Tuesday, August 18, 2009

かもめマシーン(7)

前回、「家族」の演出と能の形式との、本質的なところでの類似について気がついたまま述べましたが、じっさいには演出家の萩原氏が世阿弥、あるいは能楽そのものに関心を抱いているかどうか、私は知らないのです。
しかし、世阿弥の演出論においては、とくに彼が得意とする「夢幻能」においては、ギリシャ劇のように人間の運命をテーマとし、また作品を上演する演出上においては、その時代の空気、上演される場所の環境、その日の天候と客席その他の様相をつねに計算に入れいたということです。

その事は、当時の日本民族特有の、時間に対しての“易”、空間に対しての“風水”の配慮が演出術のなかに組み込まれていたと思うのです。それを基本に宇宙的な張りのある空気の波動と、劇の進行につれて調和が崩れてゆくことをバランスによって何とか支えようとする、その根底の“原理”と、それにまつわるテーマの最終的な筋道としての“真理”というものを求める人間の姿勢。それを描くための能楽の手法を観阿弥、世阿弥父子は求めつづけたのでしょう。

この室町時代につくり上げられて、日本の伝統としてこれまで受け継がれてきた能楽とこの「家族」の作品と演出法とが、どこかに連結したものを感じられる、ということがこの私の批評の中心テーマでした。
今日は昨日につづいて、さらに類似点を2つ挙げてそのことを強調したいと思います。

世阿弥は彼の論書「花鏡」の中で“せぬ所が面白き”という巧いことばを使っています。
 「見所の批判に云う、“せぬ所が面白き”など云事あり。是は、為手の秘する所の安心なり。まづ、二曲を初めとして、立ちはたらき・物まねの色々、ことごとくみな身になす態(わざ)也。せぬ所と申すは、そのひまなり。このせぬひまは何とも面白きぞと見る所、是は、油断なく心をつなぐ性根(しょうね)也。舞を舞いやむひま、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物まね、あらゆる品々のひまひまに、心を捨てずして、用心を持つ内心(ないしん)也。此の内心の感、外に匂面白きなり。」
萩原氏の演出においても、各場面でのセリフの終わり方、照明と音のフェイドアウトの“ひま”、その間(マ)の時間的な配慮に、私はこの世阿弥の演出意図を汲むことができ、その“内心”の面白さを充分に堪能することができたのです。

そして世阿弥の文は続きます。「かやうなれども、此の内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態(わざ)になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心をわれにも隠す安心にて、せぬひまの前後をつなぐべし。是則ち、万能を一心にてつなぐ感力(かんりき)也。」とあります。
充分に意を使って行ないながら、そのこころが無心であるため、何げなくつなげているように見える。それを「内心」と云っているのでしょう。

もう一つ。この劇の中で2度ほど、高度の認知症なのか精神病者なのか分からないのですが、母親の役がことばにならない、うめきに似た音の羅列をえんえんと発しながら室内を徘徊すします。
世阿弥のいわゆる四番目物として「狂女」の出し物があります。この「物狂い」について世阿弥は以下のように述べています。
「此の道の第一の面白づくりの芸能なり。(中略)夫に捨てられ、妻に後(おく)るる、かやうの思ひに狂乱する物狂、一大事なり。よき程の為手(して)も、ここを心に分けずして、ただ一遍に狂ひはたらくほどに、見る人の感もなし。思ひ故の物狂をば、いかにも気色を本意にあてて、狂ふ所を花にあてて、心を入て狂へば、感も面白き見所も、定めてあるべし。」

この狂女の例も、前述の“せぬ所が面白き”も、私が思うのには、その底に「無」があってこそなのです。先のブログで世阿弥の禅宗との関わりを述べましたが、世阿弥は足利義満から義教の代になってからは不遇の立場に追われます。
そして曹洞の竹窓智厳の門に入り、60歳になって出家します。曹洞宗の家に生まれ、臨済宗の五山を統率する将軍義満の庇護を受けて後、ふたたび曹洞宗に帰ったことになります。

私がここで云いたいのは、同じ禅宗でも臨済宗と曹洞宗では「無」の捉え方が違うということです。これはこの批評の本筋ではないので、ここでは詳しく述べませんが、しかし重要なことです。
道元と良寛は曹洞宗で、一休と利休は臨済宗です。一休、利休がつくった茶道と世阿弥の能楽との差異は、「無」への対処法から来ているのでしょう。それは両者の座禅の仕方に表れています。







Monday, August 17, 2009

かもめマシーン(6)

前述したような萩原雄太の劇の文体と構成の抽象性、上演に当たっの方角的な気の配慮にあたって思いおこされるのは世阿弥の演劇論です。
彼の「風姿花伝」から始まって中期以降の「至花道」や「花鏡」などに入る頃は、“物まね”のリアリズム表現から抽象へと向ったことです。
それに観客と演技者との対立関係ですが、初めの“珍しき”をねらった段階から、“無”と“妙”の心理的状態へ、禅宗の自然に融合する“無”を経て、さらに宇宙の広がりのなかでの主客の“妙(たえ)なる交流”に、そしてそれを土台にして「離見の見」という哲学すらつくるのです。

ここにおいて、時によって変化する山寺から諸社寺の祭礼、河原などに設定する能舞台の周りの自然環境、気候と時代の移り変わりによって変化する観客の気分などを、座頭の立場としてその日の上演の仕方に考慮を入れるのです。
同様に、この劇団「かもめマシーン」のただ1人のプロジューサー兼作家・演出家の萩原氏はじぶん1人で劇場前に入場者を迎え、受付、楽屋、観客の様相を調べながら、つねに万遍なく開場前の準備を整えるため動いておりました。

世阿弥は曹洞宗の出で、将軍足利義満に見出されて後は、同じ禅宗でも貴族や武士の臨済宗の教養の中に入り、また「風水」の気風は奈良や平安の天皇家を中心にした公家の時代から、この時代には武士階級から庶民にまで浸透していたのでした。
“無”という内面の表現、沈黙をベースにした演技の“間(マ)”の取り方、太鼓、小鼓の打ち方までがこの時代に決められたのです。

萩原雄太の作品と演出のは、ここように近代の心理主義からその方向に回帰しようとしているように見える。
その具体的な特徴として、以下の3つを述べることができるでしょう。

1)具体的な演技よりも、そのテーマや役なりを通して、舞台に立つ生命的な存在感。
2)演劇というものは、表面的なドラマティックな面白さではなく、底辺にひそむ真理または原理をさぐるものである。
3)人物の年齢、性格、職業とか、生活の様態とかセリフを交わすことによって生ずる意味性とか面白さということよりも、重要なのはその人物たちが運命的な時間によって配置された構図である。

劇場と演劇制作のかたちが変化するにつれて、また歴史が前進からレフレクション(回顧)へと転換する時代となってみると、この萩原氏の例のように、同じ能楽への通じ方において、60年代、70年代とは違ってより本質的な部分に直接的に触れているように見える。



Friday, August 14, 2009

かもめマシーン(5)

しかし一見、この芝居は死刑制度をテーマにしているようですが、その問題をきっかけにしてドラマのタイトルが示すように、ほんとうは「家族」を中心テーマにしているのでしょう。
現代は個人のことばかり考えて、じぶんが属する家族のことを忘れがちです。

たとえば、“風水”の重要な判断の要素として次のような項目があります。
色/方位/季節/家族/臓器/十干/十二支
ここで“風水”の例を引いたのは、この劇場の空間配置がどうもそのことを感じさせるからです。
劇場空間がまったく風変わりな構造をなしている。ステージの半分を取り巻み、東側の正面と南側の側面が客席で、ステージは劇中の客間の場面で、その西側の中央に居間を取り巻く廊下に通じる入り口がある。しかし、居間と廊下を隔てる壁の部分が、立て板が並ぶ隙間が大きく空いていて、しぜん壁の向こうの廊下を通る人物の姿が透けて見える。
北の部屋から西の廊下を通って居間に入ってくる者、南の部屋と西側の部屋と玄関から入ってくる者とが、方角によってそれぞれ違ったニューアンスを持って出てくることになる。

北は「水」で黒く冷たく、沈黙する。西は「金」で白く乾いた感じで、居間の入り口に近いテーブルで交わされる会話は硬質である。それに対して南の客席の裏に当たる部屋から出てくる人物は内側は火が燻り、組織を崩すはたらきをする。
それらに対してステージ正面の東の客席は、「木」で青く静かな風の様相を示し、観劇する者の心は揺れている。そしてステージの前面、ちょうど劇場のスペースの真ん中に位置するソファの場所は「土」で黄色く、黙りこんで寝転ぶ役の場所である。

それら空間的なものに対して、時間的なものとしては、場面のカット数と、同じ人物の客間への出入りの繰り返しがある。それらが抽象化され、周期的な線を描く。
ソファの傍に置いてあるラジカセから時々流れる音楽は、家族の内に対して外を表示している。

これらを総じてみると、劇の流れがぜんたいに記号に向っている。しかし、抽象化されていても、現実との連結があるため、劇そのものがドラマの筋をさぐるミステリー劇の様相をなしているのです。






Wednesday, August 12, 2009

かもめマシーン(4)

この作品の製作を共に担った演出家と俳優及びスタッフたちは、作品に含まれた意図を、このばあいは事件そのもよりも、被告に課せられる死刑判決という事実を -----これまで日常の生活の上で感じとれずにいたのが、家族という役に身を置くことによって直接、肌身に感じざるを得なかったに違いない。
肉体的により緊密な固まりとして約束された家族という結合体を中心に演じられる芝居だからのでしょう。

この劇をつくる発端は作家、萩原慶太の死刑制度です。
この作家によってあらためて呼び起こされた“生と死への感触”に向って、俳優たちがそれぞれの役を担ったのでしょうか。
だが、この芝居の特徴はそれを表現する身体と言語による表層的な技術にあったようです。そのテーマを観念的なセリフでやりとりでするのでなく、語句または演技を諸制約によって配置し、オブジェ化し、線とフォルムを簡潔にすると同時に、始めてそこに現れたようにしている。

そのことによって、表面的に描かれる一方、その表に現れた意味性を越えて、深層の心理構造を垣間見せてくれるのです。
これこそが、20世紀の初め以来、あらゆる芸術が試みてきた芸術形式なるもので、その本質を突いているように思われます。

しかし、形式と言っても、それはパサージュや色彩や、灰色の効果または空間構造、ことばと演技による描写、かたちと光と影による交錯のあとに、今は“物への触覚的な探索”が中心となってきたのではないでしょうか。

それには、始まりとしての“もの”。つまりオブジェの問題があり、それを描く“はじめての線”、無意識から引きだされる“はじめての意識化(アウェアネス 気付きの心)”、それに本質的なヴァルールとしての<濃淡や明暗の度合い>が重要な要素となるのでしょう。

この芝居の室内に置かれた“赤い花”が、重要な場面転換で、その濃淡と明暗の度合いを微妙に変化させてゆく演出効果は、そのことをシンボリックに表出していました。

かもめマシーン(3)

台本の奥にひそむ、作者の無意識の真意である構造体。
無意識ということ、潜在するもの。あわよくば意識化されて表面に浮かび立とうとするもの。

全てが、すべての実体がなぜか目の前から遠く去ってゆく。そして、そこにあいまいに動いて残されているもの。かたちを構築しようと、方向をねらっているもの。それが残された生命の“意”というものか。

遠近法を越えて、直ぐ目の前の中央のソファに、沈黙だけを演じる役の人物を放り出し、それがこのドラマを一貫するオブジェ化のシンボルとなっているのだが。あとは、それを後方に取り巻く幾何学的な構図の上に登場人物が位置することになる。細密化する意識の場の緊張から、分子構造がそのまま方位的な力学として投射されているように見える。

一つの鍵になることば。モ ド ヴァルール(Mot de valeur 価値のある言葉、実質のある言葉)。たとえば、この芝居では被害者の屍体が埋められてあった場所の“観覧車”ということば。また、家族の一員である被告人を指す代名詞。
それらのことばが、曖昧にゆれては消えてゆく事象の中で、突然ふっと浮き立つと、内側から湧き起こった意念が、急激にそれにしがみ付いてゆく。

それは立体派のブラックやピカソが辿った道をとっているのではない。すべてが細密化して見える感覚の底に、分子構造のゆれが、こころの奥に見え隠れしているからなのだをろう。そのコンポジションは台本のモチーフから、しぜんと作られたものだろう。

この芝居の俳優たちは、すべて“演劇ごっこ”をしていない。じぶんの体の内部を観察しながら、観せるためでなく、自らに演じている。これが上に述べたような演出効果のたしかな支えとなっている。

かもめマシーン(2)

しかし、確実な存在物としての対象があるのだろうか、また現実に自分自身も確実な存在者なのだろうか。そのような疑問が底辺にあるからこそ、このミステリアスな芝居が存在したのではないだろうか。

そのシンボルとして、芝居の初めから終りまで一言も語らず、居間として設定されたステージにしばしば登場しては、その中心にある陥没したソファにからだを沈めては黙り込むだけの人物の役が置かれていたのだろう。

芝居は当てもなく何かはっきりした対象、または概念を、というよりいろいろな関係性の中での明確な意味と価値を持つものを捜していた。それがミステリアスな雰囲気を纏っていた理由なのだろう。

この芝居は感情的なドラマを求めているのではない。しかし確実な存在感というより、ぼんやりとしたミステリアスな関係性の中に、命のひらめきが危うく消えかかっているのを感じる。

事物と表象の中間に置かれた身体の、その内側のもつれた感覚から生まれるイメージだけが実感として存在しているのだ。それこそが唯一支えられる触覚的な感性だ、というかのように。

私はここまで書いて、チラシに書かれた筋書きを始めて見る。それは以下の通りである。
その街では3年前に事件が起こった。
幼女2人が殺害され、遺体は観覧車の下から見つかった。
未成年の犯人が逮捕されると、マスコミの報道は加熱したが、しばらくすれば人々はその事件を忘れ去った。裁判は進み、どうやら彼には死刑の判決が下るようだ。
家族は70年代に建築されたその街の団地にひっそりと住んでいる。
観覧車はもうそろそろリニューアルオープンされる。
判決が下るまでにはまだ時間がかかるらしい。
たしかに、筋書きはそうなのだろう。それを今始めて明確に知る。また配役を見るといくつかの思い違いがあった。それほど表面的な事実というもは不確かなものなのだ。

絵画が描かれる内容の主題より、色と形とそれらの混合した関係性で作り出されるものだが、それと同じようにこの芝居づくりの本当の狙いは、そのドラマを描く素材、その動きと語りの物質的な関係性のなかに、萩原雄太の創作の真の意図があるのではないかと思う。
私はそれだけをこの芝居の中に捜し求めていたのだ。
私は、ラカンがポーの小説を対象にして精神分析で読解した「盗まれた手紙」のように、この芝居に当たろうとしていたのかもしれない。

かもめマシーン(1)

8月1日(土)西荻窪の劇場“がざびい”で観た、かもめマシーン「家族」の作品について以下に述べたい。萩原雄太の作/演出である。

この作品の話術について語りたいのだが、それには“からだの動き”の分類から話した方がいいようです。マイムの技術用語を使うのでフランス語になりますが、英語で推測される範囲内です。

いわゆる“動き”という概念を大文字のMouvement(ムーヴマン)とすると、以下のように3つの様態に分類されます。
  1. geste(ジェスト からだの1部分が動くとき)
  2. attitude(アチチュード からだの内側と外側との関係から体全体でつくる形または型。それは停止の内に過去と未来の動きを含む)
  3. 小文字のmouvement(ムーヴマン 空間的にA地点からB地点に移動するばあい。歩行、跳躍、飛翔によって)
ヨーロッパのばあい、ディドロの俳優術の伝統を変えたのがブレヒトの演技術だと言われますが、ベンヤミンはブレヒトの演劇を、資本主義による各階級の様相を染み込ませた“ジェストの演劇”だと評している。ブレヒトの脚本でなく、ブレヒトが演出した作品のことを言っているのですが、じつに的を得た批評だと思います。

そのことから推して、私の言い方をすると、“舞踏”はアチチュードのダンスなのです。それは空間の中にからだを素材として動き(mouvement ムーブマン)を描く、それまでのダンスの創作法とは違っています。跳躍して空間的に移動することが無いのです。

私はここで萩原雄太のこの「家族」という作品は、からだの空間の配置もそうであるが、まず話術を主体とする“アチチュードの演劇”を作り出している、と思うのです。
それはどういうことかと言うと、会話の文章がつねに完結せずに、動きのattitudeのような体言止まりで、そうでなければそれに付属されたgesteのような副詞、あるいは接続詞の後はぷつりと切れて、沈黙の時間となる。そして時間的なmouvementといえば、知能の廻らない娘役のセリフ、言葉にならない断絶した音の連続なのです。

孤立した、動きのアチチュードまたはセリフの体言というものは何を指しているのか。それは人間の「立ち位置」、“存在”に焦点を合わせているからなのでしょう。

「かもめマシーン」という劇団名は、チェーホフの作品「かもめ」から取っているそうです。それとマシーンはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」から来ているに違いないのですが、そのあたりから迫って行かないと、この作品を解読出来ないのかもしれません。