Monday, October 15, 2007

大沼鉄郎の『傾斜の存在』

ケイ・タケイに訊きたかったのは、彼女がアメリカに留学する前に草月ホールで行なわれたVAVの公演のことだった。VAVというグループはケイと三浦一壮と西森守の3人が創ったグループで、この最初の『傾斜の存在』(1965年)の只1回だけの公演で終わっている。
ケイはその後 '66年のアルトー館第1回公演の『爆弾』(河野典生作)、'67年のアルトー館第2回公演の『ゲスラー・テル群論』(大沼鉄郎作)に出演しているが、それが終わるとすぐにフルブライト給費生として渡米している。次いで西森守はフランスのメーリングのマイム劇団に入り、ただ一人VAVスタジオに残った三浦一壮は舞踊批評家の池宮信夫といっしょにモダンダンスの実験的な試みをしていたが、彼もやがてヨーロッパのワークショップの巡業へと旅立つ。

このようにケイの突然のフルブライト給費生決定から、このグループは解体してゆくのだが、この1回だけの公演、『傾斜の存在』がいまだに強く印象に残っている。その時の舞台装置をつくった石井さんの名をケイに訊いてみた。確か石井研さんでしょう、という。舞台いっぱいの、白い“はりぼて”の三角錐の下で演じていた3人のダンサーとマイマーが、やがて傾斜してゆく三角錐の上に静かによじ登ってゆく。
生演奏のトリオは一柳慧と小杉武久と、たしか近藤さんという人がヴァイオリンを弾いていた。その近藤さんの名前が分からない。訊かれたケイもウーンと言ったきりである。近藤譲氏かもしれない。その時の一柳慧と小杉武久の楽器は何だったのだろう。電子音だったような気がする。

演出の役だった私がこんな状態なので、ほんとうに頼りない。頭の中にふっと浮かぶものがある。「そうだ、大沼さんが8mmで撮っていたような気がする!」。それを聴いてケイは急に明るい顔になり、「大沼さんに電話してみましょうよ!」。台本作者の大沼鉄郎は記録映画の監督だから、きっと大丈夫。
この時のプログラムを作った村田東治は、その後コム・デ・ガルソンのカタログとシュウ・ウエムラの『VISAE』に素晴らしい仕事を残して夭逝した。石井さんと村田さんの2人は、この時はまだ桑沢デザインスクールを卒業したばかりだった。驚いたことに、村田さんはプログラムを公演が終了してお客が帰ってから運んできた。だが、そのプログラムを、2人とも今、捜せないでいるからこんなことになる。
ケイは言う「あの傾いて行くところが良いですよね。『傾斜の存在』は好きだなあ。もう一度やりましょうよ!」。

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