ここに『カニングハム 動き・リズム・空間』(石井洋二ほか訳 ジャックリーヌ・レッシャーヴ 新書館)という本がある。これはジャックリーヌ・レッシャーヴがマース・カニングハムにインタビューして纏めて本にしたものである。その中からマーサ・グレハムから分離してジョン・ケージとの共同作業に向うまでの状況を語っている部分を以下に引用しましょう。
「ー グラハムの周辺にはあいかわらず、閉鎖的な雰囲気があるような気がしてしようがありませんでした。彼女の作品そのものは決してそんなことはないのですが、彼女をとり巻く周囲の人たちにそういうところあったのだと思います。時とともにそういう雰囲気にも変化が生じたかもしれませんが、当時は非常に閉鎖的でした。もっとも(ドーリス・ハンフリーなど)他のモダン.ダンスのダンサーたちのところでも。似たりよったりだったのですが。ひとつのグループに属している以上、他の誰とであっても、何もできないというのが一種の暗黙の了解でした。私がクラシック・バレエの仕事をし始めた時、モダン・ダンスのダンサーたちの多くは、奇妙なことをするやつだと、ほとんど気違い扱いでした。もっとも私は、自分がクラシック・バレエの勉強をしてみたいという気持ちで始めたのですから、人が何を言おうと気にはしませんでしたけれど。
画家のグループと知りあいになり始めたちょうど同じころ、ジョン.ケージを介して音楽家たちとの往き来も始まりました。1944年に私たちが例の第一回目のコンサートを催した時、私たちを見にきてくれた観客は数の上ではもちろん少なかったのですが、その大半はこれらのアーティストたちだったのです。ダンサー仲間はほとんど来てくれず、たぶんグラハム舞踊団の何人かが見にきてくれていたと思うのですが、誰だったのかも思い出せません。いずれにしろはっきりと覚えていることは、新しい可能性の開拓に興味を持ってくれた、たくさんの画家や若い音楽家たちのことで、ダンサーたちは記憶の外なのです。ーーー いづれにしろ、私は自分の仕事を進めていけばいくだけ、モダン・ダンスの仲間とのあいだに距離を置くようになり、事実そうならざるをえなかったのです。」(訳 石井啓子)
カニングハムは、1946年にマーサ・グラハム舞踊団を去ることになる。その後、カニングハムとケージの2人は巡業に出かけるが、ノース・カロライナにあるブラック・マウンテン・カレッジの夏期講習会に招かれる。2人にとって、これが思いがけない幸運となった。そこに集結している、大勢の優れた前衛の画家、音楽家、詩人たちに出会うことができたからだ。
とくに、ジョン・ケージが企画したエリック・サティ=フェスティバルの『メドゥーサの罠』では尊敬するバックミンスター・フラーと関わることができたのである。この後の52年に再度招待された際には、画家のロバート・ラウシェンバーグと初めてそこで知り合い、その後のカニングハム舞踊団の協力者となる。
このブラック・マウンテン・カレッジは、芸術家たちに自由な場を与えていたので2人は計らずも実験の場を得たことになる。
また、そこに集まった詩人たちはブラック・マウンテン派を形成し、サンフランシスコ派のビート詩人たちと呼応して、時代の風潮を変えつつあった。
カニングハムにとってのブラック・マウンテンは、後のトリシャ・ブラウンやイヴンヌ・レイナーらのジャドソン・チャーチに匹敵する。
この時点では、もちろんポスト・モダンという名称は生じてはいない。しかし、ポストモダンダンスはこの時から芽生え始めていた、と思う。
カニングハムは踊りの技術を与えられたものとしてでなく、自分のからだで納得した上で動きをつくり出そうとし続けた。そして同時に、人間の感性をいかにして越えられるかを動物を対象に研究してもいた。また、コンピュータ技術が発達した80年代に入ったとき、誰よりも率先してそれを振り付けに応用したのはカニングハムだったのである。
ポストモダンダンスを語ろうとし、また自らを納得させるために歴史への解釈を辿ろうとしたのだが、カテゴリーの落とし穴に入る寸前にカニングハムとケージの息吹に触れ、思いをあらたにしている。ポストモダンダンスはスタイルや傾向ではないのだ。デリダがいう無意識のエネルギーがつくる“差延”の働きの交錯が、すでにこの時代に“脱構築”のポストモダンを準備していたのだ。
Wednesday, January 30, 2008
ポストモダン(1)
ケイの関わったアメリカのポストモダンダンスについて、ここで触れておきたい。ポストモダンとポストモダニズム、あるいはポストモダニズムとデリダの“脱構築”との関係についは、詳しくは、このブログの後で1984年以降のパフォーマンス活動を語る際に検討する積もりだが、その前にこのアメリカのポストモダンダンスに触れるに当たって、その論議対象の全体の構図を設定しておきたい。
そうしないと、ポストモダンダンスの展開もポストモダンの傾向の範囲内で動いてきたわけで、その大枠を掴んでおかないと歴史の判断を誤ることになるかもしれない。
この問題はひじょうに複雑化しているので、その歴史的な区切りと、その傾向を動かした重要事項をおさえて置かないと、明確なイメージを描くことは難しい。そして、これはすでに歴史としてすでに過ぎ去った芸術の傾向または時代思想ではなく、私の思いでは、これらを釈明しないかぎり前へ進めない状況なのである。
そこで先ず直接問題を提案したことによって起こった、区切りから始めることにします。一つは1977年のイギリスの批評家、チャールズ・ジェンクスの著作『ポストモダンの建築言語』、もうひとつは1979年のフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』という書物によるものである。
前者はポストモダンを、後者はポストモダニズムを問題としているのだが、やがて傾向と思想とが、モダンと近代が、さらにモダンと近代の時間範囲がそれぞれの対象によって違って捉えられ、論議が交差し、ますます混乱しているのである。
ポストモダンに関しては、前記のように、最初に建築の側から問題視されたので、その当初の状況と建築に関する傾向については『ポストモダンの時代と建築 磯崎新対談』(鹿島出版社)、『週間本17 磯崎新 ポスト・モダン原論』(朝日出版社)、『新・建築学入門』(隈 研吾 ちくま新書)などを参照していただきたい。
だが、ダンスについてはどうか。それはアメリカから起こったのである。そしてそれをモダンダンスのマーサ・グレハムの舞踊団から離れた時点での、舞踊家のマース・カニングハムと音楽家のジョン・ケージの仕事の発足に置くか、またはその後のトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナーらのジャドソン・ダンス・シアターの創立の時点にするかだ。
その選択にはフランスの哲学者デリダが、1966年にアメリカのジョン・ホプキンズ大学で“脱構築”に関する講演を行なったセンセーションを契機に起こった“脱構築”の風潮を汲む必要がある。しかしケージに関する限り、彼は生まれながらにして脱構築されている人間なのである。そのためカニングハムのダンスはある意味で先行していたのかもしれない。
その他に、ポストモダンのもうひとつの特徴“差異と反復”の問題もる。これもデリダの“差延”と平行して、やはりフランスの哲学者のジル・ドウルーズの同名の『差異と反復』という著書の影響も、その後の80年代のミニマリズムのダンスの動きの思想的な背景となる。
だが、このポストモダンの傾向を単なる目先の時代の兆候として捉えていいものだろうか。音楽の歴史において、“差異と反復”はフーガやソナタ形式にしろ、それを土台にして創られていたので、その方法が壊されたのはロマン主義の感情を主体にした内面描写からなのである。ということは、近代のユーロッパはギリシャのプラトン哲学のイデア(理念)の“同一性”を基準とする知性の概念操作を芸術の伝統の基礎にしていたのである。
それがフロイドの無意識の世界と,20世紀に入ってからの分子化の進行によって、抽象化、還元化に向い、差異と反復の問題が無意識またはエクリチュールの深部でどのように織りなされているのかが問題視されてきたのである。脱構築というのは、これまでの構築のそれらの内部からのひび割れと解釈するといい。
そうしないと、ポストモダンダンスの展開もポストモダンの傾向の範囲内で動いてきたわけで、その大枠を掴んでおかないと歴史の判断を誤ることになるかもしれない。
この問題はひじょうに複雑化しているので、その歴史的な区切りと、その傾向を動かした重要事項をおさえて置かないと、明確なイメージを描くことは難しい。そして、これはすでに歴史としてすでに過ぎ去った芸術の傾向または時代思想ではなく、私の思いでは、これらを釈明しないかぎり前へ進めない状況なのである。
そこで先ず直接問題を提案したことによって起こった、区切りから始めることにします。一つは1977年のイギリスの批評家、チャールズ・ジェンクスの著作『ポストモダンの建築言語』、もうひとつは1979年のフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』という書物によるものである。
前者はポストモダンを、後者はポストモダニズムを問題としているのだが、やがて傾向と思想とが、モダンと近代が、さらにモダンと近代の時間範囲がそれぞれの対象によって違って捉えられ、論議が交差し、ますます混乱しているのである。
ポストモダンに関しては、前記のように、最初に建築の側から問題視されたので、その当初の状況と建築に関する傾向については『ポストモダンの時代と建築 磯崎新対談』(鹿島出版社)、『週間本17 磯崎新 ポスト・モダン原論』(朝日出版社)、『新・建築学入門』(隈 研吾 ちくま新書)などを参照していただきたい。
だが、ダンスについてはどうか。それはアメリカから起こったのである。そしてそれをモダンダンスのマーサ・グレハムの舞踊団から離れた時点での、舞踊家のマース・カニングハムと音楽家のジョン・ケージの仕事の発足に置くか、またはその後のトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナーらのジャドソン・ダンス・シアターの創立の時点にするかだ。
その選択にはフランスの哲学者デリダが、1966年にアメリカのジョン・ホプキンズ大学で“脱構築”に関する講演を行なったセンセーションを契機に起こった“脱構築”の風潮を汲む必要がある。しかしケージに関する限り、彼は生まれながらにして脱構築されている人間なのである。そのためカニングハムのダンスはある意味で先行していたのかもしれない。
その他に、ポストモダンのもうひとつの特徴“差異と反復”の問題もる。これもデリダの“差延”と平行して、やはりフランスの哲学者のジル・ドウルーズの同名の『差異と反復』という著書の影響も、その後の80年代のミニマリズムのダンスの動きの思想的な背景となる。
だが、このポストモダンの傾向を単なる目先の時代の兆候として捉えていいものだろうか。音楽の歴史において、“差異と反復”はフーガやソナタ形式にしろ、それを土台にして創られていたので、その方法が壊されたのはロマン主義の感情を主体にした内面描写からなのである。ということは、近代のユーロッパはギリシャのプラトン哲学のイデア(理念)の“同一性”を基準とする知性の概念操作を芸術の伝統の基礎にしていたのである。
それがフロイドの無意識の世界と,20世紀に入ってからの分子化の進行によって、抽象化、還元化に向い、差異と反復の問題が無意識またはエクリチュールの深部でどのように織りなされているのかが問題視されてきたのである。脱構築というのは、これまでの構築のそれらの内部からのひび割れと解釈するといい。
Saturday, January 19, 2008
『ランチ』前後のケイ・タケイ(2)
ケイのフルブライト給費生としての留学前の、日本での舞台歴を辿ってみよう。
1965年1月 グループVAV公演(朝日ホール)『傾斜の存在』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 武井 慧 三浦一壮 西森守・出演
1966年3月 アルトー館第1回公演(草月ホール)『爆弾』 河野典生・作 MJQ・曲 及川廣信・演出 及川廣信 後藤博道 武井 慧 高藤 翠 松岡園子・出演
1967年4月 アルトー館第2回公演(草月ホール)『ゲスラー・テル群論』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 土方 巽・主演 武井 慧 大野慶人 石井満隆 笠井 叡 大橋純一 三橋郁夫 吉村 修 城山忠正 堀 澄子・出演
その後、たぶん1968年に、ケイは渡米したのではないだろうか。
そしてジュリアード音楽院在学中の1969年に『ランチ」を発表したのである。つづく「ライトシリーズ」の活動の後、前述のように1977年に10年振りに来日公演を行なったのだが、その翌々年の1979年にも彼女は再度、来日公演を行なっている。これも同じく“ムービング アース”による「ライト シリーズ」の新作品だっ
た。それについての私の『肉体言語』の寸評も以下に紹介しておこう。
「彼女がまだアメリカに渡る前の、踊るモチーフは“怖れ”だった。
その頃の彼女は、小鳥が慌てて羽ばたくような、痙攣する踊りをしていた。しかし、他面、作品を作るときには、自分の内面をよく構図化して網を張り、その中で捕らえられた小鳥のように、怖れの戦きを小刻みに、ダイナミックに踊っていた。作品を客観化しながらも、踊り手の側の、主観がその頃は中心だった。
今度の公演を観て思うことは、彼女は自分も、周りと同じように客観化している。そのために作品は形而上的である。
生身の“怖れ”の生命がいつの間にか消え、物体との抵抗が失せて昇華するということは、アメリカの乾燥度なのか、モダン・ダンスの風土か、異国の独り暮らしのためか。」
ケイの素質とアメリカのダンスの流れとが少しづつ乖離しながらも、その後のミニマリズムやパフォーマンスの動きに取り残されることなく、第一線で自分の位置を保ちつづけて来たことは立派だ。
1965年1月 グループVAV公演(朝日ホール)『傾斜の存在』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 武井 慧 三浦一壮 西森守・出演
1966年3月 アルトー館第1回公演(草月ホール)『爆弾』 河野典生・作 MJQ・曲 及川廣信・演出 及川廣信 後藤博道 武井 慧 高藤 翠 松岡園子・出演
1967年4月 アルトー館第2回公演(草月ホール)『ゲスラー・テル群論』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 土方 巽・主演 武井 慧 大野慶人 石井満隆 笠井 叡 大橋純一 三橋郁夫 吉村 修 城山忠正 堀 澄子・出演
その後、たぶん1968年に、ケイは渡米したのではないだろうか。
そしてジュリアード音楽院在学中の1969年に『ランチ」を発表したのである。つづく「ライトシリーズ」の活動の後、前述のように1977年に10年振りに来日公演を行なったのだが、その翌々年の1979年にも彼女は再度、来日公演を行なっている。これも同じく“ムービング アース”による「ライト シリーズ」の新作品だっ
た。それについての私の『肉体言語』の寸評も以下に紹介しておこう。
「彼女がまだアメリカに渡る前の、踊るモチーフは“怖れ”だった。
その頃の彼女は、小鳥が慌てて羽ばたくような、痙攣する踊りをしていた。しかし、他面、作品を作るときには、自分の内面をよく構図化して網を張り、その中で捕らえられた小鳥のように、怖れの戦きを小刻みに、ダイナミックに踊っていた。作品を客観化しながらも、踊り手の側の、主観がその頃は中心だった。
今度の公演を観て思うことは、彼女は自分も、周りと同じように客観化している。そのために作品は形而上的である。
生身の“怖れ”の生命がいつの間にか消え、物体との抵抗が失せて昇華するということは、アメリカの乾燥度なのか、モダン・ダンスの風土か、異国の独り暮らしのためか。」
ケイの素質とアメリカのダンスの流れとが少しづつ乖離しながらも、その後のミニマリズムやパフォーマンスの動きに取り残されることなく、第一線で自分の位置を保ちつづけて来たことは立派だ。
Friday, January 18, 2008
『ランチ』前後のケイ・タケイ(1)
ケイは『ランチ』の成功の後、「ライト シリーズ」で作品の発表を続け、アメリカ公演だけでなくカナダ、イスラエル、スペインなど海外公演も行なううちに、彼女の人気も高まり、しだいに教えを求める生徒も集まり、やがて“ムービング・アース”という舞踊団を結成する。
その活躍の噂は、情報が切断されていた当時の情勢の中でも耳に聴こえて来たが、1977年に突然彼女は“ムービング・アース”という一団を引連れて来日公演をする。作品は「ライト シリーズ」。
それについての私の寸評を、当時の同人誌「肉体言語」(9号)から抜き取って以下に紹介しよう。タイトルは「向う側から来たケイ・タケイ」。
「向う側とはアメリカのことでなく、未知の鬼の住む国のことである。
※ 舞台奥の垂れ幕の中央に、日の丸のように暗黒の穴が空いている。その前面に四角に敷きつめられた仮りの場。人間どもは暗黒の片隅から這い出て、ロボットのように生活する。一人は算えて、奥の暗い穴にボールを投ずる。
※ 「あんたがたどこさ、肥後どこさ」小石をもてあそぶ子供の遊びが、いつの間にか賽の河原の場面となる。小石で作られたサークルの内と外。子供と鬼の世界、やがてサークルがいろいろと形を変え、魔術的に働くサインとなる。
1977年の夏、彼女は10年振りにやって来た。アメリカの市民権を得たという。その時、私にお土産にくれた
ものは、直径約4㎝の、丸味を帯びた平たい、なんの変哲もない石だった。ただ珍しいことに、その真ん中に、直径1㎝ほどの穴が空いている。彼女はそれにプルーのリボンを通して結んであった。アメリカのどこかの地区の川縁にだけある石だという。
ベケットの小説の中に、放浪しながら小石をポケットに入れて、手でそっと触れる男の話がある。私も小石が好きだが、小石を好きなのは分裂質の人間なのだ。硬質の手触り。この世界のリアリティの殻の固さ。その穴の向う側にひそむ、暗黒の未知の世界。そこから生まれて来たが、死がひっそりとそこに待ち構えている。
ケイ・タケイは、小石が秘めるそのぎりぎりの意識を、あの作品の中に構造化して見せてくれたのだ。」
その活躍の噂は、情報が切断されていた当時の情勢の中でも耳に聴こえて来たが、1977年に突然彼女は“ムービング・アース”という一団を引連れて来日公演をする。作品は「ライト シリーズ」。
それについての私の寸評を、当時の同人誌「肉体言語」(9号)から抜き取って以下に紹介しよう。タイトルは「向う側から来たケイ・タケイ」。
「向う側とはアメリカのことでなく、未知の鬼の住む国のことである。
※ 舞台奥の垂れ幕の中央に、日の丸のように暗黒の穴が空いている。その前面に四角に敷きつめられた仮りの場。人間どもは暗黒の片隅から這い出て、ロボットのように生活する。一人は算えて、奥の暗い穴にボールを投ずる。
※ 「あんたがたどこさ、肥後どこさ」小石をもてあそぶ子供の遊びが、いつの間にか賽の河原の場面となる。小石で作られたサークルの内と外。子供と鬼の世界、やがてサークルがいろいろと形を変え、魔術的に働くサインとなる。
1977年の夏、彼女は10年振りにやって来た。アメリカの市民権を得たという。その時、私にお土産にくれた
ものは、直径約4㎝の、丸味を帯びた平たい、なんの変哲もない石だった。ただ珍しいことに、その真ん中に、直径1㎝ほどの穴が空いている。彼女はそれにプルーのリボンを通して結んであった。アメリカのどこかの地区の川縁にだけある石だという。
ベケットの小説の中に、放浪しながら小石をポケットに入れて、手でそっと触れる男の話がある。私も小石が好きだが、小石を好きなのは分裂質の人間なのだ。硬質の手触り。この世界のリアリティの殻の固さ。その穴の向う側にひそむ、暗黒の未知の世界。そこから生まれて来たが、死がひっそりとそこに待ち構えている。
ケイ・タケイは、小石が秘めるそのぎりぎりの意識を、あの作品の中に構造化して見せてくれたのだ。」
Wednesday, January 16, 2008
ケイ・タケイの『ランチ』
ケイ・タケイは「今、思いだすこと・・・」の中で次のように語っている。
「ランチの創作に初めて入ったのは、ジュリアードの学生時代である。とても小さくて暗い北向きの窓が一つだけの部屋、その学生寮(インターナショナルハウス)の一室で私は何とも心晴れない日々を送っていた。そして、このベッドの上と、机とベッドの間の細長い空間が私のリハーサルルームであった。外へ出るのも明るいところに出てゆくのも嫌なそんな時期、しかし私には舞踊を志す親友たちがいた。チリのカルメン、ペリーのエルシーとノエミ、ウェルズのマール、彼らは私の発想や動きを“incredible(驚き)”といつも支えてくれた。『ランチ』のなかで私と共に動く女は、このカルメンであった。私は時々、カルメンのアパートへ行く。イーストサイドの貧しい地域、暗い生活を送る人々が集まるところだ。しかし、カルメンと私はこのアパートで踊った。夕方になると56丁目のウェストサイドにあった日本レストラン「ヒデ」にバイトに行く。そしてシーズンになると、カキをテーブルに運ぶのだ。ピカピカ白く光るカキの殻がお皿に残ると、私は嬉しくて、嬉しくて大急ぎでお盆にのせ、裏に運び懸命に集めた。そのカキの殻が『ランチ』の中で白くどこまでも続く細道になった。」
ケイがフルブライト留学生として渡米し、1969年にニューヨークで初めて上演して注目を浴びた作品、彼女がその説明に苦しんで“白昼夢のような”という、この舞踊演劇を観ることを私はながいこと待ち望んでいた。なぜなら、その作品を契機にその後70年代に入ってからの彼女は、アメリカの現代舞踊の最前線の5人のダンサーに選ばれたのだから。
他の4人のダンサーとは誰だろう。あえて彼女に問うてみなかったが、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーについで、ローラ・ディーンとルシンダ・チャイルズだろうか、それともメレディス・モンクとトワイラ・サープなのだろうか。いづれにしろ、ケイはアメリカのポスト・モダンダンスの中心に位置を占めることになったのである。
幸いなことに、ケイのアメリカでのこのデビュー作『ランチ』を昨年2007年の12月29日、シアターXで観ることができた。ショックだった。“白昼夢”どころか恐ろしい衝撃だった。ケイが前もってそれを説明することができなかったように、私もブログでこのダンス劇を説明することができない。どうしてだろうか?
それは、あの1968〜9年という世界的な動乱の時を身をもって経験したものでなくては表出できないものであり、又その頃のアメリカと日本の生活の落差の狭間に放り込まれた一人の若い日本女性にしか描けないものである。
社会に生きるための衣をはぎ取られたままの孤独な女性の痛々しさと、ただひとつの支えとして心に燃えるダンスへの一途な熱意。ただ、それが直接的でなく、寓話的に一匹の猫と2人の女と、一人の男の昼食の場の会話を契機に、人が交わす無意識の流れと、社会の底辺にうごめく無意識と、猫の人間への変身とが同一平面に構成されてゆく。
シュールレアリスムの技法のパターン化をはずしているのだ。無意識がより細分化され、シュールと現実とが連結してシュール自体が現実なのだ。それが、まことに恐ろしい。
その恐ろしさが、あの時代と、ケイのあの頃に置かれた立場から遠く離れた今となっては、当時のアメリカの観客が受けた衝撃を感じれるかどうか疑問だ。
ただ、この『ランチ』があって、次の「ライト シリーズ」の作品に続くことで彼女のアメリカでの評価が決まったのだろう。
「ランチの創作に初めて入ったのは、ジュリアードの学生時代である。とても小さくて暗い北向きの窓が一つだけの部屋、その学生寮(インターナショナルハウス)の一室で私は何とも心晴れない日々を送っていた。そして、このベッドの上と、机とベッドの間の細長い空間が私のリハーサルルームであった。外へ出るのも明るいところに出てゆくのも嫌なそんな時期、しかし私には舞踊を志す親友たちがいた。チリのカルメン、ペリーのエルシーとノエミ、ウェルズのマール、彼らは私の発想や動きを“incredible(驚き)”といつも支えてくれた。『ランチ』のなかで私と共に動く女は、このカルメンであった。私は時々、カルメンのアパートへ行く。イーストサイドの貧しい地域、暗い生活を送る人々が集まるところだ。しかし、カルメンと私はこのアパートで踊った。夕方になると56丁目のウェストサイドにあった日本レストラン「ヒデ」にバイトに行く。そしてシーズンになると、カキをテーブルに運ぶのだ。ピカピカ白く光るカキの殻がお皿に残ると、私は嬉しくて、嬉しくて大急ぎでお盆にのせ、裏に運び懸命に集めた。そのカキの殻が『ランチ』の中で白くどこまでも続く細道になった。」
ケイがフルブライト留学生として渡米し、1969年にニューヨークで初めて上演して注目を浴びた作品、彼女がその説明に苦しんで“白昼夢のような”という、この舞踊演劇を観ることを私はながいこと待ち望んでいた。なぜなら、その作品を契機にその後70年代に入ってからの彼女は、アメリカの現代舞踊の最前線の5人のダンサーに選ばれたのだから。
他の4人のダンサーとは誰だろう。あえて彼女に問うてみなかったが、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーについで、ローラ・ディーンとルシンダ・チャイルズだろうか、それともメレディス・モンクとトワイラ・サープなのだろうか。いづれにしろ、ケイはアメリカのポスト・モダンダンスの中心に位置を占めることになったのである。
幸いなことに、ケイのアメリカでのこのデビュー作『ランチ』を昨年2007年の12月29日、シアターXで観ることができた。ショックだった。“白昼夢”どころか恐ろしい衝撃だった。ケイが前もってそれを説明することができなかったように、私もブログでこのダンス劇を説明することができない。どうしてだろうか?
それは、あの1968〜9年という世界的な動乱の時を身をもって経験したものでなくては表出できないものであり、又その頃のアメリカと日本の生活の落差の狭間に放り込まれた一人の若い日本女性にしか描けないものである。
社会に生きるための衣をはぎ取られたままの孤独な女性の痛々しさと、ただひとつの支えとして心に燃えるダンスへの一途な熱意。ただ、それが直接的でなく、寓話的に一匹の猫と2人の女と、一人の男の昼食の場の会話を契機に、人が交わす無意識の流れと、社会の底辺にうごめく無意識と、猫の人間への変身とが同一平面に構成されてゆく。
シュールレアリスムの技法のパターン化をはずしているのだ。無意識がより細分化され、シュールと現実とが連結してシュール自体が現実なのだ。それが、まことに恐ろしい。
その恐ろしさが、あの時代と、ケイのあの頃に置かれた立場から遠く離れた今となっては、当時のアメリカの観客が受けた衝撃を感じれるかどうか疑問だ。
ただ、この『ランチ』があって、次の「ライト シリーズ」の作品に続くことで彼女のアメリカでの評価が決まったのだろう。
Wednesday, December 05, 2007
演出意図(3)
最初、この劇場の天井の高さと客席の狭さに戸惑った。
しかし、今じぶんの考えている日本の芸能の本質的な流れを、その空間形式によって試みることができるのではないか、と思ったのです。
私は、日本の伝統芸能のうち茶道を第一と考えています。それは禅の教えを基本とし、建築、華道、能楽、絵画、書、庭園、香りと食の道など、生活を基盤とした総合芸術である。
そこには主人の招きによって客人は参加し、なんらかの実世界にはない“ゆとり”と“精神性”を得て帰るのです。これには客席が少ない方がいい。
茶道の動作は能楽からきている。出演者の精神性が同じように求められる。場面の配列は、出だしの瀧と影の部分を一番目ものの「脇能」(全員)として、二番目ものは「修羅」(山下浩人)、三番目の「女もの」は「女面」(村田みほ子)とした。四番目は「狂女」(浅沼尚子)、五番目の「切能」は「切り」(及川廣信)とした。
演技形式に関しては舞踏の“アチチュード”に対して“ジェスチャー”部門を強調し、肉体の枠から逸脱する演技空間と、面からはじまる身体的表情を重要視した。ダンスの種別は舞踏と区別するため、あえて歌舞伎から歌を除いた“舞妓(ブギ)”とした。
天井の高さは歌舞伎的仕組みで工作し、場所の意味性を移動させることに務めた。「実と虚」の問題、“おくのほそみち”、舞台設定案とこれらの問題は、最初大串孝二から提案されたものである。大串孝二は、ほかに鐘の実音も演奏し、天井裏にて外部空間を演技者として受け持った。
音響の弦間隆は、スピーカーを上に向け、壁に反射させて空中に音響の渦を巻かせ、客席からそれを間接的に聴く音響構成をとった。
照明の坂本明浩は、光と影を精神性の問題として表現し、電燈のほんのりとした色合いから、場面々々の状態を色と捉え、白光の太陽の光りで宇宙の広がりを感じさせる構成をした。
しかし、今じぶんの考えている日本の芸能の本質的な流れを、その空間形式によって試みることができるのではないか、と思ったのです。
私は、日本の伝統芸能のうち茶道を第一と考えています。それは禅の教えを基本とし、建築、華道、能楽、絵画、書、庭園、香りと食の道など、生活を基盤とした総合芸術である。
そこには主人の招きによって客人は参加し、なんらかの実世界にはない“ゆとり”と“精神性”を得て帰るのです。これには客席が少ない方がいい。
茶道の動作は能楽からきている。出演者の精神性が同じように求められる。場面の配列は、出だしの瀧と影の部分を一番目ものの「脇能」(全員)として、二番目ものは「修羅」(山下浩人)、三番目の「女もの」は「女面」(村田みほ子)とした。四番目は「狂女」(浅沼尚子)、五番目の「切能」は「切り」(及川廣信)とした。
演技形式に関しては舞踏の“アチチュード”に対して“ジェスチャー”部門を強調し、肉体の枠から逸脱する演技空間と、面からはじまる身体的表情を重要視した。ダンスの種別は舞踏と区別するため、あえて歌舞伎から歌を除いた“舞妓(ブギ)”とした。
天井の高さは歌舞伎的仕組みで工作し、場所の意味性を移動させることに務めた。「実と虚」の問題、“おくのほそみち”、舞台設定案とこれらの問題は、最初大串孝二から提案されたものである。大串孝二は、ほかに鐘の実音も演奏し、天井裏にて外部空間を演技者として受け持った。
音響の弦間隆は、スピーカーを上に向け、壁に反射させて空中に音響の渦を巻かせ、客席からそれを間接的に聴く音響構成をとった。
照明の坂本明浩は、光と影を精神性の問題として表現し、電燈のほんのりとした色合いから、場面々々の状態を色と捉え、白光の太陽の光りで宇宙の広がりを感じさせる構成をした。
演出意図(2)
先のブログで[肉体]と[形態]ということばが出てきた。そのことばが出てきた背後に表現としての[舞踏]と学問としての[形態学]がある。
舞踏は神秘主義と生命哲学をベースに、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの<ムーブメント>に対して、<アチチュード>を表現形態の基本としている。形態学は医学・生物学の身体と器官のフォルムを対象とする“差異”の比較から始まったものである。元は“人類学”で、分科系の“文化人類学”に対して“差異人類学”ともいった。やがて計測の対象が身体から顔面に向い、また内部は内蔵から大脳に移動した。それがユングなどの影響によって「心理形態学」「唯脳主義」となり、それらをより表出するものとして「顔面表情」が注目されている。ここで、能楽の「面(おもて)」の表情・キャラクターから始まる表現形式があらためて見直されなくてはいけない。
ここで社会学者コントの学説の宇宙的世界/形而上学の世界/リアリズムの世界から敷衍した、古典演劇の宏大な空間の中にいる表現/形而上の空間を感じさせる点と線と角度の幾何学的表現/皮膚と接触と感覚を基盤にするリアリズム表現を思い起していただきたい。
そして、この3つの世界の下部にラカンのいう想像界/象徴界/現実界がどのような位置を占めて交錯しているかが問題なのである。
映像はイメージである。それはラカンのいう想像界に属すると同時に、「実と虚」の“虚”に属する。だが、カメラで対象を写すカメラマンの行為は“実”である。
加藤英弘のつくった映像の、胎蔵マンダラと金剛界マンダラは、虚でありながらこの世界の実像を両面から伝えようとしている。
美術、音楽、舞伎については、次回に記します。
舞踏は神秘主義と生命哲学をベースに、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの<ムーブメント>に対して、<アチチュード>を表現形態の基本としている。形態学は医学・生物学の身体と器官のフォルムを対象とする“差異”の比較から始まったものである。元は“人類学”で、分科系の“文化人類学”に対して“差異人類学”ともいった。やがて計測の対象が身体から顔面に向い、また内部は内蔵から大脳に移動した。それがユングなどの影響によって「心理形態学」「唯脳主義」となり、それらをより表出するものとして「顔面表情」が注目されている。ここで、能楽の「面(おもて)」の表情・キャラクターから始まる表現形式があらためて見直されなくてはいけない。
ここで社会学者コントの学説の宇宙的世界/形而上学の世界/リアリズムの世界から敷衍した、古典演劇の宏大な空間の中にいる表現/形而上の空間を感じさせる点と線と角度の幾何学的表現/皮膚と接触と感覚を基盤にするリアリズム表現を思い起していただきたい。
そして、この3つの世界の下部にラカンのいう想像界/象徴界/現実界がどのような位置を占めて交錯しているかが問題なのである。
映像はイメージである。それはラカンのいう想像界に属すると同時に、「実と虚」の“虚”に属する。だが、カメラで対象を写すカメラマンの行為は“実”である。
加藤英弘のつくった映像の、胎蔵マンダラと金剛界マンダラは、虚でありながらこの世界の実像を両面から伝えようとしている。
美術、音楽、舞伎については、次回に記します。
Tuesday, December 04, 2007
演出意図(1)
12月1日(土)、2日(日)のキッド・アイラック・アート・ホールでの“アートは症状である”の3回公演は無事終了致しました。ご来場いただきました皆様方に深く御礼申し上げます。
さて、今回の公演のねらいは、先に申し上げた通り「実と虚」の問題を出発点としておりますが、それから思考が“おくのほそみち”を辿って、なにやら明るさを見出したような気がします。そのことを前のブログを受け継いだかたちで語ってゆくことにします。
先ず、ルイ・アラゴンとシュル・リアリスムのことから入りましょう。シュル・リアリスムは超現実主義と訳されています。シュル・リアリスムの提唱者のルイ・アラゴンはフロイトの精神分析から影響され、それを文学に適用したのですが、無意識の世界を、現実の世界とは離れた“夢”と通底する世界と捉えている。
ところが、シュル・リアリスム運動に参加したアントナン・アルトーは幼児に脳膜炎を煩い、以後、生涯頭痛と神経症に悩まされつづける。それゆえ、彼にとっては無意識の世界こそが現実の世界であったのです。この点で彼だけが、シュルな運動をしているのではなく、そこにこそ現実のリアリスムがあったのです。
じぶんの意識が置かれている処が、リアルな場所なので、日常的な現実の方が架空なのです。それは仏教がこの世を仮空と捉えるのに相似している。ただ、仏教のばあいは、“こころ”のみが唯一、確かなもので、この世には実体がない、としているのです。この「ない」は“無”とは違う。“空”です。“空”は“無”でもあり、“有”でもあるもの。このあたりに仏教のややこしさがあります。
そこは“物自体”、“物そのもの”が置かれてもいい格好な場所かもしれません。人間でいえば衣服を脱いだ裸の身体から、さらに意味と価値をはぎ取られた[肉体]が。
しかし、その肉体の中に内蔵があり、骨があり、細胞があるー それらを切断する。<分節化>し、<分子化>する。(この2つが、形而上学の世界と宇宙的世界の、それぞれの下部空間における変身的身体表現。ムーンとマーキュリーとサタンが交互に表出する)
そこに、いわば[形態]を排除された断片と浮遊する分子群の動きの様態を見ることができます。それが“象徴界”をはぎ取られた、最終的な“現実界”なので、現象、物体の中にもそれを感じとれる人にとっては、それがリアルな現実の世界なのです。
ラカンが理論化する前に感じとった現実界は、たぶんアルトーが感じとったものとは違うかもしれません。しかし、この下部の“現実界”から、慣習と意味性と視覚の幻覚をまとった日常の世界を眺めていたのでしょう。
ラカンの理論は難解といわれます。ある高名な精神医学者がラカンの講座に出席したが、「なにが何だか皆目分からなかった」と告白してくれましたが、ラカンのいう、日常の地下にあるこの“現実界”を知ったものでないと理解できない筈なのです。
では、ラカン自身は、なぜそれを知り得たのでしょうか。私の推測では、それはアルトーからではなく、ジョルジュ・バタイユからの影響だと思うのです。
さて、今回の公演のねらいは、先に申し上げた通り「実と虚」の問題を出発点としておりますが、それから思考が“おくのほそみち”を辿って、なにやら明るさを見出したような気がします。そのことを前のブログを受け継いだかたちで語ってゆくことにします。
先ず、ルイ・アラゴンとシュル・リアリスムのことから入りましょう。シュル・リアリスムは超現実主義と訳されています。シュル・リアリスムの提唱者のルイ・アラゴンはフロイトの精神分析から影響され、それを文学に適用したのですが、無意識の世界を、現実の世界とは離れた“夢”と通底する世界と捉えている。
ところが、シュル・リアリスム運動に参加したアントナン・アルトーは幼児に脳膜炎を煩い、以後、生涯頭痛と神経症に悩まされつづける。それゆえ、彼にとっては無意識の世界こそが現実の世界であったのです。この点で彼だけが、シュルな運動をしているのではなく、そこにこそ現実のリアリスムがあったのです。
じぶんの意識が置かれている処が、リアルな場所なので、日常的な現実の方が架空なのです。それは仏教がこの世を仮空と捉えるのに相似している。ただ、仏教のばあいは、“こころ”のみが唯一、確かなもので、この世には実体がない、としているのです。この「ない」は“無”とは違う。“空”です。“空”は“無”でもあり、“有”でもあるもの。このあたりに仏教のややこしさがあります。
そこは“物自体”、“物そのもの”が置かれてもいい格好な場所かもしれません。人間でいえば衣服を脱いだ裸の身体から、さらに意味と価値をはぎ取られた[肉体]が。
しかし、その肉体の中に内蔵があり、骨があり、細胞があるー それらを切断する。<分節化>し、<分子化>する。(この2つが、形而上学の世界と宇宙的世界の、それぞれの下部空間における変身的身体表現。ムーンとマーキュリーとサタンが交互に表出する)
そこに、いわば[形態]を排除された断片と浮遊する分子群の動きの様態を見ることができます。それが“象徴界”をはぎ取られた、最終的な“現実界”なので、現象、物体の中にもそれを感じとれる人にとっては、それがリアルな現実の世界なのです。
ラカンが理論化する前に感じとった現実界は、たぶんアルトーが感じとったものとは違うかもしれません。しかし、この下部の“現実界”から、慣習と意味性と視覚の幻覚をまとった日常の世界を眺めていたのでしょう。
ラカンの理論は難解といわれます。ある高名な精神医学者がラカンの講座に出席したが、「なにが何だか皆目分からなかった」と告白してくれましたが、ラカンのいう、日常の地下にあるこの“現実界”を知ったものでないと理解できない筈なのです。
では、ラカン自身は、なぜそれを知り得たのでしょうか。私の推測では、それはアルトーからではなく、ジョルジュ・バタイユからの影響だと思うのです。
Friday, November 30, 2007
舞台空間
社会学の創始者といわれる19世紀のエマヌエル・コントの説は、舞台を創る場合にひじょうに参考になる。
彼によると、ギリシャ時代の人間は宇宙的世界に生きており、ルネッサスから18世紀までの人たちの思考は形而上学的であり、コントの時代である19世紀は、現実的なリアリズムの世界だというのである。
それを舞台芸術に当てはめて考えると、古代ギリシャ劇とローマ時代の中世の神秘劇、それに日本の能楽は、たしかに宇宙的な空間の中で演じられている。能楽はそれに幾何学的な構図があるから中世的な要素も加えられているが。また、ルネッサンスに発生したオペラ・バレエの空間表現は、なるほど幾何学的な、点、線、角度の上に演じられ、腕は直接からだに触れられることはなく、舞台の空間構図、演技者の身体表現すべてが幾何学的な構図に乗っている。
ここで、はなはだ興味を惹かれるのは九鬼周造という日本の哲学者の著した『いきの構造』という本の中の“ものの考え方”である。九鬼はハイデッカーの下で学んだというが、かならずしも、現象学という理論だけでは捉えられないものがある。日本伝来の感性から生まれた直観的な“遊びの自由さ”にあふれている。そして、このコントの形而上学的な空間構造が、彼が説く歌舞伎の形式に相応するとしても、観念の網の目から抜け落ちた部分にこそ彼の目は注がれ、小唄の情緒的な音声にこそ、この時代区分の特性を見ているのである。
それに、歌舞伎の隆盛時の江戸時代は、もはや中世的な文楽の形式に近代的なリアリズムの演技を加えつつあったのである。
ところで、19世紀以来のリアリズムの世界に生きるわれわれにとって、“リアルな表現”とはいったい何か。リアルな感覚、直接的な感性、生理的な体感。より直接的な“物そのもの”に当たる身体的な実感にこそリアリズムの土台がある、と人々は考えていた。
ところが19世紀末に、はからずもフロイトのような人間の内面に関心を持つ人間が現れたのである。
それは、日常生活の表の部分とちょくせつ連動する人間の内的心理とは違う。人間のこころの奥に潜む深層心理と、その葛藤のコンプレックスを扱ったものである。その深層心理が隠された通路を通って現実の目に見える人間の生活を動かす、という。
現実の事象を逆転させる視点が提出されたのである。
ならば、演劇空間としては、19世紀のコントが考えた3つの空間理念に、またひとつ内部空間を追加したらいいのであろうか?
しかし、ここで「現実」とはいったい何か?「リアリズム」とはどこまでを言うのか? という疑問が湧いてくる。
この問いに対して、ジャック.ラカンとアントナン・アルトーが登場してくることになる。
彼によると、ギリシャ時代の人間は宇宙的世界に生きており、ルネッサスから18世紀までの人たちの思考は形而上学的であり、コントの時代である19世紀は、現実的なリアリズムの世界だというのである。
それを舞台芸術に当てはめて考えると、古代ギリシャ劇とローマ時代の中世の神秘劇、それに日本の能楽は、たしかに宇宙的な空間の中で演じられている。能楽はそれに幾何学的な構図があるから中世的な要素も加えられているが。また、ルネッサンスに発生したオペラ・バレエの空間表現は、なるほど幾何学的な、点、線、角度の上に演じられ、腕は直接からだに触れられることはなく、舞台の空間構図、演技者の身体表現すべてが幾何学的な構図に乗っている。
ここで、はなはだ興味を惹かれるのは九鬼周造という日本の哲学者の著した『いきの構造』という本の中の“ものの考え方”である。九鬼はハイデッカーの下で学んだというが、かならずしも、現象学という理論だけでは捉えられないものがある。日本伝来の感性から生まれた直観的な“遊びの自由さ”にあふれている。そして、このコントの形而上学的な空間構造が、彼が説く歌舞伎の形式に相応するとしても、観念の網の目から抜け落ちた部分にこそ彼の目は注がれ、小唄の情緒的な音声にこそ、この時代区分の特性を見ているのである。
それに、歌舞伎の隆盛時の江戸時代は、もはや中世的な文楽の形式に近代的なリアリズムの演技を加えつつあったのである。
ところで、19世紀以来のリアリズムの世界に生きるわれわれにとって、“リアルな表現”とはいったい何か。リアルな感覚、直接的な感性、生理的な体感。より直接的な“物そのもの”に当たる身体的な実感にこそリアリズムの土台がある、と人々は考えていた。
ところが19世紀末に、はからずもフロイトのような人間の内面に関心を持つ人間が現れたのである。
それは、日常生活の表の部分とちょくせつ連動する人間の内的心理とは違う。人間のこころの奥に潜む深層心理と、その葛藤のコンプレックスを扱ったものである。その深層心理が隠された通路を通って現実の目に見える人間の生活を動かす、という。
現実の事象を逆転させる視点が提出されたのである。
ならば、演劇空間としては、19世紀のコントが考えた3つの空間理念に、またひとつ内部空間を追加したらいいのであろうか?
しかし、ここで「現実」とはいったい何か?「リアリズム」とはどこまでを言うのか? という疑問が湧いてくる。
この問いに対して、ジャック.ラカンとアントナン・アルトーが登場してくることになる。
Thursday, November 29, 2007
「アートは症状である」の構成
《アートは症状である》
ー おくのほそみち ー
2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
まず、“おくのほそみち”の細部から入ること。ダンス・パフォーマンスの進行、構成は以下の通りです。
開演 VTRスタート 瀧のVTR + シルエット 3'30"
1場 修羅(山下浩人) ほんのりとした電燈の色合い 10'00"
2場 女面(村田みほ子)状況としての色がかわる 10'00"
3場 狂女(浅沼尚子) 状況としての色がかわる 10'00"
4場 切り(及川廣信) ちょっと明るく 12'00"
胎臟マンダラ 金剛界マンダラ
ラスト 再生(浅沼/村田/山下) 6'00"
太陽の光 青白い明るい光り
オーゼの死 地底にとぐろ巻くへび 耳 宇宙への聴覚
瀧の逆流するVTR 照明 F.O VTRが終わる 客電 計)51'30"
たちこめるそらいちめんのむらさきのくも
荒川堤赤水門河川敷
ころされたおとこのしたいがそこにみえる
てれびでみたえいがのひとこま
はなしの虚のなかの実のからだ
わたしはいまここにたっている
ゆったりとしたみづのながれと
きしベにうごくくさぐさの細部
象徴界地底現実界曼陀羅図
ほそみちをおりてゆくひとの影
おくにきこえるぴあののおとはー
この作品は「虚と実」をテーマにしています。虚と実は、“アートは症状である”という名言を発した精神分析家のラカンの理論によると、<実>は“現実界”に、<虚>は“象徴界”に当たります。彼のいう“現実界”というのは、日常のリアルな世界ではなく、リアルな現実の中に潜む“物自体”ともいうべき世界です。その上を覆っているのが“象徴界”で、言語を基底に意味作用をなす世界です。
われわれは、混合した2つの世界の境界において、空間表現の側からそのテーマに当たるため、地上と地下、太陽と影の面からそれに向ってゆくことにしました。アートの各分野からのコラボレーションによるものです。
ー おくのほそみち ー
2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
まず、“おくのほそみち”の細部から入ること。ダンス・パフォーマンスの進行、構成は以下の通りです。
開演 VTRスタート 瀧のVTR + シルエット 3'30"
1場 修羅(山下浩人) ほんのりとした電燈の色合い 10'00"
2場 女面(村田みほ子)状況としての色がかわる 10'00"
3場 狂女(浅沼尚子) 状況としての色がかわる 10'00"
4場 切り(及川廣信) ちょっと明るく 12'00"
胎臟マンダラ 金剛界マンダラ
ラスト 再生(浅沼/村田/山下) 6'00"
太陽の光 青白い明るい光り
オーゼの死 地底にとぐろ巻くへび 耳 宇宙への聴覚
瀧の逆流するVTR 照明 F.O VTRが終わる 客電 計)51'30"
たちこめるそらいちめんのむらさきのくも
荒川堤赤水門河川敷
ころされたおとこのしたいがそこにみえる
てれびでみたえいがのひとこま
はなしの虚のなかの実のからだ
わたしはいまここにたっている
ゆったりとしたみづのながれと
きしベにうごくくさぐさの細部
象徴界地底現実界曼陀羅図
ほそみちをおりてゆくひとの影
おくにきこえるぴあののおとはー
この作品は「虚と実」をテーマにしています。虚と実は、“アートは症状である”という名言を発した精神分析家のラカンの理論によると、<実>は“現実界”に、<虚>は“象徴界”に当たります。彼のいう“現実界”というのは、日常のリアルな世界ではなく、リアルな現実の中に潜む“物自体”ともいうべき世界です。その上を覆っているのが“象徴界”で、言語を基底に意味作用をなす世界です。
われわれは、混合した2つの世界の境界において、空間表現の側からそのテーマに当たるため、地上と地下、太陽と影の面からそれに向ってゆくことにしました。アートの各分野からのコラボレーションによるものです。
Wednesday, November 28, 2007
「アートは症状である」の第2回公演
《アートは症状である》
ー おくのほそみち ー
2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
空間演出:大串孝二/構成演出:及川廣信/ 映像構成:加藤英弘
音楽構成:弦間 隆/照明構成:坂本明浩/スタッフ:渡辺アルト
“アートは症状である”の今回は、<美術を前提>にして、各分野のアーティストが関わっています。互いに話し合っているうちに、最初に浮かび上がったのは「虚と実」の問題で、このことが中心となってさらにいろいろなことが討論されたようです。というのは、各ジャンルによって技法が異なりますし、技術の上からしか新しいアイデアは生まれないからです。
今は精神医学と社会学が勢いがいい時代です。われわれはその時代の流れに乗るわけではなく、むしろ時代の慢性的な流れの底辺にある忘れられたものを掘り出したいのです。その意味では今の社会学の“レフレクション(回顧)”の方向に同意します。なぜなら、ポスト・モダンということばには、近代は終わったというニューアンスがあるからです。
果たして近代は終わっているのでしょうか。ウェブの世界ではグーテンベルク以来の革命の時期だという観点から、回顧どころか新進化論を唱えている人々がいます。前へ進むものと、振り向くもの、しかし今は一人の人間の中に、この強力な逆方向の引力が働いている時代なのだと思います。
新しい発想、発見。優れた学説や技術があるなら、その中にもぐって、さらに独自なものを創り出せ。ここにも、愚化しない孤高の精神と、共同作業が生み出すものへの期待があります。
アートは症状であるのでしょうか。それは精神医学的症状なのでしょうか。多分それは気質的なものではなく、その時代の意識・感覚を、日常の枠を越えて仮想として表現する(再現 レプレザンタシオン)からなのでしょう。
ー おくのほそみち ー
2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
空間演出:大串孝二/構成演出:及川廣信/ 映像構成:加藤英弘
音楽構成:弦間 隆/照明構成:坂本明浩/スタッフ:渡辺アルト
“アートは症状である”の今回は、<美術を前提>にして、各分野のアーティストが関わっています。互いに話し合っているうちに、最初に浮かび上がったのは「虚と実」の問題で、このことが中心となってさらにいろいろなことが討論されたようです。というのは、各ジャンルによって技法が異なりますし、技術の上からしか新しいアイデアは生まれないからです。
今は精神医学と社会学が勢いがいい時代です。われわれはその時代の流れに乗るわけではなく、むしろ時代の慢性的な流れの底辺にある忘れられたものを掘り出したいのです。その意味では今の社会学の“レフレクション(回顧)”の方向に同意します。なぜなら、ポスト・モダンということばには、近代は終わったというニューアンスがあるからです。
果たして近代は終わっているのでしょうか。ウェブの世界ではグーテンベルク以来の革命の時期だという観点から、回顧どころか新進化論を唱えている人々がいます。前へ進むものと、振り向くもの、しかし今は一人の人間の中に、この強力な逆方向の引力が働いている時代なのだと思います。
新しい発想、発見。優れた学説や技術があるなら、その中にもぐって、さらに独自なものを創り出せ。ここにも、愚化しない孤高の精神と、共同作業が生み出すものへの期待があります。
アートは症状であるのでしょうか。それは精神医学的症状なのでしょうか。多分それは気質的なものではなく、その時代の意識・感覚を、日常の枠を越えて仮想として表現する(再現 レプレザンタシオン)からなのでしょう。
Sunday, November 25, 2007
こころと空間
モダンダンスからコンテンポラリーダンスへと、時代の流れにそってそのスタイルが変わってきたが、そのどちらが優れているかという優劣は付け難い。
モダンダンスはソロ・ダンスから始まった。したがって内的な自分の内面を描くことができた。それがコンテンポラリーダンスになるに及んで、動きのスピードとダンサーの中性化が起こり、個人的なものから公共的なテーマを選ぶことになった。
空間的な場としては、モダンダンスのばあいにはダンサーの身体を取り巻く曖昧な宇宙空間として捉えられており、コンテンポラリーダンスのばあいは、照明によって幻想的部分が加えられるものの、原則的には躍るためのスペースと計算されているのである。
一方、舞踏の場合は前の2つとは違って日本固有の発想から出た、正しくウェブのオープンソースの世界のようなものだった筈が、ソースコードがオープンになっているようでいて、その実、日本独自の神秘主義的な囲い込みが働いているため、せっかくの進行の道を止めている。舞踏は個人的な心理というより、ユングの集合的無意識に近く、また肉体の“生命哲学”を土台にした踊り、というのがいちばん相応している。
踊り手の肉体が、彼の内部の魂と生命の動きを表現する場となっており、その表象作用が大宇宙に呼応する働きをなしている。
今後、ダンスの道としては、その中間領域にあったポストモダンのダンスとパフォーマンスの試みの方に参考になるものが多く含まれているように思う。
又、“こころ”の面ではラカン、ジジェクが拓いた<想像界、象徴界、現実世界>が、内部空間の分析としてフロイトを継いで、新しいアート空間を築くベースになってくれる。
また、20世紀の量子力学と言語学が導いた“細分化”と“分節化”が“実体と虚像(シミュラークル)”といっしょに世紀の新しい舞台を形成して行くことと思う。
(このことについては、これから記するラベル“おくのほそみち”を参照していただきたい。)
モダンダンスはソロ・ダンスから始まった。したがって内的な自分の内面を描くことができた。それがコンテンポラリーダンスになるに及んで、動きのスピードとダンサーの中性化が起こり、個人的なものから公共的なテーマを選ぶことになった。
空間的な場としては、モダンダンスのばあいにはダンサーの身体を取り巻く曖昧な宇宙空間として捉えられており、コンテンポラリーダンスのばあいは、照明によって幻想的部分が加えられるものの、原則的には躍るためのスペースと計算されているのである。
一方、舞踏の場合は前の2つとは違って日本固有の発想から出た、正しくウェブのオープンソースの世界のようなものだった筈が、ソースコードがオープンになっているようでいて、その実、日本独自の神秘主義的な囲い込みが働いているため、せっかくの進行の道を止めている。舞踏は個人的な心理というより、ユングの集合的無意識に近く、また肉体の“生命哲学”を土台にした踊り、というのがいちばん相応している。
踊り手の肉体が、彼の内部の魂と生命の動きを表現する場となっており、その表象作用が大宇宙に呼応する働きをなしている。
今後、ダンスの道としては、その中間領域にあったポストモダンのダンスとパフォーマンスの試みの方に参考になるものが多く含まれているように思う。
又、“こころ”の面ではラカン、ジジェクが拓いた<想像界、象徴界、現実世界>が、内部空間の分析としてフロイトを継いで、新しいアート空間を築くベースになってくれる。
また、20世紀の量子力学と言語学が導いた“細分化”と“分節化”が“実体と虚像(シミュラークル)”といっしょに世紀の新しい舞台を形成して行くことと思う。
(このことについては、これから記するラベル“おくのほそみち”を参照していただきたい。)
モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(2)
前述した先駆者を含めて、以下のいくつかに分類された領域のダンス傾向を、コンテンポラリーダンスと捉えたい。私はその大きな動きを5つに分類する。
1つは、モーリス・ベジャールが59年にベルギーのブリュッセルのモネ劇場に活動拠点を移し、ストラビンスキーの『春の祭典』成功後の60年には、モネ劇場専属バレエ団「20世紀バレエ団」を結成、新バロック形式のブームを巻き起こす。ヌーベルダンスとして活躍するメンバーとしては、20世紀バレエ団からはドミニック・バグエがその出身者であり、ベジャールが主宰するバレエ学校「ムードラ」からはマギー・マラン、アンリ=テレサ・ド・ケースマイケルなどを排出したこと。
2つ目は、モダンダンスのクルト・ヨースの2人の弟子がアメリカに渡り、そこで新しいダンスの息吹に触れ、帰国後“タンツ セアター”というダンス劇を創造し、ダンス界に旋風を巻き起こしたピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン。それにスザンヌ・リンケを加えてクルト・ヨースの“3人姉妹”という。
それに、マリー・ヴィグマンの流れも含まれるダンス実験集団「ダンス工場ベルリン」を加えておこう。
3つ目は、パリ・オペラ座を発祥とする。アメリカのアルヴィン・ニコライの弟子のカロリン・カールソンがパリ・オペラ座に招かれてモダンダンス研究所GRTOPを創ったのが最初で、それをジャック・ガルニエが継いでGRCOPとなる。周辺にジャン・クロード・ガロッタ、ドミニック・バグエ、また「ムードラ」の出身者たちも加わり、フランスのヌーベルダンスと呼ばれる一派を形成し、ドイツの表現主義に対抗することになる。
4つ目は、ベジャールの場合と同じように、クラシックバレエからの流れなのだが、ドイツのジョン・クランコのシュツットガルト バレエ団を出発点とする、オランダの「ネザーランド・ダンス・シアター」のイリ・キリアンと「フランクフルト・バレエ団」のウィリアム・フォーサイス。それに、「ハンブルク・バレエ団」のジョン・ノイマイヤーもいる。
5つ目は、同じベルギーでもフランス語圏のブリュッセルとは違って、フラマンのアントワープ出身のヤン・ファーブルとその弟子ヴィム・ヴァンデケビュス。
それにカナダの「ラララ・ヒューマン・ステップス」とイスラエルの「バットシェバ舞踊団」を加えようか。英国から入れるなら、マイケル・クラークだ。
日本のモダンダンスとコンテンポラリーダンスとが見分けが付かないのは、コンテンポラリーダンスが始まる以前から、モダンダンサーを対象にして、東京新聞の主催で新人コンクールと現代舞踊展が毎年開催されるうちに、時の流れにつれて二つのジャンルが混同しはじめたからであり、またユーロッパのコンテンポラリーダンスが日本に遅れて吸入されたからでもある。
さらに混乱を招いているのは、江口隆哉・宮操子、邦正美、津田信敏などのモダンダンスとはちがって、モダンバレエという分野が存在していることである。
1912年、チェッケッティの弟子イタリア人のバレエダンサー、ジョバンニ・ビットリオ・ローシーが、帝国劇場に新設された歌劇部の研究生の教師として招聘され、そこで学んだ石井漠と高田雅夫・せい子は独立して舞踊をはじめ、自分たちの踊りをモダンバレエと命名しており、その後継者たちがドイツ系のモダンダンスといっしょになっていて、今になっては判別が付かなくなっている。だが、内実には差がある。
(なお、この記事は「モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界」のテーマに添って、その概略を記したもので、近代以降のダンスの歴史を語ったものではない。そのため当然、重要なイベント、作品、振付け家、ダンサーについて触れていない部分が多々あることを了承していただきたい。)
1つは、モーリス・ベジャールが59年にベルギーのブリュッセルのモネ劇場に活動拠点を移し、ストラビンスキーの『春の祭典』成功後の60年には、モネ劇場専属バレエ団「20世紀バレエ団」を結成、新バロック形式のブームを巻き起こす。ヌーベルダンスとして活躍するメンバーとしては、20世紀バレエ団からはドミニック・バグエがその出身者であり、ベジャールが主宰するバレエ学校「ムードラ」からはマギー・マラン、アンリ=テレサ・ド・ケースマイケルなどを排出したこと。
2つ目は、モダンダンスのクルト・ヨースの2人の弟子がアメリカに渡り、そこで新しいダンスの息吹に触れ、帰国後“タンツ セアター”というダンス劇を創造し、ダンス界に旋風を巻き起こしたピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン。それにスザンヌ・リンケを加えてクルト・ヨースの“3人姉妹”という。
それに、マリー・ヴィグマンの流れも含まれるダンス実験集団「ダンス工場ベルリン」を加えておこう。
3つ目は、パリ・オペラ座を発祥とする。アメリカのアルヴィン・ニコライの弟子のカロリン・カールソンがパリ・オペラ座に招かれてモダンダンス研究所GRTOPを創ったのが最初で、それをジャック・ガルニエが継いでGRCOPとなる。周辺にジャン・クロード・ガロッタ、ドミニック・バグエ、また「ムードラ」の出身者たちも加わり、フランスのヌーベルダンスと呼ばれる一派を形成し、ドイツの表現主義に対抗することになる。
4つ目は、ベジャールの場合と同じように、クラシックバレエからの流れなのだが、ドイツのジョン・クランコのシュツットガルト バレエ団を出発点とする、オランダの「ネザーランド・ダンス・シアター」のイリ・キリアンと「フランクフルト・バレエ団」のウィリアム・フォーサイス。それに、「ハンブルク・バレエ団」のジョン・ノイマイヤーもいる。
5つ目は、同じベルギーでもフランス語圏のブリュッセルとは違って、フラマンのアントワープ出身のヤン・ファーブルとその弟子ヴィム・ヴァンデケビュス。
それにカナダの「ラララ・ヒューマン・ステップス」とイスラエルの「バットシェバ舞踊団」を加えようか。英国から入れるなら、マイケル・クラークだ。
日本のモダンダンスとコンテンポラリーダンスとが見分けが付かないのは、コンテンポラリーダンスが始まる以前から、モダンダンサーを対象にして、東京新聞の主催で新人コンクールと現代舞踊展が毎年開催されるうちに、時の流れにつれて二つのジャンルが混同しはじめたからであり、またユーロッパのコンテンポラリーダンスが日本に遅れて吸入されたからでもある。
さらに混乱を招いているのは、江口隆哉・宮操子、邦正美、津田信敏などのモダンダンスとはちがって、モダンバレエという分野が存在していることである。
1912年、チェッケッティの弟子イタリア人のバレエダンサー、ジョバンニ・ビットリオ・ローシーが、帝国劇場に新設された歌劇部の研究生の教師として招聘され、そこで学んだ石井漠と高田雅夫・せい子は独立して舞踊をはじめ、自分たちの踊りをモダンバレエと命名しており、その後継者たちがドイツ系のモダンダンスといっしょになっていて、今になっては判別が付かなくなっている。だが、内実には差がある。
(なお、この記事は「モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界」のテーマに添って、その概略を記したもので、近代以降のダンスの歴史を語ったものではない。そのため当然、重要なイベント、作品、振付け家、ダンサーについて触れていない部分が多々あることを了承していただきたい。)
Wednesday, November 21, 2007
仲野惠子
仲野惠子をはじめて知ったのは、international dance festival in theater X のGeneral Directer(第1回〜第3回) をやっていたときのことだった。その'94年の第1回のフェスティバルに彼女が選抜されていたのだ。
その時の作品についで3作品を観ているのだが、当時はある程度の水準には達しているが、なにか自分の殻を抜けきれないでいるところがあった。
それが2006年の“現代舞踊展”(東京新聞主催 於メルパルクホール)に参加した彼女の作品『アイネ・クライネ・ブルーネ』では、すっきり抜け切った青天のなかにいる彼女を見出したのである。その公演についで2007年の“現代舞踊展”での『コスミック・ダンス』と、今度の“わびすけ舞踊倶楽部”の『自分の卵』の彼女の作品を観ても作品のレベルが同じ次元を保っている。
当然、彼女自身も承知していることだろうが、『アイネ・クライネ・ブルーネ』の公演の直前に起こった、あの事が原因だったようだ。
それは、彼女がインドネシアのダンス・フェスティバルに招聘されて現地に趣き、公演直前に、彼女にとって何ものにも換え難い、大切な母の危篤を突然知らされたのだ。一応舞台を終え、急いで帰国し、やっと母の死に目に間に合うことが出来たのだが、その時の経験が彼女の存在を根底から変えたようだ。
存在を変えたことが、しぜん彼女の作品を変えたことになる。
踊りというものを“存在”をベースに創りはじめたのである。
仲野惠子の踊りと直接関係したことではないのだが、そこから連想するかたちで、次にモダンダンスとコンテンポラリーダンスの差異を“こころ”と“空間”の側から考えてみることにしよう。
その時の作品についで3作品を観ているのだが、当時はある程度の水準には達しているが、なにか自分の殻を抜けきれないでいるところがあった。
それが2006年の“現代舞踊展”(東京新聞主催 於メルパルクホール)に参加した彼女の作品『アイネ・クライネ・ブルーネ』では、すっきり抜け切った青天のなかにいる彼女を見出したのである。その公演についで2007年の“現代舞踊展”での『コスミック・ダンス』と、今度の“わびすけ舞踊倶楽部”の『自分の卵』の彼女の作品を観ても作品のレベルが同じ次元を保っている。
当然、彼女自身も承知していることだろうが、『アイネ・クライネ・ブルーネ』の公演の直前に起こった、あの事が原因だったようだ。
それは、彼女がインドネシアのダンス・フェスティバルに招聘されて現地に趣き、公演直前に、彼女にとって何ものにも換え難い、大切な母の危篤を突然知らされたのだ。一応舞台を終え、急いで帰国し、やっと母の死に目に間に合うことが出来たのだが、その時の経験が彼女の存在を根底から変えたようだ。
存在を変えたことが、しぜん彼女の作品を変えたことになる。
踊りというものを“存在”をベースに創りはじめたのである。
仲野惠子の踊りと直接関係したことではないのだが、そこから連想するかたちで、次にモダンダンスとコンテンポラリーダンスの差異を“こころ”と“空間”の側から考えてみることにしよう。
Sunday, November 18, 2007
モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(1)
先に記した仲野惠子の作品『自分の卵』は、2007年11月9日(金)、きゅリあん小ホールで行なわれた“わびすけ舞踊倶楽部”(在外研修員ダンスパフォーマンス)の第1回公演の中で行なわれたものである。
この際、ついでにモダンダンスとコンテンポラリーダンスについて触れたい。
いまになって、モダンダスとコンテンポラリーダンスの差は何かと言っても、技法と空間の捉え方(=振付け者の内面)の違いというより、むしろ研究所の歴史とその教授法から来ている。しかし、これは旧い研究所ほど旧いシステムでやっているとは限らず、それなりに努力して改革されていることもあるし、また、その出身の優秀なダンサーが海外に研修生として派遣されるか、または自費で渡航して向こうのダンスグループに加わることもある。
一方、モダンダンスの世界からその独自の主張の下に“舞踏”という名を掲げて分離した土方巽、大野一雄の一派があるが、その中の中心的な3人のメンバー大野慶人、石井満隆、笠井叡のうちの笠井叡はじぶんの踊りの分野をダンスと称している。
ヨーロッパにおいては、舞踏の名になにか東洋の神秘的な幻想を抱く人が多いらしく、日本人の踊りに舞踏という名が付くと、期待または、自分なりに解釈し納得する傾向があるようだ。そしてまた安易にそれを利用する舞踏家もいる。その点からいうと、自ら舞踏の道を拓いた一人である笠井叡が自分の踊りをダンスと名称するのは彼なりの信念からなのだろう。
しかし、ヨーロッパではすべての踊りを総合してダンスというのであって、バレエもダンスクラシックなのである。
こういう風に語って行っても、はっきりしない部分があると思うが、その混乱の一つの原因はダンスの歴史の流れと、欧米からの日本のダンスの受け入れ状況から来ているようだ。
ダンスとバレエの関係をも含めて、これらの世界的な発展の“ねじれ現象”は1954.5年頃から起こっているようだ。その顕著なものとしては、1955年クラシックバレエのモーリス・ベジャールが彼の“エッフェル塔バレエ団”で、作曲家のピエール・アンリとピエール・シェフェールとともに創った『孤独な男のためのシンフォニー』という「具体音楽」をバレエ化している。また同年に、パリオペラ座に戦後はじめて招聘されたニューヨーク・シティ・バレエ団のジョージ・バランシンの作品といっしょにジェローム・ロビンスの作品も招聘され、そのドビュシーの『牧神の午後』(53)では、ロシアンバレエのニジンスキーの振付けとは全くちがって、誰もいない稽古場で、一人の男性舞踊手が鏡に映る自分の踊る姿を見てナルシシスムに浸るのだった。
それと、まだ潜伏されたかたちだったが、サドラーズ・ウェールズ・バレレ団の内部ではジョン・クランコが最初の創作を行ないながらも、居心地の悪さを感じて外部でも活動を開始している。それがやがてドイツのシュツットガルト バレエ団に移転することによって才能が一気に花ひらいて行く。
これが後のコンテンポラリーダンスの基盤となる、準備期の時代と言っていいのであろう。
ダンスの様相の変化が明かになるのは、アメリカからだった。マーサ・グラハムの下を離れて音楽家のジョン・ケージの協力を得、先鋭的な画家たちとコラボレーションを行なったマース・カニングハムのアヴァンチュール。さらに、その研究所の出身者でアンナ・ハルプリンの影響を受けたイヴォンヌ・レイナやトリシャ・ブラウンが中心となって、ジャドソン・チャーチで身体への記号的な新しい試みを行う。
そしてジャドソン・チャーチから場所が移っても、各地でトワイラ・サープ、ルシンダ・チャイルズ、ローラ・ディーン、メレディス・モンクなどが活動の手を広げ、アメリカのポストモダンの運動を展開して行くのである。
また、西海岸ではパフォーマンス活動が後続して起こっており、海を越えては、ピナ・バウシュやヤン・ファーブルが、日本では勅使川原三郎がパフォーマンスを経過して、ポスト・モダンからコンテンポラリーダンスへの橋渡しを担うことになる。
(ただし、ポスト・モダンの名称、概念、時代区分、内容、技術などにについては後述する。)
この際、ついでにモダンダンスとコンテンポラリーダンスについて触れたい。
いまになって、モダンダスとコンテンポラリーダンスの差は何かと言っても、技法と空間の捉え方(=振付け者の内面)の違いというより、むしろ研究所の歴史とその教授法から来ている。しかし、これは旧い研究所ほど旧いシステムでやっているとは限らず、それなりに努力して改革されていることもあるし、また、その出身の優秀なダンサーが海外に研修生として派遣されるか、または自費で渡航して向こうのダンスグループに加わることもある。
一方、モダンダンスの世界からその独自の主張の下に“舞踏”という名を掲げて分離した土方巽、大野一雄の一派があるが、その中の中心的な3人のメンバー大野慶人、石井満隆、笠井叡のうちの笠井叡はじぶんの踊りの分野をダンスと称している。
ヨーロッパにおいては、舞踏の名になにか東洋の神秘的な幻想を抱く人が多いらしく、日本人の踊りに舞踏という名が付くと、期待または、自分なりに解釈し納得する傾向があるようだ。そしてまた安易にそれを利用する舞踏家もいる。その点からいうと、自ら舞踏の道を拓いた一人である笠井叡が自分の踊りをダンスと名称するのは彼なりの信念からなのだろう。
しかし、ヨーロッパではすべての踊りを総合してダンスというのであって、バレエもダンスクラシックなのである。
こういう風に語って行っても、はっきりしない部分があると思うが、その混乱の一つの原因はダンスの歴史の流れと、欧米からの日本のダンスの受け入れ状況から来ているようだ。
ダンスとバレエの関係をも含めて、これらの世界的な発展の“ねじれ現象”は1954.5年頃から起こっているようだ。その顕著なものとしては、1955年クラシックバレエのモーリス・ベジャールが彼の“エッフェル塔バレエ団”で、作曲家のピエール・アンリとピエール・シェフェールとともに創った『孤独な男のためのシンフォニー』という「具体音楽」をバレエ化している。また同年に、パリオペラ座に戦後はじめて招聘されたニューヨーク・シティ・バレエ団のジョージ・バランシンの作品といっしょにジェローム・ロビンスの作品も招聘され、そのドビュシーの『牧神の午後』(53)では、ロシアンバレエのニジンスキーの振付けとは全くちがって、誰もいない稽古場で、一人の男性舞踊手が鏡に映る自分の踊る姿を見てナルシシスムに浸るのだった。
それと、まだ潜伏されたかたちだったが、サドラーズ・ウェールズ・バレレ団の内部ではジョン・クランコが最初の創作を行ないながらも、居心地の悪さを感じて外部でも活動を開始している。それがやがてドイツのシュツットガルト バレエ団に移転することによって才能が一気に花ひらいて行く。
これが後のコンテンポラリーダンスの基盤となる、準備期の時代と言っていいのであろう。
ダンスの様相の変化が明かになるのは、アメリカからだった。マーサ・グラハムの下を離れて音楽家のジョン・ケージの協力を得、先鋭的な画家たちとコラボレーションを行なったマース・カニングハムのアヴァンチュール。さらに、その研究所の出身者でアンナ・ハルプリンの影響を受けたイヴォンヌ・レイナやトリシャ・ブラウンが中心となって、ジャドソン・チャーチで身体への記号的な新しい試みを行う。
そしてジャドソン・チャーチから場所が移っても、各地でトワイラ・サープ、ルシンダ・チャイルズ、ローラ・ディーン、メレディス・モンクなどが活動の手を広げ、アメリカのポストモダンの運動を展開して行くのである。
また、西海岸ではパフォーマンス活動が後続して起こっており、海を越えては、ピナ・バウシュやヤン・ファーブルが、日本では勅使川原三郎がパフォーマンスを経過して、ポスト・モダンからコンテンポラリーダンスへの橋渡しを担うことになる。
(ただし、ポスト・モダンの名称、概念、時代区分、内容、技術などにについては後述する。)
Saturday, November 10, 2007
仲野惠子の『自分の卵』
ステージ中央前にあるガラスの花。左右の天井からスポットライトが当たっている。それがこれから踊られる『自分の卵』と、どのような繋がりを持つのだろうと考えているうちにベルが鳴り舞台がはじまる。
儀式なのだろうか。上手奥から赤い衣服と白いターバンの一人の女性の踊り手が、地球儀のような金色の球を抱いて、明け染めた白光の中を、花に向ってすすむ。背面は黒一色の緞帳。微かに小鳥のさえずる声が聴こえる。そして、彼女はその球を銀色に咲きひらいた花の中に沈める。
方形に描く彼女の歩行の線が、聖なる域をつくりだす。そして、彼女の記号的な踊りがはじまる。冷たい、速度の早い、線的な踊りである。彼女のからだが踊っているというより、空中に描かれた記号そのものに見える。もう失われた古代民族の祈りを込めた仕儀のように。遠い古層の記憶の踊り。ヴァイオリンの響きが、見えない空間の殻を内側から少しづつ割っていく。混沌の中から、形のあるもの、意味のあるものが生まれようとしている。
ハンナ・アレントは名著『人間の条件』の中で、マルクスの理論が労働と消費の対比のみを中心にしていることを批判し、労働から仕事(工作)という、より人間的・精神的な面を強調して、取り上げている。また、老子の“タオ”、荘子の“混沌”から捉える方法もあるのだろう。あるいは“書”の墨で描かれた「一」という漢字の中に、記号の“意味するもの”と“意味されるもの”が分離される以前の、“全一なるもの”の生命のエネルギーを感じ取ることもできるだろう。
一つの卵、それは自分の卵であって、しかも鳥類、動物、人間、すべての卵でもある。
アントナン・アルトーはメキシコに渡ったとき、タラフマラの岩の上に神が啓示する記号を見た。そして古代人は記号的に踊ることによって、神との交感を得たのだ。
儀式なのだろうか。上手奥から赤い衣服と白いターバンの一人の女性の踊り手が、地球儀のような金色の球を抱いて、明け染めた白光の中を、花に向ってすすむ。背面は黒一色の緞帳。微かに小鳥のさえずる声が聴こえる。そして、彼女はその球を銀色に咲きひらいた花の中に沈める。
方形に描く彼女の歩行の線が、聖なる域をつくりだす。そして、彼女の記号的な踊りがはじまる。冷たい、速度の早い、線的な踊りである。彼女のからだが踊っているというより、空中に描かれた記号そのものに見える。もう失われた古代民族の祈りを込めた仕儀のように。遠い古層の記憶の踊り。ヴァイオリンの響きが、見えない空間の殻を内側から少しづつ割っていく。混沌の中から、形のあるもの、意味のあるものが生まれようとしている。
ハンナ・アレントは名著『人間の条件』の中で、マルクスの理論が労働と消費の対比のみを中心にしていることを批判し、労働から仕事(工作)という、より人間的・精神的な面を強調して、取り上げている。また、老子の“タオ”、荘子の“混沌”から捉える方法もあるのだろう。あるいは“書”の墨で描かれた「一」という漢字の中に、記号の“意味するもの”と“意味されるもの”が分離される以前の、“全一なるもの”の生命のエネルギーを感じ取ることもできるだろう。
一つの卵、それは自分の卵であって、しかも鳥類、動物、人間、すべての卵でもある。
アントナン・アルトーはメキシコに渡ったとき、タラフマラの岩の上に神が啓示する記号を見た。そして古代人は記号的に踊ることによって、神との交感を得たのだ。
Tuesday, October 23, 2007
ラインヒルトとオペラ
ケイ・タケイと久し振りに新宿の中村屋で会った後、そのことを含めてラインヒルト・ホフマンに手紙を出した。シアターXでのコラボレーション以来10年も会っていないので彼女のメールアドレスが分からない。
先のラインヒルトからの手紙には、最近、ワグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の演出をしたことを知らせてくれたが、それがとても嬉しかった、と前のブログでも書いたが、そのことに少し追加しよう。
最初、二人でやろうとしていたのはワグナーの『リング』をダンス化することだった。それが『シミュラークル』に変更になったのだが、私がべつにそのことを気にしていなかった。その頃、ラインヒルトはロラン・バルトの『表徴の帝国』に夢中になっていたのだし、私もロラン・バルトを通じて言語の象徴世界に興味を抱いていて,イメージのダンスよりも、日常の現実世界を仮想と見るシミュラークルの世界をテーマにすることに反対ではなかった。
しかし、心の何処かに、折角の魚を穫り逃がしたような気持もあったのも確かで、それは多分、ラインヒルトが誰よりも『リング』のヒロインのブリュンヒルデの役に適していたからである。
ドイツの“タンツ・シアター”を初めて日本で公開したのはピナ・バウシュでなく、ラインヒルトだったのだが、そのとき私が観て感動したのは『マリア・カラス』という作品だった。それは確かにダンス劇であったが、新しいオペラとも言えるものだった。今になって思うのだが、ボブ・ウィルソンやメレディス・モンクの、またヤン・ファーブルのオペラに先駆けるものだったような気がする。そういうことからも、私は無意識にラインヒルトに彼女の新しいオペラを創ってもらいたかったのだろう。しかもワグナーのオペラの曲で。
ワグナーのイゾルデとブリュンヒルデのエンディングがショーペンハウエルの哲学の影響を受け、現実と自我を通り抜けて涅槃寂静の超越世界に入っているというのは、当たっているかもしれない。ワグナーの題材のドイツ神話の解釈は、ユングの「原型論」では埋めつくせないものがある。
しかし、演出は必ずしもワグナーや初期仏教の影響を受けたショーペンハウエルに従う必要はない。そこに解釈の“ずれ”があっても良い筈で、ラインヒルトのばあいは、むしろ大乗仏教の“空”の観念か、または空海の五大、地・水・火・風・空の“空”を“空間”と捉える道を選ぶ方が新鮮なような気もする。
仏教はダライ・ラマ14世が言うように宗教としてよりも、先ず哲学として捉えることが大事なので、私は日本に独自な哲学があるとしたら、それは仏教だと思っている。西田幾太郎にしても禅宗がベースなのである。
そして、われわれがデリダやラカン、ジジェクを学ぶように、『オートポイエーシス』の著者フランスコ・ヴァレラは大乗仏教を学んで『身体化された心』を著し、西洋の文化にまた新らしい東洋の流れを濯ぎ込んでいる。私はそのようなことをラインヒルトへの手紙に書いた。
先のラインヒルトからの手紙には、最近、ワグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の演出をしたことを知らせてくれたが、それがとても嬉しかった、と前のブログでも書いたが、そのことに少し追加しよう。
最初、二人でやろうとしていたのはワグナーの『リング』をダンス化することだった。それが『シミュラークル』に変更になったのだが、私がべつにそのことを気にしていなかった。その頃、ラインヒルトはロラン・バルトの『表徴の帝国』に夢中になっていたのだし、私もロラン・バルトを通じて言語の象徴世界に興味を抱いていて,イメージのダンスよりも、日常の現実世界を仮想と見るシミュラークルの世界をテーマにすることに反対ではなかった。
しかし、心の何処かに、折角の魚を穫り逃がしたような気持もあったのも確かで、それは多分、ラインヒルトが誰よりも『リング』のヒロインのブリュンヒルデの役に適していたからである。
ドイツの“タンツ・シアター”を初めて日本で公開したのはピナ・バウシュでなく、ラインヒルトだったのだが、そのとき私が観て感動したのは『マリア・カラス』という作品だった。それは確かにダンス劇であったが、新しいオペラとも言えるものだった。今になって思うのだが、ボブ・ウィルソンやメレディス・モンクの、またヤン・ファーブルのオペラに先駆けるものだったような気がする。そういうことからも、私は無意識にラインヒルトに彼女の新しいオペラを創ってもらいたかったのだろう。しかもワグナーのオペラの曲で。
ワグナーのイゾルデとブリュンヒルデのエンディングがショーペンハウエルの哲学の影響を受け、現実と自我を通り抜けて涅槃寂静の超越世界に入っているというのは、当たっているかもしれない。ワグナーの題材のドイツ神話の解釈は、ユングの「原型論」では埋めつくせないものがある。
しかし、演出は必ずしもワグナーや初期仏教の影響を受けたショーペンハウエルに従う必要はない。そこに解釈の“ずれ”があっても良い筈で、ラインヒルトのばあいは、むしろ大乗仏教の“空”の観念か、または空海の五大、地・水・火・風・空の“空”を“空間”と捉える道を選ぶ方が新鮮なような気もする。
仏教はダライ・ラマ14世が言うように宗教としてよりも、先ず哲学として捉えることが大事なので、私は日本に独自な哲学があるとしたら、それは仏教だと思っている。西田幾太郎にしても禅宗がベースなのである。
そして、われわれがデリダやラカン、ジジェクを学ぶように、『オートポイエーシス』の著者フランスコ・ヴァレラは大乗仏教を学んで『身体化された心』を著し、西洋の文化にまた新らしい東洋の流れを濯ぎ込んでいる。私はそのようなことをラインヒルトへの手紙に書いた。
Tuesday, October 16, 2007
ジャドソン・チャーチのメンバーたち
もう一つ、ケイに訊きたいことがある。彼女がアメリカに渡った時の、向こうのダンスの状況だ。
「ケイさんがニューヨークに着いた頃は、ジャドソン・チャーチのメンバーはまだ活動していましたか?」「やっていましたよ。イヴォンヌ・レイナーとかトリシャ・ブラウン、それにデヴィット・ゴードンにデボラ・ヘイ。みんな美術館でもギャラリーでも、スペースがあればどこにでも集まって。トリシャ・ブラウンなんか屋上に上って、ビルからビルへ信号を送り、次々と踊りをこう変えてゆくんです」と上体で演技してみせる。「ああ、あの有名なのをね、観たんですか!」とからだを乗り出す。それは『メン・ウォーキング・オブ・ザ・ビルディング』(1969)のことだ。ビルの屋上だけでなく、ロープで吊るされたダンサーがビルの外壁を横歩きしたりもする。ほとんでダンスからパフォーマンスに移動する典型的な作品なのだ。
ジャドソン・チャーチだけでなくグランド・ユニオンの話も出てくるし、また、デヴィッド・ゴードンのジーンズとスニーカーでの踊りも、スティーヴ・バクストンのコンタクト・インプロビゼーションも話題になる。
「ところで、イヴォンヌ・レイーのことだけど、彼女だけはよく分からないんだけど、どういう人?」ケイはなんとなく真剣な顔になって「う〜ん、彼女はすごく変わった人なんですよ。確かにあまり紹介されてないようね。最初のジャドソン・チャーチから中心的に動いた人なんです。情緒的でない、ちょっと普通のダンスとは違った、単純な動きの中にー ああ、ちょうど彼女の本がありますので送りましょう」。
それは有り難い。彼女は確かルシンダ・チャルズといっしょに作品を作ったりしていたようだ。要するにその後のミニマリズムの先駆者なのかもしれない。
「じゃ、ケイさんが向こうに渡って2年ほどしてデビュー頃は、ミニマリズムの時代ですか?」「そうそう、ルシンダ・チャルズとか、ローラ・ディーンとか。それにトワイラ・サープ、ああ、メレディス・モンクも踊っていたわ」。「え? あのメレディス・モンクが踊っていたんですか? ぼくは彼女はボイス・パフォーマーだとばかり思っていましたが」「彼女は最初ダンサーだったの。それからアメリカン・インディアンの発声法を学んで、その技術を使ってオペラを創ったんです」。
私はルシンダ・チャイルズがフィリップ・グラスの音に乗って、分節しながら華麗に踊りつづけたロバート・ウィルソンのオペラ『海辺のアインシュタイン』といっしょに、メレディス・モンクの観客の目と耳を惹き付けて離さない、異空間のオペラのイメージを思い描く。
「結局、私も学んだんだけど、みんなアンナ・ハルプリンの影響なのね」「ほとんでマース・カニングハイムのところで学んだ人たちでしょう?」「からだはカニングハイムのところで作って、精神はアンナ・ハルプリンのところで学んだんです」「ニューヨークとサンフランシスコは離れていますね」「みんなサンフランシスコまで出かけて行ったんです。まあ、セラピーですね。海辺で波のしぶきを受けながら裸で踊るんです。映像があります! それもDVDにして送りましょう」。
「ケイさんがニューヨークに着いた頃は、ジャドソン・チャーチのメンバーはまだ活動していましたか?」「やっていましたよ。イヴォンヌ・レイナーとかトリシャ・ブラウン、それにデヴィット・ゴードンにデボラ・ヘイ。みんな美術館でもギャラリーでも、スペースがあればどこにでも集まって。トリシャ・ブラウンなんか屋上に上って、ビルからビルへ信号を送り、次々と踊りをこう変えてゆくんです」と上体で演技してみせる。「ああ、あの有名なのをね、観たんですか!」とからだを乗り出す。それは『メン・ウォーキング・オブ・ザ・ビルディング』(1969)のことだ。ビルの屋上だけでなく、ロープで吊るされたダンサーがビルの外壁を横歩きしたりもする。ほとんでダンスからパフォーマンスに移動する典型的な作品なのだ。
ジャドソン・チャーチだけでなくグランド・ユニオンの話も出てくるし、また、デヴィッド・ゴードンのジーンズとスニーカーでの踊りも、スティーヴ・バクストンのコンタクト・インプロビゼーションも話題になる。
「ところで、イヴォンヌ・レイーのことだけど、彼女だけはよく分からないんだけど、どういう人?」ケイはなんとなく真剣な顔になって「う〜ん、彼女はすごく変わった人なんですよ。確かにあまり紹介されてないようね。最初のジャドソン・チャーチから中心的に動いた人なんです。情緒的でない、ちょっと普通のダンスとは違った、単純な動きの中にー ああ、ちょうど彼女の本がありますので送りましょう」。
それは有り難い。彼女は確かルシンダ・チャルズといっしょに作品を作ったりしていたようだ。要するにその後のミニマリズムの先駆者なのかもしれない。
「じゃ、ケイさんが向こうに渡って2年ほどしてデビュー頃は、ミニマリズムの時代ですか?」「そうそう、ルシンダ・チャルズとか、ローラ・ディーンとか。それにトワイラ・サープ、ああ、メレディス・モンクも踊っていたわ」。「え? あのメレディス・モンクが踊っていたんですか? ぼくは彼女はボイス・パフォーマーだとばかり思っていましたが」「彼女は最初ダンサーだったの。それからアメリカン・インディアンの発声法を学んで、その技術を使ってオペラを創ったんです」。
私はルシンダ・チャイルズがフィリップ・グラスの音に乗って、分節しながら華麗に踊りつづけたロバート・ウィルソンのオペラ『海辺のアインシュタイン』といっしょに、メレディス・モンクの観客の目と耳を惹き付けて離さない、異空間のオペラのイメージを思い描く。
「結局、私も学んだんだけど、みんなアンナ・ハルプリンの影響なのね」「ほとんでマース・カニングハイムのところで学んだ人たちでしょう?」「からだはカニングハイムのところで作って、精神はアンナ・ハルプリンのところで学んだんです」「ニューヨークとサンフランシスコは離れていますね」「みんなサンフランシスコまで出かけて行ったんです。まあ、セラピーですね。海辺で波のしぶきを受けながら裸で踊るんです。映像があります! それもDVDにして送りましょう」。
Monday, October 15, 2007
大沼鉄郎の『傾斜の存在』
ケイ・タケイに訊きたかったのは、彼女がアメリカに留学する前に草月ホールで行なわれたVAVの公演のことだった。VAVというグループはケイと三浦一壮と西森守の3人が創ったグループで、この最初の『傾斜の存在』(1965年)の只1回だけの公演で終わっている。
ケイはその後 '66年のアルトー館第1回公演の『爆弾』(河野典生作)、'67年のアルトー館第2回公演の『ゲスラー・テル群論』(大沼鉄郎作)に出演しているが、それが終わるとすぐにフルブライト給費生として渡米している。次いで西森守はフランスのメーリングのマイム劇団に入り、ただ一人VAVスタジオに残った三浦一壮は舞踊批評家の池宮信夫といっしょにモダンダンスの実験的な試みをしていたが、彼もやがてヨーロッパのワークショップの巡業へと旅立つ。
このようにケイの突然のフルブライト給費生決定から、このグループは解体してゆくのだが、この1回だけの公演、『傾斜の存在』がいまだに強く印象に残っている。その時の舞台装置をつくった石井さんの名をケイに訊いてみた。確か石井研さんでしょう、という。舞台いっぱいの、白い“はりぼて”の三角錐の下で演じていた3人のダンサーとマイマーが、やがて傾斜してゆく三角錐の上に静かによじ登ってゆく。
生演奏のトリオは一柳慧と小杉武久と、たしか近藤さんという人がヴァイオリンを弾いていた。その近藤さんの名前が分からない。訊かれたケイもウーンと言ったきりである。近藤譲氏かもしれない。その時の一柳慧と小杉武久の楽器は何だったのだろう。電子音だったような気がする。
演出の役だった私がこんな状態なので、ほんとうに頼りない。頭の中にふっと浮かぶものがある。「そうだ、大沼さんが8mmで撮っていたような気がする!」。それを聴いてケイは急に明るい顔になり、「大沼さんに電話してみましょうよ!」。台本作者の大沼鉄郎は記録映画の監督だから、きっと大丈夫。
この時のプログラムを作った村田東治は、その後コム・デ・ガルソンのカタログとシュウ・ウエムラの『VISAE』に素晴らしい仕事を残して夭逝した。石井さんと村田さんの2人は、この時はまだ桑沢デザインスクールを卒業したばかりだった。驚いたことに、村田さんはプログラムを公演が終了してお客が帰ってから運んできた。だが、そのプログラムを、2人とも今、捜せないでいるからこんなことになる。
ケイは言う「あの傾いて行くところが良いですよね。『傾斜の存在』は好きだなあ。もう一度やりましょうよ!」。
ケイはその後 '66年のアルトー館第1回公演の『爆弾』(河野典生作)、'67年のアルトー館第2回公演の『ゲスラー・テル群論』(大沼鉄郎作)に出演しているが、それが終わるとすぐにフルブライト給費生として渡米している。次いで西森守はフランスのメーリングのマイム劇団に入り、ただ一人VAVスタジオに残った三浦一壮は舞踊批評家の池宮信夫といっしょにモダンダンスの実験的な試みをしていたが、彼もやがてヨーロッパのワークショップの巡業へと旅立つ。
このようにケイの突然のフルブライト給費生決定から、このグループは解体してゆくのだが、この1回だけの公演、『傾斜の存在』がいまだに強く印象に残っている。その時の舞台装置をつくった石井さんの名をケイに訊いてみた。確か石井研さんでしょう、という。舞台いっぱいの、白い“はりぼて”の三角錐の下で演じていた3人のダンサーとマイマーが、やがて傾斜してゆく三角錐の上に静かによじ登ってゆく。
生演奏のトリオは一柳慧と小杉武久と、たしか近藤さんという人がヴァイオリンを弾いていた。その近藤さんの名前が分からない。訊かれたケイもウーンと言ったきりである。近藤譲氏かもしれない。その時の一柳慧と小杉武久の楽器は何だったのだろう。電子音だったような気がする。
演出の役だった私がこんな状態なので、ほんとうに頼りない。頭の中にふっと浮かぶものがある。「そうだ、大沼さんが8mmで撮っていたような気がする!」。それを聴いてケイは急に明るい顔になり、「大沼さんに電話してみましょうよ!」。台本作者の大沼鉄郎は記録映画の監督だから、きっと大丈夫。
この時のプログラムを作った村田東治は、その後コム・デ・ガルソンのカタログとシュウ・ウエムラの『VISAE』に素晴らしい仕事を残して夭逝した。石井さんと村田さんの2人は、この時はまだ桑沢デザインスクールを卒業したばかりだった。驚いたことに、村田さんはプログラムを公演が終了してお客が帰ってから運んできた。だが、そのプログラムを、2人とも今、捜せないでいるからこんなことになる。
ケイは言う「あの傾いて行くところが良いですよね。『傾斜の存在』は好きだなあ。もう一度やりましょうよ!」。
Saturday, October 13, 2007
ラインヒルト・ホフマン
中村屋で久し振りに会ったケイは、相変わらず元気な様子だった。「ラインヒルトから手紙がありましたよ」と言うと、「どんなこと書いてありました?」と問うてくる。
1998 年にケイの仲介で、ラインヒルトと仕事をしたとき、最初ワグナーの『リング』のブリュンヒルデをダンスでやろうとしていた。ラインヒルトは『リング』関係の重い本をぎっしりとトランクに詰め込んで羽田に到着した。さて、制作に掛かった段階で、ラインヒルトは悩み出したようだ。「じつは自分はワグナーをそんなに研究していない。無理だと思う」とラインヒルトは下を向いて静かに言った。私は黙っていた。「“シミュラーク”ならどうですか?」とラインヒルとは言った。二人は“シミュラーク”についても話し合っていたのだ。そしてシアターXでの公演は『リング』から『シミュラークル』に代わったのだ。
受け取ったラインヒルトからの手紙は、次のようなことを記してあった。
「私はあれから貴方のことを時々思い出しています。貴方のスタジオでいっしょに仕事をしたときのことを。貴方は熱心にブリュンヒルデの最後の場面を仏教と関連づけて哲学的な考えを述べてくれました。最近、私はオペラ『トリスタンとイゾルデ』を演出しました。その時からワグナーの本を読んでいます。ショーペンハウエルの哲学と関係づけて。ということは仏教と関係づけてなのですが。
じっさい、ショーペンハウエルの哲学はワグナーに影響を与えていたのです。そしてイゾルデとブリュンヒルデの最後の場面は超越的な涅槃の域に達していたのです。
そのように、あの時あなたは私の仕事に対して言いつづけていたのでした。今になって貴方の意図が理解できます。さらに『シミュラークル』においても。 ー これが私の言いたいことです。」
オペラ歌手にワグナー歌手がいるように、ラインヒルトはワグナー作品にイメージピッタリのダンサーである。彼女がワグナーの『トリスタンとイゾルデ』を演出したという知らせは、本当にうれしい。
ケイがラインヒルトを私に紹介し、ラインヒルトが私にスザンヌ・リンケを紹介してくれた。リンケについても、あのパリ私立劇場での晴れ姿が目に浮かぶ。
ケイに訊いたらば、二人とも体調を崩してもう舞台には出ていないという。寂しいことだ。
1998 年にケイの仲介で、ラインヒルトと仕事をしたとき、最初ワグナーの『リング』のブリュンヒルデをダンスでやろうとしていた。ラインヒルトは『リング』関係の重い本をぎっしりとトランクに詰め込んで羽田に到着した。さて、制作に掛かった段階で、ラインヒルトは悩み出したようだ。「じつは自分はワグナーをそんなに研究していない。無理だと思う」とラインヒルトは下を向いて静かに言った。私は黙っていた。「“シミュラーク”ならどうですか?」とラインヒルとは言った。二人は“シミュラーク”についても話し合っていたのだ。そしてシアターXでの公演は『リング』から『シミュラークル』に代わったのだ。
受け取ったラインヒルトからの手紙は、次のようなことを記してあった。
「私はあれから貴方のことを時々思い出しています。貴方のスタジオでいっしょに仕事をしたときのことを。貴方は熱心にブリュンヒルデの最後の場面を仏教と関連づけて哲学的な考えを述べてくれました。最近、私はオペラ『トリスタンとイゾルデ』を演出しました。その時からワグナーの本を読んでいます。ショーペンハウエルの哲学と関係づけて。ということは仏教と関係づけてなのですが。
じっさい、ショーペンハウエルの哲学はワグナーに影響を与えていたのです。そしてイゾルデとブリュンヒルデの最後の場面は超越的な涅槃の域に達していたのです。
そのように、あの時あなたは私の仕事に対して言いつづけていたのでした。今になって貴方の意図が理解できます。さらに『シミュラークル』においても。 ー これが私の言いたいことです。」
オペラ歌手にワグナー歌手がいるように、ラインヒルトはワグナー作品にイメージピッタリのダンサーである。彼女がワグナーの『トリスタンとイゾルデ』を演出したという知らせは、本当にうれしい。
ケイがラインヒルトを私に紹介し、ラインヒルトが私にスザンヌ・リンケを紹介してくれた。リンケについても、あのパリ私立劇場での晴れ姿が目に浮かぶ。
ケイに訊いたらば、二人とも体調を崩してもう舞台には出ていないという。寂しいことだ。
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