アルトー館第一回公演のカタログにマイムの歴史を私が書いているのですが、ざっと説明すると、それはアリストテレスの『詩論』の芸術論の定義「現実の根源を知るために、虚の場において実を真似または模写すること」の定義の中核をなすミメーシス(真似すること)から始まり、ローマ時代になってからは、mimeまたはpantomimeの2つの呼称が演者自身か、あるいは観るものからその内容によって交互に代って呼称されたのです。
panvitanという薬がありましたが、それはpan-vitaminを略したもので「すべてのヴィタミンを含んでいる」ことを示しています。panはpantoで「すべて」です。それでmime(真似する演技)もpantomime(すべてを真似する)も同じなのです。
つまり前にやっていた人たちのマイムと違うようにやるばあい、俺のやっているのはパントマイムだと言うわけです。
ルネサンス時代のコメディア デラルテのあと、19世紀後半あたりからパントマイムが衰弱し、フランスの女流作家のコレットあたりが最後のパントマイム役者だったでしょう。
それでもドゥクルーがあたらしく自分のやるものは近代マイムだと宣言してマイムと称するまでは、つまりその直前のアルトーの時代には、彼のばあいは根源的な動きの動作(つまり日本の民族芸能の原初の模擬的しぐさ)でもパントマイムと言わざるを得なかったでしょう。
そしてドゥクルーの弟子のマルソーが独自につくったスタイルを今度はマルソーがパントマイムと自称したのです。
それ以来、今はマイムというと芸術的なもので、パントマイムというとポピュラーな感じを持つようになったのです。
しかし、このマイムの歴史の中で、いちばん過激で観衆の人気を呼んだのはローマの“マイムダンス”
だったようです。それと対立するのは中世の教会の神秘劇でしょう。これはほとんどマイム劇
です。
要するに、アルトーは演劇、ダンスの根源としてマイム(アルトーの時代はパントマイムと言った)を考えていたのでしょう。
その根源的なミメーシスから分離したダンスもパントマイムも根源的なものを失っているということです。
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