明らかにダンサーと分かる男女の2人がスポーツカーで劇場にやってくる。同じダンサーでも、フランス人とは違って、ドイツ人は背が高くすらりとしている。私は窓口で当日券を買う、まだ開演まで時間がある。その間に空腹を癒して適当なホテルを捜そう。
マリー・ヴィグマン(1886~1973)は、最初ダルクローズにリズムダンスを学んでいたが、表現主義のモダンダンスの最初のシステムを創ったルドルフ・フォン・ラバン(1879~1958)の門下生となる。ラバンは最初、アクの強いヴィグマンを嫌っていた。だが彼女のドレスデンとハンブルグでの公演が成功し、ドレスデンに舞踊学校を設立する(1920)。やがて、ヴィグマンは彼女の強烈なソロ・ダンス「悪魔の踊り」(1931)などによって、モデルネタンツの中心的な存在となる。日本の江口隆哉、宮操子も彼女のドレスデンの学校で学んでいる。
一方、ラバンの同門のクルト・ヨースは、シュツットガルドの音楽学校のラバンに学び、助手を務める。その後ミュンスター私立劇場のバレーマスターとなるが、彼の本拠地となるエッセンに移り、フォルクヴァング学校を設立したのは1927年である。代表作「緑のテーブル」(1932)は各地に巡演してセンセーションを起す。
この対立する2人の舞踊家の運命を分つたのは、ヒットラーが渾身の力を投じた1936年の“ベルリン・オリンピック式典”だった。ラバンがその演出を担当し、ヴィグマンが群舞を振り付け、自分も踊った。その後ヒットラーの危険を感じたラバンがロンドンに逃亡し、ヨースはその後を追う。しかし、ナチスのシンパの愛人を持つヴィグマンはそのまま留まる。
戦後になってみると、ヴィグマンのドレスデンの舞踊学校は解体し、クルト・ヨースはエッセンに再び帰ってきて活動を開始する。ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団、ラインヒルト・ホフマンのボッフム舞踊団の“タンツテアター”とスザンヌ・リンケのソロ活動が、エッセンのフォルクヴァング学校とフォルクヴァング・ダンス・スタジオから生まれる。
リンケだけは、戦後に残存したベルリンのヴィグマン研究所に最初学んだが、後にフォルクヴァング学校に移転している。ヴィグマンの門下生で世界の表舞台に出てくるのは“ベルリンダンス工場”である。
しかし、上の3人のダンサーが活動するのは70年代に入ってからで、“ベルリンダンス工場”は80年代からである。
1955年にマンハイムで観たヴィグマンの群舞は、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」にヴィグマンが円形舞台上に振付けたものだった。カール・オルフといえば、あのヴィグマンが振付けた「ベルリン・オリンピック輪舞」の作曲者である。「カルミナ・ブラーナ」はオリンピックの翌年の1937年に創られ、大変な評判を呼び、この前年の'54年にレコード化されて一般に普及した。
さて、この作品はどのような劇作品であったのか。しかし、ここでは暗示的に述べることにしよう。オルフは以前からダルクローズのリトミックに感心を持っていた。そして<身振り、手振りの>の動きに合う劇作品をつくることを目指していた。また、音楽学者のザックスの指導の下に、オペラの原初であるモンテヴェルディの劇作品を発見し、1925年には、このマンハイムで彼が編曲した「オルフォイス」を初演して成功している。
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