Monday, November 23, 2009

豊島重之氏の『マウストmouthed』公演


空海の中心的な思想「身・口・意」は、からだ、ことば、こころの三つが人間のこの世の人間の生活の様体を作り出している元である、ことを提示しています。
豊島氏のこの演劇は、この“口(マウス)”の言語表現のことばを、読むことでなく、聞くことから始まって、その対比として植物と動物と人間性の絡み合う系譜の断面を、フラクタルに描いている身体の“足の裏“から、視覚的にからだの上部へと光を投射し、演技者のアチチュード(固定した様態)の中に“意”のこころの内を辿って存在の真意をさぐっています。

そして、豊島氏のこの演劇では、ことばを外に向けるのではなく内側に入っている。各々の俳優は自然的な発話なのだが、それは人に聞かせるためでなく、かすかに自分にしか聞こえない頭の中の暗闇から糸をたぐってはつなげて言語として意識化したもの、まだ発声されて有声になる前の無声の声を聞きながら話している。
ということは俳優は、矢野静明氏の書いた文を読むのではなく、自分の頭脳の“泥丸”からはじめて意識化されて出てきたような無声のことばを聞いて、それをひとりごとのように話しながら頭で理性的に確認しているのである。そして観客は矢野氏の書いた文を読むのではなく、そのような過程で聞くことになる。

なぜ、このような面倒な周り道をとらなければならないのか。なぜいつも地面を踏みつけている足の裏を感じなければいけないのか。
それは、これまで眼の明晰な意識と論理と理性に支配されてきた文化というものを、体内の五官が絡みあった細密な次元で、視覚を内側に向けて関わらせ、その明晰な明るさを曇らせたいからである。そしてその時、耳の聴覚がとらえる波長の旋律が隣り合っていることを知るのである。 


事柄の真実、または誠実を求めることは、“意”の生命的なものの奥をさぐることにある。いわば「存在とは何か」に付属するもの。
現実の表面の様相の奥にひそむ“真”をさぐるのは、芸術の“美”を求めるのと同等の役割だ、と歴史は伝えているように思われる。それらのことはアリストテレスの『詩論』の“実”の世界を“虚”のステージに「ミメーシス(真似または模写する)」することによって“真”を見出し、また観る者は感情的にドラマに同化して「カタルシス」の作用を起し、自身を振りかえることによって内部の広がりを得る。
そてとカントの『判断力批判」においては“美”の最高のものとして「崇高美」を挙げている。
  
この存在の真意をさぐる作用として、芸術の近代の歴史はムーブマンからジェスト、そしてアチチュードへと向かいつつある。これは演劇、ダンス、音楽、美術のすべてに亘ってのことのようです。
近代劇の出来事を追った数を基本とする三幕、五幕、あるいは序破急のムーブマンのながれ。
それに対して、ベンヤミンはブレヒトの演劇をジェストの演劇と評した。資本家とプロレタリアが持つ、衣装と動作のがちいに中心を置いている。いわゆるモダンのスタイルはジェストである。

西洋の近代とは違った意味で、日本の古典の能はムーブマンの演劇で、歌舞伎はジェストの演劇である。
それらに比してこの豊島氏の演劇は完全なアチチュードの演劇です。存在の真意を問うためには、このアチチュードの構造と数の配置が必要なのである。


この芝居の話題にのぼる丸山真男と滝口修造は、どちらも歴史的に誠実さをもって時代にいどんだ2人である。しかし歴史の洗いなおしにおいては、私の感じる限りでは、2人はイメージ的、観念的過ぎたのではなかろうか。歴史のつながりとして、というより歴史の穴埋めをするように、豊島氏が演劇のこの“虚”の場において提出する素材は、身体内部の臓器と細密に関わる眼と耳の問題である。食べ物を入れる口を通して、ことばだけでなく、目の働きも含めて外部から内部への方向性をとったのであろう。

そしてブルトンのシュールリアリズムの上に立った滝口修造の晩年の郷土への密着を肯定しているものの、ブルトンのリアリズム意識に反抗してグループを脱したアルトー、またブルトンに対立したバタイユ。あるいは眼と耳に迫ったベケット。声と触覚の問題に取り組んだデリダ。そして飽くまでも追求の筆と、彫刻の鑿を休めず、からだの中心線と宇宙との連結を求めつづけたジャコメッティ。それらが、この作劇の配置の内容を深めているように思われる。

公演終了後、鵜飼哲氏の黒田喜夫氏に関する地理的、風土的な別な角度からの話しがあり、公演内容とは関係がないように見えていながら、時間的ムーブマンからの見地から地理的、空間的、風土的な観点で観ることを暗示していた。
今の社会的、政治的な観点の傾向、それは『地中海』の歴史家ブローデルからはじまって、地勢学を基盤とする社会学のハーヴェイに至る線ではなかろうか。
それはまた、この豊島氏の重要な演劇のベースであり、現在豊島氏が関心を抱いている写真家の関口啓二氏のアイヌの痕跡を遡る仕事でもある。


ここで作品制作者をさらに検証してみよう。
私が気付かなかったことであるが、ブラージュという俳優が立つ“光面”に、ひとつ俳優の誰もその上に立たなかった時があると、演出家の豊島氏から告げられた。それはたしかに重要な意味をもつと思う。しかしそれよりも、それは4番目の展開の時だという。この4という数。それに8という数が豊島氏にとって大きな意味をもつようだ。
ということは、このアチュチュードの劇においては4と8が大きな転換の意味をなしているということだ。
チェーホフの劇が他の劇作がすべて3幕か5幕で書いている時代に彼だけが4幕の芝居を書いていた。豊島氏のばあい、このチェーホフの4の意味とは違うようだ。4より8の方に重きをおいているように思われる。そして、その8はヨーロッパのキャラクターの類別の8とも違うようにも思われる。これは私のひとつの宿題としておこう。

音響担当の作曲家根本忍氏の今回の作品は画期的な仕事である。マイクをスピーカーにしてステージの周辺を取り囲ませたということは、豊島氏の外に向うべき話術を内に向わせたことを
的確に演出している。このように、器材が人間のように演技するという設定は、私は始めて経験する驚きであった。

最後に、演技者について語ろう。
鷹司章伍という俳優、この公家の出かもしれない男性の“たおやか”な声が「主張しない演劇」を、観客の瞼を閉じらせたままはじめる。
大久保一恵、田島千征、秋山容子、高沢利栄の4人の女優は“光面”の場を交互に入れ替えて演じる。4箇所の“光面”の場は、同じく肩幅サイズで狭く、位置を移動するムーブマンをすることができない。殆ど固定したアチチュードをとって下から光線が身体を仰ぐかたちとなる。
また、時にはアチチュードが変じて、からだの一部が動いたり、表情がついたりのジェスとの状態となる。

私が思わず眼を見開いて見たのは、これは理論的には考えてはいたのだが、移動できない位置にいながらステージの上にムーブマンが見えるのである。ここではじめて、大文字のアチチュード(Atttitude)が、小文字のアチチュード(attitude)とジェスト(geste)とムーブマン
(mouvement)を含みもつことができたのである。