「illumiole illuciole」
2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見
ー”自分の中にもスターリンがいる“ー
「世界システム分析」が説く“近代の基盤は何か”というと、16世紀から形成され始めたと見る国家形態である。それが4世紀も経ってゆくうちに次第に循環の巡りに支障を来たし、ついに1968年の「世界革命」を契機に、世界システムの上で政治ー経済的な基軸だけでなく、文化的な基軸までも崩壊してしまった、ということである。それ以後、世界は国家中心から非国家主義と成り、多極化と多次元化に向い、現にEUの在り方とアジアの動勢がそれを示している、と。
その科学的な歴史分析においては納得させられる部分はかなりある。ただし、システム論というのは統計学と同じように、物事を外側から見て計る、科学的な(数と構造の)物差しのようなものである。それに最初の「選択の対象」という問題がある。1968年に関しては、確かに「世界革命」という名に値する事件であったと思う。しかし豊島氏が敢えて1968〜72としたのには、日本の1972年の連合赤軍派の“浅間山荘事件“、沖縄返還、日中国交回復を含んでの事があるからで、それによって事情は違ってくるのである。
「世界システム分析」自体も世界をグローバルに見ている証拠だが、実際に立合っていない歴史上の16世紀とフランス革命を、それぞれフェルナン・ブローデルとジュール・ミシュレの観察法を、現在の立場から参考にした歴史哲学なので考慮に値するものと思う。しかし、それに代る未来のシステムの予測となると、誰も79年のベルリンの壁の崩壊から91年8月のソ連の政変と連邦解体を予測できなかったように、予想はできないのである。
トータルに観るということは大切だが全体、平等、文化というと“まやかし“を帯びてくる。
人類学者、今西錦司が提唱する動物の“棲み分け”の知恵が欠けているので、その点ではブローデルが描いた、16世紀のキリスト教徒と回教徒の、地中海を取り巻く分布図は現在時点ではひじょうに参考になる。
世界的な時代の趨勢にあえて自国の栄光を保つために挑んだのがイギリスのサッチャー体制とアメリカのレーガン体制で、グロバリゼーションと“新自由主義”の旗の下に、世界の資本の流れに“虚“の勝負を賭けたのだが、そもそも原理的に相矛盾する“自由”と“平等”のバランスへの配慮を欠いていため衰亡への道を早めたのである。それも両国の消えない“自国中心主義“と、日本のばあいは“従属主義”の成せる業なのであろう。
なぜ、このようなことを言い出したかと申しますと。豊島氏の作品はこのような世界的な政治状況の上に立って作られているからです。チラシの中の豊島さんのコピーというより宣言文に近い文章は以下のように書かれています。
「21世紀の蠅の羽音が唸る、過密都市の中の「ラーゲリ=収容所」。そこには一切の希望は失われている。本当にそうだろうか。イメージに幻惑されることなく、イメージの底をぶち抜いて、その形姿の根源に「微光」を掘削すること。そこには生ー政治学的な古層、いわば深海の発光体=イリュミオールが、まさに「ILL=錯誤の/病んだ」夜光虫=イリュシオールとして到来するだろうから。」
豊島氏のテキストについて注意しないといけないのは、すべての言語が両義性を持っているということです。そして意味より先に言語が分節、接合して機械的な“”組み込み作業”を起し、多数多様体をつくり出してゆくのです。
例えば、最初の蠅(flyフライ)は、この宣言文が掲載されている“チラシ(flyerフライヤー)”にかけていますし、それが“情報“と繋がるのです。次の「イメージに幻惑されることなく」のイメージは現実の現象と、同時に芝居の演技も含めています。「その形姿の根源に」は“絶対演劇”の形式の下に、ということで、「「微光」を掘削すること」とは、精神分析の分野の無意識の世界にも光を当てなくてはいけない、と言っているのです。
そうすれば「そこには生ー政治学的な古層」という“接合“の地層が見えてくるというのですが、ここで地層とは言わず、フーコーのキー概念である古層(エピステーメ)という言葉を使っているところに、フーコーの“権力“の側から見る政治思想の知の系譜が見えてくるのです。さらに「いわば深海の発光体 ー」に続くのですが、この発光体のテーマに入る前に、深海=無意識の世界に今日は立ち入らざるを得ないのです。しかし、ここでは“微光”としての意識のはじまりに絞ってゆくことにします。しかも、箇条書きで。
1)メラニー・クラインの「部分対象」のこと。部分対象とは、あるからだの部分が対象として大きな意味を持つということ。つまり部分であっても対象(たとえば乳房や他のからだの部分)が欲望と幻想を呼び起こしてゆく。
2)一方、この“対象“にブレンターノのいうこころ(意)が本来持っている「志向性」を結びつけると、“意識“という現象が生じる。そして対象と次の対象を結びつけることによって関係性をつくり出す。
眼球の動きと、意識して注意を対象に向けると、いわゆる”気付き“の現象が起こり、“クオリア”が発生する。
3)しかし、対象の“選択”という大きな問題が提出されることになる。何を選ぶかが。また、それ以前に選ぶ者の欲望が潜在している、ということ。
4)また、対象に向う線の動きの差異と、触れる強度が問題となる。前者はキャラクテールから“意”の生命線に、後者はミニマリズムの段階の様相を知る上で。
5)しかし、神経症を対象とするフロイトの精神分析とは違って、精神分裂ー分析(スキゾアナリーズ)においては、部分対象間のつながりが失われ、全体を統一する有機体(オルガニスム)が失われていると診る。いわゆるアルトーのいう「器官なき身体」とつながる。
6)「器官なき身体」の原語はcorps sans organesである。「器官なき身体」の真意は、複数の各器官を有機的に統制する器官組織のorganism(オルガニスム)の上層部に位置にする「器官組織のない身体」という意味なので、各器官(organe)がないと言っているのではない。各器官を制度化して操作するのは独裁のようなものだ、とする。
7)“自分の中にもスターリンがいる“というのは、自分の生理的な機能の規制を差して言っているのです。演劇の再現化も表現もこの機能に従わざるを得ない。そこからどう脱出して、差異と自由な発想を作りだせるかがこの作品の狙いなのである。
「差異がつくる多様体」の、リゾーム状に張り巡らされた根茎から最初の球根を取り出して切断する作業。豊島重之氏の根源的な次元にまで簡略化されたこの「絶対演劇」の批評となると、その簡略な数式と線の奥に潜む、それこそ深海の様相を探るためには、このように切断されてしまった背後の多様体との繋がりの様相を探索しながら、再び思考の痕跡を辿って行かざるを得ないのです。
まるで、仕組まれた“蟻地獄”に踏み込んだようなもので、まだ“光“と、“ジュネとジャコメッティ“の問題が残っています。スターリンとメイエルホリドはそこに至るための切断の仕組みなので、肝心の中心テーマはそこにあるのでしょう。
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