Sunday, October 11, 2015

10月公演のために


特別通信 相良さんに 1

この作品の1番の問題は,西洋が環境を対象とする時、身体中心を脱しないで、他人とか組織グループだとか人間だけを対象にし、その他には人間が使う“もの”だけを対象にして、自然は対象にしていないことです。そして更に視覚範囲を拡げた場合、動物、植物、や自然物など、すべてを抱え込んだ宇宙を対象にするのではなく、人間社会が織りなしている「世界」を差しているだけなのです。
ここに東洋と西洋の根本的な差がある、ということを自覚した上でこの作品に当たってもらいたいです。

ですから、倫理学から始めた筈の「富国論」が資本主義のためのものと捉えられ、資本主義に対抗して書かれたマルクスの「資本論」を教本とした共産主義のメンバーがいざ国家を運営する段階に至ったらば、賄賂することになるのです。

ポストモダンにおいても、この複雑な宇宙世界のもとで生活している人間社会をシステム化するに当たって、この「複雑系」の宇宙世界を、人間が外部としている生活している自然を外して人間社会として単純化し、生物の神経生理学で発見した「自己組織化」の法則を利用して人間と人間が使用する「もの」のみに向ったのですが、この「自己組織化」の単純化で漏れたものを組織化を反復することによって外部から拾いなおし、最後的段階で回帰的に反省することになっているのですが、人間そのものと、利益に関係する「もの」以外の反省、自然的ないちばん恩恵を被っている大事な部分を外して、それに対しては反省していないのです。

そこで「荘子」はこのような事をどういうように考えているのかと、調べてみたらば、次ぎのような私と同じようなことを福永光司氏が、その著書『荘子』に書かれているのに驚き、私のこの構成演出が今のこの時代に正しい主張であり、今後のわれわれ芸術家は、この道に率先して向かい、ポストモダンの次ぎの時代を背負って、ヴァレラのヨーロッパへの忠言を越えていかなくてはいけないのです。
このように、師のマトゥラーナとヴァレラが神経生理学の研究から生命の発展法則として描いた「自己組織化 オートポイエーシス」を社会の発展的システム理論とし、ポスト モダンの根幹となしたニコラス ルーマンの法則がなぜ21世紀になってリスク社会を生んだのか。そこをわれわれは東洋の側から突かないといけないのです。

それは環境と言っていながら自然環境を無視し、利益に関係のある“もの”だけを対象にしたからです。それと光の智慧と、智慧から起こる慈悲に至らず、知識と科学に対して、あまりにも自信と期待を持ち過ぎたため、最終的には自分の後始末が出来ぬまま、国民を騙しこむような気風がそれこそ地球上にグローバルに広がり、人類同志の信頼感が薄くなり世界は裏切りと対立抗争の連続で、それこそ荘子が生きた中国の戦国時代と同じ状態なのです。その意味で次ぎの荘子についての文は、直接われわれが当面する作品の内容に関係しているように思われます。


その福永光司氏の文を以下に掲示します。
「近代ヨーロッパの文化を特徴づけるものが合理主義であり、アジア地域の文化が前近代の名でよばれるとき、中国古代の思想文化はいうまでもなく最も非合理性に満ちた歴史的現実を基盤として成立していることになる。事実、荘子の生きたのは凶暴な権力が横行し、迷妄と死と悲惨がうずまいて最も非合理的な歴史的な現実であった。彼はその歴史的な現実の中で人間とは本来何であるのかを問い、価値とは何か、理にかなった生き方とはいかにすることであるのかを問うた。彼の思考は人間存在をその上限からとらえるのではなくして下限からとらえてゆくところに特色をもつ。彼は人間の明るい陽のああたる山頂の高みから理解するのではなくして暗く打ちひしがれた希望のない谷間から凝視する。彼にとって人間とは多くの場合、刑余の障害者であり、醜き者、貧しき者、虐げられた者等々であった。彼は世の賢者たちの設定するさまざまな価値の体系に対してその偏見を疑い、独断性を反問する。人間が泥鰌より価値ありとされる根拠は一体何なのか、美は何故に価値であり、醜は何故に反価値でありうるのかというように。

 彼はまた、人間の合理を人間においてのみ考えるのではなくして、人間を包む天地万物のすべてにおいて追求する。天地宇宙の間に存在するものは人間だけでなく、人間がそうであるように、すべての存在するものは存在するだけの必然的な理由をもって存在しているというのが彼の思考である。荘子における人間はこのような全宇宙的な規模において追求される。彼における人間の自由もまた、このような全宇宙的規模において追求されているのである。人間を頭においてとらえるのではなく、大地をふんで立つ脚においてとらえること、その脚下の大地の果てしないひろがりの中で人間を天地宇宙の間の一物として見出し、人間存在を全宇宙的な規模で把握すること、その把握の中から人間の合理と自由を追求してゆくところに荘子の哲学の特徴が考えられるのである。」

宇宙も社会も自然も身体も「複雑系」である。この複雑なものにシステムで有効に働きかけるには、複雑系の組織を支配している底辺の法則を見い出すことである。
ポスト モダンの「自己組織化」はそれなのだが、この荘子が語る宇宙の複雑系の組織を支配している底辺の法則というのは、空海の自然のばあい「識と地・水・火・風・空」なのです。
そしてこれを表現する場合には、頭部を無くして人間の原初的な身体感覚で「地・水・火・風・空」なる自然の様態に接し、その後荘子の社会状況に似た現在の中東の状態や福島の現状をその様態で描き加えるのです。つまり荘子が語る宇宙的な複雑な現象をこれによって空海は法則化してくれているのです。

Saturday, October 10, 2015

10月公演のために



9 宮田さんに(補      
    
    パフォーマンスの行為論とその後         
                              
 1 社会システムの「開かれた」と「パラダイム転換」

 社会学のシステム論の機能的部分は、生物学のシステム理論を土台にしている。
 具体的に言うと、檜枝岐パフォーマンス フェスティバルが始まった1954年の同じ年に、ドイツの社会学者、ニコラス・ルーマンの『社会システム』が出版されたのだが、これはチリの生物学者フンベルト・R・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラの「オートポイエーシス(自己組織的システム)」というシステム理論の構想から影響を受けている。
 それ以前に、「サーモスタット」の機構を利用した「サイバネティックス」なるものがある。機械のシステムとかメカニズムを超えたものとして、生物が暑い時とか,寒い時とかに直ぐ生理的に反応する「ホメオシタシス」の生体機能に対して、あたかも生命的機能があるかのように制御工学の理論から人工的にフィードバック回路を自動的に演じる『サーモスタット」という機能的構造体を案出し、それを元に人工頭脳のモデル研究が行われ、「サイバネティックス」という人工頭脳の未来が期待されていたのです。

 しかし、ルーマンがマトゥラーナとヴァレラが開発した「オートポエーシス(自己規制)」を社会システムの中に取りいれたものは、「サイバネックス」と違っていたのです。というのは、この「自己組織的システム」は、むしろ自分自身を志向し、個別の現象や過程を生じさせるエコロジー的諸条件を自らつくり出すまでに至っていたからです。つまりマシンが機能的に生命的な「マシーニック」な働きをするようになっていたのである。
 機械的なシステムが機能的に生きているように見えたこと、これは当時大きな影響を与えていたクーンの科学革命の「パラダイム論」に相応すると思われた。檜枝岐においては、すべての事に「パラダイムの転換」を望んでいたような気がする。
 クーンの科学革命の意を成す「パラダイムの転換」とは、科学においてのレベルを越えた進歩過程を指し、先行するパラダイムと根本的に異なる新しいパラダイムが登場し、不連続な断層を後に残すような革命のことです。
 
 そもそも、「一般システム理論」は、1951年に動物生理学者のルードフィッヒ・フォン・ベルタランフィが最初に純粋形式として考え、それを社会学のルーマンに渡した感じになるのですが、ルーマンは「社会なるものは人間という生物が形成している限り、論理と数学から成る機械的な純粋形式のシステムで終わる筈がない」と、機能的なシステム部分をこの一般システム理論の中に取り入れたのです。
 さて、ここでこのシステム論の中に「開かれた」という言葉が使われているのは、何を指しているのでしょうか。それは生物と環境との関係を指しているのです。
                                    
 先に挙げた「一般システム理論」を構想したベルタランフィなる人物は生物学者だったわけで、物理学者は環境から切り離された、「閉じた関係」の中にいるシステムなのに対して、生物学者は本来的に環境に向かって開かれた有機体の生物を対象としいるのです。

 ヒノエマタ フェスにおいて「開かれた」というキー概念がよく言われたのは、それまでの芸術家が都市空間または劇場空間に閉ざされいたのが、突然、檜枝岐という開かれた自然空間に放たれたからでしょう。この「開かれた」感覚なるものは、自然環境の中での自ずからの実感だったのです。
 そして、この「開かれた」というキー概念の下に、それぞれの芸術家に、新しい作業空間が開かれて行ったように思われます。
 しかし、それとは別に、この社会システム論の影響のためか、もの事を「表層的」に判断する傾向に傾いて行った嫌いがないでもない。深部より表層を、精神性より事実の関係性を大切にし、生命とか霊魂などの語句は禁句のようになっていたのです。

 代りに、身体論は豊富に語られたのですが、「音楽家の身体」「美術家の身体」などと言語的には論争されたのだが、当時はまだ、分子生物学の時代で、量子力学や宇宙空間などは今ほどは解明されておらず、光とか音波などの次元で物事を考えるほどわれわれの思考が細分化されてはいなかったのです。
 従って、「全体と部分」の問題とか「断片化する」などの用語がよく使われたが、また観念的言語を使うより、身体からものを考えるべきだと言ったところで、からだの内部を知って、その構造と機能とじぶんの思考とがどのような関わりにあるのかは、実感されていなかったようです。
 そういう未知の分野を孕んだ状態の中で、「複雑性(系)」という言葉がどこからともなく聞かれるようになったのだが、この「複雑性(系)」というのは、システム社会と環境との対象において、社会システムと、社会を形成する人体システムと、またそれが対する自然環境がいかに複雑であるかという認識から発した用語だったようです。また複雑な自然と宇宙を削ぎ落とし、人間社会と人間が営む経済に対応するモだけを対象にし、しかも人間がつくっている社会すらも複雑なものとして、それを分化して「自己組織化システム」で単純化するこのシステムは、果たして「開かれている」いるのか、それとも「自己言及」に終っているのかかが問題とされていたのです。しかし、このルーマンの「社会システム論」とドゥルーズ=ガタリが称えるアルトーの「器官なき身体論」とはこのポスト モダンの世紀を動かす大きな動力だったのです。
 
 そして今にして思うのですが、この環境に対する関係は、それ以来大きな変転を経ているのです。時代的には、古典的な演繹と帰納の解釈の時代を過ぎ、経済学では「ワルサスの均衡論」を考える時代に入っていて、量子力学によってますます細密化するのと平行して、このバランスの測定も連立微分方程式によって計るようにもなっていたのです。
 社会システムが対する環境と世界にしても、国と世界との力関係が全く変わったと同時に、グローバルの名の下に資本の移動が国境を超えて乱脈な動きをなしていること。そして21世紀に「自己組織化」のあと「反復」を経て「自己反省」から最初に戻って、新し回帰的近代として前に向って進んで行く筈の世界が闘争の主義の明け暮れ、社会は「リスク社会」に変じ、自然を顧みず、各国が抱える公害の差から「環境問題」をすすめ得なかったことから「地球環境」の問題を放置したまま、新たに原発問題を抱え込むことになっているのです。
                                    
 システムに対する環境としての自然空間は、気候の歴史的な変動と地震の驚異、それに放射能の問題とが三重に畳み込まれ、宇宙という観念が太陽圏を超える広がりを持ち、一方、量子力学の世界は「 IPS細胞」 以来、われわれの身体に関しては密接に感じられるようになって来ている、という不安感があるのです。

 「均衡理論は経済学において発展し、システム理論は政治学において、その中心部に取り入れられ、それらに対して、機能理論は社会学に固有のものである。」と一般に言われている。
 しかし、社会学が現在のコンピュータ世界の共通の地盤の上で、これまで他の学問を圧して先陣を走れたのは、上記のルーマンによるシステム理論の導入によってである、と捉えることができる。
 社会学は、サン・シモン、コント、ミル以来、他の学問とちがって経験的な実証主義によるものなのだが、この現実のリアルな経験的な事象を対象とした社会学に経済学や政治学が絡んでくると理念的なものと経験的なものに分かれてくる。
 社会学というのは、本来的には人間が外環境に対して行為するための、また、その結果出来た組織構造に対して研究する学問なので、構造の分析が主体なのです。つまり「部分と全体」においての要素間の関係です。それを社会学のばあいは人間の行為と機能的観点から調べることがウェーバーから始まったわけです。
 その機能的な部分を主体とし、「機能主義の社会学」の土台をつくったのはデュルケームで、それを発展させたのはパーソンズであり、「機能主義人類学」として拡大したのはマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンでした。そして社会学の立場から人体内部の機能的部分を組織立てたのはスペンサーだったのです。

 この経済学と政治学と社会学の三者のうちで、経済は数学的に処理でき、政治はウェーバーが言うように、官僚的な役人が保持する制度的なものが、本来機能的なものが機械的に固定されているので、半分は数学で処理することができる。それとは別に、「社会学」というのは、民衆がつくった社会組織を対象としていたものなので、本来は機能的なものであるべきなのです。


 2 パーソンズ の「機能主義」と アルトー の 「器官なき身体」
 
 自作『魂と形式』を持ってハイデルベルクのウェーバーのサロンに現れたのは、当時まだ無名のハンガリア人、ルカーチでした。ウェーバーのサロンは、社会学者のジンメルや詩人のゲオルゲなどが常連だったようです。ルカーチはその時は演劇経験のある文学志向の青年に過ぎず、政治に対してはさほど関心を持っていなかったのです。ただ、彼はその時点において、彼の書いたものの中で「開かれた」ということばをよく使っていたようです。
                                    
 ウェーバーはルカーチを無条件に受け入れ、何かと彼の面倒を見てくれたようですが、ウェーバーの社会学の中の「行為」の意味を知り、その影響でルカーチは政治の実践の世界に入ることになったのでしょうか。
 政治システム論の考えは、「政治システムは境界を越えて、環境とのあいだでインプットとアウトプットの交換を行う<開いたシステム>である。開いたシステムであることによって、環境からエネルギーや情報を取り込み、<エントロピー増加による衰退>を防止し、システムの存続を計っている」というのです。

 経済学や社会学と比べて、政治が客観的に学問として研究されるのが遅かったのです。それでサイバネックスないしシステム理論の政治学への導入が、他のマクロ経済学や社会学の場合とは違って、補助的なものとしてでなく、主体的な方法として取り入れられたのです。率先してそれを行ったのはアメリカの政治学者のドイチュとイーストンで、それが政治学の主流派となったのです。
 社会学のばあいは、機能主義が中心的になっていたので、それを補充するかたちでサイバネテックス並びにシステム理論が取り入れられたのですが、政治社会学の広がりにおいては、フーコーのように「権力」の側から<閉ざされた歴史>を調べることも行われたのです。

 それまでの伝統的な政治理論が「マキアヴェリ、ホッブズ、ロック以来の機械的政治論か、バークやアダム・ミュラー以来の有機的政治論であった」歴史的経歴に対して、「政治に指導的意志目的」を建てることの意味から「政治の意志決定システム」としてサイバネテックスを基にした「システム理論」を全面的に導入するようになっていたのです。
 今、客観的に、これまでのアメリカという国の意志決定と行動を見ると、確かにドイチュとイーストンの政治学がアメリカという国に浸透している、と思うのです。そして大衆の願いと政治方針とのバランスをシステマティックに計った上で慎重に意志決定している、ことが感じられるのです。

 さて、ここで社会学が経済学の「均衡論」や政治学の「権力論」とは違って、「機能」の要素を中心的な要素とし、あえてシステム論を導入してメカーニックなシステム形式にしながらも「機能」の面を大切に保持するのは、やはり社会学というのは政治的権力とか経済的バランスということでなく、国という構造体を基本に考えているからです。
 それでマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンの人類学が機能主義を称えたのに対して、同じ機能主義でも社会学者のパーソンズは構造を視野に入れ、機能と組織の有機的な要素のほかに構造の要素「地位、役割、制度、社会過程、文化パターン、社会規範など」(マートン)を視野に入れたのです。社会の構造の中での「組織」とか「行為」というものを「機能」との関わりで考えてみると、機能は価値(ヴァルール)を対象にした、作用(ファンクション)と過程(プロセス)であって、それ自体なんらの実体のないものです。従ってこのばあい「組織」とか「行為」というものは抽象化されているのです。
 
 それに反して個人の身体が行為することは、それは身体の動きと他物との間の目に見える動きの経過と作用であって、そこで意味性も価値もリアルな次元に止まってしまう。それゆえ、「パフォーマンスはイコール身体の行為だ」という定義はそれ以上前へ進まないわけです。
 美術史の上での身体行為としてのパフォーマン アートの行き詰まりの原因は、このことにあったと思います。
 この機能的な部分の社会学の解釈の方が、イギリスのオースティンの『言語と行為』で説く、言語遂行の「パフォーマティブ論」より、われわれのパフォーマンスにとって重要なヒントを与えていると思います。

 社会学の「行為」については、ウェーバーのパラダイムを転換したものがあります。
 パーソンズが行ったことは、その後ルーマンがやったように生物学からの取り入れでした。生物学では電子顕微鏡の進化によって各細胞の分子の動きを観察することが可能になっている。そして、その化学的結合の結晶体は、すべて幾何学的な形態を取っている。その生理の微細な運きは、正方形の中に2つの対極線を引いてつくられるた大小8つの三角形と、それを取り囲む四角の枠の線上を走りつづけている。この生理学の微細な現象を、パーソンズは彼の機能社会学の理論の上に取り入れたのです。
 パーソンズはその構図を、彼の「社会システムの内部境界相互交換」の図に取り入れ、動きの4種類の交換メディアとして貨幣、権力、影響力、価値コミットメントを掲げているのです。

 アルトーの「器官なき身体」に関しては、彼の死の直前に書かれた『俳優を狂気にする』と『演劇と科学』の2つの論文への解釈によって次のように結論づけることにしました。
 人間を含めて動物の身体は心臓機能が止れば有機体としての生命を失うのです。それに対して中心的な政府の機能が失われても、構造的要素が存在する限り、中心的機能を変革することによって、社会の内実が変わって存続するのです。
 
 その意味で、人間の生命的機能を司る器官というものは「一方通行」で。宇宙が形成したものとしては半端な機能で、アルトーのいうように、この器官と組織と骨を粉々に刷りつぶして分子化しないと、宇宙の細密な関係や人間の生命的な魂から発した数式や芸術形式などに通じることが出来ない。
 岡潔の数学の難問を解くときに感じる情緒は、この器官のないときの微細な通路(プロセス)と作用(ファンクション)であって、身体の行為からではない。
 
 そして、この情緒は感情とは別なものです。それはライプニッツの頭脳と同じように、リンパ働きで新しい思考の回路を見い出した時に起る情緒なのです。
 
 厳密に言うと、身体内部をそのような状態(「器官なき身体」)に持って行かなくては、その境地に至れないということなのでしょう。
 しかし、それは老荘のタオと、大乗仏教の「中観」の思想が望んでいたことと同じ目標なのです。そしてそれに至る技術的な修行にしても、アルトーは同じような方法をイメージしていた、と解釈した方が正しいようです。



10月公演のために


8 宮田さんに

 南米チりのマトゥラーナとヴァレラという2人の神経生理学者の師弟が、生物は「自己組織化(オートポイエーシス)」の生命的エネルギーシステムを持っている、ということを証明したのですが、それを社会学に利用して1982年に『社会システム論』として発表したのはニコラス・ルーマンという社会学者でした。
 
 ルーマンはそれによってハーバード大学で学んでいた師のパーソンズの「構造/機能」をテーマにした学説を、この「自己組織化(オートポイエーシス)」を取り入れることによって“機能”の働きをより強力にし、ポスとモダンの時代の要求に応えることを望み、そのため機能を構造の前面に出して「機能/構造」とし、ドゥルーズ/ガタリがアントナン・アルトーを利用して「器官なき身体」を称したように、この「自己組織化(オートポイエーシス)」をキー概念として華やかに80年代の舞台に踊り出たのです

 それは「器官=機能」の意味から出発していることから、このルーマンの「自己組織化(オートポイエーシス)」はドゥルーズ/ガタリのアルトーからの「器官なき身体」とは同じ系列のようにも感じれれるのですが、実際には、神経生理学者のマトゥラーナとヴァレラは自分たちが発見したこの「自己組織化(オートポイエーシス)」をルーマンが違う世界の社会学に利用することに必ずしも賛成ではなかったようで、また一方のドゥルーズ/ガタリの「器官なき身体」にしても、アルトーがまだ存命なら、彼の「演技術」からのこの誇大解釈には、たぶん肯んじなかったことでしょう。
 
 それはそうと、まず本題の「自己組織化(オートポイエーシス)」に話しを戻すと、これは、そもそもが対象の複雑系のものを単純化するための機械的な働きをするシステムとして使われたもので、社会を総合的なものとして丸ごと関連的に捉えてきたそれまでのウェーバーやパーソンズとはちっがて、対象を分化して捉え、それぞれの分野をこの「自己組織化(オートポイエーシス)」の機械にかけて計算結果を得ようとするものなのです。従ってその分化された各分野の結果を総合して観察することも行われたのですが、ただ人間が関わる社会とか、世界とかは対象として複雑ではあるが分化することによってその結果を得ることができるわけですが、自然とか宇宙という対象物になるとあまりにも複雑過ぎてこの機械は通用できないし、環境問題となると国家間の事情の差によって一向に共同作業が進まないのです。

 ルーマンは自然に対して、また地球の温暖化などに関して関心がない訳でなく、それらのことについて意見も言ったし、書物にも記してもいたのですが、結局は人間社会に対する関心と、複雑性の縮減というこのシステムの機能にいちばん関心を向けていたということです。そこが東洋人と西洋人との差、仏教とキリスト経との差なのかもしれません。そして,永い歴史の上で自然を対象にそれを打ち負かして文化を作ってきた者と自然と親しむことによって感性を磨いてきた民族との違いがあるのでしょう。

 でも、そういうことを言っている時代はすでに去っており、またこの「自己組織化(オートポイエーシス)」を繰り返すことによって外部のものを吸収し、新たな自己反省を元に新しい近代に入ろうとする社会学の「再帰的近代化の夢」は、現実のグローバル化の波によって近代の土台である国家形態が次第に崩れて行っている現段階では、すでに失われ初めているのではないでしょうか。

 社会学という学問は、われわれアーティストにとっていちばん深い関係にあるような気がしていましたが、いつの頃からか知らぬ間に「知」と「知識」がもてはやされ、「知識社会学」という学問まで出来て随分頭を鍛えられたというより、無駄に悩まされた永い時間があったのですが、それに付随して科学万能の時代が当然のように振る舞った果てに、その反応の悪影響と限界を感じさせる崩れが見え始めてきた昨今、新たに埋もれていた“智慧”なるものに関心が呼び起こされ、また今まで軽蔑されていた感のあった“幻想”なるものが、深層から新たな解釈で引き上げられはじめているということはアーティストにとって悦ばしいことです。
 そしてこの“智慧”と“幻想”を、はるか彼方からわれわれに問題提起してくれたのは空海だったのです。

10月公演のために


7 星野さんに

 そもそも、この通信は、これまで数年に亘って、実験的に明大前のキッド・アイラック・ホールで「アートは症状である」というテーマで、空間演出の大串孝二と映像作家の加藤英弘と舞踊振付の及川の3人グループとその度に出演依頼されたダンサーによって行われてきたものですが、今度その最終回として場所は同じ明大前のキッドですが、新しく開設された5階ホールでこの11月の23日(金)、24日(土)、25日(日)に5回の連続公演を行うことになっているのですが、それに当たって公演作品の内容と、実現すための準備と、周辺の後援者のために書かれているものです。

 というのは、このグループの実験公演の目的の「アートは症状である」は、フロイドを継ぐ精神分析家のジャック・ラカンの言葉なのですが、それをわれわれは東洋に伝統的な老・荘の“タオ”とか、大乗の“中観”、“唯識”とか、あるいは禅宗の道元の説く“心身脱落”や眞言密教の空海がひらく“ダラニ”の世界などから、西洋と東洋とを対比させながら、芸術の奥に潜む無意識の世界を求め、量子力学物がやっているように、老子の言う「見えない筋道」のほんとうの意味を探し出そうとしていたような気がするのです。

 そして、今になって気付いたことは、このジャック・ラカンの前にレヴィ・ストロースの構造主義の「野生の思考」の大きな仕事があったということと、また、意外に見逃していたのは同じフロイドの弟子であるユングの「タイプ論」と「象徴研究」がより密接したところで東洋の世界に迫っていたのではないかということです。

 さらに、アルトーの晩期に俳優術のために書かれた小論文『俳優を狂気にさせる』からドゥルーズ・ガタリが 、その手法を “器官な身体” として「政治社会学」に利用したのですが、この“器官”を“機能”に転換する術に気がつけば、それは「政治社会学」だけでなく「文化社会学」としても、例えば、社会システムの“機能”を中心に思い切り働かした同じ時代のニコラス・ルーマンの「社会システム論」もアルトーが望んだ俳優術にも通じるものがあるのです。
 
 私がここで言いたいのは、中国の三大気功の一つである老子の教えを受け継ぐ武当龍門派が、又それと同等に日本の歌舞伎役者の演技術と人形浄瑠璃の義太夫の発声法が、アルトーが望む「俳優術」と同様な目的を持つものであり、この身体の“器官”を固定した“機能”としてでなく使おうとしているのです。
 つまり、ドゥルーズ/ガタリも、ニコラス・ルーマンもおなじポスト・モダンの傾向として「社会学」を政治面と経済面においてアルトーの演技論の器官の位置と効果を自由に変えて使うという意味の “機能中心主義” をドゥルーズ/ガタリが「器官なき身体」としたのが、解釈上の誤解を生むことになるのですが、それは「器官を無くする」のではないのです。固定した役割りを無くするという、いわば徹底した「構造改革」を目差せ、ということでしょう。

 身体の五臟というのは太陽圏の気を上から受けて、陰陽の2つ、これは量子力学の電子と陽子に当たるようなものですが、それを五臟の5つ中心がそれぞれの役割りをもって陰陽の数を夫々違えてその役割りを持っているわけで、それは個体の生命の働きを分担しているだけで、アルトーの俳優術はそれを無くせよ、と言っているのでなく、それを強引に体内に位置を空間的に動かし、また細胞のエネルギーを活性化させ、からだを包む皮膚面で外界と対峙させようとしているので、「器官を無くすること」が直接の目的ではないわけです。
 また、ついで申しますと、五臟の器官を持っているのは上体だけで、それは太陽の光と水、またこの作品では“智慧”と“慈悲”とに関係し、下半身は地球の大地と月のリズムと関係するので上体は5と10のリズムで、下半身は6と12です。そしてそれは脚の裏から六腑に通じるものです。

 それでは頭部は何の意味があるのか、と問われれば、それは、この10月公演の第2場のテーマで、前述のレヴィ・ストロースの構造主義の「野生の思考」に、また直接的には空海の「人間の識と地・水・火・風の “五大” との関係」を問題にしているのですが、それは西洋文明が知性と近代科学によって文明を切り開く以前の、知よりも色彩、匂い、味、音、感触など、対象との感覚値を主体にした論理で生活しており、つまり未開人の頭部以前の上体と自然との関わりが土台になっていることこそが本来の人間の生き方である、ということです。

 しかし、第2場の問題は、そういうことでだいたいの方向づけは付いたのですが、これからは第1場の問題です。これは2つの大きな問題を含んでいます。
 一つは「システム」という問題を含んで、ウェーバーの“行為”、と「理解社会学」の“理解”という意味、それに「社会学」はウェーバーからパーソンズに継がれたのですが、その違いはどこにあるのか。またパーソンズの「社会学」が目的とする「構造・機能」の順序を逆にして「機能・構造」とした、その弟子に当たるニコラス.ルーマンの「社会システム論」の狙いはいったい何処にあるのか。
 
 もう一つは、このニコラス・ルーマンと平行して80年代のポストモダンの
風潮を飾った音楽の“ミニマリズム”というものがあり、その後期にベルギーで起った“クレパスクル(夕暮れ)”という後期ミニマリズムのグループの中のウィン・メルテンは当時非常に人気があり、このポスト・モダンの様相を色濃く語っているものです。
 このポスト・モダンの構造を解釈するには、一方でそのニコラス・ルーマンの“機能”の「根源」とも言うべき「自己組織化」をそれこそが「自省」してみざるを得ないだろうし、それと音楽の動きの流れと、からだが持つ本来的な動きとは違うということを基本に、このポストモダンの代表として、このミニマリズムのウィン・メルテンの曲を選んだのです。
 そして、何よりも大切なことは、ミトコンドリアが住まう細胞と酸素との関係、それに繋がる自律神経とそしてリンパの作用を対象とした表現がその曲を覆うことです。このあたりでニコラス・ルーマンの「自己組織化のシステムが漏らしている部分を表現できるのではないか、という希望があるのです。

 まだ,重要なものが残っています。そもそも音楽にしろ舞踊にしろ“動き”を主体としますが、それに対して空間的に動かない美術の“認知”とそれはどういう関係にあるのかということです。
 その感覚的な関係から描く構造こそが、これまでの知を土台とした“振り付け”や“空間構成”から脱することができる筈だと思っているのですが、果たしてそれが巧くゆくのでしょうか。

 これまでに出された一般通信は、大串さんに計4通、加藤さんに1通、北山さんに2通、そしこの星野さんにが1通。そして後は宮田さんに など3通で締めくくります。それに演技者に向っての特別通信の相良さんに をこれまで3通送りましたが、最後に,山下さんに を送って、それで締めくくりたいと思っています。

 キッドでのこの10月公演には「アートは症状である」のこれまでの3人に加えて、「アルトー館」の全員が出演し、合同公演のかたちとなっています。
 それは、われわれの次ぎのジェネレーションへのバトンタッチの意味も含まれていますが、周りの後援者を含めて、余力ある者は、再びあのポストモダンの先端を切ったヒノエマタの芸術運動のように、次ぎの新しい時代づくりのために若いアーティストたちを抱えて、堅実な運動を再生して頂きたい願いがあるからです。

Friday, October 09, 2015

10月公演のために


北山さんに 2)
 
  2) 無惨から、空(くう)と智慧が生じ、ついで、悲しみが起こって来る

知識をいくら研ぎすましても智慧には至らない。智慧は特別のもので、それを心の内に感じるまでには、相当の手段と修行が必要なのだ。仏教語に波羅密という言葉がある。波羅(ハラ)は梵語で“彼岸”という意味で、“密”は「旨し」という意味で、両方合わせて西方の阿弥陀如来が統治する極楽浄土のことを指す。
その彼岸の極楽浄土に渡るためには菩薩は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種の修行である「六波羅密」を努め、それが果たされた時に自利、利他の功徳を知り、そこで初めて到彼岸が出来ることになっている。

また、この最終段階の修行である智慧を心の中に見い出してから悟りで心が開かれる状態を“般若(はんにゃ)”といい、そこで自分の心の中にも“仏性”があることに気づくのが“禅宗”の修行法で、禅の場合わざわざ彼岸に行く必要がなく、仏は自分の心の中あるのだ。浄土の彼岸を求めて修行するのが浄土宗である。
しかし、一概に浄土教と言っても、夫々に安易に彼岸に至る道を考えていて、例えば六波羅密寺の空也上人の場合は踊躍鐘鼓によって、三千院の良忍は音律正しい念仏によって、恵心僧都の源信は来迎阿弥陀の絵図によって彼岸の功徳をおしえたりしている。そして最終的には法然上人が、唐の善導大師の著『観経疏』の「口称名号」の条で、易行の“称名念仏”の手法を豁然と納得し、庶民ためにこの「南無阿弥陀仏」を一心に称する道を選び、そのため比叡の本山から迫害を受けることになるのです。と、いうのが比叡の本山である天台宗は、釈迦以来の布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の「六波羅密」の修行を、「戒・定・慧」として大切に守るべき道としているので、このような庶民のために安易な道で教えることを許さない厳しい立場にあるのです。

京都の「八坂神社」の隣りに位置する広大な知恩院は、この一向念仏宗の本山で、ここでは円光大使法然は釈迦如来や阿弥陀如来よりも崇拝されています。
ご存知のように、この法然の弟子であった親鸞の本山は浄土真宗の本願寺ですが、それが徳川幕府の計らいで東西に二分され、さらに比叡山延暦寺に対しては江戸の
上野に東叡山寛永寺を創ってこちらの力も二分している。しかし更に恐ろしいことは、先に話した法然源空の本山知恩院の広大な寺院は、その敷地の広大さは兵舎としての包容力を持ち、場合によっては城郭に転用できるようにつくり、また登り坂の階段や、城内構造も、敵が乱入した場合の対策が十分に考じられていて、それは徳川家の宮中への圧力ではないか考えられるのです。
上のことは、古文書学者でもある歴史学者の中村直勝氏から知ったことで、古文書を自分で紐解くことから得られた知識をもとに、そこで “ひらめきの“智慧”が必要になって来るわけです。それによって歴史が俄然明るく見えてくる。

南部範子さんに会ったのは偶然でした。しかも赤羽のアルトー館の近くなのです。そこは何時も地下鉄に向う通り道で、小さな古着屋だったのです。その店にはごちゃごちゃ小物も混じり込んで、沢山の衣類など委託品が積み上げられていた。それらは、ほとんど使い古したがらくたなのですが、それを勝手に掻き回しているうちに突然高価なきらびやかな新品同様なものが掘りだ出され、それがそれほど高値でないから掘り出し物なので、この宝探しの店のようなところが面白くて時々その店に入っては、日本の派手な着物や帯、またイタリー製の出来のいい陶器等を購入したりして馴染んでいました。
私はこの店を面白がっていると同時にこの店の女主人のどこかで見たような顔がいつも気になっていたのです。

ある日、思い切って彼女に「貴方のお名前は何って言うのですか?」と問うてみた。彼女はそれに対して何の衒いもなく「わたし南部明美です!」と応えたのだが、その瞬間、私の疑問が溶け、すかさず「嘘をつけ!貴方は盛岡の南部でしょう。貴方のお兄さんに当たるだろう方を私は知っているが、貴方の顔とそっくりなのです。貴方のお名前は明美じゃない! 隠したって分りますよ。」彼女のその時の参った! という笑顔を今思い出しても可笑しくなる。

南部さんのお名前は範子(のりこ)でした。道理で店の入り口の上には「範」と書かれた看板がある。2人の間が打ち解けたところで、いろいろ聞いてみると、彼女はお茶の水の女子大を出て、そのまま数学を大学で教えていたのだが、校内の気風に合わず、そこを抜け出してデザインの仕事をしており、この委託の古着店の売り上げは、今住んでいる下町の近所の公園の野良猫たちを養ったり、動物保護協会に寄付しているという。なるほど奥にはデザインのための大きな机がある。
野良猫をアパートで飼いたいけど,新聞で間取りが良いだけで移ったのだが、猫を飼ってはいけない、と言われた。周りの近所の人とも話しが合わないし、実は困っている。「それまでどこに住んでいたのですか?」と聞いたら、白銀です。白銀族がいきなり下町に移って合う筈がない。
そこで、初めて気が付いた。店の宝さがしの商品の持ち主は白銀族の持ち物だったのだ。しかし当人は白銀でどんな生活をしていたかは見当がつかない。趣味はヴァイオリンだと聴くと、それなりの暮らしをしていたのでしょう。

なぜ、そんなことまで推測するのか。それは明治の維新戦争でいちばん酷い目に会わされたのは会津の松平家と彼女の南部家だったからです。
鳥羽・伏見の戦いの後、帰藩していた会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)に対し、明治新政府は他の東北の諸藩に向って、会津討伐の命を下した。また、盛岡・秋田・津軽藩には、庄内藩を討伐する事を命じた。しかし東北の諸藩はその命令に服することなく、会津・庄内藩の助命を願い出るとともに政府軍の横暴な態度を批難し、新潟の高岡藩,新発田藩と一緒に奥羽越列藩同盟を結成し抵抗することに決めたのだった。だが、結局は新政府軍に攻められ、会津が落城しても最後まで戦い続けたのが盛岡藩だった。
しかし、そのため新政府軍の盛岡藩に対する条件は、会津藩と同じく過酷で、70万両の献金を政府に支払うことを課せられたのです。しかし、南部藩としては財政的にその支払いが不可能なため、「版籍奉還」以前に藩のすべての財産を投じる厳しい条件で許されたのです。

その「版籍奉還」というのは、明治2年6月17日に、旧藩主たちは知藩事として残り、従来の石高の10分の1を俸禄として受けることになっていたのです。そして、大名達は土地と人民を天皇に返却すること、だったのです。しかし、これはどういうことなのだ? 「大名達は土地と人民を天皇に返却すること」とは?
土地と人民を天皇に返すという言葉の意味は容易ならぬ内容です。われわれの命は天皇のものなのか? 明治新政府は天皇家を祀り上げ、欺瞞によってその錦の美旗を掲げることで自分たちの権力を得たのです。その欺瞞によって国民は第二次大戦の終了時まで天皇のために命を捧げて来たのだ。

南部範子さんは「私たちはすべての財産を失いました。と語った時の柔らかな微笑みと悲しみの色は、その奥に空漠と智慧のきらめきが見えた。その時あの盛岡のあの広大城跡と、南部家の下屋敷だった有栖川宮公園がイメージとして浮かんだ。と、同時にその公園に隣接した南部町の名の記憶が妙になまなましい傷跡のように訴えるのです。

南部さんはその後、体調を崩し、赤羽の店を払って、自宅でデザインの仕事だけをすることになったのですが、それでも彼女は時々アルトー館に姿を見せては猫の話をし、時には電話で互いの様子を伺うのです。

先日、私は電話をし、南部さんに気軽に聞いてみたことがある。「ポストモダンの時代にルーマンの「社会システム論」というのがありましたが、その後、大澤眞幸と宮台真司という2人の社会学者が、G・スペンサー=ブラウンという数学者の著書である『形式の法則』というのを訳して、評判になっていましたが、南部さんはこのように数学が社会学に使用されることをどう思いますか」と質問しました。

南部さんは、私のこの不躾な質問に対して、しばらくの沈黙の後、独りごとのように次ぎのように語ったのです。「 -------- あたまの中の数学と実際の事実とは違いますし、------それに数学といっても、いろいろな巣学がありますからね ---------  」それを聞いた時、私の頭の中にアラン・チューリングやジョン・ナッシュの名が過ったが、私は思い返し、直ぐ「そうでしょうね。」と応えて,その問題から直ぐ次の話しに移ったのですが、物事を曖昧に応えないのが彼女の特徴で、今の政治を話題にする時でも落ち着いた声で自分の考えを述べるのですが、とつぜん時代を越えて、かって南部藩の家老であった、立憲政友会の総裁で、平民・首相を名乗った反骨「原 敬」のことを例に出した時に、われわれが「はら けい」とぞんざいに言うのとは違って、丁寧に「はら たかし さん」と言われたのが印象的でした。
 

10月公演のために


 5)  北山研二さん に 

                      南部家の人たち(B)

       1 )  悲しみは どこから起こるのか

私は最近、本屋で偶然に目に入った赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』を購読し感動して記憶にそのまま残っていたのですが、南部陽一郎氏の訃報が出ていた同じ「朝日」に、“戦後70年” 関連の彼女へのインタビュー記事が「いびつな日米関係、よじれと鬱屈秘め、迫れぬ戦争の核心」というタイトルで載っていました。その中から抜き取った次の文章をお読みください。
「東京大空襲や原爆投下を受けながら、戦後、日本人はなぜこれほど、かっての敵を愛したのか。軍国主義よりアメリカ民主主義の方がいい、というのは当時の実感だったのでしょうが、自分たちをたたきのめした国のお陰で復興し、豊かに暮らせている現実は、どこかよじれていたはず。闘う対象が見えにくい葛藤の中、日本人は『よじれ』と『鬱屈』を不問にし、敗戦を『なかったこと』にしたかったのでしょう」

この記事といっしょに載っている赤坂真理さんの大きな写真の顔は、ちょうど南部範子さんとほぼ同じ年齢なのか、この二人とも笑顔の中に悲しみの色が滲みで出ているのです。正しく二人とも身についたピエタの存在なのです。

この2人の女性の悲しみは、当人だけの悲しみではないようです。
どうして世界はこのような残酷な状態に落ち入ってしまったのか? このままの状況では、人びとが思っているより先に人類が滅びるか、地球の限界が来るかも知れない。そんな不安と悲しみにとつぜん襲われることがある。

それは公共とか、他人のためより,自分の利得のことばかり考える人間が多くなったからであることは誰でも納得しているのだが、「富国論」を著したアダム スミスが倫理学の積もりで書いた筈なのに、資本主義の教本のようになり、マルクスの資本主義に対抗して書いた「資本論」に従って、闘ってつくられた共産主義国家の内部が利得の泥沼にあるという状況は、思想や主義ではなく、もっと自然的に人間のこころとからだの生活環境を代えてゆく方法を考えて、その転機をつくるより他はないような気がする。

かってヨーロッパの危機を訴えたヴァレリーに継いで、ポストモダンの動きの原理を創った生理学者のヴァレラが、氏が亡くなる前に著した本「身体化された心」の中で、ヨーロッパの未来のためには東洋の仏教を大乗仏教から学ぶ必要があると忠告しているが、理論としては半分当たっているが、もっと具体的な方法論として提出した方が良かったと思う。
それには先ず、彼自身が神経生理学の研究によって発見した「自己組織化」の原理を利用してポストモダンの流れを源流として支えた感のあるニコラス ルーマンの「社会システム論」が、そもそも人間社会のベースにある自然と大乗仏教の主題である“空”なるものを抱え込んでいたかを反省する必要がある。その社会システムは環境としての自然を排除し、万事を包容する宇宙も排除し、人間だけの、利を生じる“物”と、人間がつくっている「世界」だけを対象としたものだっだ。
それに対する反省と同時に、現在の世界の混乱情況と地球のリスク状態がなぜ起ったのか、その原因を考える必要がある。
ポストモダンが、ほんとうは対象とすべきだった“身体”と“環境”と“宇宙”の「複雑系」を、勝手に都合のいいように人間中心に変更し、しかも上部社会の人間の利益のために知的に数式、簡易化し、社会システム化したことを、この経済中心の「社会システム論」から除外されている文化の側から芸術家がそのシステムの欠陥をまず問題にすべきである。

そして先ず、われわれが立つ大地の、地球に対して関心を向け、自然を愛する運動からはじめ、こころと身体との結びつきに的を当て、次第に生活方法を換え、終いには個人の利得だけを考えることが如何に人間として低級かということに気付かせる道しかないような気がする。
しかし、それには、先ず知識と科学には限界があり、その先にはリスク社会が待ち受けていたことに気づくこと、そしてこれまで顧みなかった“智慧”の問題と、自然環境の有り難さに気づくことである。

そもそも、ニコラス ルーマンがポストモダンのシステムに、師のマトゥラーナとヴァレラが神経生理学の研究で得た「自己組織化」のシステムを取り入れて、社会の複雑系を一つのシステム原理で簡略化していることに問題がある。
というのは、それ以前のパーソンズの社会システムは「構造/機能」だったのを、ポストモダンの革新性として「機能/構造」と機能を構造の前に置いたのだが、パーソンズの場合は社会の中に重要な部分として文化面が入っていたのに、このルーマンの場合は社会の文化面が初めから切り取られているのです。あまりにも社会の複雑系を単純化し、そのシステムに載せているのは、あくまでも人間中心主義で、外部環境として挙げているのは、人間の組織と資本主義の対象としての「物」だけで、恩恵を被っている自然そのものを外してあるのです、さらに広がりをもった次元としては宇宙の万物としての動物,植物、無生物を取り外して人間だけの「世界」だけを対象にしているのです。

そして誰も比較していないのですが、ゲーテの根源(UR ウル)の植物の「葉」は 、植物の成長過程として同じように葉から枝、枝から芽と花へと「自己組織化」する中心的な根源として選ばれているのです。
そして、生理学的に人間が活動するエネルギーに関しては、体内の無酸素状態でブドウ糖を使ってエネルギーを生成する流れの「解糖系」と、酸素を使って効率よくエネルギーを生成す流れの細胞内にある「ミトコンドリア系」の2つの系で人間は活動していることになるのですが、人間が外の空気として吸い込む酸素を植物が炭素から酸素へと変換して与えてくれているわけで、その他にもこの樹木と華花は人間の生活文化の上で排除できない決定的な影響を与えているわけです。

さらに、なぜポストモダンの後に世界的混乱とリスク社会が起こったかは、このルーマンの社会システムが文化面をカットし、経済面から“もの”だけを複雑系の社会の中から選び出していて、しかも最後の回帰的反省において、そのことを反省せず、さらに土台となっている自然とか宇宙の複雑系を完全に無視し、“利益”だけを目的に計算しているからこういう世界情況になったのです。知と科学についても、それを信頼し過ぎたのです。福島の被災の後始末が何らなされていないことでもその限界が照明されているのです。そして、そのリスクは今や地球環境にまで及んでいるのです。

結論として、ポストモダンにおいて、この複雑な宇宙世界のもとで生活している人間社会をシステム化するに当たって、この「複雑系」の宇宙世界と、人間が環境として生活している自然を外して、人間社会として単純化し、生物の神経生理学で発見した「自己組織化」の法則を活用し、人間組織と人間が使用する「物」のみを対象とし、またその上の万物を含み抱える“宇宙”の代りに人間だけの“世界”にしていたのです。
この「自己組織化」の単純化で漏れたものを組織化を反復することによって外部から拾いなおし、最後的段階で回帰的に反省することになっているのですが、人間そのものと、利益に関係する「物」以外すべてを除外していたことに対する反省、いちばん恩恵を被っている大切な自然や宇宙内の万物をも除外していたことをも反省していない、ということです。



Friday, August 14, 2015

「鴻氏との対談」のための基調講演



       「鴻氏との対談」のための基調講演
    
        テーマ「モダンとポストモダン」
   -------- ヒノエマタ パフォーマンス フェス から 現在時へ ---------
                                及川廣信

 モダンは、歴史的に近代の意味で解釈したばあい、18世紀半ばからと捉えることもありますし、芸術面では画家マネーへのボードレールの美術批評から始まり、モネー、ピサロなどによる光をテーマにした印象派の主張がモダンへの道を開いたという捉え方。もう一つは、19世紀末のアール ヌーボーやそれに続くアール デコの装飾美術から展開し、ディアギレフのロシアバレエ団からはじまり、1920年代の狂乱の時代、コクトー、シャネルなどが注目を浴びた時代をモダンの典型と言っても良いのでしょう。
 そして、日本では、大正ロマンからはじまり、大正12年の関東大地震を経て、昭和の時代に入り、大正ロマンの残照と西洋から新しく輸入されたデザインとの融合によってつくられた、昭和3,4,5,6年(ミヨゴロ)の時代。文学で言えば、川端康成や横光利一などの新感覚派や、食器など日常の道具類や洋装の女性のモダン風俗がそれに当たるのでしょう。
 しかし、ここでモダンの意味を、時代区分による風潮からでなく、的確にその底辺にある本質的ものを探り出してみせたドイツの社会哲学者ジンメルの「貨幣の哲学」から始めることにします。
 
 
 ジンメルの「貨幣の哲学」
 
 ジンメルは1897年頃から「価値(ヴァルール)」という観点から時代を包括して解釈することを考えていたのですが、1900年にそれをまとめた形で『貨幣の哲学』という書物を出版したのです。
 ジンメルのこの「価値」というのは、マルクスが言う「物と物とを交換するばあいの同価値を意味する、「物々交換」を代理する「貨幣」の「価値」とは違ってくるのです。その現実の生活においての「価値」と違った、もっと深部に関わる、人間の人格の「価値」にも関わるものだったのです。
 と、いうのは、ジンメルがどのようなきっかけで、この「価値」の問題について
哲学的に掘り下げようとしたかの事の起こりは、たとえば、一人の女性が当たり前の仕事をした時の「価値」として支払われるお金と、自分のからだを援助交際として売ったばあいの「価値」のお金の差は大きく違います。この事にジンメルは思考の焦点を当て、哲学的に「価値(ヴァルール)」の意味を考えはじめたのです。
 その事についての、彼の哲学的思考の経過と結論は次のようになります。

 ジンメルのばあい、当時の「売春」をテーマに“価値”の問題を考えているうちに、彼の頭のイメージの中に、時代の原理としての“貨幣”の問題がクローズアップされて来たのです。
 ジンメルは、使用価値や交換価値を、彼の思考の対象にしていたのではなかった。物の価値は交換しようと望むその人によって違うし、また物が持つ価値そのものも固定せず、交換しているうちに、その関係性の中で変わる。価値(ヴァルール)は動いているうちに変わるものだ、とジンメルは捉えたのです。ジンメルは、そこから「関わりの<動き(ムーブマン>の中に“価値”がある」と捉えたのです。

 産業革命以後の社会は工場の機械や、列車の動きのように、すべては機能的に連結して動き出していたのです。時代の特徴は、ニュートンの絶対的な物の考え方から、アインシュタインの[相対主義」に代っていたのです。したがって、物を相対的に動きの面から捉えるようになっていたのです。人々は世界がダイナミックな動き(ムーブメンント)を中心に変わってゆくものと考えていたのです。
 従って、当時は身体の中でも人をダイナミックに動かす“筋肉”が神聖化され、モダンダンスがクラシック バレエに対抗して勃興し初めていたのです。
 また、人間や社会というものも、近代が当初考えていたようには実体がなく、いろいろな関係性の中で動いている内に、変わってゆくものと捉えられている。そしてジンメルの考えでは、社会とそれをつくっている人間とは、内部的に共通するものを持っており、共に実体ではなく、関係性のなかで動いているものとしたのです。こように彼の哲学的思考は現実の社会を目の前にして、直接的に身をもってそれに当たることによって、生きた社会学が生まれることになったのです。
 
 ジンメルのこの一見単純な疑問から発した価値論を、それまでのアカデミックな学問から捉えたばあい、いささか学問の領域を踏み外した感じがしたのでしょうが、彼は現実の社会を観察し、それを分析することが社会学だと、その信念の下に物事に当たっていたのです。これらの事実に潜む価値(ヴァルール)問題が、その後大きく経済学にも転換されていったのですし、またモダンからポスト モダンの時代を越えてグローバル時代に放り込まれた現在においては、「貨幣」がその中心的な動力となって、あらためて注目されているのです。
 ジンメルの哲学は、カントの理性主義の批判によって成された範疇の分類分けとは違います。時代はもうニーチェたちによる「生の哲学」の思想が浸透していました。したがって、彼の社会学は認識の面だけでなく、感覚と感情がどのように時代の傾向として織りなしているかも観察に加え、しかも大衆演劇やオペラなどに覗かれる、時代の病理学的現象をも見逃すことなく加え、それら全体の社会の様相と制度的な社会の仕組みとを、機能的な社会の動きの特性に加え、その総合的な時代特徴を「モダニティ」と称したのです。
 ジンメルの社会学は、彼自身が「自分は哲学者である」という自覚で生きていたのですが、理念的な哲学の分野では満足することが出来なかったのでしょう。結局、人びとへの愛情を大切にする彼の素質から、実践的な彼独特の社会学を創ったことになるのです。

 
 ポスト モダンは、近代を越えられるか
 
 モダンは機能的な動力と感覚を主体としておりました。では、それにつづくポスト モダンとは何か。モダンが「機能」なら、それを取り巻く「構造」がポスト モダンの特徴だと思うのですが、もの事を全体の枠の中での構造から捉えるようになったのです。しかし、この構造主義は最初、レヴィストロースの民族学的研究から起こったものです。それを精神分析にまで応用したのがラカンで、言語学的に敷衍して社会に当たったのがロラン バルトで、社会の権力と制度を歴史的に解明したのがフーコーでした。
 しかし、これらすべてが、人間とか国家とかの枠組みの中での内部の仕組みを対象としていたのです。そして、構造主義の構造を解体する作業をして“脱構築(デ コンストラクション)”を主張し、後期構造主義に変じたのがデリダなのです。
 また、1972年に出版されたドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の底辺にあったものは、アルトーの俳優論の「器官なき身体」でした。その器官の意味を国の政府と制度の意味に解釈して、その政治と制度を革新する意味に応用したのです。
 これら哲学思想の構造主義/後期構造主義と芸術スタイルとしてのポスト モダンの風潮が時代的に平行、交差していたのですが、厳密に言うと、ポスト モダンという呼称は、最初、建築家の間で使われた芸術形式だったのです。日本でいえば磯崎新などが最初に始めた建築様式に対して言われたものだったのです。更に元を正せば、それまでのモダン形式をあまりにも象徴的に抽象単純化したル・コルビュジェに対する反抗でもあったのです。そのことをアメリカの社会学者のデヴィット・ハーヴェイが彼の著書『ポストモダニティの条件』の中で説明していることによると,次のようになるのです。
 モダンを継ぐ「ポスト モダン」は何時、どこから始まったかは、アメリカの建築家の間では、ル・コルビュジェのモダニズムの象徴的建築物であるセントルイスにあるブルーイット・アイゴー住宅団地を倒壊した1972年7月15日午後3時12分ということになっていて、この時から建築家たちは新しい様式で家を建てはじめ、他のアートも生活様式もその傾向によって動き出し、世界全体がその時代様式に移ったという現象事実にあるのです。
 
 さらに、歴史的に観ると、アメリカのカニングハムやアンナ ハルプリンの弟子たちがジャドソン チャーチで始めたダンス形式を、それまでのマーサ グラハムを主体とする「モダン ダンス」の動きに対して批評家が「ポスト モダン」と称していた事実もあるのです。
 ただ、これらの「ポスト モダン」と、1980年代にフランスの哲学者たちの影響下で起こった時代風潮とは若干異なるものと考えたい。
 
 それは、フランスのロラン・バルトやジャック・デリダを先頭にしたものでした。しかし、このポスト モダンの風潮以前に、同じフランスの哲学者のジャン=フランソワ・リオタールが1979年に『ポスト モダンの条件』を出版し、別の角度から物議を醸し出してもいたのです。
 これは、本来は芸術批評論としての内容だったのですが、歴史的な近代という時代に対して疑問を呈するものでもあったのです。彼の説は、これまでの近代はすべてを「大いなる物語」として包括してしまうことへの不信感だったのです。それに対して彼が掲げるポスト モダンの条件というのは、現代においては「知」が情報化され、当人から分離されたまま売られている。本来の「知」の真実さを失ってしまっているこの状態から自らを救い出すことこそが第一に行うべきことである、という主張なのです。
 しかし、この説に対して、ドイツのフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスは、彼なりに近代という制度に対して問いかけ、彼が主張する「公共圏」の立場から、近代が抱き持っている伝統的なものに対して、各人がその公共圏の中で、理性を働かして積極的に意見を述べ、社会を変化させて行かなくてはいけない、というコミュニケーションを主体とした立場から反論だったのです。
 やがて、東西の冷戦も終り、ベルリンの壁が崩壊して20世紀も終末に向かう頃になると、「近代という時代がここで終わって、次の新しい時代に入ろうとしているのか」という大きな問題が提出されたのです。
 
 そして、この問題に結論づけるかたちで現れたのが、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズを中心とする社会学者の一派でした。その中には前述のアメリカのデヴィット・ハーヴェイも含まれています。彼らの主張とは、「近代という制度形式はまだ終わっていない、もう一度近代を振り返って見て、組織を再編成し「第三の道」を選ぶべきだ」というものでした。
 このあたりの実情を詳しく知るため、ここで1990年に出版されたギデンズの『近代とはいかなる時代か?』(松尾精文/小幡正敏 訳 而立書房)の序論の最初の部分を引用させて頂くことにします。
 
 「これから私が展開するのは、文化論と認識論を加味したモダニティの制度分析である。その際、私の意見は近年の多くの議論とかなり見解を異にするが、それは、互いに正反対の点を強調しているからである。まず、モダニティとは何か。手始めに、「モダニティ」とは、およそ一七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会生活や社会組織の様式のことをいう、と簡単に述べておきたい。この規定では、モダニティを、それが最初に確立された時期や地域と結びつけて考えているが、さしあたりモダニティの主要な特徴については慎重にブラック・ボックスに入れたままにしておきたい。
 二〇世紀末の今日、多くの人びとが論ずるように、われわれは新たな時代の幕開けに立ち会っている。社会科学はこの幕開けに対応しなければならないし、また、この幕開けは、われわれをモダニティの彼方に連れて行こうとしている。こうした時代の転換を指称するために幻惑するほど多様な名称が提唱されており、なかには、(たとえば、「情報社会」や「消費社会」といった)新たな社会システム類型の出現に積極的に言及するものであるが、そのほとんどは(「ポスト・モダニティ」や「ポスト・モダニズム」、「ポスト・工業社会」「ポスト資本主義」など)むしろ既存の社会のあり方が終わりを迎えはじめている点を指摘している。この問題をめぐる論争では、主に制度変容に焦点を当て、とりわけわれわれが物的財の大量生産に基盤を置いたシステムから、もっと情報に中心を置くシステムへ移行していると主張する議論も一部でなされている。しかしながら、これらの議論は、通例、主に哲学上の認識上の問題にむしろ焦点を当てている。その点は、たとえば、ポスト・モダニティという概念を最初に広めた責任を負う論者、ジャン=フランソワ・リオタールに特徴的な見地である。リオターによれば、ポスト・モダニティとは、認識論を基礎づけようとする努力や、人間が画策した進歩にたいする信仰からの転換を指している。ポスト・モダニティという状況は、「壮大な物語」------  われわれが、動かしがたい過去と予測可能な未来を担った存在として歴史のなかに身を置く際の手段となる、そうしたすべてを包摂する「物語の筋」----- の消散を、その際立った特徴にしている。ポスト・モダンという見地は、複数の異質な知の主張を容認しており、その主張では、科学が特権的地位を占めることはない。
 リオタールが表明したような考え方にたいする典型的な反応は、理路整然とした認識論が確立可能である-------- したがって、社会生活や社会の発達様式に関して一般化が可能な認識を獲得できる------- ことをさらに証明すべきである、というのである。しかし、私はそれとは異なる取り組み方をしていきたい。社会組織について体系的認識を得ることができないという感情のなかに表出する方向感覚の喪失は、自分たちには完全に理解できない。大部分統制が不可能に思える事象世界のなかに自分たちょが巻き込まれているという、われわれの多くがいだく意識に主に起因している、と私は主張したい。なぜそうなったのかを分析するためには、ただポスト・モダニティ等々の新語を創作するだけでは不十分である。むしろ、ある明らかな理由から従来の社会科学では十分解明がなされてこなかったモダニティそのものの本質について、もう一度考察し直す必要がある。われわれは、ポスト・モダニティという時代に突入しているのではなく、モダニティのもたらした帰結がこれまで以上に徹底化し、普遍化していく時代に移行しようとしている。モダニティの彼方に「ポスト・モダン」という新たな、いままでとは異なる秩序の輪郭を確かに目にすることができる。しかし、その秩序は、現在多くの人びとが「ポスト・モダニティ」と称している秩序とは、明らかに異なるものである。  --------- 」
                                 
  日本の若者文化としてのマンガ、アニメーション、映画。それにフィガーなどに主体的に現われていた彼らのサブカルチャー運動は、それまで「西洋に学び追いつけ」という方向性を中止したものだった。また、日本文化の代表として西洋に提示していた東山文化から標的を転じ、先ずいちばん近い近世の「江戸文化」に振り向くことを手始めに、平安朝時代から古代にまで歴史を遡って、その中に自分を見い出そうとする気風が起こったことは、この世界という現在時で「レフレクション 再帰性」という思考の転回が行われたからだった。

 また、ギデンズなどと違う道から「歴史は、過去を振り返ることによって前へ進むことが出来る」と言ったベンヤミンは、彼の「パサージュ論」によって19世紀から始まる「モダニティ」を求めた場所は、ナポレオン三世がつくった大道り(ブールヴァール)の内側に取り残されている「パサージュ(通路が蜘蛛の巣状に混み入った商店街であり、人びとの散歩道でもあった。特徴は雨の場合を考えて天井をガラス張りのアーケードにしていること。)」でした。
 エンヤミンはパサージュを対象に観察することによって発見したものは、「ヴァルール、プロセス、作用がつくるモダニティの“機能”とは違って、それは「くもの巣状に張り巡らされたWWW、袋小路の行き止まり、思いがけぬ大道りへの抜け道」の、人間の思考の忘れられた道を暗示するものであったのです。そしてまた「内と外」「閉ざされた空間から開かれた空間へ」の問題を暗示する空間現象でもあったのです。
 このベンヤミンが新しい思考を生み出す対象として選んだ「パサージュ」のイメージが湧かない人のために説明しますと、次のような説明になります。
 今でも何々銀座として東京に残るアーケード商店街を、1本の筋道だけでなく、もっと複雑な、例えば岐阜市の柳ケ瀬商店を人が路に迷うように蜘蛛の巣状に複雑にしたものと、想像して頂きたい。
 更に納得するためには、六本木ヒルズがわざわざ店を探すのに迷うようにぜんたいの構図を造ってあるのは、この「パサージュ」のイミテーションである、ということです。お台場の「ヴィーナス フォート」もその典型例。その後に出来た六本木の「ミッド タウン」は、危険度を怖れて、この迷路の部分を少なく、オーソドクスに戻したものです。
 そしてこのような「パサージュ」の店が突然流行したのは、パリのポンビドー センターで「ベンヤミンの展覧会」が開かれ、その影響でラスベガスがこの「パサージュ」風の商店街をつくって評判になり、それが日本に伝播した、というわけです。


 アダム・スミス と グローバルな時代
 
 アダム・スミスが1776年にイギリスで『国富論』を出版した頃は「重商主義」の時代で、同じ商品でどれだけ儲けることが出来るかを競っていた時代だった。それに対して「労働価値説」というのは、その商品をつくるのにどれだけの労力を要したかで、商品の価値を決める説なのです。
 この「労働価値説」はアダム・スミスからイギリスの経済学者デヴィット・リカードに接がれ、その後にマルクスによってプロレタリア階級のために『資本論』が組み立てられたのです。
 分業化され単純化された作業の中では、人間の「価値」という問題がそこでは平均化されていたが、「価値」というものを時代がつくる状況の中で、いかに価値が生じ、どのような作用がそれを動かして行くかという新たな問題が提出されて行ったのです。
 その後、社会学物のジンメルは、「価値」と、それに向かっての行為としての「作用、または操作」と、それが働く関係経路としての「プロセス」の三者を重要な要素として捉えたのです。
 時代精神としては、その底辺には産業、鉄道などによる「機械が物を動かす」という「機能的な働き」の観念があり、それが社会を動かしているというのがモダンの考え方の特徴なのです。歴史的にみると、その後の「構造主義」の時代、それにつづく「脱構築」の時代以前の特徴なのです。
 その機能を包むかたちで次に考え出されたのは「構造」で、構造という思考が働くには、国家という枠組みと組織という制度が必要になってゆくわけです。物事をぜんたいから見ることで、したがって、近代の枠組みとしての国家が主体となるのです。それに対して「脱構築」というのは、革新的な意味から、目の前の制度をいかに解体するかを問題にしたのです。

 アダム・スミスが経済学における重要な項目として取り上げた「分業、市場、貨幣、労働価格、労働の賃金、資本の利潤、国民資本など」のなかで、中ほどの「労働価格、労働の賃金」の部分がモダンの時代に問題視され、そこから国の全体的構造の問題として、「全体と部分」の関係が揺らぎ始めたのがポス モダンの時代で、「貨幣」の流れを転機として、国家の枠組みを越えて前掲の「分業、市場、」と後掲の「資本の利潤、国民資本」が国家の枠組みを越えて複雑に絡みはじめ、そのため強固に枠組みをつくっていた欧州連合帯のEUが思わぬユーロの苦難を嘗めているという現実から、人間よりも「貨幣」が主体となって国または連合体の外で動きはじめたのが、現在のグローバル世界なのです。

 そのグローバル世界での現在(2013年10月)のアメリカの状況を素描すると、次のようになります。
 事の起こりは、アメリカの上下議院の「ねじり現象」によってオバマが提出する国民皆保険制度が通らないことが最初の原因で、それに続いた最も重要な2014年度の会計予算が通らない、という時点に至ったのです。そして、このまま議会の対立が続けば米国債の債務不履行(デフォルト)が避けられない状態になっているのです。
 結果、大統領が10月に予定していた、28日のバリ島で開かれるAPEC首脳会議とTPP首脳会議。9,10日のブルネイでの東アジア首脳会議に出席出来ず、この原稿を書いている10月17日がちょうど政府債務上限の期限になっているのです。
 米政府の債務上限は法律的に決まっていて、現在その限度である16兆7000億ドル(約1630兆円)に既に5月には達していて、今は政府内の資金融通で凌いでいる状態なのです。それもこの17日が限度で、ルー財務長官がこの10月1日に下院の共和党を代表するベイナー下院議長に書簡を送り、議会が政府債務の上限引き上げを認めるよう依頼している状態です。
 
 そして、今日17日の朝刊によると、16日に上院の与野党幹部が超党派の打開策をまとめ、暫定的な債務上限引き上げや政府の全面再開などで合意したと報じています。しかし、米国債のデフォルト(債務不履行)が回避できるかどうかは、下院が上院案を可決するかどうかに焦点が移っている、と報じています。
 結局、この執筆を休憩した後の午後になって、米議会の上下両院は16日の夜(日本時間17日午前)、2014年2月末までの米政府の債務上限(借金の限度額)引き上げと、米政府機能を再開するための14年1月までの暫定予算を盛り込んだ法案をそれぞれ賛成多数で可決したことを知りました。
 が、このことは、数か月の時間稼ぎで、いづれ米債券のデフォルトと政府機能の一部停止という異常事態が何時起るとも限らないのです。
 このような状態では、アメリカはすでに「パックス・アメリカーナ」の地位を既に失っている、と言えるのです。

 先ず、近代国家を形成する国民のための経済と、国境を越えたグローバルな交流のための経済とが、いま国境の内、外の関係としてクローズアップされる時代となっているのです。貨幣が先端を切って、国境を越え、それぞれのグループで通貨戦争を演じる段階に入っているのです。
 物を製作する上での分業が、各国で造られた部品が国境を越えて集められ、完成品として組み立てられるプロセスとして演じられるグローバルの時代となったのですが、部品工場と完成品の組み立て、最後の輸送までのプロセスを、それが外国の商品であるのに、すべて中国の地で中国人で成されているとしたら、どうなるか。そして又、その作業がタイとかベトナムに変じたとしたらどうなるかを考えてみると、このグローバルという世界が透けて見えて来るのです。
 また、輸出の段階でドルまたは円が安い場合、アメリカと日本が輸出において得なのですが、ドルと円が安いということは、本来はドルと円の価値が下がることになるのです。ここに矛盾と、事の不公平さが見えるのです。それは基軸通貨国のアメリカのドルとそれに準じる日本の円を、その中央銀行であるアメリカのFRBと日本銀行とがみだりに金融緩和してドルと円を乱発すること。G5やG20などが互いの基準によって、輸入、輸出のバランスを決めることに成功していないこと。これらの不当行が原因なのでしょう。
 要はパックス・ブリタニカの後をパックス・アメリカーナが第二次大戦以後に継いだのですが、ニクソンが金本位制からドルを外した「ニクソン・ ショック」以来ドルが権威を失い始めたのです。それ以後、アメリカは金融緩和を矢継ぎ早に行って、最早この2013年10月に至って、上記のような状況になっているのです。
 しかし、これは「アベノミックス」のばあいにも、われわれは合わせて考慮すべき問題なのです。

 
 終 章

 ジュゼフ・F・スティグリッツが、彼の著書『世界の99%を貧困にする経済』で述べているように、世界の1パーセントの政治家と資本家たちが自分たちだけの利のためだけに動いているのです。そして、財務省を中心とする各省が「財務拡張」によって膨大な予算を放漫に使用して来た過去を国民は管理することが出来なかったのです。
 金融という金銭の架空の動きが国境を越えて動き出した現在至っては。、もはや元に戻ることは出来ない。それをどのようにプラスの方向に変えることによって近代を越えるほかないのだが、今のところは自国の利益ための通貨戦争の場となっているのです。
 しかし、本来の商品作りとその交換による商売というものはそんな筈のものではなかった筈なのです。
 良い物を創って、それをお金と交換して相手に喜んで頂き、そのことによって相互に親しい交友関係が結ばれる。そして本来は「お金は溜め込むものでなく、使うためのものでる」。その考えこそ、経済学を倫理学の一部と考えていたアダム・スミスと共通するものです。「貨幣」が「資本」へと膨らんで、それが「私欲」と結びついたらば、折角の海外での「分業」で互いに利を分ち合うことによっての「友好」を結ぶ機会を失うことになる。理想的なグローバルの世界から見たばあい、国の野望から戦争を起こすこと、環境を汚すことによって、地球の気象を生活できぬほどまでに乱すことは、もはや時代遅れなのです。

 ルーマンの社会システム論に生物学の側から影響を与えたチリ出身のフランシスコ・ヴァレラは、その後フランス国立科学研究センター研究部長となり、2001年5月に逝去しましたが、彼は晩年にこの世に言い残したいことは、仏教を大乗仏教から讀みなおさなくてはいけない、という勧告でした。それが仲間の協力を得て『身体化された心』として纏められたのが1991年でした。これはヨーロッパに対してだけの忠告ではないような気がします。
 それに、驚くべき現象が、身近な中国で今起こっているのです。あの利にばかり走っていると思われていた中国の民衆が、政府官僚の賄賂の酷さと、自分たちの身は一生「99%」の枠の中から抜け出せないと自覚することから、突然伝統的な精神に気づきはじめ、それが急激に広がり始めているのです。内訳を言うと、民衆がキリスト教の教会、あるいは家庭を教会代りにした「家庭教会」に集まりはじめ、一方では儒教の信仰による「道徳観」に向かう民衆の心が驚くべき勢いで増して来たということです。そして政府としても各地で起こっていた経済的格差の不満からの暴動を軟化させる目的でそれを推す方針を取っているようで、この現象は長い中国の歴史から考えると、いづれこの運動は政治的に押さえきれぬほどの動力に拡大するだろうことが予測されます。

 ここで、われわれとしては、あの経済学の聖書とも言われる『国富論』を著したアダム・スミスは、この書物を倫理学の道徳の立場からこの本の著作に当たったことを思い出すべきです。
 そして近代から新しいグローバル世界をこれから創ることを負わされたわれわれとしては、目前の成すべきことの整理と、日本の伝統的な「心と精神」の問題を大切にすべきだ、ということです。

これは、予定された鴻英良氏との対談のため、予め基調文となるものとして2013年17日に書かれたものです。


    及川廣信ダンス公演

『ゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる 一つの神話 』
 
  ※ この作品は平面→立体→現実空間→細分化 によって、
日常の場そのものが生体として動き始め、現実が即、神話
であることを(下記、第1場〜第4場をもって)提示する。

   「 ———— 私には、こんどこそ、
   まさしく今日のこの日に、
   まさしく今、
   この1947年2月というときに、
   現実そのものが、
   現実自体の神話が、神話的な現実そのものが
とりこまれつつあるように思われるからだ。
(アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ —— 
社会が自殺させた者』粟津則雄訳、筑摩書房)

 
【第1場 “中(ちゅう)する” ということ】
(1) 易経に “中(ちゅう)する” という言葉が出て来ます。
 私は矢野さんのこの(ニューマンから受け継いだと思われる、カンバスの画面を二分し対立させた)画面構成から、自然的に“陰陽”の対比を思わざるを得なかったのです。というのは、アルトーとの接触以来、アルトーが当時予測したものを、東洋の身体メソッドによって証明することを義務づけられた、と自認しているからです。
 “中(ちゅう)する”ということは、どういうことかというと、上の二分され対立する画面の間に通路を置いて、たとえば右サイドを開放的な意味を持つ“陽”とし、左サイドを凝縮した力を持つ“陰”とする。そして、その間を歩行するということは、この右サイドの“陽”と左サイドの“陰”から影響を受けざるを得ない、ということです。“易経”の“中(ちゅう)する”という意味は、自然の中に生かされている我々としては、その時の周りの様相に的確な処置をとるということにほかなりません。

  そして、“中(ちゅう)する” という意味は、からだの中心線の重要さに対して、タオが “中(冲)脈” という言葉を使用するのと相通じるのです。
 からだの重要な中心線上に背柱があり、その中に脊髄が通っている。そこの造血機能を持つ赤色脊髄は、“元(原)気”を所有する腎臓の指示を受け、“血液細胞”を産出しているのですが、空海によると、そこは宇宙と合一する「アー」の音で、色彩は「黒」なのです。インドの古代語であるサンスクリット語の「ア」は否定の意味を表わし、「ア」が接頭語として付くと、その後に続くものを否定することになる。それ故に「アー」はすべての現象を否定して、その奥に隠れている宇宙の中の根源的なものと合体することになる。その絶対なる真理を「本不生」という。
 ここで、矢野さんが何故最初にカンバスに黒を塗ったか、の理由が釈明されるのです。その上、興味を持ったのは、矢野さんがファン・ゴッホの晩年の名作「黒い糸杉」のイメージを大切にしていることでした。

 (4) 私のダンス作品の第1場は、日本の着物の帯が左右に敷かれた間を “中(ちゅう)する”ように歩いて行く役を、ゴッホの「黒い糸杉」に演じてもらうことにしました。植物である「黒い糸杉」はなぜ歩いてゆくのか。それは悪魔が退散した夜明けの4時ごろに、その黒い糸杉が憤怒のため “青黒く” 変じ、「蔵王権現」のように怒りをこめて歩き出すのは、なぜか。
 それは、人間の中心部である「植物性」が語る真実なので、ここにゲーテの「葉」を“根源(UR)” とする”形態学”が絡んでくるのです。ゲーテの“根源(ウル UR)” なるものを代表する、植物の「葉」の意味するものは、果たして何なのか?
 それは「種子」のような時間的な起源とは違う。それを説明することに大変な困難を要するのですが、植物が葉の葉脈を通じ化学的に自然との交流のバランスをとって生きてゆく、そのことが最初の易経が述べる “中(ちゅう)する” に相応するのでしょう。
 では、人間の中心部にある植物性としての「黒い糸杉」が、なぜ青黒く怒りを込めて明け方に歩き出すのか。それを説明するためには、密教の「金剛界マンダラ」と吉野の「修験道」との関係を、以下に語るほかないのです。

 (5) 修験道の聖地、吉野山蔵王堂に鎮座する蔵王権現は、恐ろしい神力を持つ。その怒りの形相と青黒い色で恐れられているが、この修験道独自の神も元を正せば、修験道と密教との深い繋がりによる「密教の構造とその教えの方法」に沿っているからです。
 そもそも密教の中心的な仏は、釈迦から大日如来に変更していますが、それは変更というより、人間的な釈迦から宇宙の中の太陽を象徴する大日如来に昇華したと考えるべきでしょうが、一方、釈迦と大日如来との関係は、キリスト教のキリストと神との関係に似ています。
 ただし、仏教の場合はそれより複雑で、仏身には次ぎの「三身」があるのです。つまり、釈迦が悟った真理が「大日如来」で、これは歴史的な人物というより「法・真理」なのです。ですから釈迦やキリストのように上から地上に「教え」のために応じて降りて来た「応身」ではなく、大日如来は「法身」なのです。そして仏身としてもう一人、阿弥陀さまがいます。阿弥陀さまは過去世において、この世の苦しんでいる人びとを救おうという願いをたてられた、その報いによって「報身」として加わったのです。

 (6) しかし、この顥教の「三身」の考えは、密教になると大日如来の太陽のシンボルの下に、東西南北を支配する金剛界の四仏に代わります。即ち、東の阿閦(あしゅく)如来、西の阿弥陀如来、北の宝生如来、南の不空成就如来です。そして、この東の阿閦(あしゅく)如来は、けっして怒らないという誓いを立てた筈なのに青黒い顔をして、悪に対する「怒り」を表現しているのです。
 密教は語り出すとなかなか複雑なので、今、目前の問題に添うために端的に述べさせてもらいますが、前述の修験道で大日如来の代理として崇拝されている“蔵王権現”は、この“阿閦(あしゅく)如来”の変身なのです。
 この怒りというのは外部の悪に向うというより、本来は自分の心のなかの “貪”(どん、むさぼり)、“愼”(じん、憎しみ、いかり)、“痴”(ち、おろかさ)の「三悪」に向かってなのです。そして、本当は怒りと同時に、他人に対する暖かいゆとりもある心の、微笑みも同時に表わすべきなのです。
 人間のからだの中の“樹”を表わすものは、「枝葉」につながる肝臓のはたらきと、眼の演技です。そこから歌舞伎の演技が参考になります。しかし樹が歩くとなると、道元の「山が動く」の難問を考慮せざるを得ないのです。これは先の“中(ちゅう)する”に通じるものです。

 (7) 密教は、宇宙の原理と人間の実践修行の図を示すのに、胎蔵マンダラと金剛界マンダラの両界マンダラを使用しています。この二つは対称的に解釈されていますが、歴史的には別々に創られたものです。胎蔵マンダラは“大日経”を、金剛界マンダラは“金剛経”をそれぞれ教本としてつくられたものですが、胎蔵マンダラは「理」を、金剛界マンダラは「修行の実践」を意味しています。
 そして、この両マンダラを通じて密教の趣旨が理解されるのですが、教えを説く如来と、それを聴く菩薩は表面的には地位が違うように見えますが、実は聴いている当人が説いている如来そのものでもある、という逆説が仕込まれてもいます。
 顯教の禅宗では釈迦の両脇侍として扱われていた文殊菩薩と普賢菩薩が、大日如来の代理を務めたり、鬼神としての金剛薩埵(さった)が普賢菩薩と同体になるだけでなく、金剛手や金剛薩埵(さった)のような鬼神も、大日如来の役割を演じることにもなるのです。
 そして、空海はとくに鬼神の不動明王を重要視し、大日如来の代理として捉えてもいたのです。このあたりに密教解釈の難しさと奥の深さがあるようです。

 【第2場 “ゆったりと、ただ無心で ” 行為する → 色価の顕われ】

 (8) John Cage の「 in a Landscape 」に対する私の関心は、最初にそれを初めて聴いたときから始まったのです。これがあのジョン・ケージの曲なのか? という驚きからそれは始まったのです。「———— 塗り絵師の機能はまた、意識的に組織されていない(したがって分析されえない)やり方で果たすこともできる。つまり、自我の命令にしたがって、手探りで気ままに行うこともできようし、自動書記におけるように潜在的な精神の命令にしたがい、自己の精神の構造に照らしながら内部に向かい、夢の地点にまで入りこむことによって、おおかれすくなかれ無意識的に行うこともできるのである。(———)つまり乱数表を用いて確率に対する科学的関心にしたがったり、チャンス・オペレーションを用いて、何であれたまたま起こる事態と一体化するのである。」ジョン・ケージ『サイレンス』(柿沼敏江訳、水声社)
 ここに書かれていることが、それとも、たまたまか私がこの第2場でやろうとしている二筋の日本の帯の中間を渉りながら、偶然的に遭遇する私のからだの部分と帯の部分とが繋がることによって、どのように色価が変化するかの現象の顕われを、ゴッホが描いた「ひまわり」の色価の問題と照合させようとする意図があるのです。

 (9) 光は見ることと関係している。光がないと見ることが出来ないし、色も生じない。色彩は、表面的な感覚だけでなく、内的な意味と価値を持っています。そして向こう側の神秘世界と、日常の現実世界と、その間の境界の色がそれぞれ異なる。そして、この三つを繋ぐ緑の紐とそれらを覆う青色の段階が、この第2場では重視されているのです。
 そして、帯が持つ色彩との関わりの“パサージュ”と“プロセス”においては、「偶然性」と方向性の「十字」、また四角の安定性とそれを対角線で分解した八つの三角形を巡る「分子状の働き」が注意されるのです。

 (10) また各人の価値(ヴァルール)も、その細部を見る力(光)が自分にあって、自覚することができ、他人に見る力(光)があってその価値が認められます。
 内部に向かう光りというのは、自己反省も含まれるが、第1場の「三悪」の場合も、この反省の光りで細分化され溶けることもできるのです。仏教と神道はその力を持っているので、我々はそれを誇りとすべきでしょう。
 “光”というものが、このように象徴化されるが、本当は、物理的に現在、電子顕微鏡で原子の状態を、静止状態を超えて動く状態までも見ることができる、それは強烈な光りをそれに当てる技術が発明されたからです。

 (11) この世とあの世の色。その境界線と飛び地の色。それらを結ぶ緑の色。総合する青い色。これらは理念でなく、糸と唇と舌が織物につながるのですが、縦糸はスートラ、横糸はタントラです。ここで太陽と大地と中空の気の関係を探るのですが、密教と繋がる修験の道でもあるのです。

 【第3場 “細密化する” ということ】

 (12) 細密化は外部と内部に向かって行なわれる。まず、身体を我が身の外部として捉えた場合、さしあたり今問題の“神経”について考えてみると、神経は先ず最初に、伝達ホルモンによる外部知覚の伝達を目的とするものでした。それが外部をよく知る必要から五感に分かれ、器官としての聴く、見る、匂う、触れる、味わう、の五官が備わり、立体的な感覚空間が生じます。
 しかし、神経は外壁系の大脳において知・情・意の分化と情報処理が行なわれると同時に、それとは別に内壁系の腸が舌及び口腔から外壁系の顔面にまで侵出した場合、本来外壁系のものであった神経が、29対の表情筋として内壁系の顔面で働く場合には、神経の働きの差が生じることになります。
 ここで、はじめて能面の表情の複雑さが理解されます。能面は一つの面の微妙な傾きによって、怒りと微笑みと悲しみを見せる。それらの感情は、本来、奥深い場において融合した諸々の感情を代表するもので、その三者が奥に治まった状態が “幽玄” なのです。

 (13) 同じ「形態学」でも唯脳論の養老猛司氏の分野と、“内臓とこころ”を主体とする三木成夫氏の分野とが違うように、日本の「形態学」を拓いた小川鼎三氏が捉えた仙骨の神経の微妙さはまた別の分野なのです。この仙骨の八つの穴は、“易経”の八卦と“風水”のアンテナの役割をします。
 そして、数学者の岡 潔氏が難問を解かれる際に感じる“情緒”なるものは、この神経の伝達構造とどのような繋がりを持つのでしょうか。五官の神経は体内でそれぞれ連結している。そこで「味を見る」とか「匂いを聴く」とかの言葉も生じるわけで、“観音菩薩”の名も、音(人の噂)を聴いて直ぐその人を観にゆく菩薩、という意味なのです。
 これら五感を統一するものは何かというと、空間的な広がりの意味からなのか、それは“音”なのです。“音”は耳の斜め上のところで、太極拳など身体に急を要する場合に使われます。しかし、“音”が五感を統治するといいましたが、それはあくまで身体を基準にしての話で、自然的宇宙を考えると、それは“光”なのです。

 (14) さて、ここで細密化の問題を、“音”自体に向けて語ってみましょう。
 ケージは彼の著書『サイレンス』の中で「最初に空白があり、そこにノイズがあって、その後、音楽家のための音がある」と、彼のスタンスを語っています。「この“音楽”という言葉が神聖なものであり、もっぱら18世紀、19世紀の器楽に使われているというなら、我々はより意味のある用語、〈音の組織化〉という語をかわりに使うことができる。」といい、ついで「電気楽器の特別の機能とは(ノイズとは逆に)音の倍音構造を完全にコントロールすることであり、またこうした音をどのような周波数、振幅、持続によっても使用できるようにすることだろう。」と語っています。
 音楽というものは、西洋ではギリシャ以来の調音の下に作られていて、耳に心地よい感じを与えるものでした。やがて、それに反する12音音楽やノイズ音楽がつくられ、しだいに音楽家の一部は、音楽という言葉を使うことを嫌いはじめたのです。
 ついで「音楽家」の代わりに「音」という一文字を使うようになり、やがてカールステン・ニコライや池田亮司などが、それまで楽音として使われていなかったサイン波やパルス波という電子音の原音を使用しはじめたのです。

 (15) そして今回、無音をベースに「電子音の組織化」をテーマに取り組むイタリーのスチュピオという作曲家を根本忍氏から知らされたのです。
 このスチュピオという作曲家が提示する音の例は、これまで悩んでいた音とダンスとの関わりをいっぺんに解決してくれました。というのは、スチュピオ氏のこの「音の組織化のための提示音」は、ダンサーのからだに刺激と方向性を与えるだけで、強要しないのです。空白をベースにイメージの創造余地を充分に与えてくれ、しかも細密な関係をどこまでも追求してゆけるのです。
 このようにして身体はいたずらに情緒に流れることなく、舌の裏側にある “双龍” は大地と繋がり、舌先は糸のように分かれて中空の事物に向かい、皮膚はベンヤミンが奇しくもいった通り「唇から始まり、唇で終わる」のです。
 そして大地こそ我々の身体に力を与えてくれるのだが、それは太陽の陽(ひ)を受けているからで、その循環の理を知った上で、太陽は昔ながらに5と10の波動を注ぎ、月は地球を通じて6と12の周期を与えているのです。

 【第4場 “物質の反抗” → 大洪水】

 (16) 循環呼吸をしながら、唇を振動させ、舌を動かして演奏するオーストラリア原住民アボリジニの木管楽器ディジェリドゥによる演奏は、この場にとても相応しい。
 何故なら、唇と舌によって矢野氏の絵画に手織られた糸を手繰り寄せることは、ビッグバンのあと拡大する宇宙空間の圧力を感じ、ファン・ゴッホが晩年に描いたきらびやかに溢れる色彩が、アボリジニの描く絵と混合して、ちょうど気象の流れのように押し寄せる状景に立合うことになるからです。
 アボリジニが描くあの細密なペインテイングが、激流のように流れだし、遠くに耳鳴りを感じる、と思う間もなく「大洪水」が襲い、歴史が築いた文明と文化を跡形もなく洗い流してしまうのです。
 それは、日常のからだの動きのサイズと、唇と舌による動きのサイズの差が神経を狂わせ、日常には見えなかった世界の振動を覗きみた幻影なのでしょうか。しかし、それはアルトーが日常的に見て感じていた風景のようにも思えるのです。そして、この感覚こそゴッホのあの「カラスの絵(烏の群れ飛ぶ麦畑)」の奥にあるものに共通しているのです。

 (17) アボリジニは、よく大地を渉って旅をする。そして住んだ跡地にエネルギーとスピリットを残す。彼らには歴史という時間がない。語り継がれた天地創造の神話の中で生活している。その生活が “Dreaming” なのです。
 文明社会が細密化するということは、ある意味で解体への道を進んでいることになる。なぜなら自然に反する文明を築いてゆく人間は、第1場で説明した“三悪”が細密な関係性の中で進捗し、結局は自然環境と物質の側からの反抗を受けることになるからです。宇宙と地球も人間と同じようにスピリチュアルなリズムを持って生きている。人間の科学が細密な次元に進むほど、地球とその上にある世界は危険な局面に遭遇する虞れをもつ。それが、パオロ・ウッチェロが描いて警告した「大洪水」なのです。

 (18) ルネサンスの画家ウッチェロは、“ノアの箱舟”の神話によるフレスコ画の「大洪水」をサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に残しているが、その独自の遠近法によって名を成し、通称、ポオロ・ウッチェロ(“鳥のパウロ”)と呼ばれていた。
 この“鳥のパウロ”という呼び名は、自分が住んでいた部屋の壁一面に鳥の絵を描いていたからだ、とも言われていた。
 1412年頃、彼はロレンツォ・ギベルティのアトリエに弟子入りする。ある日一人アトリエに居残ったウッチェロが、アトリエの片隅に重ねられていた師匠の描いた絵のうえに、まるで蜘蛛の巣が張ってあるかのように蜘蛛の巣の糸を描き、その中央に蜘蛛も加えておいたのです。このいたずらが発見され問題となって、後でそれがパオロの仕業と知れて師匠に怒鳴られることになるのだが、その結果、ウッチェロの技が評判となります。

 (19)  アルトーは、1926年12月1日号の「シュルレアリスム革命」誌に『毛のウッチェロ』という題名の下に、次のように呼びかけている。「君が、充分に手を加えたキャンヴァスに、君の二人の友と君自身を描いたとき、君は、キャンヴァスのうえに、奇妙な綿毛のかげのごときものを残した。そして、私は、パオロ・ウッチェロ、天啓を受けることなき者よ、私はそのことのうちに、君の悔恨と君の苦しみを識別する。皺とは、パオロ・ウッチェロよ、紐だ、だが、髪の毛とは、舌なのだ。君の或る絵のうちに、パオロ・ウッチェロよ、私は、歯の燐光を帯びたかげのうちに、ひとつの舌の光を見た。まさしくこの舌を通して、君は、生命のないキャンヴァスのなかで、生き生きとした表現と結びついている。———— 」(粟津則雄訳)
 アルトーのパオロ・ウッチェロに対する心の寄せ方は、最初ウッチェロと同時代に仲間だった彫刻家のドナテルロや、建築家のブルネレスキとの比較で語られたのだが、「ウッチェロ(鳥)のパオロ」と渾名で呼ばれているうちに、パオロ・ウッチェロが本名のようになってしまっていた。この彼の鳥への関心に対しても多分アルトーはこころを寄せたのであろう。空を生活の場とする鳥の羽がもつ文様。天空から受ける気象の変化を、鳥がアンテナのようにうける羽の文様は、ちょうどアボリジニが地面に描くドリーミング(夢=神話のなかに生活すること)の図に相応しているのでしょう。
 ギベルティのアトリエで、ウッチェロが師匠の描いた絵のうえに加えた“蜘蛛の巣”の事件以来、「鳥のパオロ」がさらに「蜘蛛のパオロ」とも言われるようになったのだが、アルトーがその上さらに「毛のウッチェロ」と命名している。果たして、これは何を意味するのか。上掲の「毛のウッチェロ」を読むにつれ、これはアルトー自身の生活でもあり、まさしくドリーミングの世界なのです。

 (20) 私は、先月、国立新美術館で、「バレエ・リュス展」の約140点の舞台衣装を観ることができました。ピカソ、キリコなどたくさんの著名な美術家がそれに加わっていたのですが、その中に私はマチスが持つフォーヴィスムの力と、ブラックの、これまで我々が見い出せなかった彼の内面の深さを表わす独特の「色」に、思わず驚きの眼を見張りました。同じ美術家でもキャンバスに描くのと、織るという作業とは全く別で、平面のキャンバスの上とは違った様相が、その衣装の織り目の細部空間に顕われるのを初めて感じました。それはほんとうに驚きでした。
 矢野さんの今度の仕事は、織物ではないのですが、織物から着想を得て、しかも筆を使わず点描しながら絵の具を重ねて、織物の感じを出しています。そして、この矢野さんの絵を「理念的なもの」とするなら、それは密教のマンダラでいうと、両界マンダラのうちの「胎蔵マンダラ」に相応し、それに対して私のパフォーマンス的なダンス作品は、「実践的修行プロセスを演じるもの」なので「金剛界マンダラ」に当たるのでしょう。

 ※ この「演出ノート」に記したことの実践遂行が、豊島さんと矢野さんを初めとし、これまで音について協力を惜しまなかった根本さんを先頭に、当日の舞台実現のために協力される方々になによりも報ゆることになると念じつつ、この筆を置くことに致します。
        (2014年7月18日、及川廣信 記)   

この作品は2014年の8月24日に、八戸市美術館のICANOF第12回企画展において「矢野静明ー種差 enclave」の展示の前で演じられた。
その後、2015年の6月18〜20日に、台湾の台北芸術大学によってワークショップと公演を合わせて招聘された際、2日のワークショップの後、この作品を矢野さん抜きに変更し、3日目に及川独演でなく、相良まゆみと2人で演じた。

Thursday, August 06, 2015

10月公演のために


4)  加藤英弘さん
         
             南部家の人たち(A)

大串孝二さんは、何時も思わぬ発想から意外なことを言い出す美術家です。前のメールでのデッサンの形に対する発言もそうですが、「ひも理論」の時もそうでした。美術と物理学と次元が違うのですが、そんな時、それを私はノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏の学説と対比してみるのです。
この“かたち”あるいは“結晶”との“いろ”との関係については、南部陽一郎氏の「量子色力学説」について私は誤解していたようです。南部陽一郎氏の後を追って研究している学者の研究成果を読んでいた時に、「素粒子には色の付いたものがある」と不思議に思いながら読んだ経験があったのです。
しかし、その学者が南部氏の説を信じて、素粒子には色があると仮定して実験を進めていたからなので、結合組織を知るための「仮定の三色」だったのです。
では、大串さんの「デッサン論」の色は仮定でしょうか、これは真性に向う仮定とも思われますが、実際にそう見える場合もあるのです。

自己の真性が自ら働く時、そして真実性が実際に心の中に生じたとき、色とかたちが表出される。それは事実です。しかしそれを中心で動かしているのは、空海の論で言えば、心の中の“智慧”が悟りを開いた結果の、“般若”という状態になったとき、そう見えるのです。
その“本性”を全ての人が “こころ” の内に持っている筈なのですが、そこまで“悟る”ことが難しいのです。
一方、“こころ” なるものは、目の前の“大空”と同じような広がりを持った大きな空(くう)の存在ですが、それが外界で経験した記憶と関係性で充満しているのです。それらを無いものとする浄化した“こころ” の状態を「無相」の状態といいますが、“かたち” を描いても直ぐ消える、“真実性”や“本性”または“仏性”を見い出す前の座禅によって作りだされる状態です。

しかし南部陽一郎氏の「無相」はそうではなくて、新しい事を見い出す時にも、心の空間の中は外界で経験した記憶がそのまま残っていて、「それに注意を傾けながらもある意味で切断されていて」南部さんの心はいつも“般若”の状態なのです。“般若”の正しい思いでいる、ということは、あらゆることに関わっても、それに執着しないということです。なぜか、南部さんはすでに知らぬ間に自分の修行を終えていて、彼の心の“般若”という状態の中で、“智慧”を思う存分に周りの物と関わらせながら、自分の研究対象に向って無数の発想を作り出すことが可能な人になっていたのです。
なにしろ、あのアインシュタインと論争して、相対性理論と量子力学とが矛盾しないということを予現した方ですから。

実は、南部陽一郎さんは福井県の出身というこでしか、身を明かさないまま亡くなったのですが、出は岩手県の盛岡市の南部藩の家系なのです。この家系は優れた才能持つ家系で、陽一郎さんの従姉妹に当たる数学者の南部範子さんから直接聞いた話しですが、当時の福井県の大野村に、南部藩が所持していた別地があり、近くの寺(というと、永平寺に相応すると思うのですが)にその管理を依頼していた、というのです。が南部範子さんの父の代になって、父の弟がその別地に住むことになり、その子が南部陽一郎さんなのです。

南部家はすでに盛岡の城(石川啄木に「不来方 ( こずかた ) のお城の草に寝ころびて、空に吸はれし十五の心」と詠われた)と、忠臣蔵の「南部坂での別れ」で有名な江戸の上屋敷と、今は「有栖川の宮公園」となっている広大な下屋敷など、すべてを上納させられており、南部陽一郎氏は第二次大戦では戦争にかり出され、帰国後は兵隊服のまま何も持たず、東京の研究所に直行し、夜はその研究室の机の上で寝泊まりして研究をはじめたのです。正しく座禅ならぬ、白隠和尚の“寝禅”で過ごした時期のことを考えると、氏の持って生まれた性質にもよるでしょうが、この仏道修行よりも凄い生活の明け方の目覚めのときに、数知れぬ発想が湧き起こったとしても不思議はないのです。


ここで空海に再び話しを戻し、空海がもっとも重んじていたマンダラについて触れたい。
もともと、曼陀羅には本質とか精髄とかの意味があり、その曼陀羅絵図の中に本質的なもの、あるいは事柄の精髄が含まれているということを意味する。仏の悟りの本質的なもの、あるいは悟りの領域の明確な図を描くために、最初は、土を固めて“壇”をつくり、その上に胡粉(ごふん)を塗って、それを幾何学的な線で区分けし、仏菩薩の集会を描いたのが最初の曼陀羅で、“壇”という字でマンダラを表わすことがあるのは、その歴史的理由によるのです。

曼陀羅には、胎臓マンダラと金剛界マンダラの2つがあって、胎臓マンダラは「大日教」に、金剛界マンダラは「金剛頂教」に由来しており、胎臓マンダラは大日如来の“理法身”、金剛界マンダラは大日如来の“智法身”によって表現されており、“理法身”は絶対なる理法を、“智法身”は完成した智慧を象徴しています。そして金剛界の方は男性的で、胎臓界の方は女性的見方としても見られ、両曼陀羅は唯一絶対者である“法身大日如来”の両面なのです。

胎臓マンダラと金剛界マンダラは、ちょうどエマヌエル カントの「純粋理性批判」と「実践理性批判」との対比に相応うものですが、上述のように作者が同じものでない「大日教」と「金剛頂教」は別々に発生したもので、2つの曼陀羅を両曼陀羅として合わせて崇拝したのは、多分空海の師の恵果(けいか)からではないか、と言われています。
空海は師に従って両曼陀羅を掲げて崇拝し、その解釈をもっとも大事にしていたことは前述した通りなのだが、空海独自の解釈が両マンダラに対してあり、胎臓マンダラは世界の素材として、地・水・火・風・空の物質の五大だけを原理的なものと考えているがそれが形成する全宇宙を生命的なものと捉えていて、金剛界マンダラへの発展的動きも考えていたのです。

そして,一方の金剛界マンダラでは、その地・水・火・風・空の五大に対するものとして、あえて“意識”ではなく、“識”を精神的なものとして、対立あるいは平等化させ、幅広い活動の方向性を持たせている。そして“識”に対する一方の“意”の方は、インド密教とそれを受け継いだチベット密教のタントラヨーガに委ね、これが父(フ)タントラと、母(モ)タントラに別れ、その中の父(フ)タントラから発生したのが「無上ヨーガタントラ」のダライラマの系統です。

この“意”というのは、意志とか意識とは違って、人間のいちばん奥に潜む人間の生命力に関わるもののようですが、それはインドとチベットだけの独自の文化のような気がします。私が思うには、空海はここで、人間だけの宗教的世界に奥深く入ることよりも、人間が自然の中で他の動・植物や有・無機物と生命的にいっしょになる方を選んだのだ、と考えたいのです。そのために身体中心主義の“意”から離れて、“識”だけになった場合、いかに物質的な五大との間に生命的なものを感じ取れるかを先ず試みることが第一だ、考えてくれた、と思いたいのです。これが私の幻想を交えた解釈学です。
それは単に、インド密教とチベット密教に対してのことだけでなく、大乗仏教のナガールジュナの「中論」依来、引き継いでいる、人類に与えられた宿題なのです。