Friday, February 06, 2009

豊島重之(6)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
         ー歴史学的パースペクティヴの中での“差異”ー


  このようなブログの書き方では何時になっても終わることがないので、このあたりで2つ方向から絞って行って、2回で何らかの結論をつけてみたいと思うのです。
 というのは、この演劇は一見簡潔なようでありながら、大きなパースペクティヴの上に書かれています。そのため外からいろいろの視点で眺めてきたのですが、要するに、この作品の目的とするところは、作者のコピーの中にも織り込まれているように「生」と「政治」の実体を露にするため、時間と空間を限定しているのです。
 その仕組みは、一見すると単純なようでいて、哲学的にいろいろな問題が浮上してくるのです。その中で主立った問題点を明示する方がいいのかもしれません。まず、以下の箇条書きに列挙してみますと、
 
1)3次元の空間のスペースが排除されているということは、「共通性」と「差異性」を合わせ持つ公共圏が、権力によって失われているということ。
 
2)各俳優が分離して壁の前で平面的演技をするということは、極限状況の中で、各人が持つ“いのち“の「差異性」を表現していることになる。
 
3)権力側から一方的に光りが投射されるのだが、その光の当たらない部分は当局によって隠蔽された部分を表し、一方、光を当てられた非優の側は、極限状況において、生命の自由な創意の「活動」を露にしている。
 
4)各俳優の寸断された時間は、他者との関わりによって「再現化の表象の演劇」(ルプレザンタシオン)へとすすむ以前の、最初の動きにおける“差異“の特徴を見せるためのものである。他と機能的に関連するにつれて、差異の創造的な部分を失ってゆくのです。その意味で「始めて」の時が重視されるのです。
 
5)最初のスターリンの権力構造から最後のメイエルホリドの死までに挟まれた、各壁面前で演じる数人の俳優は、時間的に関係する役柄ではない。人間性が持つ“差異“の特性を、極限空間の中で、最初の動きによって並列して見せているのである。
 
6)同じような意味から“微笑み”の演技も同列だが、このばあい豊島氏の精神医から捉えた“心の在り方と、演出家の眼で見た能面のような“生の様態“としての二面性を持つ。それは光の捉え方においても同様です。
 
7)セリフと動きが分離されているということは、空間と時間と同じように、独裁者によって統御され、自由を失っているということを暗示すると同時に、動きによる「活動」と「言語」の主張が人間の大きな役割を持つことを示す。しかし、その価値ある人間性も暴力には勝てない、という政治性を示す。
 豊島氏がこの作品の公演とシンポジウムを並列させていることはそれを二重に強調していることになる。

 
 ざっと、思いつくまま挙げても、これぐらいの数になります。
 このブログのシリーズの中で豊島氏は、思想的な「差異哲学」の立場に立っていると述べたことがありますが、この「差異」の観点が最初に政治哲学の観点から述べられたのが、ハンナ・アレントの『人間の条件』1958 でした。その後、差異の概念を綿密に定義したのはドゥルーズの『差異と反復』1968 です。
 この「差異」が、その後の「ミニマルミュージック」などにも展開されて行くのですが、「差異人類学」という分野があることは意外に知られていないようです。

 「文化人類学」は歴史的には新しい学問ですが、これは医学の形態学をベースにした理科系の最初の「人類学」から分離してつくられた名称ですが、「文化人類学」が出来た後の元の理科系の「人類学」が「差異人類学」と呼ばれることになったのです。
 そして、文化人類学の研究対象が原始人の生活調査から、都市学へと変わったように、差異人類学の研究対象も身体の差異から表情学へと移行しました。


 今回のブログのタイトルで“歴史的なパースペクティヴ“と言いますのは、豊島氏が昨年1998年の7月に八戸美術館で開催した『68〜72※世界革命※展』ICANOF 2008 のそのタイトルの世界革命という名称からなのです。
 それはイマニュエール・ウォーラースティンらの「世界システム分析」の歴史哲学的観点と共通する近代史観を持っているからです。というのは、彼らは近代の始まりを16世紀の「大航海時代」とし、中間に「フランス革命」を置いて近代の終わりの始まりを「1968年の世界革命」としているのです。
 
 16世紀の「大航海の時代」というのは織田信長の時代のポルトガル人の来航の時期に当たります。それから100年にして日本は鎖国の時代に入るのですが、西洋の「フランス革命」に相応する大きな変革は、日本では遅ればせに近代を開いた「明治維新」でしょう。
 近代という構造をシステム分析すると、それ以前にも兆候があったのですが、1968年という年は世界的に共通する近代の解体の始まりだというのです。
  
 そして、この「世界システム分析」のそもそもの発端は、フランスのアナール派のフェルナン・ブローデルの『地中海』1949 の影響から始まっているのです。『地中海』は3つの大きな影響をその後の時代に与えたようです。一つは事件を主題にしたそれまでの歴史から「感性の歴史」の方向をつくったこと。二つ目は人間と関わる地勢学の見方。それが後の“地政学“へと繋がります。最後に近代の始まりとしての16世紀への解釈です。

 同じように豊島氏も、1969年を日本一国の全学連闘争の時代と見るのではなく、それを「世界革命」の一極として捉えているのです。そしてブローデルと同様に、身体と心の問題を感性的に捉えているのです。また豊島氏の発祥の地である十三湖は蝦夷の本拠地であり、氏のデビュー作品は蝦夷の首長をテーマにした『アテルイ』(豊島和子演出)でした。
 また、現在氏が活動する八戸市は地政学的観点から見る、原発の六ケ所村が隣接し、維新後転封された会津藩士たちの子孫が住みついている処です。氏の写真グループICANOFが沖縄の写真家グループと提携発表するのも、そのような理由からなのでしょう。

 このようなポストコロニアル的な「差異の哲学」を考慮に入れたとき、俄然氏のパースペクティヴな視界が見えて来るのです。
 そうすると、この作品が直接的には、スターリンとメイエルホリドの対立を主題にしながらも、それは人間本来の権力と自由な創意との対立がテーマであり、それを時間と空間との極限において観察しようとしているのが分かってくるわけです。

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