Tuesday, December 04, 2007

演出意図(1)

12月1日(土)、2日(日)のキッド・アイラック・アート・ホールでの“アートは症状である”の3回公演は無事終了致しました。ご来場いただきました皆様方に深く御礼申し上げます。
さて、今回の公演のねらいは、先に申し上げた通り「実と虚」の問題を出発点としておりますが、それから思考が“おくのほそみち”を辿って、なにやら明るさを見出したような気がします。そのことを前のブログを受け継いだかたちで語ってゆくことにします。

先ず、ルイ・アラゴンとシュル・リアリスムのことから入りましょう。シュル・リアリスムは超現実主義と訳されています。シュル・リアリスムの提唱者のルイ・アラゴンはフロイトの精神分析から影響され、それを文学に適用したのですが、無意識の世界を、現実の世界とは離れた“夢”と通底する世界と捉えている。
ところが、シュル・リアリスム運動に参加したアントナン・アルトーは幼児に脳膜炎を煩い、以後、生涯頭痛と神経症に悩まされつづける。それゆえ、彼にとっては無意識の世界こそが現実の世界であったのです。この点で彼だけが、シュルな運動をしているのではなく、そこにこそ現実のリアリスムがあったのです。

じぶんの意識が置かれている処が、リアルな場所なので、日常的な現実の方が架空なのです。それは仏教がこの世を仮空と捉えるのに相似している。ただ、仏教のばあいは、“こころ”のみが唯一、確かなもので、この世には実体がない、としているのです。この「ない」は“無”とは違う。“空”です。“空”は“無”でもあり、“有”でもあるもの。このあたりに仏教のややこしさがあります。

そこは“物自体”、“物そのもの”が置かれてもいい格好な場所かもしれません。人間でいえば衣服を脱いだ裸の身体から、さらに意味と価値をはぎ取られた[肉体]が。
しかし、その肉体の中に内蔵があり、骨があり、細胞があるー それらを切断する。<分節化>し、<分子化>する。(この2つが、形而上学の世界と宇宙的世界の、それぞれの下部空間における変身的身体表現。ムーンとマーキュリーとサタンが交互に表出する)

そこに、いわば[形態]を排除された断片と浮遊する分子群の動きの様態を見ることができます。それが“象徴界”をはぎ取られた、最終的な“現実界”なので、現象、物体の中にもそれを感じとれる人にとっては、それがリアルな現実の世界なのです。
ラカンが理論化する前に感じとった現実界は、たぶんアルトーが感じとったものとは違うかもしれません。しかし、この下部の“現実界”から、慣習と意味性と視覚の幻覚をまとった日常の世界を眺めていたのでしょう。

ラカンの理論は難解といわれます。ある高名な精神医学者がラカンの講座に出席したが、「なにが何だか皆目分からなかった」と告白してくれましたが、ラカンのいう、日常の地下にあるこの“現実界”を知ったものでないと理解できない筈なのです。
では、ラカン自身は、なぜそれを知り得たのでしょうか。私の推測では、それはアルトーからではなく、ジョルジュ・バタイユからの影響だと思うのです。

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