる。そして「土方巽に関しては、ナンシー国際演劇祭の慧眼は、土方の率いる暗黒舞踏の活動に当時から注目していたことです。交渉はかなり具体的に進んだのですが、渡航費を助成してくれる国際交流基金という組織がありまして、その国際交流基金が土方巽の評価は未だ定まっていないということで書類を受け付けてくれなかったのです。ー ほかのスポンサーは見つかりませんでしたので、結局この話は残念ながら流れてしまいました」。結局、1975年の演劇祭への参加者は遠藤啄郎のグループとなったのである。

Sunday, September 09, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(1)

大野一雄のナンシー国際演劇祭での公演について、かって演劇祭の選考委員であった塩谷敬にその頃の事情を聞いてみようと電話したところ、夫人が電話口に出られ、氏はフランスのカンヌに出張中とのこと。後ほど連絡をくれることになったのだが、夫人が「ナンシー国際演劇祭 ーその誕生と終焉ー」という塩谷敬の記事が掲載された小冊子を送って下さった。その中の相当する部分をここに抜粋してみよう。
「ー 1980年は二年続きの演劇祭であるが、季節を春に戻している。この数年前から世界各地の芸術祭で顕著な傾向を示しているのが、舞踊グループの参加増である。ナンシーでも田中泯、笠井叡、山海塾は評判通りの踊りを披露、当地でヨーロッパデビューを果した大野一雄は話題を独り占めした。」

大野慶人にも訊いてみた。ところが、慶人はこのフェスティバルには同行していないと言う。というのは、慶人にとっては大切な縁である大仏次郎夫人が、その時ちょうど危篤の状態だったからである。現にナンシーでの公演日が5月18日であったが、夫人はその翌日の19日に亡くなられた。
ナンシーへ同行した出演者は、秀島実、上杉貢代、中村森綱であった。

私は、招待の交渉に来日したのは塩谷敬だと、今まで思っていたのが違っていて、現在ピーター・ブルック劇団の照明監督をやっているジャン・カルマンだったらしい。なお、ナンシー国際演劇祭の実行委員長は、この時すでにジャック・ラングではなかった。
創立者のジャック・ラングが実行委員長を勤めたのは1963年から'77年までだった。彼は'81年にミッテランが大統領に当選した際に文化相に就任し、'86年まで第一期の役を務めている。したがってナンシー大学に通う傍ら、ジャック・ラングの下で働いていた塩谷敬も、ナンシーからパリ大学の大学院に移り、演劇を専攻していたのである。

Saturday, September 01, 2007

大野一雄・慶人「部屋」(3)

土方巽が60年代後半に目黒のアスベスト館を本拠として「東北歌舞伎」「暗黒宝塚」と名打って観客の人気を得ていたとき、その間大野一雄が横浜の上星川の丘の上に潜伏していた。そして土方巽が公演を突然中断した後の1977年、70歳を迎える大野さんが思い出の第一生命ホールで、「アルヘンチーナ」公演を行なった。そのことは、すでにこのブログの他のラベルでも述べている。
この公演に備えて、大野一雄は作品作りに相当不安を覚えていたらしい。そして、土方の前で「私は作品を作るのに自信がない」と、つい洩らしたしたのに対して、土方は「あなたには『部屋』があるんじゃないですか」と励ました、という。

たしかに「部屋」は、大野一雄にとってモダンダンスの創作法を越えるひとつの試金石であった。それは労苦だけが残る解体作業のように見えたが、その後“無底”の奥からいくつかの作品が生まれることになる。
憧れのスペイン舞踊手を讃える作品「アルヘンチーナ」では、アルヘンチーナへの模倣、同化ではなく、プラトンがいう“イデア”の影をそこに見ることができた。つづく「私のお母さん」では大野さんの“胎内の舞踏”が公開されることになる。
そして1980年には、ジャック・ラング創立したナンシー国際演劇祭が大野一雄を招待する。この時の出し物「お膳」の評価がひじょうに高かったため、評判がヨーロッパ中に広がり、その噂が日本にも伝わってくる。

なぜ、このように「お膳」が評判をとったのだろうか。おそらく、西洋のダンスが永い間、理念的な美に向って、ムーブメントだけに意を注いできた。それが、ごく普通の、日常的行為と佇まいに目を置き、動きの“痕跡”がそのまま見える描き方に驚異を感じたのであろう。それには、世界の最先端の動きを展示するナンシー・フェスティバルの“場”が必要だった。又、観る者の予備知識として、バタイユの“非知”が。

Friday, August 31, 2007

大野一雄・慶人「部屋」(2)

「部屋」の公演の頃の大野さんは、とにかく自分を問いつめつづけていた。モダンダンス界から舞踏へ移行した1959年から舞踏の経験を経て、この1966年になって初めて自分の踊りを作ろうとしていたのだろうか。

私が大野さんの共立講堂でのデビュー当時の姿は、音楽新聞の舞踊欄に掲載された写真によって知っていた。当時から大野さんは帽子が好きだったようだ。コスチュームはモダンな風で、妙に腕の長い人だな、と思った。
じっさいに大野さんを舞台の上で観たのは、1959年4月、第一生命ホールでの「大野一雄モダン・ダンス公演」でのヘミングウェイ原作による「老人と海」だった。すでに私の下でマイムとクラシックバレエを学んでいた慶人が出演していたからだ。ところがこの翌月の5月に慶人が土方巽に誘われて、同じ第一生命ホールで第6回新人舞踊公演の提出作品として「禁色」が演じられる。

これが後の舞踏の出発点となったのだが、大野さんが津田信敏、ついで土方舞踏の動きに参加することになるのは、同じ'59年10月の現代舞踊の合同公演(文京ホール)での萩原朔太郎原作による「月に吠える」以後のことである。大野さんはこの作品に出演していたが、この作品を契機にして批評家を混じえての津田信敏派と江口隆哉派の分裂が起こり、大野さんは江口門下から分離して津田信敏と行動を共にし、やがて土方の舞踏の動きに参加することになる。
大野さんが真にモダンダンスの殻から抜け出したのは1960年7月の土方巽主催「ダンス・エクスペリエンスの会」(第一生命ホール)のジュネの「ディヴィーヌ抄」に出演してからである。その後大野さんは土方の演出の下で、舞踏の三羽ガラスの大野慶人、笠井叡、石井満隆が出揃ったころは、先輩格として特異なタンゴをソロで踊ってファンを集めていた。

大野一雄・慶人「部屋」(1)

大野一雄はことばによる象徴世界の網の目の隙間に入り込んで、ことばでは解釈できない対立項の真っただ中にいるわけで、こちらがひとつの問題に意見を述べるとそれを否定し、さらに自分が思いつく意味付けも思い返して否定して、俗なことばで言うと「ああでもない、こうでもない」と“無”の奥底に沈んでゆくことになる。
それが“ことば”でなく、何かを演じようとしても、「これは違うんじゃないか」という疑問が湧いてくる。要するに、行為の道がいつまでも解決されずに永遠に続くのである。

1966年、草月会館ホールで行なわれた「部屋」の公演台本は、短編小説の名手と言われ、若くして亡くなった阿部昭に依頼したのだが、苦労して書き上げた初稿を例の通り大野さんは肯んじない。改稿しても又同じで、さすがの阿部さんも「あの人は何ですか!?」と私に怒りだす始末。それでも大野さんは意に介せず、「ああでもない、こうでもない」と考えつづけ、阿部さんの家に電話する。ちょうど阿部さんは風呂に入っていて、慌てて裸で電話口に出たらば、延々と作品について語りだして終わらない。だが、阿部さんは、向田邦子が「阿部昭の発表する作品は見逃さず読みます」というだけのことがあって、次ぎに私と会ったとき笑顔で最初に言ったことは「大野さんって、面白いですねぇ!」だった。

結局、阿部さんは意味付けなしの、A,Bという記号の2人の人物が部屋の中で行為する、その数学的な関係公式だけの台本を渡すことになる。そして演出の私自身も、ステージの上で最終的に始末がつかず、「あとは慶人と勝手にやってください」と放り出すことになる。ところが、今度は開演寸前まで一雄・慶人の親子の二人の間に激しい言い争いが続いたのである。今にして思うと、あの「部屋」はいったい何だったのだろうか。ヘーゲルの弁証法とは、「正・反・合」の公式通りには解決がつかない、事象が内に含む“矛盾”を言いたかったのではなかろうか。

Tuesday, August 28, 2007

ヒノエマタへ

私がヒノエマタでパフォーマンスのフェスティバルを行なおうと決意したのは前記のシュウ ウエムラのメイクアップの巡業後、その演出料を手にした時だった。それまで「肉体言語」の同人の間でパフォーマンスという新しい芸術形式が話題になったことがあった。また、星野共はそのイヴェントを行なうなら福島県の尾瀬沼の裏玄関にあたる檜枝岐という平家村が良いでしょう、と言っていた。しかし、実現へ向けての話し合いではなかった。

私は直観して、今だ!と思った。資金はこの金でなんとかなるだろう。夏までにまだ3ヶ月ある。その場で音響の弦間隆に車でヒノエマタまで一緒に行ってくれることを依頼した。承諾を得て早速2人はヒノエマタへ出かけたのである。
パフォーマンスが出来る場所として、河川敷、公演、公民館、神社前の広場などを、また宿泊として温泉付きの民宿と村外れの藁葺き屋根の“出づくり小屋”も宿泊として借りることもできた。それに蕎麦も美味いし、東京から遥かに離れた周りの空気は澄み切っている。

肉体言語舎が主催で、制作をscorpioが担当することに決まり、チラシを作り、関係者に伝える。パフォーマンスという新しい芸術スタイルはすでに日本にも始まっていたが、その時は各ジャンルの第一線にいる者たちにとっては、来るべき新しい道をさがすための初めての出逢いと捉えられたようだ。現地までの70人乗りのバスをチャーターした。直接、浅草からの東上線とバスで行く人もいる。
われわれはその時は観客動員のことはあまり考えなかった。ただ、各ジャンルのアーティストたちの出会いと参加だけを目的にして興奮していた。

七月堂の木村栄治

七月堂の発行人であり印刷技術者でもある木村さんは、まことに変わった人である。というより、自分の出版に対する信念を変えないという意味では変人どころか、全うな人なのだろう。木村さんが自分の同人誌を作るにあたって、自分の手で印刷機を買い込んで、編集、印刷、製本、装丁、出版のすべてをやろうとしたことから出版・印刷の七月堂が始まった。他の同人誌の印刷から出版までも請け負って商売をすることになったのだが、事が詩の出版となると詩人との間で、とくに学生が多いのだが、紙の選択、タイポグラフィー、組版などの問題で互いの主張が合わず、言い争いから、ついには木村さんの怒りが爆発することになる。いつも仕事場は戦場の雰囲気と化した。

彼は言う「私は一銭もボラないし、真面目にやっている。きちんと原価計算して、印刷代+紙代+製本代÷部数で定価が決まる。全部売れたら元がとれる」。それで同人誌のばあいは内容を見た上で、買い取りの部数を決めて請け負うことにしている。しかし編集人として木村さんの名前が出る時は事が簡単に済まないのである。70年代後半の木村さんは、依然として吉本隆明の影響から抜けきれず鬱々としていた。それを自分でどうすることもできず、はけ口として同人誌を利益なしにただ無茶苦茶に作りつづけていたのだった。

しかし、その中に四方田犬彦らの「シネラマ」から松浦寿輝らの「麒麟」がつづき、松浦寿輝の「ウサギとダンス」、朝吹亮二の「密室論」など、詩集を発行することになる。
私はなぜか木村さんに気に入られて、朝吹亮二「密室論」や薦田愛の「ティリ」の凝った箱入りの本などを頂戴した。「Jam」や「肉体言語」などを発行できたのも全く木村さんの好意によるものだった。

Thursday, August 23, 2007

Jam

Jamという機関紙があった。最初、日本マイム協会の機関紙として、scorpioが自費で発行したものだった。ところが協会の会員たちが マイム以外のアートの記事が多かったので大して関心を示さなかったのである。それだけでなく協会の集まりを持っても、ひとつのジャンルに拘りすぎていて、あまりにも視野が狭すぎるのに不満をもった勅使川原三郎、武井よしみち、“ぼっこわぱ”と私が脱会し、そのままヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルの方に移籍し 、scorpioが発行していたJamがそのままパフォーマンス活動の広報紙となってしまった。

また、Jamと「肉体言語」、それにつづいて発行された「Theater Book」がパフォーマンス活動の支持体として、またパフォーマンスの芸術宣言、あるいは批評・討論の場となった。これらの情報紙、同人誌、雑誌はすべて七月堂という詩専門の出版社の印刷部に委託し、「肉体言語」は最初の段階は七月堂が発行所になっていたが、後に肉体言語舎に変わった。「Theater Book」の発行はscorpioであった。ところが、このJam(ジャム)という広報紙はまったくの手作りではじめたもので、勅使川原三郎がアートディレクター、ライターは湯本香樹実で、編集 上野陽一 監修 及川廣信であった。ライターの湯本香樹実は当時は作曲家であったが、後に作家となった。当時はまだワープロ機も発売されていない頃で、タイプだけは七月堂に依頼し、写真はコピー機で複写し、七月堂の木村栄治氏に発行人になってもらい、木村氏自身が自分の手で無料で印刷し、後援してくれた。

Wednesday, August 22, 2007

アルトー館という名称

私は本能的にアルトーという名前をじぶんの活動体に付けたかった。たぶん、今になって思うのだが、アントナン・アルトーが彼のシュールレアリスム時代に、アルフレッド・ジャリに敬意を払って彼の劇団名をジャリ劇場と命名したように。それは他者の名を借りて権威づけるためではなく、じぶんがこれからやろうとすること、ことばを含めて身体をテーマとする課題、またそれをもとにした文化的活動へのモチーフをアルトーに負うていたからである。又もう一つ、これは私自身の内面の問題であるが、ながい間抱いていたトラウマの原因を彼の書物との出逢いによって解消してもらった感謝の気持ちからでもあった。
当時としては幾多の困難を要した海外渡航を決意し、そこでの視野と経験と帰国後の試練の時期を経て、やっと観念とことばの世界から脱けだしはじめた時、アルトー館という名称で、公演企画を行なうことにしたのである。だが、現実のアルトー館という研究所が出来上るのはそれから3年後のことであった。

公演の制作を意図したが、製作のための準備金は十分ではなかった。それは私がTVのコマーシャルや映画出演で稼いだ資金だった。場所は赤坂の草月会館にした。第1回はコンメディア デラルテの再現と、大野一雄・慶人の「部屋」、第2回は西宮正明の映像と、土方巽の「ゲスラー/テル群論」であった。そして第3回は観世寿夫作曲の新作能「花の宴(ジル・ドレー)」(作・ 高橋睦郎 演出・堂本正樹)を予定していたのだが、曲の出来上がりが遅延しているうちに、氏が逝去し、この公演は中断したままとなる。

Monday, August 20, 2007

暗黒舞踏

数年前、元藤燁子の誘いで土方巽の故郷、秋田羽後町の西馬音内(にしもない)盆踊りを細江英公、田中一光らと観に行った。その旅の直ぐ後で田中一光が逝き、元藤燁子がその後を追った。この盆踊りは生者が死者を迎えると同時に、死者が生者を呼ぶのだろうか。

人々はそれぞれ絹の端切れを縫い合わせた“パッチ”の衣装できめて、夕方から夜おそくまで優美な踊りを幻想的に繰り広げる。成人の女性は編み笠を深くかぶり、男性と未成人の女性は黒い“彦三頭巾”で顔を覆って大通りを円をつくって踊りながら回るのだ。踊りがいかにも生活にしみ込んでいる様子を観ているうちに、土方が踊りを止めきれず再度上京した気持ちが分かるような気がする。また、向こうの死の世界から、からだを斜めにして肩からするりとこちらの世界に入ってくるような、あの土方の踊りのしぐさ。それにあの死者の姿そのままの、顔を黒い紗で覆った踊りはどこかで見たような気がするではないか。そうなのだ。土方が各所で行なった異様なハプニング。人々に暗黒舞踏と呼ばれた、その動きの基本形は、黒いパンツ一つの裸形の若者たちが顔を黒い紗で覆って、まるで死の世界から復讐のため立ち上がったように、背を丸くして、互いに擦り寄って円をつくる。それを細江英公が写真に収めていたのだ。その演技者は「禁色」につづいてマイムのメンバーが行なっていた。何しろその頃は、土方には弟子もいないし技術もなかったのだ。ただやる気と観念だけでもがいていた。
帰りの列車の窓から眺めた、湯沢の山々の姿はやさしく、土方が時々見せたおだやかな踊りの線を思い起させる。あの唐突な、他者に攻撃的な土方が、案外、傷つき易い柔らかな心を持っていたのではないかと想像しながら心地よく列車に揺れていた。

1956〜60年の土方巽(4)「禁色」まで

私が1958年5 月、マイム劇団「トーキョー・コメディ」の公演で、能の「生田川」を加藤恵の翻案でヨーロッパのマイム方式によって演出したが、舞台美術のオブジェは小原庄に依頼した。そのことをあえてここに記すのは、小原庄と図師明子はこの時まではブラジルに向って出発していなかったということだ。
そして、前年10月の公演「くさりを離れたプロメテ」に図師明子が出演した時には、土方の姿を舞台裏に見かけている。土方の踊りを断念して帰郷するという決意の告白は、その時の物言いの態度から察すと、堀内、安藤のところから去るための単なる口実ではなかったような気がするが、果たしてその時の月日を推定するとなると、半世紀過ぎた今となっては無理である。だが、「生田川」の公演前後だったと思う。

その土方巽が「生田川」から5ヶ月後の1958年12月のヨネヤマ ママコの金田一京助作「ハンチキキ」(バレエ・パントマイム)の舞台に出演している。ママコは先の「くさりを離れたプロメテ」に出演しているが、いったん踊りを断念して帰郷した筈の土方巽が再び上京し、こんどはママコのスタジオに住み込む。しかし、公演が終わると、土方はママコのところからも出る。
そして、1959年5月、第6回新人舞踊公演で、舞踏の出発点となる大野慶人主演「禁色」を発表するのだ。その時、大野慶人は私のマイムのスタジオに入って未だ1年半ほどしか経っていなかった。能が“物まね”を基本としているように、ヨーロッパのダンスも本来はマイムと結合したものである。それは歴史を見れば分かることだ。土方の舞踏の出発は、マイムの“アチチュード”を土台にして、跳ばないことから始まった。

Sunday, August 19, 2007

1956〜60年の土方巽(3) 図師明子と小原庄

土方巽と図師明子の2人は堀内完・安藤三子ユニークバレエ団の団員で、小原庄は美術の仕事をしていた。小原はネオ・ダダのメンバーで、土方の後のネオ・ダダの傾向への橋渡しをすることになる。私がこのバレエ団と直接関係を結んだのは、1956年6月、湯浅譲二作曲「カルメン」に出演依頼されての時からである。

土方巽と私との関係は、堀内完、マイムでの大野慶人、マイム劇への出演と装置を依頼した図師明子と小原庄、その後になるがマイム研究所での大野一雄などを通して複雑な繋がりをもつ。前述の、土方が「ぼくは、踊りを止めて湯沢に帰ります」と告白したのは、1957年10月の図師明子が出演した「くさりを離れたプロメテ」の時でなく、翌年5月の小原庄美術「生田川」の後だったような気がする。

それは、当時まだ闇市のマーケットが残っていた国鉄新宿駅東口広場にあった屋台でのことだった。安藤、堀内、及川、土方の順に並んで話しをしていたが、話しの合間に突然、隣りの土方がそれを言い出したのである。私は思わず土方の顔を見た。彼はそれっきり黙して俯いていた。土方は確かに、掘内、安藤にとって“持て余し者”だった。それに彼は金に窮していて、図師明子に無心してはうるさがられていた。
小原がひとりブラジル行きを決意したとき、図師は「私もいっしょに行く」と言った、という。「貴方は後で土方がこんなに有名になると思っていましたか?」という私の質問に対して、図師明子の応えは、ただ顔を横に振るだけだった。

Saturday, August 18, 2007

1956〜60年の土方巽(2)とつぜん消えた女性

楠野裕司というカメラマンがいる。サンパウロに居を構えて、ブラジルと日本との間を行き来し、両国の文化交流の仕事もしている。大野一雄のブラジルへの招待公演も実現させている。ヒノエマタ・フェスティバルでの関係もあり、来日した折に時々電話で呼び出されるのだが、この日も電話があり、ただ「今日は外国の女性ダンサーがいっしょだがいいですか」ということだった。

私は出かけた。待ち合わせの場所は、私の住んでいる赤羽の、歩いて10分ばかりの居酒屋で、中に入って行くと奥まった1室に楠野と一人の女性がいた。私の姿を見るとその女性が立ち上がった。小柄で、いかにもダンサーらしいい体付きをした中年過ぎの人である。外国人と言っていたが、アジア系だな、と判断した。「Haw do you do」と挨拶したが、彼女はじっと私を見たままでいる。しばらくして日本語で「私は及川さんを知っています」と言った。私はその女性の顔をあらためて見たが覚えがない。「では、ひとつヒントを与えましょう」と、小学校の先生が生徒に教えるような口ぶりでいい、ついで私の顔の反応をさぐるように「くさりを離れたプロメテ」と、いささか緊張した声で言った。

私はその「題名」を耳にしたとたん、1世紀の時間が「今ここで」凝縮し、瞬間、頭の中がスクリューのように撹乱した。この女性は、50年前に土方巽の彼女だった図師明子なのだ。土方に見切りを付けて、とつぜん小原庄という美術家といっしょにブラジルに移住して雲隠れした女性なのだ。「くさりを離れたプロメテ」とはアンドレ・ジッドの作品で私のマイム劇の表題だった。私は図師明子をその劇の相手役として依頼したのだった。

Tuesday, August 14, 2007

批難と栄光

あれは15年ほど前のことであったか。パリオペラ座のプロマイド売り場で、衝撃を受けた私はしばらく棒立ちになったままでいた。なんと、カウウンターの後ろの壁面の上部に、オペラ座のエトワールたちの写真を従えて、ひときわ大きく大野一雄さんの写真が掲げてあったのである。まるで王座に居座るように。
私は、70年代の大野一雄舞踏講座の受講者の感想を思いだす。それは「あの人は踊りのことを何にも分かっていないですね」だった。また、60年代半ばの大野一雄が憔悴してスタジオに帰ってきた姿を思い出す。それは現代詩の協会に踊りで招かれたのだったが、「こんなものを何故招いたんだ」と幹事が全員に攻撃され、冷たい目で会場から追われる始末だったのだ。この時は土方らもいっしょだった。しかし、この後数年も経たずに、詩人だちが率先して土方、大野を讃えはじめたのだ。

大野一雄が90歳直前、シアターXでピアニストの三宅榛名との2度の競演につづいて「花火の家の入り口で」の公演を経て、神奈川県民ホールで90歳記念公演を行なう。このあたりからその後のニューヨーク公演までが大野一雄の舞踏人生の最高潮の時期だったように思う。
三宅榛名がピアノを弾く指と同じに、大野一雄は手の指を動かすことから、体内の踊りを演じていたのだった。もうすでに各指からの経絡が五臟に連結し、踊りの通路を見出していたようだった。又、この頃から幽霊に親しみを覚えはじめていた。ニューヨーク公演の時、同伴した夫人といっしょのホテルで幽霊を呼び、夫人がノイローゼになって入院することになる。帰国後半年ほどして夫人は逝去し、愛妻を失った大野一雄はそれ以後急速に力を失って行く。

大野一雄の踊りと作品

大野一雄の舞踏の素晴らしさを要約すると、前記したマニエリスム的な美的感覚のほかに、あでやかに女装するアンドロギュネス的な演技、また美と醜、優美とグロテスク、豊穣と欠落とが同居する、世界の終末の無惨な姿である。そして、それと対比するように甘い西洋へのあこがれの大正ムードの香りがただよう場面もある。舞姫アルヘンチーナへのあこがれから発して、ショパンの曲、Ave Maria、またプレスリーの歌など。それらが聴く者の遠き日の憶いを突き動かすのだ。

作品の構成、演出は、一見するとどの作品も同じ形式で、同じようにすすんで行くように見える。だが、よく観察すると同じ大野一雄が演じ、同じ構成であってもその内容は違っている。それは能の形式に似て、能は面と装束を選択し、それをもとに演者がイメージしてキャラクテールをつくり、演じるのだが、大野一雄のばあいは、それをメイクとヘアとコスチュームのアートディレクションで行なっている。その任に当たっているのは大野慶人夫人の大野悦子である。かの女は慶人と薬局を経営する傍ら、その技術を学んだ。
作品の能形式と、変身をもとにした演技展開、この2つが作品の柱となっている。

それは、もしかしたら、大野一雄の能楽師友枝喜久夫へのあこがれから来ているのかもしれない。それと、演出の大野慶人には、大仏次郎を通じての歌右衛門、また郡司正勝の「かぶき」のイノベーションなど、歌舞伎にも繋がりがあったことを知っておきたい。

Monday, August 13, 2007

大野一雄と慶人

何時頃から慶人が、父一雄の作品の演出をやり始めたのだったか。舞踏に関しては、その出発である『禁色』以来、初めの頃は慶人が花形で、父一雄は後からこの運動に加わったのだった。その内、一雄が大学の仕事を引退し、慶人が代わりに一家の支えとなって薬局の仕事に打ち込んでいる間に、70歳を過ぎた一雄の方が、第一生命ホールの公演でとつぜん有名になったのである。もうこうなると大野一雄という人は、息子に踊りの代を譲ろうなどとは考えもしない人なのである。しぜん慶人は父一雄を立てて演出の側に回ることになる。

大野一雄のこの人気の理由の一つは、土方巽との交替の意味もあった。その前に土方巽は大野一雄との分離を機に、大野慶人、石井満隆、笠井叡の3人の男性舞踏手を中心とした第一期の暗黒舞踏グループを解体した。そして目黒のアスベスト館で芦川洋子を主役に第二期の「暗黒宝塚」を連続公演し、そのピーク時にあえてそれを中断する。しかしその間、時代の傾向が代わり、土方の演出はもう通用しなくなっていた。

大野慶人の周りの人は、折角の慶人の才能が開かれぬまま、機会が失われて行くのを嘆いており、慶人自身も踊りの面では一雄の上を行ける自信があり、いつまでも一雄の支え役であることに焦燥感を抱いていた。そういうこともあって演出側から父一雄に強く当たっていた。ところが一雄が90歳になり初めた頃から事情が一変した。何かおそろしいエネルギーと底知れぬ深さを父一雄の中に感じはじめたのだ。そのことは私自身も感じ慶人と話し合ったが、そこで「親父にはとても適わない」と、彼の口から漏らすことになったのである。

大野さんという人

大野さんを“わがまま”な人だと前記したが、べつの言い方では“主体性”を持った人と言い換えることもできる。普通、主体性を持った人は、じぶんの内部の亀裂した思いを言語で統一したかたちで自己表出するのだが、それが大野さんのばあいは矛盾が残ったままでいる。
たとえば、ヘーゲルの弁証法は、一般には“正・反・合”の統一までの論理的プロセスとして理解されているのだが、これを相反する二者対立の矛盾のまま合一しないものと解釈する立場もある。大野さんの立場はそれに当たるので、相反するものの真ん中をとって無理に合わせることをしない。主体のない、ことばの解釈に準じて相手と融合することを嫌っているのだ。矛盾のまま“合”を永遠に延期させているのだ。

大野さんは、言語の抽象化に頼ることをしない。“お母さん”の胎内と結ばれた実在としての身体感覚だけをじぶんのエリアとし、それを土台に生活し表現しているのだが、矛盾が起きたばあい、あくまでもじぶんの身体に問い、それでも解決できぬものは、物と身体の現実世界の向こう側にいる、現実世界の現象ぜんたいを形象化した姿と考えられる“神”を信じるほかないのである。

そこに行く過程として、無私と無欲の自然体としての老子の“無”の生活が適応するのだろう。そして、最終的にキリスト教を信じることに自分の支えを見出そうとするのだが、大野さんのばあいは、じぶんが戦争中召集され、憲兵将校であった体験から来る罪の意識が、じぶんをあえて“ユダ”だと言わせているのではなかろうか。

Sunday, August 12, 2007

細江英公の写真展が山形県の米沢で開かれ、大野一雄・慶人、元藤燁子の3名が賛助出演するというので出かけた。開場前の下の階に入ってみると、元藤さんが踊りのための“場当たり”をしていた。大野さんは何処ですかと尋ねると、多分2階でしょうと言うので、階段を上ってゆく。2階の楽屋では慶人が準備していて、誰もいない会場の長椅子に大野さんが一人で背を丸くして、そざいなげに俯いている。さっそく隣りに坐って「大野さん、今日は何を踊るんですか」と訊いたところ、ちょっと戸惑いながら「いや、踊らせてくれるかどうか」と以外な返事が返ってきた。そこで「何をいうんですか。大野さんに踊らせないで、わざわざここまで連れてくる訳がないじゃないですか」というと、黙って考えている。

やがて大野さんは、米沢に来るまでの列車の窓から見た雲の美しさについて延々と語りはじめていた。「それで、何を踊るんですか」と私が又問うと、「いや、何を踊ったらいいのか」という。「だってもう始まるまで、もう3時間しかないんですよ。そんなに感動していたら、その雲にしたらどうですか」。無責任というより、切羽詰まった感じで断定的に言うと、大野さんは唇に微笑みを見せていた。

その日の大野さんの「雲」の踊りは素晴らしかった。大野さんの弟子に向っていう褒めことばを真似して言うと、「まるで雲そのもの」で、大野さんが描いた雲で会場が充満し、そこへ上半身裸で現れた慶人は「まるで雷さまそのもの」であった。

Saturday, August 11, 2007

孤立の佇まい

大野さんは、踊りの仕事のとき以外は、まったく目立たない存在として片隅に居る。只そこに、こつねんとして“非存在”としている。70歳を過ぎてから大野さんは世間的に有名になり、それから間もなく世界の舞踊界のトップの座に位置することになるのだが、そうなっても偉ぶることは微塵もなく、以前と同じように普通の人という感じで、目立たず只そこにいる居るという感じなのである。

大野さんのからだは自然態で、つねに自分とからだを密着させたかたちで踊りを待ち受けている。大野さんの踊りは音楽によってロマンと結びつくことはあっても、つねに実在的である。しかし、大野さんはクリスチャンで、老子の思想も受入れているので、踊りは直ぐこの実在の体からすり抜けて、無の状態になり、またスピリチュアルに上昇する。

大野一雄を“向こう側の人”というのは、象徴世界の対象である、現実世界の人だというのでなく、踊りの時だけでなく、日常でも現実世界の隙間から空白のスペースに落ち込んで、混沌とした無の状態にいる、ということである。内部が、いろいろな欲望で亀裂していて、纏まらずに無の混沌の状態にあるのだが、言語によってそれを同一化することはせず、大野一雄のばあいは宗教心でそれを抑えようとしている。
だが、大野一雄は熱心なクリスチャンだが、自分のことを“ユダ”だと称する。
また、女装して『花のノートルダム』の世界を踊るのである。

Thursday, August 09, 2007

大野さんの “無”

大野一雄を向こう側にいる人と想定してみると、元藤燁子さんが亡くなる前年に、突然「及川さん、大野さんの踊りを良いと思ったことがありますか?」という不思議な質問を受けて、戸惑ったあげくあげく「90歳を越えてから良いと思いました」と応えたのだが、それ以前の大野さんの踊りに明確に向こう側の踊りだと判断することを出来ずにいた。

アルトー館主催の「部屋」での共同作業のとき、こちらが言うと、ことごとに「いやー」と疑問をもって否定するので、最後には腹を立てて「大野さん、それじゃ猿が “なまねぎ”の皮を一枚々々皮を剥いて行って最後には何も残らないのと同じでしょう」と言ったこと。
また、翌年のアルトー館主催の土方巽主演の「ゲスラー/テル群論」の後、アスベスト館で土方、大野の2人が交互にワークショップを開いて意見交換した末、土方が怒り出して「大野さんには何にもない」と言って目黒派と上星川の2派に決別する結果になったこと。

しかし、大野さんにとってはこの「無」が大切だったのに違いない。こうしてみると土方巽と大野一雄はまるで近親関係のように秋田の同族の地への執着によって結ばれていたのだが2人の立場はやはり違っていた。土方巽は対象を詩的に解釈するのに対して、大野一雄のばあいは無の空間が対象だったのである。その後、数年経って訪ねた上星川の家で、大野さんと2人で話し合ったとき「私は老子の本を読みはじめているんですよ」と楽しげに語りだして、いつまでもその話題からはづれない。こちらが話題を変えても「そうですか」とそっけなく応えて、直ぐまた老子の話に戻して思いがそこから離れない風だった。

“向こう側の人” 大野一雄

大野一雄さんという人はほんとうに分からない人なのである。向こう側の人なのだ。何しろ、おふくろの胎内から出て、今でもへその緒で結ばれているような人なので、こちら側からは、というより理屈では理解できないところがある。それはどういうことか?常識の判断では難しいことなのだが、事を逆転させてみると、なるほどと納得がいくかもしれない。

こう説明してみよう。われわれはことばで話し、言語で物事を解釈し、理屈を言う。すべてがそれで了解されて事が運ぶのだが、それでも、実はまだ残余の部分がある。言語の網の目から漏れている、まだ解釈されていないものを含んだ、われわれの言葉では掬いきれぬ大きな実体が向こう側にあるのだ。
この言葉やカテゴリーなどによって対象を指示命名し、関係づけ、分節し、解釈し、意味づけて、その対象の実体に対する象徴世界の中でわれわれは生活しているわけである。この象徴世界の向こう側の対象の実体をカントは「物自体」と名付けたのだが、フロイドの後のラカンやジジェクはこの隠されている実体を<現実界>としたのである。ここで現実がこちら側から向こう側に移動し、現実が逆転したのである。とすると、大野さんは向こう側の<現実界>に立っているということになる。

しかし、この<現実界>に立ったばあい、意味と判断がつかない矛盾のただ中にいるわけで、対立した思考がいつまでも解決されず、反問しつづけることになる。逆の立場で、向こう側から迷路を辿ってこちら側の網の目にむすびつくかが問題なのである。

Wednesday, August 08, 2007

大野一雄の“降神術”

大野一雄が最初問題にしたのは「皮膚感覚」だった。モダンダンスも舞踏も、それまで誰も気を向けていない事だった。1960年代の半ばの数年間、大野一雄は日本マイム研究所の土曜日のクラスを受け持っていたが、授業内容はいつも同じ2つのテーマだった。

1つは、じぶんは眼が見えないと仮定して,からだの皮膚全体で空間に触りながら前へ進んでゆく。からだの部分々々の“しこり”をほどいて、どうしたら瞬間的に皮膚で触覚を感じとれるかを試みる。

もう1つは、例えば、鳥になれ、馬になれ、また“ひらめ”になれ、とその日によって出される題はちがうが、「動物への変身」がテーマ。
これは、しばらくの心の準備の後、ハイ! という合図で、全員演技しながら前へと歩みはじめ変身に努める。この間、大野一雄は槌で床を小刻みに叩きながら、時々声も発し変身へと導こうとする。
しかし、大野一雄のばあいは、フォルムでまねる術を選ばないから、演ずる者は内部の変身にもだえるのだが、外見からは一向に変身した姿には見えない。スタジオ内は、まるでアルトーの“器官なき身体”から、“降神術”による変身の実験室の様相を呈する。レッスンの後は、男より、とくに女性のばあいは、心理的に入り込む度合いが深いせいか、極度に疲労して口も利けない。

今考えると、大野一雄はこの皮膚と変身との関係、触覚と他の視覚・聴覚・味覚・臭覚との通底路をどのように捉えていたのだろうか。

大野一雄と“ひらめ”

大野一雄の踊りを解くことは難しい。それを解明できるのは、長いこと氏に付き合って、ちょくせつ氏の言動に触れることが必要なのかもしれない。以下、感じるまま、私の大野一雄論を断片的に語って行きたい。それが舞踏を継ぐ者たちにとって何らかの参考になればと思う。

大野一雄には「お母さん」という作品がある。
彼にとっては、お母さんはこの世のすべてに値するものだった。できれば、再びお母さんの胎内に戻ることが念願だった。冥界から出て再び冥界に戻る。これがすべての人間のすすむ経路なのだが、大野一雄のばあいは、それが踊りで実践される。
そのお母さんが、ある日、“踊り”の本質を彼に教えて下さった。両眼ともからだの左側面にある“ひらめ(平目)”が、海底に砂をかぶって横たわっている。両眼のある暗褐色の左側面を上に、眼のない白い右側面を下にして。そこで突然、周りに異変を感じた“ひらめ”は砂を蹴って、上へ向って身をくねらせて舞いあがる。これが“踊り”だ、と。
大野一雄はこれを、“ひらめ”の代わりに“かれい”と言ったりする。2つとも平目科なのだが、“かれい”のばあいは、両眼は反対の右側面にある。右側面は黒色で、左側面は白である。

大野一雄の踊りは、嵩じてくると、つねにS字を描いて上方に向う。それはエル・グレコの絵の構図に似ている。

勅使川原三郎と日本マイム研究所(3)

大野一雄さんは付き合ってみると、随分我が儘なところがある人で、じぶんのいろいろな分裂した欲望をひとつにまとめることが難しかったのだと思う。言ってみれば、ジジェクの<想像界=鏡像段階>に相応するが、滝沢修や友枝喜久夫への思いの例も、鏡を見ながら自画像を描くときのように、理想的な他人の姿に自分を写しだして、対象と同化しながら自己の内部の統一を計っていたのだと思う。
舞踏家大野一雄のばあい、一般には何てこともないものが、彼によって突き詰められた結果、思わぬ価値を見出してくるのだった。大野一雄については、正直に言って長い間、この人はいったいどういう人なんだろう、この踊りはいったい何なんだろうと、思いあぐねてきたところがあった。私以上に付き合ってきた元藤燁子にしても同じ思いを告白したことがあった。

大野一雄については、この難問のまとめとして、舞踏 土方巽と並列して舞踏 大野一雄のカテゴリー(ラベル)をつくるので、それを参考にしてもらいたい。さて、話を勅使川原三郎に戻して、その後の彼との付き合いからヒノエマタ フェスティバルに至る道を急ごう。
勅使川原三郎に仕事の呼びかけをしたのは、表参道のシュウウエムラ ビュティー ブティックの開店1周年記念行事としてのメイクショーの巡業公演のときだった(1953)。これはメイクショーといってもSFサスペンスの体裁をとったものだったが、その場面のつなぎが勅使川原の役だった。長崎から仙台までの7ケ所を巡る公演の間、私と彼は毎夜、マイムの技術と将来の展望について語り合った。その時のマイムの“人形振り”から宇宙人への変身技術が発案され、彼の独自なダンスへの出発となった。

Tuesday, August 07, 2007

アントナン・アルトー Antonin Artaud

アントナン・アルトーとの精神的な出逢いは、戦後間もなくと言ってもいい頃だった。当時私は旧姓高校の“文丙”というフランス語専攻のクラスに在籍していたが、妙なことがきっかけで演劇部に入ることになり、事のついでに開校したばかりの舞台芸術学院の夜学にも通うことになる。それで紀伊国屋書店を通じてコポー、デュラン、バローなどの演出台本をフランスから取り寄せて読んでいたのだが、やがてバローの『Reflexion(回想)』という本を注文したのである。それは著者であるジャン・ルイ・バローが自分の演劇の経歴と俳優術について語っているのだが、シャルル・デュランの下で学ぶところから始まって、エチエンヌ・ドゥクルーに誘われていっしょにマイム術を研究し、やがてアントナン・アルトーと出会い、アルトーが独自の呼吸法や演技術を彼に伝授する段階で、この不思議なアルトーという人物の霊感に打たれたのだった。

その後、私はクラシックバレエにまで足を踏み込み、パリのレオ・スターツのコンセルヴァトワール(ベジャールの出身校)に留学することになるのだが、ついでに日本にまだ知られていないマイム技術を仕入れることも必要かと思い、エチエンヌ・ドゥクルーの学校にも通うことになる。そして、バローの演劇を観ながらも、すでに亡くなっていたアントナン・アルトーの足跡を辿ることを忘れなかった。私は、もし“身体哲学”というものがあるとしたら、また、東西の「身体メソッド」を比較する学問があるとするなら、その出発点としてアルトーの身体観から始めようと決意した。帰国後、私はアルトー館という名前でプロデュースし、アルトー館という研究所も創った。

勅使川原三郎と日本マイム研究所(2)

当時、大野一雄はなぜ滝沢修に熱中していたのか。それは私にも納得ができる。というのは、私自身も演劇青年だったころ滝沢修の演技に憧れていたのだ。私のばあいは、滝沢修の舞台演技より、むしろ彼のリアリティの部分をもっとも発揮した吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」の演技だった。滝沢修は『俳優修行』という本も出していたが、彼ほど身を徹して俳優術に打ち込んでいる人はいなかったろう。昨日のブログに、大野一雄は滝沢修の演技を「研究」していた、と記したが、大野さんの「研究」というのは独特で、研究した結果が出るというのではなく、ああでもない、こうでもない、と反問しているうちに“無”に辿りつくようなもので、その間に対象と同化してしまうのである。こう書いてしまうと。大野一雄の舞踏の姿の中には、どこか滝沢修と友枝喜久夫の面影が見えるような気がする。

それは実体の重さを感じさせない、精神の“軽さ”なのかもしれない。滝沢修がステージで椅子に腰掛けたばあい、身の重さを椅子にあづけるようなことをしない。優れた茶道の師匠が坐して点前をするとき、腰を浮かして脚とお尻の間に隙間を持たせるのと同じである。

勅使川原三郎が日本マイム研究所に入った頃は、たぶん大野一雄は講師の座を去っていたような気がする。慶人が私のところにマイムとクラシックバレエを学びに来た時は、まだ17歳だったと思うが、日本マイム研究所ができる2年前だった。慶人はそのまま日本マイム研究所の一期生として在籍する。勅使川原と大野親子が初めて対面するのは、第4回のヒノエマタ フェスティバルの神社前広場での競演の時だった。

Monday, August 06, 2007

勅使川原三郎と日本マイム研究所(1)

ヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルの前段階として、勅使川原三郎と日本マイム研究所のことを話しておくのも必要かと思う。日本マイム研究所は1960年に新橋の田村町に、舞台美術家協会会長の吉田謙吉(築地小劇場の第1回公演「海賊」の舞台装置家、川端康成の「伊豆の踊り子」の初版本装釘家)の後援によって設立された。私がその初代所長に任命されたのだが、週三回のレッスンの内、火・木は私が教え、土曜日は最初の2年間は安藤信也(早稲田大学教授、“アンチ・テアートル”の日本への最初の紹介者)が、安藤が演劇博物館長に任命された後は大野一雄が担当した。

一般に、マイムというとパントマイムのイメージを抱くが、私と安藤はエチアンヌ・ドゥクルー(ジャン・ルイ・バローとマルセル・マルソーの師)の下で学んだ経験を持ち、最初はそのメソッドに準じていた。それはからだと動きの分析を主体とするものであった。大野一雄はその頃はモダンダンスから舞踏に移動し、土方巽に提出されたジュネの作品に啓発されていたが、もともとマイム的なダンサーであり、新劇の名優滝沢修の演技を“研究”していた。その後、彼の崇拝の対象は能の喜多流の友枝喜久夫に移る。
勅使川原三郎がこの日本マイム研究所に在籍したのは、私が8年間所長を勤めて京都に移住した後の佐々木博康所長の時代で、かれと最初に出会ったのはマイム劇団「気球座」(早逝した並木孝雄が主宰。ヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルに2度参加)がプロデュースした公演の時で、彼のシュールレアリスティックな作品に感銘を受けていた。かれはすでにクラシックバレエの技術を習得していたし、美術的センスにも優れたものを持っていた。

Saturday, August 04, 2007

同人誌「肉体言語」

scorpioの事務所は「肉体言語」を発行する肉体言語舎と同居していた。「肉体言語」という雑誌は星野共が発行人で、彼が早稲田大学在学中に仲間とつくっていた同人誌で、私が誘われて入った時はだいぶ経ってのことで、その後、星野共、及川廣信、船木日夫、芦田献之の4人が編集同人となった。依頼された執筆者は北山研二、太田省吾、市川雅、沼野充義、服部幸雄、佐藤重臣など錚々たるメンバーであった。雑誌の特徴は演劇、舞踏などパフォーミングアーツを対象にしながら、現代詩のほかにバタイユ、アルトー、ルーセルなど思想的な文学者を紹介した。

雑誌のコンセプトはその雑誌名が示す通り「肉体を言語化する」ことで、フランス語のlangage corporelle(ランガージュ コーポレール 身体言語)に相応する。フランスの構造主義の影響下に生まれた新言語だ。ただ、この「肉体言語」は身体でなく肉体という語を使っているところが、出発時の60年代的ニューアンスを含んでいる。

同人の星野共は理工科、及川廣信はフランス哲学、芦田献之はインド哲学、船木日夫は美術批評の出身で、星野共と芦田献之は舞踏の大野一雄に肩入れし、及川廣信と船木日夫は演劇とダンスの全般を観るという傾向にあった。一方、星野共はバタイユ、及川廣信はアルトー、北山研二はルーセルの紹介の任に当たった。私の編集した11号の「特集 アントナン・アルトー」は1983年10月10日が発行日で、ちょうどヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルが開かれた前年に当たる。 

Friday, August 03, 2007

scorpioの成り立ち

scorpio初期のメインプロジェクトであるパフォーマンス フェスティバルのことを先ず語りたい。だが、その前にscorpioの成立と、シュウ ウエムラとの関係について述べておかなくてはいけない。scorpioは中野の丸井本店の駐車場に面した中野住研コーポの5階にあった。雑誌「肉体言語」の発行人であった星野共が持ち主である住宅用のマンションの一室を借りて事務所に使っていた。その頃、プロデュースの仕事は、やる気があればそれなりに仕事がとれる状況であったが、結局いちばん思うように仕事ができ、アートにも近いシュウ ウエムラの仕事一本に絞ることにした。

shu uemuraすなわち植村秀は、ハリウッド帰りのメイクアップ アーティストで「ジャパン メイクアップ」という会社をつくっていた。化粧品メーカーというよりアトリエ メイドのハイレベルの化粧品を、美容師さんにメイクアップの技法を教えるのと平行して美容室に化粧品の販売を依託していた。私はウエムラがシャンソンを歌っていた時から友人だが、彼がつくった日本メイクアップ協会の事務局長に依頼されてからは、メイクアップショーの演出から始まり、メイクアップスクールとエスティティックの準備、1983年には表参道の最初のビューティブティックの開店まで手伝うことになる。

だが、これらのことがその後のフェスティバル製作にどれほど役に立ったか知れない。たとえば、当時私の技術面の片腕だった弦間隆がパフォーマンス フェスティバルや東京アートフェスティバルを支えてくれなかったら当時のプロデュースの仕事は不可能だったろう。

Thursday, August 02, 2007

“reflexion(回想)”

このブログは1年前に書き出されたままで、そのまま放り出されていた。理由は私自身の入院とその後の体調不全のためもあったが、scorpio自体がこの2年間ほど何も活動せずに来たためでもあった。その間、いろいろ考えたこともあり、時代にそったかたちでscorpioをどう復活させるかが目前の課題ともなっている。
1984年以来のパフォーマンス運動を、90年代のブランクを越えて、今の現代美術、マイクロ・イベントとしてのパフォーマンス、及びさまざまなサブカルチャーとの関わりにおいてどう捉えるか、またどのような歴史的な結びつき、あるいは切断がその間にあるのか。これが現代という基盤を再解釈しようとする理由である。

そういう意味から、この1年間放っておいたこのブログの書き出しをそのまま継続するということは、レフレクション(reflextion 回想)の意味もあり、それがそのまま現代の社会学者が唱えるReflexion(歴史的回帰)にも適用するもので、われわれにとって必要なことなのだ。歴史を考えるいうことは、自ら反省するすることでもあるからだ。
80年代がポストモダンの時代といわれ、近代が終わって近代以後の新しい社会構造体に向うかのような幻想を抱いたのだが、それは後期資本主義社会の折衷的な表層の姿に過ぎなかった。依然として継続する近代というものに気づき、進むことを一旦止めて、歴史を振り返って近代の骨組みを見直そうとしているのである。解体の後には廃墟だけが残る。幾何学において、一本の線を引くことで解答を得ることが出来るように、次ぎの何かを考えること。

1956〜60年の土方巽(1)

私にとって、土方巽の本質的な部分と思われるものを知ることができたのは、1956〜60年間の彼の行動である。その間に、彼はいろいろ周囲から批難され、彼なりにも苦悶しただろうし、結果いちどは「踊りを止める」と宣言して帰郷したのだが、再度上京して舞踊界を放浪し、その間舞踊の外部の美術のネオ・ダダのメンバーにも接触し、最終的にはネオ・ダダ以前のダダイズムの舞踏家津田信敏の傘下に加わることになる。

だが、ここで往々にして現実とことばが背離するのだが、「傘下に加わる」というのは精神的な意味で、彼が津田信敏が主催する’59年と’60年の2度の「女流アヴァンギャルド公演」に大野慶人といっしょに援助出演しているということである。
それに対して、現実面はどうかというと、津田信敏の舞踊研究所なるものは、所有権はお弟子さんであり、当時、津田夫人でもあった元藤燁子にあった。ところが、この公演後間もなく津田信敏は他のお弟子さんといっしょに元藤燁子のもとから出て行ったのである。そして外見には、その後釜に土方巽が入り込むようなかたちで元藤燁子と結婚し、津田舞踊研究所が土方のアスベスト館になったという現実である。

1956〜60年の5年間というものは土方巽だけでなく、60年代に先行する「反逆と苦悶と孤独な模索」の時代だったのである。世界的な時代特徴としては“ビート・ジェネレーション”の時代である。たとえば’58年の4月には、当時異端として土方と並び称せられた若松美黄は東京新聞主催の第15回舞踊コンクールで『反逆児』という作品で入賞。同年5月には津田門下生グループ『反旗』の第1回公演が行なわれた。

Sunday, July 29, 2007

内面の葛藤

“へび”と炎が噴出された姿として60年代を説明したが、制度的な、あるいは世代間の対立以外にも、その内面には様々な葛藤が含まれていた。1960年の池田内閣が掲げた「所得倍増計画」、'64年の「東京オリンピック」、'72年の田中角栄の「日本列島改造論」と日本ぜんたいをすっかり画一化してしまった現状からは推測できないことだろうが、それ以前の中央都市と地方との格差は、とくに東北地方から東京に住み込むばあい、なかなか入りきれぬ壁があったのだ。地方がもっている固有の文化は、維新以来じょじょに失われ、それに対して東京を中心に欧米の生活文化が積極的に取り入れられていたのだ。

そこに突然、土方巽が殴り込みをかけるように、東北・秋田の縄文文化の踊りを、これもまた縄文の匂いの濃いヒッピー風の横尾忠則のポスターを掲げて登場したのだから、人を驚かすのに十分だった。

それより以前、土方巽は1958年に安藤三子、堀内完ユニーク・バレエ研究所を退所した。生活が困窮し、舞踊家への夢も挫折し、尾羽うち枯らして故郷秋田県湯沢市に帰る。ところが半年も経たずに再起して上京、ヨネヤマ・ママコのところに内弟子として住み込め、1958年12月にヨネヤマ・ママコ振付けによる金田一京助の「ハンチキキ」(バレエ・パントマイム)に出演。だが、ママコのところも去り、翌年の1959年5月に全日本舞踊協会主催の「新人公演」に『禁色』(土方巽、大野慶人出演)を提出する。これが“舞踏”の出発となる。

Saturday, July 28, 2007

“へび”と炎

“ねじれ”が内側に向って深部に達したとき、そこには“へび”がとぐろを巻いている。また爆発寸前の炎が渦巻いている。このようなイメージは“神秘主義”の教義にあるが、じっさいには人間の内部も社会の動きも、そのような解釈で納得できる部分がある。
“へび”はエネルギーとスピーディなねじれ運動を暗示する。舞踏の中では笠井叡の踊りがそれに相応する。彼のばあい、姿勢(アチチュード)を主眼とし、跳躍をしないことを原則として出発した舞踏から個性的にはみ出さざるを得ない結果となり、現在では自分の踊りを“ダンス”と呼称している。

しかし、炎という意味では、土方巽の直系の弟子、石井満隆の踊りはそうだった。ここで「だった」と言わざるを得ないのは、彼はその後何段階かの変化、進展を経過し、もはや舞踏の枠内に留まれない部分もあるからだ。

また、時代的にいえば、1955年からはじまるいわゆる“55年体制”継続期間の、初期としての1950年代後半の時期は、“大人たち”の体制に抑えられていた若者たち(“怒れる若者たち”)が反逆の姿勢で立ち上がった時代である。それぞれタイプが違うが、三島由紀夫、石原慎太郎、土方巽などが青年として大人世界に対峙した時代である。そして、60年代はその炎が外に吹き荒れた時代で、さらに1967年の全共闘の激化から70年代に入っての赤軍派の浅間山荘事件があった1972年までの時期は、“へび”と炎が空間的に散乱した時代ということになろう。

Friday, July 27, 2007

“ねじれ”から姿勢へ

“ねじれ”は動きの現象であり、またその人の“在り方”としての姿勢(アチチュード)でもある。
これはキャラクターの類別とは違って、深部の本質的な特徴を表し、背骨を中心とした体の全体、あるいは部分的な方向性をベースに判断される。ユングの“タイプ論”は心理的な、内向性、外向性や思考/感覚/感情/直観の判断機能を基にしたものである。

脊柱を中心にして左右の“ねじれ”現象を持っている。あるいは背骨を真っ直ぐに立つ人、前後左右に傾く、また体のある部分を突き出す人。からだの各部分が分離している、または統一されている。これらによってその人の動きも変わるし、人間だけなく、時代も同じような傾向を持って動いているということである。それに心情的なものが絡む。“ねじれ”は右に廻るときは外部に拡大の方向へ、左に廻るときは内部の凝縮へと向う。

では真っ直ぐな自然な立ち方をする大野慶人のばあいはどうか。内面の精神的な緊張が欲しい時は、“濡れタオル”を両手で絞るように全身の筋肉を中心へと絞る。剣道の竹刀(しない)を持つときの姿勢である。そして脊柱の“気”が下部の仙骨の方に向うと色々なイマジネーションが湧き、頭部に昇ると意識が冴える。舞踏発足時の少年慶人の踊りは前者で、色彩まばゆい演技をしたが、最近の彼の踊りは後者で、あまり動かない“さび”の効いた禅的な踊りになっている。

Thursday, July 26, 2007

土方巽と“ねじり”

一口に舞踏と言っても、その表現の基底となっている“からだの在り方”は、土方巽、大野一雄、大野慶人、笠井叡、石井満隆のそれぞれが違っている。たとえば、舞踏の中心的な存在だった土方巽を例にとってみると、これは典型的な“しぼりの表現様式”が習慣的に固定してキャラクターにまでなっている。それは先ず“立ち方の構え”としては片方の足が前方を向いているとき、他方の足が爪先を内側にしてその前に置かれる。ここから“ねじれ”の方向に向おうとするのだが、胴体と頸、頭、また腕の“ねじれ”、さらに手首と指の“ねじれ”にまで及ぶ。またその上、この性向は空間的に膝を折り曲げての下への凝縮した押さえと、上部の天空への爪先立った拡張の表現が加わる。このイメージにぴったりするのが、ルネッサンスの古典形式から“ねじり”様式に転位するミケランジェロの彫刻である。

この分節した相互の肉体の反乱は、古典からバロックへ移動する際のマニエリスムの特徴で、1950年代後半から60年代の半ば過ぎまでのにも相応する時代特性だった。それが1967~69年の全共闘のピークの頃から70年代にかけては、身体自体から空間への広がりの中に散乱する、歌舞伎の世界にも似たバロック状態に入る。大駱駝艦が活動を開始する時代である。その様式はミケランジェロの晩期の、殆どバロック的な混乱を現す「最後の審判」を憶い起こさせる。

マニエリスムのもう一つの大きな特徴は、イコン=アイコンである。奥に潜む理念的なもの。寓意の働き。土方巽のばあい、“馬”がかれの理念であった。そのことを知ると、彼の踊りが理解できる。

Wednesday, July 25, 2007

土方巽のこと

先日、舞踏の土方巽のことを本にまとめるため、資料や関係者へのインタビューを求めて来日した、アメリカのMITの助教授・ブルースさんに会った。そのあと、間に立っていた橋本さんからメールがあり、当日聞いて分からなかった部分を問いただしてきたので、それを含めて土方巽の自分の感じている本質的な部分を数行にまとめてメールすることにした。

土方巽とは舞踏発足前後の1950年代後半と、1967年の草月ホールでのアルトー館公演『ゲスラー/テル群論』のときにのみ直接関わっただけで、あとは大野一雄・慶人親子を通じての間接的な間柄だった。だが、彼の没後、長い間を置いて元藤燁子さんから依頼を受けて、アスベスト館の“アイコン”という教室のプラグラム作成に参加し、また実際にクラスを持って教えもした。これは“アイコン”の後半期に当たり、約5年ほどの期間だった。ところが、事情があって突然アスベスト館を売却し、閉館する羽目になったのである。そして、これまでの繋がりからアスベストの最後のお別れ公演『江戸マンダラ』の演出を私が受け持つた、という経過も持つ。

元藤燁子夫人はアスベスト閉館後も、若い舞踏家たちとエネルギッシュに関西や富山まで飛び回っていたが、残念なことに銀座資生堂ビルの中の新しいホール開設記念での連続出演中に突然この世を去った。その5日ほど前電話があり、踊りのことを熱心に語って、ぜひ公演を観に来てください、と進められていた。前日、遅くまでウイスキーを飲み、そのまま床に就いたのが永遠の眠りとなった。