Tuesday, January 13, 2009

豊島重之(1)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 ー1ー
 
 これは昨年11月9日に観た作品のことなのだから、今になってブログに書き込むなんて、おかしなことなのですが。
でも、これについてはすでに、公演あとに5日間に亘って書き済みで、「下書き」として保管してありました。しかし、
いろいろ考え過ぎて、そのままの状態で放って置きながら、何時も頭のどこかで気になっておりました。
 それが年末になって突然、高沢利栄さんから電話がありました。「いま、豊島重之といっしょに東京に出て来ていますが、会えないでしょうか」。宇野邦一さんの台本の、勅使川原三郎のシアターXでの公演のための上京の翌日のことでした。

 突然のことだったが、早速新宿の中村屋のカフェで待ち合わせることになった。在京中のご子息も一緒に見えて、そのあと場所を新宿南口の駅ビルの中の店に移動して、ビールを飲みながら話がつづいたのです。
 豊島氏はつねに、時間と地域性に追い込まれ、つねに性急に問題の核心に迫って討論しがちなのですが、すべてが散発的な私との場合はそうも行かないようで、結局まとまりの付かない話になってしまうのです。

 今になってはもう、その時に何を話したのか分からなくなってしまった状態なのですが、永いこと接触が途絶えていた豊島氏が今どのあたりに居て、ものを考えているかが朧げに分かってきたような気もするのです。
 あの3日間の公演の内容と、演劇論の「アフタートーク」については、私は1日だけの参加だったので、正直なところ了解しかねている部分もあるのですが、自分としては、直観として何が目的であのように作品が布石されていたかは推測できた積もりでいたし、その後八戸から送って来られた3枚の新聞批評コピーを参考にしながら、私なりの、あの作品をベースにしての、作品批評ならぬ豊島論を、このブログにおいて何回かにわたって展開して行きたいと思います。

 今日は、その導入部になるのですが、先ずその解析的な方向性を示しておきましょう。
 豊島重之氏は、これまで精神医学の立場を軸に、言語学とフランスの現代思想を方法手段としてやってきたのですが、時代の流れを観るのに聡い彼としては、現在注目されている脳科学の最前線と量子力学の新たな発見に目を向けはじめています。  
 しかも、決定的なことは、脳と身体との対比から、こころの定義を脳と身体からも拡張して捉えるようになったことでしょう。
 それは、おそらくドーキンスの生態学的アプローチの影響によるのかもしれないが、たとえばドーキンスが蜘蛛の巣が蜘蛛にとってそのまま、こころの表れとしての生活様態だとするならば、人間にとっての言語を手段としたウェブの世界も、さらに動きと言語を手段とした演劇も即、“こころ”の様態だということができる訳です。

 そして、それはまた一方で、人間と環境との繋がりを行為によって展開してゆくアフォーダンス(環境が生体に対して行為の可能性を提供する)の文脈でもあるのです。ここにおいて、“こころ”は脳の中に閉ざされた段階から、身体各部の内蔵に分散され、しかも環境への繋がりの行為として延長されてゆく。しかも、宇宙の“波動”と“光”がそれに及ぶときどうなるかを提示しているのです。

 さらに、これまでの“装置”を中心にした現象学的な手法から、パサージュ(通路)から文脈的な構造に変容させた演劇の構造体において、また一つ、氏によってその中心的なものを探るために文脈に対して工作がなされ、問題が提起される。
 空間と時間とがねじ曲げられ、したがって幾何学と代数学とが分離される。その時、はじめてこころが、生命がどの位置に閉じこけれれているのかが判明される、という仕掛けになっている。
 このあたりを、詳細にというより、漫談的にというか、渉猟してみようというのが私のこのブログの狙いです。

Saturday, June 21, 2008

シュウ ウエムラと大河内菊雄

シュウ ウエムラのほかに、一昨年、私はもう一人の親友、大河内菊雄を失っている。これもやはり癌による死亡だった。
今になって考えてみると、私はこの二人から人間の暖かさと、大きさを教えられたような気がする。二人とも家柄が良かったのだが、それだけでなく人柄の良さとその才能によってだった。
私を間に置いてこの二人は全く接触がなかったのは、大河内は社会に出ての出発時は、神奈川県立美術館の学芸員だったのだが、それから間もなく大阪に移転し、読売テレビから伊丹美術館の館長になり、そのまま関西に住み留まったからである。

ウエムラと始めて会ったのは、大河内が大阪に移転してからだった。
しかし、数年前のクラス会で、隣りに坐っていた大河内から思わぬことを知らされたのである。それは、シュウ ウエムラのメイクアップ コンテストとメイクショーの大阪公演では、私とウエムラの二人は千里の読売ホールが気に入っていて、よくそこを使っていたのだが、そのホールはじつに変わったホールだった。
歌舞伎の花道のよう二本の張り出し通路が付いているだけでなく、なんと舞台と客席が同じ広さなのである。ステージが広すぎるばあいは、必要によってそれを半分に区切ることは出来るのだが、こんな思い切った劇場はヨーロッパでも見たことがない。

「だれが、あんなものを考えたのだろう。劇場の事務所に訊いたら、ステージをテレビ撮影にも使用できるようにしたのです、と言っていたが、花道はモデルが歩けるだけでなく、テレビ・カメラがそのまま、同じ高さでステージまで進める。あれは素晴らしいホールだよ。」と隣りの大河内に話したらば、彼はぼそりと「あれはぼくが考えたんだ」と言ったのだ。

そのように、学生時代から大河内は意外な発想をする人だった。
彼の祖父は元東京帝国大学教授で、後に貴族院議員になった大河内正敏氏だ。理研こと、理科学研究所の所長を終戦時まで25年間務め、研究成果を産業につなぎ偉大な事業を成し遂げたことで知られている。

理研グループの最初の工場が、新潟県の柏崎に建てられた関係から、田中角栄が氏に近づけ、生涯の師と仰ぎ、彼の「列島改造論」の発想の元になった、といわれるが果して実質はそうだったのか。
物理、化学の科学者の研究集団であった理研は、研究した成果を産業化して60を越す大企業のコンツェルンを築いたのだが、今のベンチャー企業のように利益に向って暴走しないように歯止めをかけていたのだ。

一方、研究所本体の方は研究、人事、財政に自由を与え、事業とは一線を劃して、代りに産業団への特許料を理化学研究所の研究資金に当てていた。必要な資材は遠慮なく購入できるようにし、研究だけに専念できる環境をつくり、世界にも例を見ない産学の独立・共生、循環方式の成功を成し遂げたのである。


シュウ ウエムラの祖父も明治生まれの成功者だった。若くして単身イギリスに渡り、洋服生地のラシャに着目し、それを日本に輸入することを実現し、天皇の洋服生地に使用されることからはじまって、日本橋の日銀の隣りに店を構え、郊外の成城の地に5000坪の別荘を持つまでになる。

私がウエムラに家を訪ねたときは、すでに祖父も父もこの世を去っており、日本橋の店も閉じて、彼の住んでいた成城の家は5000坪から3000坪になっていたが、宏大な芝生の庭の中央に池があり、それを囲んだ家屋の部屋数は空き部屋を数えて30余もあった。

これは後で知ったことだが、彼の母親は諏訪家の出なそうで、諏訪家といえば、天皇家、出雲家と並んで日本三大旧家のひとつに数えられる。そしてウエムラ自身は亡くなる前には諏訪家の直系にいちばん近い位置にいた。
そう考えると、六本木ミットタウンに“shu sanctuary”という神がかった名前の美容ゾーンをつくった意味も分かるような気がする。

Wednesday, February 06, 2008

シュウ ウエムラ

シュウ ウエムラが亡くなったのは昨年12月29日だったそうだ。ちょうど年の暮れなので、親族だけの身内で密葬し、今年の松の内を過ぎて公表した。
私がウエムラの秘書からそれを電話で知らされたとき、思わず、むせび泣きをしてしまった。こんなことは、かって無かったことだ。

肺炎が原因というが、末期癌が骨にまで侵していたのだ。最後に「及川に会いたかった」と言ってから、大きくひと呼吸してそのまま逝ってしまった、という。ちょうど、その日の朝、「なぜ、連絡がとれないのだ」と嫌みの手紙を出していたのだ。

シュウ ウエムラの後には、もうあれだけの人間は美容界には出てこないだろう。アートを理解し、その上に大きな人柄だった。ヨーロッパでは「シャネルが化粧品をファッションにし、シュウ ウエムラがアートにした」という定評がある。

ウエムラは80年代の頭初からアートを後援してくれた。たんに金を出すだけでなく、アートの意向を察してくれた。前衛的なパフォーマンス運動に援助する人など他にはいなかった。そして、彼のメイクアップ ショーもパフォーマンス的だった。

ヤン・ファーブルの『劇的狂気の力』、パリ オペラ座のGRCOPの招聘。それに東京アートセレブレーションやパフォーマンスのパリ公演など。
しかし、彼の見識の素晴らしさは、バブル期に起こった企業メセナや文化事業の風潮と同時に、アートへの後援を中止したことだったかもしれない。

ジョン・ケージとカニングハム

ジョン・ケージとカニングハムはほとんど同じ思想を持っていた。思想と言っても観念的なものでなく、生きることに結びついて、そのまま彼らの芸術活動の芯になっていたものである。
あれだけ永いあいだ、いっしょに仕事をしていて2人は一度も言い争ったことがない、という。
私は2人の本は読んだことはあるが、実際には会ったことはない。ただ、ヴィデオで観たかぎりでは、考えは同調したのだろうが、性格が全く違うようだ。たぶん互いに相手の才能を尊敬していたのだと思う。
カニングハイムが、最初シアトルのコーニッシュ・スクールという芸術学院に在籍していたとき、ダンスレッスンのピアノ伴奏をケージがやっていたのだ。
先に、カニングハムがマーサ・グレアム舞踊団に誘われて入団し、その数年後にケージがグレアムのところに現れたとき、直ぐに「2人でコンサートの準備をしよう」と言い出したそうだ。じっさい、ケージもインタビューで「カニングハムをグレアム舞踊団から去らせたのは自分だ」と言っている。

彼らの尊敬する人物は、ソロー、フラー、マクルーハンであった。ソローからは自然とアナーキーを、フラーとマクルーハンからは有用性(ユーティリティ)とネットワークを学んだ。ついでインドの東洋思想から東アジアの中国の荘子・易と日本の禅へと関心がすすむ。それが2人の創作方法にそのまま応用されて行ったのである。

不思議なことに、マース・カニングハム舞踊団のカニングハムの振付けと同舞踊団の音楽監督のジョン・ケージの音とは別々につくられ、平行して演じられた。いわゆる音楽をもとにしてダンスが振付けられるということはなかったのである。
カニングハムは空間の中のポジションと動きに、ジョン・ケージは音の調性とリズムを。また、カニングハムは内側からのエネルギーの連続を、ジョン・ケージは反復と沈黙をベースにしていた。

しかし、考えてみると、これは“偶然”をベースにしたハプニングから出発しているのである。

Wednesday, January 30, 2008

ポストモダン(2)

ここに『カニングハム 動き・リズム・空間』(石井洋二ほか訳 ジャックリーヌ・レッシャーヴ 新書館)という本がある。これはジャックリーヌ・レッシャーヴがマース・カニングハムにインタビューして纏めて本にしたものである。その中からマーサ・グレハムから分離してジョン・ケージとの共同作業に向うまでの状況を語っている部分を以下に引用しましょう。

「ー グラハムの周辺にはあいかわらず、閉鎖的な雰囲気があるような気がしてしようがありませんでした。彼女の作品そのものは決してそんなことはないのですが、彼女をとり巻く周囲の人たちにそういうところあったのだと思います。時とともにそういう雰囲気にも変化が生じたかもしれませんが、当時は非常に閉鎖的でした。もっとも(ドーリス・ハンフリーなど)他のモダン.ダンスのダンサーたちのところでも。似たりよったりだったのですが。ひとつのグループに属している以上、他の誰とであっても、何もできないというのが一種の暗黙の了解でした。私がクラシック・バレエの仕事をし始めた時、モダン・ダンスのダンサーたちの多くは、奇妙なことをするやつだと、ほとんど気違い扱いでした。もっとも私は、自分がクラシック・バレエの勉強をしてみたいという気持ちで始めたのですから、人が何を言おうと気にはしませんでしたけれど。
画家のグループと知りあいになり始めたちょうど同じころ、ジョン.ケージを介して音楽家たちとの往き来も始まりました。1944年に私たちが例の第一回目のコンサートを催した時、私たちを見にきてくれた観客は数の上ではもちろん少なかったのですが、その大半はこれらのアーティストたちだったのです。ダンサー仲間はほとんど来てくれず、たぶんグラハム舞踊団の何人かが見にきてくれていたと思うのですが、誰だったのかも思い出せません。いずれにしろはっきりと覚えていることは、新しい可能性の開拓に興味を持ってくれた、たくさんの画家や若い音楽家たちのことで、ダンサーたちは記憶の外なのです。ーーー いづれにしろ、私は自分の仕事を進めていけばいくだけ、モダン・ダンスの仲間とのあいだに距離を置くようになり、事実そうならざるをえなかったのです。」(訳 石井啓子)

カニングハムは、1946年にマーサ・グラハム舞踊団を去ることになる。その後、カニングハムとケージの2人は巡業に出かけるが、ノース・カロライナにあるブラック・マウンテン・カレッジの夏期講習会に招かれる。2人にとって、これが思いがけない幸運となった。そこに集結している、大勢の優れた前衛の画家、音楽家、詩人たちに出会うことができたからだ。
とくに、ジョン・ケージが企画したエリック・サティ=フェスティバルの『メドゥーサの罠』では尊敬するバックミンスター・フラーと関わることができたのである。この後の52年に再度招待された際には、画家のロバート・ラウシェンバーグと初めてそこで知り合い、その後のカニングハム舞踊団の協力者となる。
このブラック・マウンテン・カレッジは、芸術家たちに自由な場を与えていたので2人は計らずも実験の場を得たことになる。
また、そこに集まった詩人たちはブラック・マウンテン派を形成し、サンフランシスコ派のビート詩人たちと呼応して、時代の風潮を変えつつあった。
カニングハムにとってのブラック・マウンテンは、後のトリシャ・ブラウンやイヴンヌ・レイナーらのジャドソン・チャーチに匹敵する。

この時点では、もちろんポスト・モダンという名称は生じてはいない。しかし、ポストモダンダンスはこの時から芽生え始めていた、と思う。
カニングハムは踊りの技術を与えられたものとしてでなく、自分のからだで納得した上で動きをつくり出そうとし続けた。そして同時に、人間の感性をいかにして越えられるかを動物を対象に研究してもいた。また、コンピュータ技術が発達した80年代に入ったとき、誰よりも率先してそれを振り付けに応用したのはカニングハムだったのである。

ポストモダンダンスを語ろうとし、また自らを納得させるために歴史への解釈を辿ろうとしたのだが、カテゴリーの落とし穴に入る寸前にカニングハムとケージの息吹に触れ、思いをあらたにしている。ポストモダンダンスはスタイルや傾向ではないのだ。デリダがいう無意識のエネルギーがつくる“差延”の働きの交錯が、すでにこの時代に“脱構築”のポストモダンを準備していたのだ。

ポストモダン(1)

ケイの関わったアメリカのポストモダンダンスについて、ここで触れておきたい。ポストモダンとポストモダニズム、あるいはポストモダニズムとデリダの“脱構築”との関係についは、詳しくは、このブログの後で1984年以降のパフォーマンス活動を語る際に検討する積もりだが、その前にこのアメリカのポストモダンダンスに触れるに当たって、その論議対象の全体の構図を設定しておきたい。
そうしないと、ポストモダンダンスの展開もポストモダンの傾向の範囲内で動いてきたわけで、その大枠を掴んでおかないと歴史の判断を誤ることになるかもしれない。

この問題はひじょうに複雑化しているので、その歴史的な区切りと、その傾向を動かした重要事項をおさえて置かないと、明確なイメージを描くことは難しい。そして、これはすでに歴史としてすでに過ぎ去った芸術の傾向または時代思想ではなく、私の思いでは、これらを釈明しないかぎり前へ進めない状況なのである。
そこで先ず直接問題を提案したことによって起こった、区切りから始めることにします。一つは1977年のイギリスの批評家、チャールズ・ジェンクスの著作『ポストモダンの建築言語』、もうひとつは1979年のフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』という書物によるものである。

前者はポストモダンを、後者はポストモダニズムを問題としているのだが、やがて傾向と思想とが、モダンと近代が、さらにモダンと近代の時間範囲がそれぞれの対象によって違って捉えられ、論議が交差し、ますます混乱しているのである。
ポストモダンに関しては、前記のように、最初に建築の側から問題視されたので、その当初の状況と建築に関する傾向については『ポストモダンの時代と建築 磯崎新対談』(鹿島出版社)、『週間本17 磯崎新 ポスト・モダン原論』(朝日出版社)、『新・建築学入門』(隈 研吾 ちくま新書)などを参照していただきたい。

だが、ダンスについてはどうか。それはアメリカから起こったのである。そしてそれをモダンダンスのマーサ・グレハムの舞踊団から離れた時点での、舞踊家のマース・カニングハムと音楽家のジョン・ケージの仕事の発足に置くか、またはその後のトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナーらのジャドソン・ダンス・シアターの創立の時点にするかだ。
その選択にはフランスの哲学者デリダが、1966年にアメリカのジョン・ホプキンズ大学で“脱構築”に関する講演を行なったセンセーションを契機に起こった“脱構築”の風潮を汲む必要がある。しかしケージに関する限り、彼は生まれながらにして脱構築されている人間なのである。そのためカニングハムのダンスはある意味で先行していたのかもしれない。
その他に、ポストモダンのもうひとつの特徴“差異と反復”の問題もる。これもデリダの“差延”と平行して、やはりフランスの哲学者のジル・ドウルーズの同名の『差異と反復』という著書の影響も、その後の80年代のミニマリズムのダンスの動きの思想的な背景となる。

だが、このポストモダンの傾向を単なる目先の時代の兆候として捉えていいものだろうか。音楽の歴史において、“差異と反復”はフーガやソナタ形式にしろ、それを土台にして創られていたので、その方法が壊されたのはロマン主義の感情を主体にした内面描写からなのである。ということは、近代のユーロッパはギリシャのプラトン哲学のイデア(理念)の“同一性”を基準とする知性の概念操作を芸術の伝統の基礎にしていたのである。
それがフロイドの無意識の世界と,20世紀に入ってからの分子化の進行によって、抽象化、還元化に向い、差異と反復の問題が無意識またはエクリチュールの深部でどのように織りなされているのかが問題視されてきたのである。脱構築というのは、これまでの構築のそれらの内部からのひび割れと解釈するといい。

Saturday, January 19, 2008

『ランチ』前後のケイ・タケイ(2)

ケイのフルブライト給費生としての留学前の、日本での舞台歴を辿ってみよう。

1965年1月 グループVAV公演(朝日ホール)『傾斜の存在』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 武井 慧 三浦一壮 西森守・出演
1966年3月 アルトー館第1回公演(草月ホール)『爆弾』 河野典生・作 MJQ・曲 及川廣信・演出 及川廣信 後藤博道 武井 慧 高藤 翠 松岡園子・出演
1967年4月 アルトー館第2回公演(草月ホール)『ゲスラー・テル群論』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 土方 巽・主演 武井 慧 大野慶人 石井満隆 笠井 叡 大橋純一 三橋郁夫 吉村 修 城山忠正 堀 澄子・出演

その後、たぶん1968年に、ケイは渡米したのではないだろうか。
そしてジュリアード音楽院在学中の1969年に『ランチ」を発表したのである。つづく「ライトシリーズ」の活動の後、前述のように1977年に10年振りに来日公演を行なったのだが、その翌々年の1979年にも彼女は再度、来日公演を行なっている。これも同じく“ムービング アース”による「ライト シリーズ」の新作品だっ
た。それについての私の『肉体言語』の寸評も以下に紹介しておこう。

「彼女がまだアメリカに渡る前の、踊るモチーフは“怖れ”だった。
その頃の彼女は、小鳥が慌てて羽ばたくような、痙攣する踊りをしていた。しかし、他面、作品を作るときには、自分の内面をよく構図化して網を張り、その中で捕らえられた小鳥のように、怖れの戦きを小刻みに、ダイナミックに踊っていた。作品を客観化しながらも、踊り手の側の、主観がその頃は中心だった。
今度の公演を観て思うことは、彼女は自分も、周りと同じように客観化している。そのために作品は形而上的である。
生身の“怖れ”の生命がいつの間にか消え、物体との抵抗が失せて昇華するということは、アメリカの乾燥度なのか、モダン・ダンスの風土か、異国の独り暮らしのためか。」

ケイの素質とアメリカのダンスの流れとが少しづつ乖離しながらも、その後のミニマリズムやパフォーマンスの動きに取り残されることなく、第一線で自分の位置を保ちつづけて来たことは立派だ。

Friday, January 18, 2008

『ランチ』前後のケイ・タケイ(1)

ケイは『ランチ』の成功の後、「ライト シリーズ」で作品の発表を続け、アメリカ公演だけでなくカナダ、イスラエル、スペインなど海外公演も行なううちに、彼女の人気も高まり、しだいに教えを求める生徒も集まり、やがて“ムービング・アース”という舞踊団を結成する。
その活躍の噂は、情報が切断されていた当時の情勢の中でも耳に聴こえて来たが、1977年に突然彼女は“ムービング・アース”という一団を引連れて来日公演をする。作品は「ライト シリーズ」。

それについての私の寸評を、当時の同人誌「肉体言語」(9号)から抜き取って以下に紹介しよう。タイトルは「向う側から来たケイ・タケイ」。
「向う側とはアメリカのことでなく、未知の鬼の住む国のことである。
※ 舞台奥の垂れ幕の中央に、日の丸のように暗黒の穴が空いている。その前面に四角に敷きつめられた仮りの場。人間どもは暗黒の片隅から這い出て、ロボットのように生活する。一人は算えて、奥の暗い穴にボールを投ずる。
※ 「あんたがたどこさ、肥後どこさ」小石をもてあそぶ子供の遊びが、いつの間にか賽の河原の場面となる。小石で作られたサークルの内と外。子供と鬼の世界、やがてサークルがいろいろと形を変え、魔術的に働くサインとなる。

1977年の夏、彼女は10年振りにやって来た。アメリカの市民権を得たという。その時、私にお土産にくれた
ものは、直径約4㎝の、丸味を帯びた平たい、なんの変哲もない石だった。ただ珍しいことに、その真ん中に、直径1㎝ほどの穴が空いている。彼女はそれにプルーのリボンを通して結んであった。アメリカのどこかの地区の川縁にだけある石だという。
ベケットの小説の中に、放浪しながら小石をポケットに入れて、手でそっと触れる男の話がある。私も小石が好きだが、小石を好きなのは分裂質の人間なのだ。硬質の手触り。この世界のリアリティの殻の固さ。その穴の向う側にひそむ、暗黒の未知の世界。そこから生まれて来たが、死がひっそりとそこに待ち構えている。

ケイ・タケイは、小石が秘めるそのぎりぎりの意識を、あの作品の中に構造化して見せてくれたのだ。」

Wednesday, January 16, 2008

ケイ・タケイの『ランチ』

ケイ・タケイは「今、思いだすこと・・・」の中で次のように語っている。
「ランチの創作に初めて入ったのは、ジュリアードの学生時代である。とても小さくて暗い北向きの窓が一つだけの部屋、その学生寮(インターナショナルハウス)の一室で私は何とも心晴れない日々を送っていた。そして、このベッドの上と、机とベッドの間の細長い空間が私のリハーサルルームであった。外へ出るのも明るいところに出てゆくのも嫌なそんな時期、しかし私には舞踊を志す親友たちがいた。チリのカルメン、ペリーのエルシーとノエミ、ウェルズのマール、彼らは私の発想や動きを“incredible(驚き)”といつも支えてくれた。『ランチ』のなかで私と共に動く女は、このカルメンであった。私は時々、カルメンのアパートへ行く。イーストサイドの貧しい地域、暗い生活を送る人々が集まるところだ。しかし、カルメンと私はこのアパートで踊った。夕方になると56丁目のウェストサイドにあった日本レストラン「ヒデ」にバイトに行く。そしてシーズンになると、カキをテーブルに運ぶのだ。ピカピカ白く光るカキの殻がお皿に残ると、私は嬉しくて、嬉しくて大急ぎでお盆にのせ、裏に運び懸命に集めた。そのカキの殻が『ランチ』の中で白くどこまでも続く細道になった。」

ケイがフルブライト留学生として渡米し、1969年にニューヨークで初めて上演して注目を浴びた作品、彼女がその説明に苦しんで“白昼夢のような”という、この舞踊演劇を観ることを私はながいこと待ち望んでいた。なぜなら、その作品を契機にその後70年代に入ってからの彼女は、アメリカの現代舞踊の最前線の5人のダンサーに選ばれたのだから。
他の4人のダンサーとは誰だろう。あえて彼女に問うてみなかったが、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーについで、ローラ・ディーンとルシンダ・チャイルズだろうか、それともメレディス・モンクとトワイラ・サープなのだろうか。いづれにしろ、ケイはアメリカのポスト・モダンダンスの中心に位置を占めることになったのである。

幸いなことに、ケイのアメリカでのこのデビュー作『ランチ』を昨年2007年の12月29日、シアターXで観ることができた。ショックだった。“白昼夢”どころか恐ろしい衝撃だった。ケイが前もってそれを説明することができなかったように、私もブログでこのダンス劇を説明することができない。どうしてだろうか?
それは、あの1968〜9年という世界的な動乱の時を身をもって経験したものでなくては表出できないものであり、又その頃のアメリカと日本の生活の落差の狭間に放り込まれた一人の若い日本女性にしか描けないものである。

社会に生きるための衣をはぎ取られたままの孤独な女性の痛々しさと、ただひとつの支えとして心に燃えるダンスへの一途な熱意。ただ、それが直接的でなく、寓話的に一匹の猫と2人の女と、一人の男の昼食の場の会話を契機に、人が交わす無意識の流れと、社会の底辺にうごめく無意識と、猫の人間への変身とが同一平面に構成されてゆく。
シュールレアリスムの技法のパターン化をはずしているのだ。無意識がより細分化され、シュールと現実とが連結してシュール自体が現実なのだ。それが、まことに恐ろしい。
その恐ろしさが、あの時代と、ケイのあの頃に置かれた立場から遠く離れた今となっては、当時のアメリカの観客が受けた衝撃を感じれるかどうか疑問だ。
ただ、この『ランチ』があって、次の「ライト シリーズ」の作品に続くことで彼女のアメリカでの評価が決まったのだろう。

Wednesday, December 05, 2007

演出意図(3)

最初、この劇場の天井の高さと客席の狭さに戸惑った。
しかし、今じぶんの考えている日本の芸能の本質的な流れを、その空間形式によって試みることができるのではないか、と思ったのです。
私は、日本の伝統芸能のうち茶道を第一と考えています。それは禅の教えを基本とし、建築、華道、能楽、絵画、書、庭園、香りと食の道など、生活を基盤とした総合芸術である。
そこには主人の招きによって客人は参加し、なんらかの実世界にはない“ゆとり”と“精神性”を得て帰るのです。これには客席が少ない方がいい。

茶道の動作は能楽からきている。出演者の精神性が同じように求められる。場面の配列は、出だしの瀧と影の部分を一番目ものの「脇能」(全員)として、二番目ものは「修羅」(山下浩人)、三番目の「女もの」は「女面」(村田みほ子)とした。四番目は「狂女」(浅沼尚子)、五番目の「切能」は「切り」(及川廣信)とした。
演技形式に関しては舞踏の“アチチュード”に対して“ジェスチャー”部門を強調し、肉体の枠から逸脱する演技空間と、面からはじまる身体的表情を重要視した。ダンスの種別は舞踏と区別するため、あえて歌舞伎から歌を除いた“舞妓(ブギ)”とした。

天井の高さは歌舞伎的仕組みで工作し、場所の意味性を移動させることに務めた。「実と虚」の問題、“おくのほそみち”、舞台設定案とこれらの問題は、最初大串孝二から提案されたものである。大串孝二は、ほかに鐘の実音も演奏し、天井裏にて外部空間を演技者として受け持った。

音響の弦間隆は、スピーカーを上に向け、壁に反射させて空中に音響の渦を巻かせ、客席からそれを間接的に聴く音響構成をとった。
照明の坂本明浩は、光と影を精神性の問題として表現し、電燈のほんのりとした色合いから、場面々々の状態を色と捉え、白光の太陽の光りで宇宙の広がりを感じさせる構成をした。

演出意図(2)

先のブログで[肉体]と[形態]ということばが出てきた。そのことばが出てきた背後に表現としての[舞踏]と学問としての[形態学]がある。
舞踏は神秘主義と生命哲学をベースに、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの<ムーブメント>に対して、<アチチュード>を表現形態の基本としている。形態学は医学・生物学の身体と器官のフォルムを対象とする“差異”の比較から始まったものである。元は“人類学”で、分科系の“文化人類学”に対して“差異人類学”ともいった。やがて計測の対象が身体から顔面に向い、また内部は内蔵から大脳に移動した。それがユングなどの影響によって「心理形態学」「唯脳主義」となり、それらをより表出するものとして「顔面表情」が注目されている。ここで、能楽の「面(おもて)」の表情・キャラクターから始まる表現形式があらためて見直されなくてはいけない。

ここで社会学者コントの学説の宇宙的世界/形而上学の世界/リアリズムの世界から敷衍した、古典演劇の宏大な空間の中にいる表現/形而上の空間を感じさせる点と線と角度の幾何学的表現/皮膚と接触と感覚を基盤にするリアリズム表現を思い起していただきたい。
そして、この3つの世界の下部にラカンのいう想像界/象徴界/現実界がどのような位置を占めて交錯しているかが問題なのである。

映像はイメージである。それはラカンのいう想像界に属すると同時に、「実と虚」の“虚”に属する。だが、カメラで対象を写すカメラマンの行為は“実”である。
加藤英弘のつくった映像の、胎蔵マンダラと金剛界マンダラは、虚でありながらこの世界の実像を両面から伝えようとしている。

美術、音楽、舞伎については、次回に記します。

Tuesday, December 04, 2007

演出意図(1)

12月1日(土)、2日(日)のキッド・アイラック・アート・ホールでの“アートは症状である”の3回公演は無事終了致しました。ご来場いただきました皆様方に深く御礼申し上げます。
さて、今回の公演のねらいは、先に申し上げた通り「実と虚」の問題を出発点としておりますが、それから思考が“おくのほそみち”を辿って、なにやら明るさを見出したような気がします。そのことを前のブログを受け継いだかたちで語ってゆくことにします。

先ず、ルイ・アラゴンとシュル・リアリスムのことから入りましょう。シュル・リアリスムは超現実主義と訳されています。シュル・リアリスムの提唱者のルイ・アラゴンはフロイトの精神分析から影響され、それを文学に適用したのですが、無意識の世界を、現実の世界とは離れた“夢”と通底する世界と捉えている。
ところが、シュル・リアリスム運動に参加したアントナン・アルトーは幼児に脳膜炎を煩い、以後、生涯頭痛と神経症に悩まされつづける。それゆえ、彼にとっては無意識の世界こそが現実の世界であったのです。この点で彼だけが、シュルな運動をしているのではなく、そこにこそ現実のリアリスムがあったのです。

じぶんの意識が置かれている処が、リアルな場所なので、日常的な現実の方が架空なのです。それは仏教がこの世を仮空と捉えるのに相似している。ただ、仏教のばあいは、“こころ”のみが唯一、確かなもので、この世には実体がない、としているのです。この「ない」は“無”とは違う。“空”です。“空”は“無”でもあり、“有”でもあるもの。このあたりに仏教のややこしさがあります。

そこは“物自体”、“物そのもの”が置かれてもいい格好な場所かもしれません。人間でいえば衣服を脱いだ裸の身体から、さらに意味と価値をはぎ取られた[肉体]が。
しかし、その肉体の中に内蔵があり、骨があり、細胞があるー それらを切断する。<分節化>し、<分子化>する。(この2つが、形而上学の世界と宇宙的世界の、それぞれの下部空間における変身的身体表現。ムーンとマーキュリーとサタンが交互に表出する)

そこに、いわば[形態]を排除された断片と浮遊する分子群の動きの様態を見ることができます。それが“象徴界”をはぎ取られた、最終的な“現実界”なので、現象、物体の中にもそれを感じとれる人にとっては、それがリアルな現実の世界なのです。
ラカンが理論化する前に感じとった現実界は、たぶんアルトーが感じとったものとは違うかもしれません。しかし、この下部の“現実界”から、慣習と意味性と視覚の幻覚をまとった日常の世界を眺めていたのでしょう。

ラカンの理論は難解といわれます。ある高名な精神医学者がラカンの講座に出席したが、「なにが何だか皆目分からなかった」と告白してくれましたが、ラカンのいう、日常の地下にあるこの“現実界”を知ったものでないと理解できない筈なのです。
では、ラカン自身は、なぜそれを知り得たのでしょうか。私の推測では、それはアルトーからではなく、ジョルジュ・バタイユからの影響だと思うのです。

Friday, November 30, 2007

舞台空間

社会学の創始者といわれる19世紀のエマヌエル・コントの説は、舞台を創る場合にひじょうに参考になる。
彼によると、ギリシャ時代の人間は宇宙的世界に生きており、ルネッサスから18世紀までの人たちの思考は形而上学的であり、コントの時代である19世紀は、現実的なリアリズムの世界だというのである。

それを舞台芸術に当てはめて考えると、古代ギリシャ劇とローマ時代の中世の神秘劇、それに日本の能楽は、たしかに宇宙的な空間の中で演じられている。能楽はそれに幾何学的な構図があるから中世的な要素も加えられているが。また、ルネッサンスに発生したオペラ・バレエの空間表現は、なるほど幾何学的な、点、線、角度の上に演じられ、腕は直接からだに触れられることはなく、舞台の空間構図、演技者の身体表現すべてが幾何学的な構図に乗っている。

ここで、はなはだ興味を惹かれるのは九鬼周造という日本の哲学者の著した『いきの構造』という本の中の“ものの考え方”である。九鬼はハイデッカーの下で学んだというが、かならずしも、現象学という理論だけでは捉えられないものがある。日本伝来の感性から生まれた直観的な“遊びの自由さ”にあふれている。そして、このコントの形而上学的な空間構造が、彼が説く歌舞伎の形式に相応するとしても、観念の網の目から抜け落ちた部分にこそ彼の目は注がれ、小唄の情緒的な音声にこそ、この時代区分の特性を見ているのである。

それに、歌舞伎の隆盛時の江戸時代は、もはや中世的な文楽の形式に近代的なリアリズムの演技を加えつつあったのである。
ところで、19世紀以来のリアリズムの世界に生きるわれわれにとって、“リアルな表現”とはいったい何か。リアルな感覚、直接的な感性、生理的な体感。より直接的な“物そのもの”に当たる身体的な実感にこそリアリズムの土台がある、と人々は考えていた。

ところが19世紀末に、はからずもフロイトのような人間の内面に関心を持つ人間が現れたのである。
それは、日常生活の表の部分とちょくせつ連動する人間の内的心理とは違う。人間のこころの奥に潜む深層心理と、その葛藤のコンプレックスを扱ったものである。その深層心理が隠された通路を通って現実の目に見える人間の生活を動かす、という。

現実の事象を逆転させる視点が提出されたのである。
ならば、演劇空間としては、19世紀のコントが考えた3つの空間理念に、またひとつ内部空間を追加したらいいのであろうか?
しかし、ここで「現実」とはいったい何か?「リアリズム」とはどこまでを言うのか? という疑問が湧いてくる。
この問いに対して、ジャック.ラカンとアントナン・アルトーが登場してくることになる。

Thursday, November 29, 2007

「アートは症状である」の構成

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール

まず、“おくのほそみち”の細部から入ること。ダンス・パフォーマンスの進行、構成は以下の通りです。

開演 VTRスタート 瀧のVTR + シルエット      3'30"
1場 修羅(山下浩人) ほんのりとした電燈の色合い  10'00"
2場 女面(村田みほ子)状況としての色がかわる    10'00"
3場 狂女(浅沼尚子) 状況としての色がかわる    10'00"
4場 切り(及川廣信) ちょっと明るく        12'00"
胎臟マンダラ 金剛界マンダラ
ラスト 再生(浅沼/村田/山下)           6'00"
太陽の光 青白い明るい光り
オーゼの死 地底にとぐろ巻くへび 耳 宇宙への聴覚 
瀧の逆流するVTR  照明 F.O  VTRが終わる 客電   計)51'30"

 たちこめるそらいちめんのむらさきのくも
    荒川堤赤水門河川敷
 ころされたおとこのしたいがそこにみえる
 てれびでみたえいがのひとこま
 はなしの虚のなかの実のからだ

 わたしはいまここにたっている
 ゆったりとしたみづのながれと
 きしベにうごくくさぐさの細部
  
  象徴界地底現実界曼陀羅図
 ほそみちをおりてゆくひとの影
 おくにきこえるぴあののおとはー

この作品は「虚と実」をテーマにしています。虚と実は、“アートは症状である”という名言を発した精神分析家のラカンの理論によると、<実>は“現実界”に、<虚>は“象徴界”に当たります。彼のいう“現実界”というのは、日常のリアルな世界ではなく、リアルな現実の中に潜む“物自体”ともいうべき世界です。その上を覆っているのが“象徴界”で、言語を基底に意味作用をなす世界です。
われわれは、混合した2つの世界の境界において、空間表現の側からそのテーマに当たるため、地上と地下、太陽と影の面からそれに向ってゆくことにしました。アートの各分野からのコラボレーションによるものです。

Wednesday, November 28, 2007

「アートは症状である」の第2回公演

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
 空間演出:大串孝二/構成演出:及川廣信/ 映像構成:加藤英弘
 音楽構成:弦間 隆/照明構成:坂本明浩/スタッフ:渡辺アルト
               
     
“アートは症状である”の今回は、<美術を前提>にして、各分野のアーティストが関わっています。互いに話し合っているうちに、最初に浮かび上がったのは「虚と実」の問題で、このことが中心となってさらにいろいろなことが討論されたようです。というのは、各ジャンルによって技法が異なりますし、技術の上からしか新しいアイデアは生まれないからです。

今は精神医学と社会学が勢いがいい時代です。われわれはその時代の流れに乗るわけではなく、むしろ時代の慢性的な流れの底辺にある忘れられたものを掘り出したいのです。その意味では今の社会学の“レフレクション(回顧)”の方向に同意します。なぜなら、ポスト・モダンということばには、近代は終わったというニューアンスがあるからです。

果たして近代は終わっているのでしょうか。ウェブの世界ではグーテンベルク以来の革命の時期だという観点から、回顧どころか新進化論を唱えている人々がいます。前へ進むものと、振り向くもの、しかし今は一人の人間の中に、この強力な逆方向の引力が働いている時代なのだと思います。

新しい発想、発見。優れた学説や技術があるなら、その中にもぐって、さらに独自なものを創り出せ。ここにも、愚化しない孤高の精神と、共同作業が生み出すものへの期待があります。
アートは症状であるのでしょうか。それは精神医学的症状なのでしょうか。多分それは気質的なものではなく、その時代の意識・感覚を、日常の枠を越えて仮想として表現する(再現 レプレザンタシオン)からなのでしょう。

Sunday, November 25, 2007

こころと空間

モダンダンスからコンテンポラリーダンスへと、時代の流れにそってそのスタイルが変わってきたが、そのどちらが優れているかという優劣は付け難い。
モダンダンスはソロ・ダンスから始まった。したがって内的な自分の内面を描くことができた。それがコンテンポラリーダンスになるに及んで、動きのスピードとダンサーの中性化が起こり、個人的なものから公共的なテーマを選ぶことになった。
空間的な場としては、モダンダンスのばあいにはダンサーの身体を取り巻く曖昧な宇宙空間として捉えられており、コンテンポラリーダンスのばあいは、照明によって幻想的部分が加えられるものの、原則的には躍るためのスペースと計算されているのである。

一方、舞踏の場合は前の2つとは違って日本固有の発想から出た、正しくウェブのオープンソースの世界のようなものだった筈が、ソースコードがオープンになっているようでいて、その実、日本独自の神秘主義的な囲い込みが働いているため、せっかくの進行の道を止めている。舞踏は個人的な心理というより、ユングの集合的無意識に近く、また肉体の“生命哲学”を土台にした踊り、というのがいちばん相応している。
踊り手の肉体が、彼の内部の魂と生命の動きを表現する場となっており、その表象作用が大宇宙に呼応する働きをなしている。

今後、ダンスの道としては、その中間領域にあったポストモダンのダンスとパフォーマンスの試みの方に参考になるものが多く含まれているように思う。
又、“こころ”の面ではラカン、ジジェクが拓いた<想像界、象徴界、現実世界>が、内部空間の分析としてフロイトを継いで、新しいアート空間を築くベースになってくれる。
また、20世紀の量子力学と言語学が導いた“細分化”と“分節化”が“実体と虚像(シミュラークル)”といっしょに世紀の新しい舞台を形成して行くことと思う。
(このことについては、これから記するラベル“おくのほそみち”を参照していただきたい。)

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(2)

前述した先駆者を含めて、以下のいくつかに分類された領域のダンス傾向を、コンテンポラリーダンスと捉えたい。私はその大きな動きを5つに分類する。

1つは、モーリス・ベジャールが59年にベルギーのブリュッセルのモネ劇場に活動拠点を移し、ストラビンスキーの『春の祭典』成功後の60年には、モネ劇場専属バレエ団「20世紀バレエ団」を結成、新バロック形式のブームを巻き起こす。ヌーベルダンスとして活躍するメンバーとしては、20世紀バレエ団からはドミニック・バグエがその出身者であり、ベジャールが主宰するバレエ学校「ムードラ」からはマギー・マラン、アンリ=テレサ・ド・ケースマイケルなどを排出したこと。

2つ目は、モダンダンスのクルト・ヨースの2人の弟子がアメリカに渡り、そこで新しいダンスの息吹に触れ、帰国後“タンツ セアター”というダンス劇を創造し、ダンス界に旋風を巻き起こしたピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン。それにスザンヌ・リンケを加えてクルト・ヨースの“3人姉妹”という。
それに、マリー・ヴィグマンの流れも含まれるダンス実験集団「ダンス工場ベルリン」を加えておこう。

3つ目は、パリ・オペラ座を発祥とする。アメリカのアルヴィン・ニコライの弟子のカロリン・カールソンがパリ・オペラ座に招かれてモダンダンス研究所GRTOPを創ったのが最初で、それをジャック・ガルニエが継いでGRCOPとなる。周辺にジャン・クロード・ガロッタ、ドミニック・バグエ、また「ムードラ」の出身者たちも加わり、フランスのヌーベルダンスと呼ばれる一派を形成し、ドイツの表現主義に対抗することになる。

4つ目は、ベジャールの場合と同じように、クラシックバレエからの流れなのだが、ドイツのジョン・クランコのシュツットガルト バレエ団を出発点とする、オランダの「ネザーランド・ダンス・シアター」のイリ・キリアンと「フランクフルト・バレエ団」のウィリアム・フォーサイス。それに、「ハンブルク・バレエ団」のジョン・ノイマイヤーもいる。

5つ目は、同じベルギーでもフランス語圏のブリュッセルとは違って、フラマンのアントワープ出身のヤン・ファーブルとその弟子ヴィム・ヴァンデケビュス。
それにカナダの「ラララ・ヒューマン・ステップス」とイスラエルの「バットシェバ舞踊団」を加えようか。英国から入れるなら、マイケル・クラークだ。


日本のモダンダンスとコンテンポラリーダンスとが見分けが付かないのは、コンテンポラリーダンスが始まる以前から、モダンダンサーを対象にして、東京新聞の主催で新人コンクールと現代舞踊展が毎年開催されるうちに、時の流れにつれて二つのジャンルが混同しはじめたからであり、またユーロッパのコンテンポラリーダンスが日本に遅れて吸入されたからでもある。
さらに混乱を招いているのは、江口隆哉・宮操子、邦正美、津田信敏などのモダンダンスとはちがって、モダンバレエという分野が存在していることである。
1912年、チェッケッティの弟子イタリア人のバレエダンサー、ジョバンニ・ビットリオ・ローシーが、帝国劇場に新設された歌劇部の研究生の教師として招聘され、そこで学んだ石井漠と高田雅夫・せい子は独立して舞踊をはじめ、自分たちの踊りをモダンバレエと命名しており、その後継者たちがドイツ系のモダンダンスといっしょになっていて、今になっては判別が付かなくなっている。だが、内実には差がある。

(なお、この記事は「モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界」のテーマに添って、その概略を記したもので、近代以降のダンスの歴史を語ったものではない。そのため当然、重要なイベント、作品、振付け家、ダンサーについて触れていない部分が多々あることを了承していただきたい。)

Wednesday, November 21, 2007

仲野惠子

仲野惠子をはじめて知ったのは、international dance festival in theater X のGeneral Directer(第1回〜第3回) をやっていたときのことだった。その'94年の第1回のフェスティバルに彼女が選抜されていたのだ。
その時の作品についで3作品を観ているのだが、当時はある程度の水準には達しているが、なにか自分の殻を抜けきれないでいるところがあった。

それが2006年の“現代舞踊展”(東京新聞主催 於メルパルクホール)に参加した彼女の作品『アイネ・クライネ・ブルーネ』では、すっきり抜け切った青天のなかにいる彼女を見出したのである。その公演についで2007年の“現代舞踊展”での『コスミック・ダンス』と、今度の“わびすけ舞踊倶楽部”の『自分の卵』の彼女の作品を観ても作品のレベルが同じ次元を保っている。
当然、彼女自身も承知していることだろうが、『アイネ・クライネ・ブルーネ』の公演の直前に起こった、あの事が原因だったようだ。

それは、彼女がインドネシアのダンス・フェスティバルに招聘されて現地に趣き、公演直前に、彼女にとって何ものにも換え難い、大切な母の危篤を突然知らされたのだ。一応舞台を終え、急いで帰国し、やっと母の死に目に間に合うことが出来たのだが、その時の経験が彼女の存在を根底から変えたようだ。
存在を変えたことが、しぜん彼女の作品を変えたことになる。
踊りというものを“存在”をベースに創りはじめたのである。

仲野惠子の踊りと直接関係したことではないのだが、そこから連想するかたちで、次にモダンダンスとコンテンポラリーダンスの差異を“こころ”と“空間”の側から考えてみることにしよう。

Sunday, November 18, 2007

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(1)

先に記した仲野惠子の作品『自分の卵』は、2007年11月9日(金)、きゅリあん小ホールで行なわれた“わびすけ舞踊倶楽部”(在外研修員ダンスパフォーマンス)の第1回公演の中で行なわれたものである。
この際、ついでにモダンダンスとコンテンポラリーダンスについて触れたい。
いまになって、モダンダスとコンテンポラリーダンスの差は何かと言っても、技法と空間の捉え方(=振付け者の内面)の違いというより、むしろ研究所の歴史とその教授法から来ている。しかし、これは旧い研究所ほど旧いシステムでやっているとは限らず、それなりに努力して改革されていることもあるし、また、その出身の優秀なダンサーが海外に研修生として派遣されるか、または自費で渡航して向こうのダンスグループに加わることもある。

一方、モダンダンスの世界からその独自の主張の下に“舞踏”という名を掲げて分離した土方巽、大野一雄の一派があるが、その中の中心的な3人のメンバー大野慶人、石井満隆、笠井叡のうちの笠井叡はじぶんの踊りの分野をダンスと称している。

ヨーロッパにおいては、舞踏の名になにか東洋の神秘的な幻想を抱く人が多いらしく、日本人の踊りに舞踏という名が付くと、期待または、自分なりに解釈し納得する傾向があるようだ。そしてまた安易にそれを利用する舞踏家もいる。その点からいうと、自ら舞踏の道を拓いた一人である笠井叡が自分の踊りをダンスと名称するのは彼なりの信念からなのだろう。
しかし、ヨーロッパではすべての踊りを総合してダンスというのであって、バレエもダンスクラシックなのである。
こういう風に語って行っても、はっきりしない部分があると思うが、その混乱の一つの原因はダンスの歴史の流れと、欧米からの日本のダンスの受け入れ状況から来ているようだ。

ダンスとバレエの関係をも含めて、これらの世界的な発展の“ねじれ現象”は1954.5年頃から起こっているようだ。その顕著なものとしては、1955年クラシックバレエのモーリス・ベジャールが彼の“エッフェル塔バレエ団”で、作曲家のピエール・アンリとピエール・シェフェールとともに創った『孤独な男のためのシンフォニー』という「具体音楽」をバレエ化している。また同年に、パリオペラ座に戦後はじめて招聘されたニューヨーク・シティ・バレエ団のジョージ・バランシンの作品といっしょにジェローム・ロビンスの作品も招聘され、そのドビュシーの『牧神の午後』(53)では、ロシアンバレエのニジンスキーの振付けとは全くちがって、誰もいない稽古場で、一人の男性舞踊手が鏡に映る自分の踊る姿を見てナルシシスムに浸るのだった。
それと、まだ潜伏されたかたちだったが、サドラーズ・ウェールズ・バレレ団の内部ではジョン・クランコが最初の創作を行ないながらも、居心地の悪さを感じて外部でも活動を開始している。それがやがてドイツのシュツットガルト バレエ団に移転することによって才能が一気に花ひらいて行く。
これが後のコンテンポラリーダンスの基盤となる、準備期の時代と言っていいのであろう。

ダンスの様相の変化が明かになるのは、アメリカからだった。マーサ・グラハムの下を離れて音楽家のジョン・ケージの協力を得、先鋭的な画家たちとコラボレーションを行なったマース・カニングハムのアヴァンチュール。さらに、その研究所の出身者でアンナ・ハルプリンの影響を受けたイヴォンヌ・レイナやトリシャ・ブラウンが中心となって、ジャドソン・チャーチで身体への記号的な新しい試みを行う。
そしてジャドソン・チャーチから場所が移っても、各地でトワイラ・サープ、ルシンダ・チャイルズ、ローラ・ディーン、メレディス・モンクなどが活動の手を広げ、アメリカのポストモダンの運動を展開して行くのである。
また、西海岸ではパフォーマンス活動が後続して起こっており、海を越えては、ピナ・バウシュやヤン・ファーブルが、日本では勅使川原三郎がパフォーマンスを経過して、ポスト・モダンからコンテンポラリーダンスへの橋渡しを担うことになる。
(ただし、ポスト・モダンの名称、概念、時代区分、内容、技術などにについては後述する。)

Saturday, November 10, 2007

仲野惠子の『自分の卵』

ステージ中央前にあるガラスの花。左右の天井からスポットライトが当たっている。それがこれから踊られる『自分の卵』と、どのような繋がりを持つのだろうと考えているうちにベルが鳴り舞台がはじまる。
儀式なのだろうか。上手奥から赤い衣服と白いターバンの一人の女性の踊り手が、地球儀のような金色の球を抱いて、明け染めた白光の中を、花に向ってすすむ。背面は黒一色の緞帳。微かに小鳥のさえずる声が聴こえる。そして、彼女はその球を銀色に咲きひらいた花の中に沈める。
方形に描く彼女の歩行の線が、聖なる域をつくりだす。そして、彼女の記号的な踊りがはじまる。冷たい、速度の早い、線的な踊りである。彼女のからだが踊っているというより、空中に描かれた記号そのものに見える。もう失われた古代民族の祈りを込めた仕儀のように。遠い古層の記憶の踊り。ヴァイオリンの響きが、見えない空間の殻を内側から少しづつ割っていく。混沌の中から、形のあるもの、意味のあるものが生まれようとしている。

ハンナ・アレントは名著『人間の条件』の中で、マルクスの理論が労働と消費の対比のみを中心にしていることを批判し、労働から仕事(工作)という、より人間的・精神的な面を強調して、取り上げている。また、老子の“タオ”、荘子の“混沌”から捉える方法もあるのだろう。あるいは“書”の墨で描かれた「一」という漢字の中に、記号の“意味するもの”と“意味されるもの”が分離される以前の、“全一なるもの”の生命のエネルギーを感じ取ることもできるだろう。
一つの卵、それは自分の卵であって、しかも鳥類、動物、人間、すべての卵でもある。
アントナン・アルトーはメキシコに渡ったとき、タラフマラの岩の上に神が啓示する記号を見た。そして古代人は記号的に踊ることによって、神との交感を得たのだ。