Friday, August 26, 2016

鵜飼さんに(3)




鵜飼さんに(3)

 黒田喜夫氏の詩「ハンガリアの笑い」の、1956年の「ハンガリア事件」から68年の「五月革命」に至るまでの経過について、この3回のブログで私の触れた文化と芸術の様相を、私の拙い文章ながら鵜飼さんといっしょに考えてみようと思ったのですが、それはとても無理なことであることに気付かされてしまいました。そこで私としては別の観点からこの時代の流れを観察してみることに方針を変えました。

 私はあの「日本の68年」の頃を振り返ってみたのですが、それは確かにあの頃の「反体制の空気の中でも、あの“68年”という年はその前後の継続された時間の中でも、“切迫した息苦しさ”を感じさせられた記憶を呼び起こされました。
 そこで居たたまらず、私は書棚の中から、ちくま文庫の高野慎三の『つげ義春1968』を取りだしてみたのです。そして、つげ義春のあの傑作「ねじ式」が1968年に、この本の著者高野慎三氏のすすめによって作られ、その時の時代の空気が発想の元になっていることと、なんとそれが戦後作家の埴谷雄高氏あたりからの影響と繋がっているようなのです。

 このような日本の伝統的なこころの連結の道がまだあって、しかも、あの“68年”という特別な時機に触れてこそ、つげ義春という特異な頭脳を借りて表出できたのでしょう。
 それが、70年代に入ると石油ショックのあおりもあって、政府の対策のもとに、東京都は利益誘導の政策をとらざるを得ず、また大阪は大阪万博の旗印のもと、すべてが前方に向うことのみを考え、浮かれ気味でいる時、政府と経済界は共に再開発の道を選んで保守と資本の態勢を築くため「システム」という目に見えない欺瞞の手法を演じ、芸術家はテクノロジーと予算の拡大を目前にして、68年当時まで保持していたあの芸術家の心をいつの間にか失ってしまった感がするのです。それが1975年以降の、あのポストモダンの風潮だったのでしょう。

 それでは、前述した68年のフランス座における、バローとイギリスのピーター・ブルックが共同主催し、計らずもあの騒乱の渦中に投げ込まれた「諸国民演劇祭」の企画はどのようなものであったのでしょうか。
 ピーター・ブルック自身はまだイギリスの本国に留まっていて、シェクスピアの作品にに対しては、ピーター・ブルック自身も、ヘルダーが考えていたようなものがあり、ソフォクレスがギリシャ劇に対していたのと同じように、その時代を丸ごと形象化した古典劇として尊重し、その中でのピーター・ブルック自身の演出力を発揮することを望んでいたのでしょうし、一方の事件の直前に仕事を終了したばかりの日本の能と歌舞伎と文楽については、からだと声の技術訓練の点から観て、バローにとっては現代演劇の前衛グループであるグロトフスキやバルバや、裏切りを行うことになったアメリカのリビングシアターなどと同等に“実験演劇”としてもそれらを捉えていたような気がします。

 ここで私は、かっての絶対演劇と演劇批評家の西堂行人との対立のことを思いおこすのですが、豊島さんの絶対演劇が、ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』を上演するばあに、シェイクスピアの『ハムレット』を読む必要はなく、西堂行人のばあいにはシェイクスピアの『ハムレット』を先ずその前提として読む必要がある、という対立があったのでした。
 ここで豊島氏と絶対演劇のグループと西堂行人側とが袂を分かつことになったのですが、このバローとイギリスのピーター・ブルックが共同主催した「諸国民演劇祭」は、それと同じような問題を抱えていたことになるのです。

 しかし、私の判断としては、の当時の世界的な人気は、このばあい、共催側に立つていたイギリスのピーター・ブルックは別として、社会的には恵まれ過ぎていたのです。それにバローが現在立つ地位そのものが国立劇場のディレクターであり、それに体質的に見たばあい、
日本の能、歌舞伎、文楽は前衛というよりも伝統芸能なのであり、どちらかというと革命の対象にされかねない立ち場にいるのです。

 バローにすれば時の文化相であったマルローに依頼されてその任に就いて努力して来たのに、この場になって見捨てられ、犠牲にされたと嘆いているのですが、相手の文化相のマルローは、日本の歌舞伎に出て来る、人気役の「善にも強く、悪にも強い“河内山宗俊”」のような人間だから諦める他はないのです。

 さて、最後にこの問題のマルローのことについて書いた、ジャン=フランソワ・リオタールの『聞こえない部屋 マルローの反美学』について触れたい。そして、ついでに鵜飼氏がこの“五月革命”を最初に引き起こしたパリ大学第八で教わったデリダの現象学と、デリダが晩年に深く関わるジャン=リュック・ナンシーについても若干触れたい。

 まず最初にリオタールの『聞こえない部屋 マルローの反美学』の翻訳者である北山研二氏の「訳者あとがき」の中から次ぎの文を拾ってみました。
 
 「アルトーの声、マルローの声は聴取不能な金切り声のような高音である。自己は金切り声から自己が自己でないことを知る。そのとき、聴取することに、自己に内在する潜在的な超出性が解き放たれるのである。耳のための声を聞く自己と、喉から出る鋭い鳴き声を聴く自己=のない=私とは同じではない。
 金切り声は声音でもパロルでもない。モダンの大きな声の対位法は限界にきている。残るは、声の出ない怪物つまり存在することそのものなのである。瀕死の自己、ある匿名の私が不易な夜に触れる、一瞬のあいだ。断末魔で、抱き合う、耳が聞こえなくなる、ひとかたまりになる、ひとつの喉になる。物語りが忘れられ、神も人間中心主義もなく、不安が喉によって聴かれるのだ。

 芸術作品もまた絶対的な孤独という孤独を交換させる。バルトならば、写真にプンクトゥムつまり息子の魂を砕くものを見て取り、そのことでエクリチュールが現前するが、バタイユならば共有つまり分割を願いながら、非共有つまり非分割を貼り合わせる。聞き取れないものの伝染病(アルトーならば、ペストと言う)の上には、制度はない。「未聞のものは、行ったり来たりして、偶然任せで、しかじかの作品に出現する。マルローの想像美術館にあってさえも、どんな作品といえども、金切り声の責め苦に同意するような耳に出会うことを保証しはしない。特異なものは、交換されることも聴かれることも出来ないかぎりでしか、融合しないのだ。如何なる弁証法も統一体の中に多様なものを読みとれない。
 
 人々が語を使って、「肉体」の感じうるものを使って、空っぽの気管をいくつもつくる。その気管の中で沈黙が震えるだろうから。文体=様式は、聴取不可能なものを集める小箱をつくる。それが聞こえない部屋=無響室である。つまり声を失っているかもしれないし、あるいは少し声が漏れて来る彼方が、一瞬、喉に触れはするが、この喉を隠蔽するかぎりで、何ものでもないものに従って鋳造された鋳型が開くような、ほとんど聞こえないものを待ち伏せする喉の窪みが、聞こえない部屋=無響室のことなのである。」 

 ここまでよく解説してあるものを、さらに解説する必要があるのだろうか。そもそも題名の『聞こえない部屋』というのは、「聞こえているような聞こえていないような部屋」なので、つまりマルローの身体はバローの悲鳴が聞こえているような、聞こえていないようなボックスなのである。
 これらはカントの『純粋理性批判』と同じように表徴としての図式によるものです。アルトーの喉の“天突”と後方の背骨の”大椎”とを結ぶ動物の四つ足の時代の線と、直立した場合、人間の頭部がつくる線とが90度の差を生じたことを証明する、人類が四つ足の段階からホモサピーエンスの直立した時代に起した90度の差の変化から生じたもので、人間の五官の統一は左右の耳の斜め上のあたりに微かな響きとして聴こえるか聞こえないかの振動によって行われているのです。
 これらは前のシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』のばあいに、重力と恩寵とがからだとどのように関係しているかの構図を図式的に表徴していたのと同じことで、それは、カントの『純粋理性批判』以来、使用されている同じ手法なのです。


 さて、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に出版した本は、白水社の「文庫クセジュ」に『現象学』の題名で高橋充昭氏によって翻訳されている。内容がとても良く出来た本で、メルロー・ポンティのこともよく理解できる。そして最初にフサールが狙った“現象”という研究の対称範囲が、それがハイデッカーを経てサルトル、メルロー・ポンティからデリダにまで至る経過がとてもよく理解できるのです。
 そして、その長い道のりの果てに、デリダの現象学がジャン=リュック・ナンシーに遭遇することになるのです。

 私がいま、手にしている水声社が発行している月刊誌の「水声通信」ですが、「ジャン=リュック・ナンシー」の特集号で、2006年8月発行のものである。ちょうどジャン=リュック・ナンシーが来日した時に合わせて出版されたもので、ジャック・デリダとジャン=リュック・ナンシーの対談が掲載されているほかに、来日したジャン=リュック・ナンシーを囲んでの錚々たるメンバーとのシンポジュムの記録が掲載されているのです。
 そして、それがいかにも大仰なタイトルの「無ー無神論」なのです。
 そもそも、このようなタイトルは個人の哲学論としてはあり得るのででしょうが、「空」とか「無」というテーマは、討論の場のテーマとして掲げるのは結果として無意味な混乱を招きかねない。
 しかし、それをジャン=リュック・ナンシー氏は混乱のないように上手に裁いてみせたのは流石の腕だと感心したのですが、最後に鵜飼さんにバトンが渡された時、鵜飼さんは次ぎのように語り始めたのです。

 「私は、自分の発表が、とても栄養価の高い食事の後に出されるちょっとしたデザートのようなものになるように願っています。実に詳細にわたる紹介、きわめて内容豊富な三の発表があり、これに続くジャン=リュック・ナンシーの応答はそのいづれもが発表内容をただたんに解明するだけでなく、新たな展開をもたらすものでした。
 ジャン=リュック・ナンシーのテキストを読み、また、その発表を聞き、その声に耳を傾けることは、私にとってつねに大きな喜びです。前回、私があなたの話を聴く機会を得たのは、昨年、十月、高等師範学校のデュサンヌ・ホールでのことでした。ジャック・デリダの1周忌に、フランス哲学者による共同のオマージュという形で彼に捧げられたコロックのときです。あの日---------それは郊外で若者の反乱が始まる数日前のことでもありました-----、あなたは、デリダとドゥルーズをパラレルにとり上げ、意味、差異、政治的なもの等々の主題に沿って並外れた読解を聞かせてくれました。
 
 ところで、その前に私があなたの発表を聞いたのは、2002年7月、スリジー・ラ・サールでの「来るべき民主主義」コロックの一環としてでした。あの別の日にあなたはわたしたちの前で「人民
(peuple)」について語りました。私たちの前にはたしかにジャック・デリダがいて、あなたの言葉に耳を傾け、忘れられない仕方で反応していました。あの日、あなたが行った発表のタイトルを私は引用することはできないのですが、それがタイトルが楽譜だからです。出版されたあなたの論考の冒頭部分を引用しておきますと、「発表の最初に『出陣の歌』[エティエンヌ=ニコラ・メユールによるフランス革命期によるフランス革命期の愛国歌]の一節が聞かれた]とあります。
 つまり、あなたは発言するというより歌うことから始めたのでした。私は引用するだけにとどめて歌うことは差し控えますが、「ラーファーミーレードーシードーレーシーソーソー。「至高なる人民が前進する」というように。--------------------------------------------
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 鵜飼さんという学者は、単に学者に留まらず、つねに世界の闘争の直中にあって、発言し、しかもバタイユやジュネのような、内向的な作家にも耳を傾けると同時に、黒田喜夫のような貴重な反抗心のある作家も歴史に埋没しないように、丁寧に拾いあげる方のようです。
 結局、シモーヌ・ヴェイユやハンナ・アーレントのような芯の強い人があってこそ、歴史は後で救われるのです。

 豊島重之さんが企画されるこの貴重な会が、今度の鵜飼さんたちの発言によって眞に日本が救われる気運に向うようになってくれることを願ってこのブログに当たり。以上ブログ上で3回、応援歌を歌わせてもらいました。

Friday, August 19, 2016

鵜飼さんに(2)


 
     “五 月 革 命” と称されるもの

 1968年の“五月革命”を、ポスト ボダンを起した現象としてだけでなく、もっとおおきな近代のモダニティの視野の中で捉えてゆくためには、北山研二氏が翻訳し、「訳者あとがき」も付されている、ジャン=フランソワ・リオタール著の『聞こえない部屋 マルローの美学』(水声社)を参考にすべきだ、と私は考えたのです.。
 
 それに、このリオタール氏はあのポスト・モダンの時代に『ポスト・モダンの条件』という書物を出版し、当時の討論テーマの中心的な役割を演じたのですが、氏はこの5月事件の翌年の1969年に、パリ大学文学部のソルボンネの講師として入り、その後68年に最初に事件を起したパリ第八大学に移動している。このあたりが如何にもパリの知識階層が“五月革命”なるものを起したかの印象を与える。

 そして、この“革命” と称される騒乱によってフランス座を不当にも占拠され、汚名を受けることになり、結果として、ドゴールとマルローの戦略のため犠牲になったジャン=ルイ・バローは、氏の自伝『明日への贈物』石沢秀二訳(新潮社)の中で、この事件のパリ市内での暴動の経過を語り、ついでフランス座に中心部部が乱入した経過を述べながら、“革命”と称するものが、いかに本質的なものが隠され、結局、当面する事態は不満のあまり暴れたいだけの学生の空騒ぎに終り、しかし歴史的にはいかにも思想家が時代を動かしたかのような印象を残し、それを革命と称することに対する参考人としてこの2冊の本を取り上げます。

 また事件の検証と同時に、これを今こそ、モダニティーぜんたいから捉え直す必要があり、それには、あの『ポスト・モダンの条件』の著者で、しかもこの“五月革命”に応じた当事者のマルローのことを書いてあるリオタールこそ、ポストモダンからというより、もっと幅の広いモダニティぜんたいから捉えるばあい、最適人者であると思います。
 
 この本の訳者は北山研二氏で、載せられてある氏の「訳者あとがき」の文は、訳者の域を脱して5月革命の現場を訳者の側から作者を透視している感があるのです。と言うことは書いているリオタールと書かれているマルローを、その時代といっしょに訳者の眼で重ねて見ているのです。
 これこそ、ベンヤミンの言う“翻訳”の役割というのは、こういうことなのでしょう。そして大事なことは、歴史を書くものは、さらにそれを訳す者はヘルダーのように歴史哲学者の眼がなければいけない、ということです。
 
 しかもこの“五月事件”のようなものを、仕掛ける者が構想をもって演じるばあいには、モダニティのドイツロマン派の巨匠であるフリードリッシュ・シュレーゲルが「アテネーウム」の“断片”で、次ぎのように言っているのです。  
 「構想(プロジェクト)とは、生成の途上にある客体の主観的萌芽である。完全なる構想とは、したがって同時にまったく主観的にしてまったく客観的でなければならないだろう。生きた不可分の個体でなければならないだろう。その成立ちからすればまったく主観的かつ独創的であり、まさしくこの構想の精神においてのみ可能なものである。」

 結局、歴史というものは真実を書かれてこそ歴史なので、物語とちがって、現実の過去に動いていた歴史の上での主観と客体とが合一しなければいけないのですが、それには主観が客観的に歴史を観る眼といっしょに、その歴史家が哲学を保持していなければいけないわけです。

 この5月革命に対してドゴールは「事態は流動的で補足し難い」と述べて、その参謀のマルローとともに身を隠している。ただし、ハンガリアの場合とちがって軍隊を派遣しなかった。また、警察隊も最初は様子を見て出動させなかった。
 そして他方のカルチエ・ラタンのパリ大学文学部のソルボンヌ中心に集結した群衆は、自然的な流れとしてその近くのリュクサンブルグ公園をめざすのは当然で、その北端にある国立フランス座が、暴動を起した前衛部が会合する場所として、また相手、政府側と交渉する場として用意するのに適当なことは誰でも気付くことで、しかし、これは予め予定していた計画ではなかったようで、事の偶然的な成り行きで、群衆のデモ隊が偶然のきっかけでバローが統治するフランス座に向って乱入し、そこを革命側の本拠とすることになったのです。
 このバローのフランス座は、通称オデオン座と称され、第2国立劇場なのです。第1国立劇場は右岸にあるコメディ フランセーズ座です。
 
 レヴィ=ストロースの『野生の思考』の、彼の言わんとする「無文字民族」の本当の姿が一般に理解されるのは、トロント大学から『神話と意味』が1978年に英語で出版されてからです。しかし、それは “68年”から10年も後のことなのです。また、あれほど社会的に盛りあがったフーコーの主張する思想の意味も同じことなのでしょう。
 そして、ポストモダンの眞の思想の流れとは別に、この“68年”の騒乱は、日本の場合と同じように大学生の当局にたいする不満から発したものだったのです。それが、いちばん痛い目に合って、マルローの犠牲になったのがフランス座のジャン=ルイ・バローだったのです。


 バローは次ぎのように語っています。
 「マルローはテアトル ド フランス創立を私たちに要請した。ドゴール主義は人間的であり、進歩的であった。それは反植民地主義、民族主義、婦人参政権、フランス解放のドゴール主義であった。九年間、文学、劇芸術のジャンルにおいて愉しみが排除された一種の<貯蔵物(たくわえ)>を創造することができた。
 
 同様に、私たちに変化のあるいろいろな<生息相を持つ動物圏>に近づき、それらに沿いながら進むことができた。クローデルージュネーベケットーモリエールーイョネスコーラシーヌーデュラスーナタリー・サロートという作家たち、ブランーベジャーループールセリエーラヴェルリという演出家たち、ビェドゥーシェアーデーヴォーチェという若い作家たち、等々の動物圏である。すべて自由な生命たち。狩猟探検隊を組織できるほどだ。
 
 それに加えて諸国民演劇祭がある。シェイクスピアの偉大な演劇伝統と能・歌舞伎・文楽という極東の演劇伝統と現代の再先端を行くグロトフスキー、リビングシアター、バルバの実験劇とが一堂に出会ったのだ。そして本年諸国民演劇研究国際センターが更に加わる。法律で公認された狩猟者たちが再び姿を表わすだけでなく、若い密猟者たちが自分のパチンコでこれらの野獣たちを狙ってくるのももっともだ。
 教訓。<貯蔵>は終った。再び森に戻る。無念!今回の私は五十八歳。これからの生活が難しくなるに違いない。私たちはゼロからの出発となる。」
 劇場内の乱入と破壊の跡での、バロー独りの悲愴なつぶやきである。 
 
 ちょど折り良くと言うか、また折り悪くと言うべきか、上の諸国民演劇祭のプログラムの日本の伝統芸能の公園が終った時で、あとはアメリカのリビングシアターの公演が控えていたのだが、どうも占拠された劇場内の様子から観ると、この動きの先端を従事っている学生蓮と知らぬ間にリビングシアターのメンバーが同調し、バローを裏切ることになったようなのです。現に、このリビングシアターのメンバーがその後、ジャン・ヴィラールの民衆劇場が主催するアヴィニヨンのフェスティバルに乱入しているのです。

 「私はこの歴史的事件におけるオデオン座の役割が何であるかを理解し出した。政府はゲイ=リュサック街の批難された夜を考慮して、もはや五月十五日の夜は、警察を行動させようとは考えず、犬の骨を投げ与えるごとく、オデオン座を占拠させるに任せたのだ。そしてオデオン座は固まる膿となった。こうしてアカデミーや上院、ルーブル、国営放送局が難を免れたのだ。警察はやがて慎重に姿を再び表わし、間もなく救いの神となるであろう。オデオン座を実際に占拠している者たちはーーー。<彼らは自分から退去するだろう>と言われていた。-------------------------六月十四日。ヘルメットをつけたフランス警察がオデオン座を包囲し、解放した。根城のソルボンヌ大学を追われていた<コンゴの黒人>学生たちは劇場の屋根裏に逃げこんでいたようだった。そこで警察は、彼らが<極悪な過激派>と呼ぶ者たちから<学生を保護する>義務があったわけだ。いつものように私が着いた午前中、作業が終りつつあった。劇場支配人は私に前もって通報しなかった。建物内には、もうそれほど多くの人々はいなかった。いずれにしろ学生たちはもう殆どいなかった。警視総監(今回の事件の間、警察はひじょうに人間的に振る舞ったように私は思う)の立ち合いの下で簡単な儀式があったのち-------総監の背後には、文化相の2人の役人がいた-------、秩序は回復された。」


 ここでこの“五月革命”なるものの動きの断層と、これが過ぎた後の歴史的な精算が必要なのでしょう。
 バローの場合でいうと、演劇というジャンルをギリシャ劇から日本の能にはじまり、現代劇の前衛的なものまで含めて研究を進めている。
 この後、それまで雲隠れしていた文化相のマルローが、テアトル フランスを動乱者に自分から開け渡したという理由でバローを辞職させている。 
 結局、この“五月革命”の後の選挙では、ドゴールとマルローが勝利し、左翼が政権を勝ち執るのは1981年まで待つことになるのです。

 次ぎは、アンドレ・マルローとフランソワ・リオタールの厄介な問題です。それに68年の問題もここまで来るとモダニティにまで幅を拡げざるを得なくなります。


Thursday, August 18, 2016

鵜飼さんに(1)




    1956年の ハンガリア事件

 あの1956年のハンガリア事件というものは、いったい何だったろうか。
 フランス留学の2年を終えて日本に帰ったばかりの私が、あの事件の新聞記事を見たとき、そのまま力なく足下の畳に崩れ落ちた記憶は確かなことでした。
 ご存知のように1953年の3月にスターリンは亡くなります。そして6月には東ベルリンの労働者が暴動をおこしていますが、反乱はただちにソ連の戦車によって鎮圧されます。1956年までこれらの不安がつづくのですが、フルシチョフは二十回大会で、スターリン神話をあばき、それ迄のスターリン方針をゆるめることを約束したのです。
 が、すでに染み込んだ体質はそう簡単に変えられるものではなく、その戸惑いの中の当局に対してポーランド、ボズナニの労働者は、自分たちが社会主義の別の道を考えていることを訴えておりますが、そこまでは問題が起らなかったのです。
 
 しかし、その後中央部の方針が急に変わって強行な路線をとることに転じていたのです。そして、その経緯を知らなかったハンガリアが、今はその時とばかりに立ち上がった瞬間にかれらは粉砕されたわけです。そして全世界の人々はこの残酷な絞殺事件に大きなショックを受けたのです。
 それは、1917年10月以来の労働者階級の歴史の中で、最も重要な事件だったのです。これで社会主義の理念のために闘ってきた「正なる歴史」は消えてしまったのです。

 私がパリ滞在中は、「鉄のカーテン」もフルシチョフ時代になってからはようやく解かれるような気配が見えてきて、先に東ベルリンの「ブレヒト劇団」が2度も、パリの国際演劇フェスティバルに作品を提出し、絶大な賞賛を受けていたのにつづいてチェコ、ハンガリア、ルーマニアなど東欧の民族舞踊が相継いで招聘され、終演後は劇場前の広場で、お互いに距離を置きながらも和やかな親和の情を見せ合い、この久しぶりの接触を互いにまだ信じきれない様子でした。それがこの無惨な労働者を殺戮するハンガリア事件を突然、起こしたのです。

 当時、私は黒田喜夫という詩人になぜか共感を覚えていて、豊島重之、鴻英良、粉川哲夫、ヒグマ春夫、池田一らの諸氏といっしょに福島県の奥地にある桧枝岐(ヒノエマタ)という平家村でパフォーマンス活動を起したときには、黒田氏の詩の中にある、緊迫したその精神性に強く心を打たれるものがあり、彼の詩を愛読しておりましたが、彼の詩集の中に「ハンガリアの笑い」という、このハンガリア事件を対象にした詩がありましが、私と同じように、いや私とは違って政治運動に直接関わっていた黒田氏のこの詩を読んで、私があの畳の上に崩れ落ちた日を思い起こしながら、この黒田氏の「ハンガリアの笑い」の底意を探った記憶があります。

 この黒田氏の詩を愛読していた時期は、前述した84年からのヒノエマタ・ フェスをはじめる前のことで、ちょうどその頃、バタイユとシモーヌ・ヴェーユなどを読んでいたのですが、私は考えるところがあって、みすずや筑摩や角川、それに美術出版社などの製本を行っている製本所に工員として朝8時から残業を含めて夜の8時迄、“丁合”の部門で職工として働いていました。勤めたのが5年間だけですが、角川書店の書道辞典があまりにも重過ぎて、その時に腰を痛めて悩んでいた時にシュウ ウエムラに誘われ、彼の会社の企画と芸術顧問を兼ねる仕事を引き受けることになったのです。

 あのバタイユがもっとも恐れていたのは、シモーヌ・ヴェーユという女性でした。彼女はスペイン内線時には、人民戦線側について戦っていたのですが、ジャンヌ ダルクの再来のようなイメージを周囲に与えていたのでした。しかし病弱のため1943年に死亡。マルセーユで保養中に親交のあったペラン神父によって彼女の遺稿が『重力と恩寵』という題名で出版され、反響を呼びます。
 彼女が言う“重力”というのは、人間としてこの世に生まれたからにはだれでも体内に背負う重力、東洋の「般若心経」で解釈すれば、それは“五蘊”なのです。

 “五蘊”とは「色・受・想・行・識」で、“色”は肉体、“受”は感覚、“想”は想念、“行”は意志、“識”は心です。人間はこの世に生まれて。体内の「重力」のように悩み続けるのは、この五蘊のためです。
 シモーヌ・ヴェーユはこの重力を消して体内を真空にしなければいけない、と考えた。そして、その真空となったからだの中に、神が「恩寵」として上から“霊”を吹き込んでくれると魂が生じる。
 
 これを東洋の“五神”の身体観でいうと、次ぎのようになる。
 神の霊が人間の背後から肝臓に入りこんだものを“魂”と呼ぶ。ついでこの“魂”が五臟を統一する心臓に移動すると“精神”となる。また、この“魂”が人間の骨まで染み込んだものを“魂魄(こんぱく)の”魄(はく)”という。
 そして、人間が亡くなる時に人魂(ひとだま)は躰から抜け出し、しばらくは自分の死体の周り人たちの嘆き悲しむ人たちの様子を上部から観察している。そして屍体がそのまま土葬された場合には、燐となって地上に浮きだす。それが魄で、部首の“へん”の白は、死者の頭蓋骨を示す。
 また、脾臓は“意(い)”を表わし、腎臓は志(こころざし)を意味し、二つ合わせると“意志”となる。こうして神の霊から“五神”となって人間のからだと結びつく。このようにしてからだの真空は神によって埋められる。
 これが仏教の場合は、人間はだれでも体内に仏性を持っていて、それを修行によって浮き出させればいいことになっている。
 
 鵜飼さんの略歴を拝見しますと、パリに留学されたのはちょうど1984年から1988年ですね。そして1981年の5月10日に社会党のフランソワ・ミッテランが大統領に選ばれ、それからのパリの雰囲気というのは以前とはがらりと変わりました。
 たとえば、以前は、英語を話すのを恥としたフランス人がみんな得意になって英語を話している。私から観ると魂を売ったフランス人ばかりのように見えるのですが、まだフランスにはブルデューとか、ル・クレジオのような人が残っています。

 そして、鵜飼さんがパリに留学された1984年から1988年というのは、私もシュウ ウエムラの店の仕事、ショーの演出の仕事、ジャパン フェスティバルや日本のパフォーマーの公演などで、この館、続けて滞在していたわけではないけど、間を縫ってこの時代のフランスのことは経験しているのです。しかし、私の場合はヨーロッパにはその後まったく行っておりません。

 さて、次ぎの本題は、このハンガリア事件と連結した「68年の革命」に入って行かないといけないのですが、鵜飼さんが通われたパリ大学第8というのは、この68年の事件にさいしょに問題を起したところなんですね。しかし、鵜飼さんがパリに留学されたのは1984年のようですが、遠い過去のことではなく、何かその名残りというものがありましたでしょうか。

 私はこの世界的な1968年の問題というものは、日本の68年もそうなんですが、フランスの68年の問題というのは、なかなか複雑で分り難い。結局大学の問題から事が起って、それが共産党とからんで複雑な問題を起していただけでなく、フランスの場合はその上、知識人という政治に五月蝿い階級があってさらに混乱を招いており、さらに、その判断となると時代が移るごとにその価値判断が代わってくるのです。そういう意味ではフランスの68年問題はいまだに尾を引いているようです。
 たとえば、フーコーとレヴィ・ストロースのばあいにしても、あの騒ぎのためにもっと問題にすべき大きなものが取り残されているようです。


Tuesday, August 09, 2016

アルトー館公演


根本さんに

  ジョン・ケージ と 高橋悠治 


 この9月のアルトー公演は、考えてみると今年の正月の根本忍さんの来宅から始まったようです。根本さんはその時、高橋悠治氏が書いたもののコピーをたくさん抱えこんで来ました。それに加えて、メシアンの「鳥のカタログ+庭虫喰」についてのコピーも大部なもので、その中にはメシアンとケージが対面した時の写真も載っていました。
 メシアンはかって来日したことがあり、日本の高橋悠治氏や武満徹氏とのその時の交流はたいへん印象的なものだったようです。根本さんはこれらの音楽家に触れながら話している内に、彼が言いたいことが少しづつ私に分って来ました。
 つまり、高橋悠治氏が現在悩み求めているものと、武満徹氏が文化人類学者の川田順造氏と共同研究しているのとが同じものである筈はないのですが、音の根源的な方向の問題に当たっていることは確かなのです。

 根本さんはわれわれが “龍安寺”の石庭をテーマにしていることに興味を持ってくれたようで、さっそくジョン・ケージの “龍安寺”の石庭をテーマに作曲した作品を持って来てくれ、また、それにつづいて細密な音の傾向のものを沢山用意してくれました。
 根本さんは、その後イナーヤト・ハーンの『音の神秘』を贈呈してくれたことなどを考えると、何かが既に彼のなかで、この9月公演に向って、事が進んでいたようです。

 そして、“無”という大きなテーマが、われわれに提示されることになり、それをこの“龍安寺”の石庭のテーマに当て嵌め、禅宗の修行によってこの石庭が提案している問題を解くことがわれわれに課せられたのです。それにはわれわれは先ず「般若心経」と「華厳経」に当たり、大乗起信論を仲立ちにして「大悲」の道に至ると同時に、われわれが念願とする「霊性」に触れ、それにより内部と外部との境界を越える“自在”の域に達することができればと思うのです。

 以下に、根本さんが持参した高橋悠治氏の文章を掲示します。


   断片から種子へ
    高橋悠治

要素から全体を構成する あるいは全体を分析して構成要素にたどりつく このやりかたでは 全体は閉じている 範囲が限られ 細部までコントロールされた一つの構成は 予測をこえないし 発見の悦びがない

ひらかれた全体を異質な断片の組合わせ構成するやりかたもある 1960年代にヨーロッパで「管理された偶然」と言っていた音楽のスタイル その時代には 図形音譜のさまざまなくふうもあった でも 組み合わされた全体が 紙の上に見えているなら どんな順序で断片をひらいてあげても 全体の枠の外には出られないだろう

「断片」はこわれた全体の一部を指すことばだから 創造のプロセスが停まらないようにしたければ 「断片」をつぎあわせるのは いいやりかたではないかもしれない 異質なものが出会うコラージュには衝撃力がる 絵なら 画面の上で自由に視線をさまよわせることができるが 音楽ではそうはいかない

音の流れには方向がある それまでのできごとの残した記憶は消えない できごとの時間順序を変えると 結果はおなじではない 後に起こったことが近く感じられて 先に起こ ったことの効果に影響する 音楽では コラージュは 絵のような効果はもちにくい

すぎてゆく時間のなかをと通りすぎて音は 響きの痕跡が記憶のなかで一つの瞬間と感じれる それをメロディーといってもよいだろう メロディーが完結することはない 音は呼吸で区切られるが その長さはさまざま 余韻でのあり 予感でもある 瞬間のなかの音は この区切りの中なかで 作り変えることもできるが 音楽は立ち止らない 練習するときは どこかで立ち止って ちがうやりかたをためすが いつまでもこだわっていると 決まった手順のくりかえしになってしまう 作曲するときも 細部へのこだわりと先へすすむ流れとの両方を考えて作業をつづける そのバランスをとるのがむつかしい

 
ウィリアム・ブレイクの「虎」をきっかけにピアノ曲を書く 日本語に訳してみると 詩はこわれる リズムや響きは別のものに置き換わり ことばの意味もずれて行く それで も音楽をはじめるきっかけにはなる その音楽は いったんはじまると ブレイクからも虎からもどんどん遠くなる

      虎   ウィリアム・ブレイク

 虎 虎 らんらんと
 夜の森に燃える
 なにが 不滅の手と眼で
 おそるべきつりあいをかたどったか?

 はてしない深み はるかな高みに 
 眼は炎と燃えたか?
 はばたく翼はなに?
 炎をつかものはだれ?

 力と技はどのように
 燃り合わせたか
 心臓が波打つと 
 なんとすごい手 すごい足

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ゆったりと呼吸でき うごきまわれる空間があれば あの読めない流れのなかでひらけた
空間に いままで見えなかったものが現れ 見えていたののが隠れる メロディーが自然
に移りかわり ただすぎていくあかりだった時間のなかにも めぐるながら変化する季節の風景が浮かぶ 作曲や作品の演奏だけでなく 即興でも ありきたりのパターンのくりかえしや組み換えだけでなく 流れのなかに移ろうかたち」が見え隠れするのが感じられるかもしれない 音楽家はもともと音楽の三つの」やるかた 即興と作曲と演奏のあいだを行き来するあそびができる人たちだった

種子を風がばらまくと そのうちに隠れていた花があらわれる 待つ時間は 何も起こらなくても たいくつはしない 音楽を選んでいくのは 音だけでではない 沈黙もたえずうごいている

時間順序のなかで 不ぞろいでそれぞれの顔を持った習慣をどうやって折り合いをつけるのか

Monday, August 08, 2016

アルトー館公演



宮田 さんに

     形而上学 のこと

宮田さんとは今年のはじめ頃から、われわれが主題としているポストモダン以後の今後のわれわれアーティストに課される任務のことを話し合っていたのでしたが。ある日、とつぜん当面する芸術、文化とは直接的でない、遠く離れた感のある、カントと形而上学の問題を持ち出されたり、あるいはこれも唐突に、ヘーゲル全集を購入し読みはじめたと聴くと、なにか50年ほど前の自分に引きもどされた感じがして、戸惑いを感じたのです。
でも、考えてみると、現在のわれわれとしては、なにか根こそぎ自分を持ってゆかれた感じで、良い意味ではそれが、日本の伝統的な主題である“無”とか“空”とかを考えさせる、ちょうどその時期にわれわれは立たされているのだとあらためて思い返すのでした。
それ故にわれわれは今になって、「般若心経」とか「華厳宗」などに本格的に立ち向かっているのでしょう。

そういえば、美術専門の宮田さんは同じく美術専門の北山研二さんと現代の美術状況についてお互いに鋭い観点から話し合っていたのを、先日傍らで聞いていたのですが、視覚による認知にしろ、音に対して細密な関わりを求めている音楽家の高橋悠治氏や武満徹氏なども、その自然にたいする態度も、今は分析的な構成で行くか、スピリチュアルな態度で当たるかの2つの道のどちらかを選ぶほかないのでしょう。
考えて見ると、いづれにしろ、この分子力学、量子力学の時代に入ってからは、細密な関係からものを見て、感じてゆくほかはなく、これまでとは別の世界に踏み込むことになっており、その境目をどう繋いで行くかが新たなテーマとして生まれて来てもいるのです。

さて、私自身を振り還れば、やはり宮田さんと同じように、急に押し入れの奥から井筒俊彦氏の『神秘哲学ー第一部 自然神秘主義とギリシャ』(人文書院)を探し出し、あらためて再読し始めたり、これもまた稀覯本ですが、かっての富山房百科文庫のFr・シュレーゲルの『ロマン派文学論』とか、シラーの『美学芸術論集』を読み出しているのです。
そして、さらに急激に、ハイデッカーとの討論で打ち負かされたというより、当時の時代風潮に追われた感のあるカッシラーの『人間』とか、同じ象徴主義の、これも岩波書店から出版されているランガーの『シンボルの哲学』なども新鮮な感覚であらためて再読するということは、近来の大脳科学の発達によって「再現芸術 ルプレザンタシオン」というものが、どのような大脳の経過で行われているかが分ってきて、その脳内の経過を跳び越えて独断で判断きない時代になったからでしょう。

しかし、宮田さんのしろ私にしろ、これらの歴史を読み直してゆくような行為をはじめたということは、時代の変わり目として無意識に要求されている結果なのでしょうし、これほどまでに“無”の実感を感じさせられる時代はなかったのです。歴史を振り返るとしても、戦後70年どころか、江戸時代も室町時代も遡って、いきなり神話の時代に入ろうとしているのです。
そして、レヴイ・ストロースという偉大な文化人類学者のことを思いおこすのです。レヴイ・ストロース原住民と同じように「霊性」で語るのです。われわれは彼の忠告に従って、すでに失っている、その本質なものを心の底から蘇らせなくてはいけないのです。


ここで、最初のカントのことに戻りますが、当時のケーニヒスベルクにはカントより先輩で、「北方魔術師」と呼ばれたハーマンという天才的な人物がいて、カントはその先輩のハーマンを誘い込もうとしたのですが、肯んじなかったようです。
そして、此のハーマンにヘルダーが学び、ヘルダーがゲーテをつくり、ゲーテとシラーの後には、Fr・シュレーゲルの『ロマン派文学論』が出現するわけです。
なかでも、ヘルダーの影響力は大きく、彼の古典ギリシャからシェイクスピアを含めた解釈論は素晴らしく、また彼はハイデッカーとは違って、世界と人間を解釈するのに、時間的なものだけでなく、空間的な風土を重んじており、その点では日本の哲学者の和辻哲郎氏は大いに影響を受けており、このあたりが、私の興味を多く惹くところです。


ついでに、先の富山房百科文庫のFr・シュレーゲルの『ロマン派文学論』の訳者である山本定祐氏の解題の最初の部分を以下に掲げておきましょう。
「十数年も前のことになるが、「美神の無常」という意味の表題をもった、ウラジミール・ウェイドレの、知的感興をそそるという点で類のない本(邦訳題名『芸術の運命』)を読んだことがあった。そのなかにロマン主義とは様式の死である」と喝破した文章があって、これは当時のわたしには事情がよくわからぬなりになかなかの卓見であるように思われた。
つまり現代文学が今も抱えこんでいるさざまの問題の根はロマン主義にあるわけだ、とわたしは考え、当時出版されはじめたばかりの校訂版フリードリッヒ・シュレーゲル全集を買って読みはじめた。

これがシュレーゲルとの長いつきあいの始まりで、いま彼の文学論を一冊にまとめるという仕事をしてみて、ウェイドレのこの論断は大筋においてまちがっていないし、むしろ問題のありかを見事に言いあてているとあらためて感じ入ることになった。

しかしながら、たとえば「カントは世界の方程式を主観の側から解き、ゲーテはそれを客観の側から解いた」というジンメルの名文句とおなじようなもので、ウェイドレの規定は問題を一刀両断にして颯爽たるところはあるけれども、それだけに錯綜した問題圏の全体が単純化されすぎてしまったきらいがないわけではない。ここに選び出したフリードリッヒ・シュレーゲルの文章から、そのあたりの消息がおわかりいただけるのではないかと思う。」



Wednesday, August 03, 2016

アルトー館公演



9月公演のテーマ

  龍安寺(りょうあんじ)の “石庭“ と
            人体による “動く彫刻”


このブログは結局、3日ほど休みましたが、今日からは新期に、これまでの資料収集だけの仕事とはべつに、いよいよ9月のアルトー館公演に向って、これらのテーマに対して出演者の皆さんは、忌憚なくご意見を述べていただきたい。

このキッド5Fでの公演は、昨年10月の公演と内容的には連結しています。昨年の公演は、空海と自然との関係をメインテーマに、ポストモダンの表層主義と資本主義への傾斜に対する反論から、われわれの新しい芸術への目標として「“認知”から“動き”へ」の方向性を結論として掲げましたが、それが今度の公演のテーマによって思いがけない広がりをみせることになるようです。

その上また、今年は昨年問題となったハイデッカーの『存在と時間』に対する和辻哲郎の「存在と空間」としての『風土』をも、問題として掲げましたが、今年もまた、和辻哲郎氏が尊敬するドイツの歴史哲学者で、かのゲーテに影響を与えたという伝説を持つヘルダーという人物に遭遇し、その驚くべき感性の鋭さと学識によって、ギリシャ悲劇とシェイクスピア劇との典型的な対比を教えられ、また彼の「彫刻論」からは、思いもかけぬ「皮膚」の「触覚」から広がる“空間意識”を提示されたのです。

更に、われわれは、昨年と同じテーマに別の角度から引き続いて当たる運命にあったのですが、それは昨年から残されていた「日本のアートの根源を歴史的にさぐろ」という宿題がまだ残っていたのです。

それで先ず、禅文化なるものを、これまで試みなかった角度から探ってみることから古代の未知の問題にまで遡ってみようというところまで皆の同意を得たのです。
それで、前述のヘルダーの暗示による「人体による動く彫刻」と対比的に、あの京都の龍安寺(りょうあんじ)の枯山水の“石庭“の“石”になったらどうかという発案が単なる“思い付き”でなくそれを終らせるための準備に私は励んでいたわけです。

そして、われわれはすべての根源から事をはじめなくてはいけない、という現実の問題に直面し、あらたに覚悟を決めざるを得なくなったのです。