Friday, February 20, 2009

豊島重之(8)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
         ー排除された“公共領域”ー


 「illumiole illuciole」論も最終段階に入ったようです。結論に向って急ぎましょう。
 
 この演劇においては、いかにも公共領域の“光“の場が失われているように見えるのですが、実際にはそうではなく、裏面の影の場を見せているのです。
 人間という言葉の意味は、京都学派の田辺元教授の倫理学の中心課題でもあったのですが、「人」と「人」との「間」の空間があっての「人間」だというのが、その説でした。
 その間を埋めるのは相手に向っての発語行為である。互いに論じ合うことによって相手との同一と差異を見出すのである。そのためにはハンナ・アーレントのいう、人間が生来的に持つ自由と創意を出発とする“活動性”が必要になってくる。
 豊島氏が光の当たる表の部分として提出していたのは、この対人的な“活動”に移る以前の、“始めての生命の動き“だったのです。
 そして、照明の当たらない“排除された“公共性の場と、応答の無いまま訴える言説の声は影の部分だったのです。
 
 この公演の特徴的なことは、豊島氏のばあいは恒例なのですが、排除された公共領域での言論の役割を、公演後のシンポジウムとその後のパーティに当てているのです。
 言語の力に対する絶対なる信頼と、演劇の“イメージ戦略”が対になっていて、豊島氏の思想とスタンスを主張しているのです。
 そして、人と人の間に埋められる抽象的な共通の場としての言語空間(ここから「間主観性」の観念と「間テキスト性」の概念が生まれてくるのですが)を、リアル性によって支えるのは現実に自分が立つて生活している物質的な、差異的な空間なのです。
 豊島氏は、自分が現在、生まれ住んでいる東北の一角の、歴史的な“痕跡”の上に立って、公演とシンポジウムの抽象的な公共性の空間に挑んでいるのです。

 方法としては、二項対立の問題があります。基本的には“光と影”による表裏。氏の医師の立場からは、心→精神の問題が深く関わる“健康と病”、“善と悪”、“徳と悪徳”。霊→神の問題からは“自然(カミ、アニミズム)と神(権力)”、“知恵(慈悲)と愛欲“。
 これらの対立する二項の中から一項を“排除”することなく、左右の浸透と、表裏の関係から事柄の真意を捉えてゆこうとするのが豊島氏の狙いなのです。

 
 ということは、ハンナ・アーレントが彼女の著書『人間の条件』で、「労働、仕事、活動」を彼女の“人間性“を解くためのモデルトとして捉えたのは、古代ギリシャのポリスの政治討論の場、中央広場「アゴラ」の公共領域の空間なのでした。
 だが、そこに参加して主張できたのは、一家の家長である、成年男子の市民権を持った者だけで、差異的、私的、家計的部分が排除されていたというのです。それが市民が自由な討論が出来た理由だとハンナ・アーレントは言っているのです。でも、彼女の真の目的は、後にハーバマスへとつながるコミュニケーションの問題だったのです。マルクスが“労働”に対したのと同じように、言語による“活動”こそが人間の第一の特性だと思っていたのです。
 
  近代がすすむと共にポリスが国家へと拡大し、公共領域の場が拡散して多くの人間にコミュニケーションの場がひらかれて行ったように見えますが、代理する議院制度は個人的な、地域的な利害をそのまま抱えこんだ社会的公共領域となったのです。18世紀に及んでは、経済的な利益がさらに優先し、古代ギリシャのポリスの時の、市民が公共的な立場から互いの私的利益を超えて、自由な政治討論をアゴラで行なったのとは違って、地域または自分に繋がる利益団体が左右する「政治経済」としての公共領域=経済社会となったのです。

 そこにはすでに、人間性の根源的な“いのち”の部分が失われてしまっているのです。利権を持つものと、格差によって生活の基盤までが失われた人達がいるのです。近代のシステムの基軸までが崩れているように見えるのです。 また、日本の場合には、論議のすすめ方において西洋の近代システムなるものが適合していないのではないかと、疑いたくもなるのです。

 ギリシャ哲学の、プラトンによる二項対立の弁証法と“善”のみを追求する哲学思想は、近代を終えようとしている現在には相応しません。ギリシャ哲学から『善の研究』を著した京都学派の西田幾太郎とは違って、豊島氏は「善悪の研究」をしているのです。

 豊島氏が主張しているのは、近代の利益をベースにした「政治経済」の社会でもないのです。それはチラシにも書かれているように差異的な立場からの「生ー政治的」社会なのである。
 ハンナ・アーレントの人と人との自由な言論活動によるコミュニケーションの場は、同一と差異を通じての人間の個性ある“多数”を目的としたものでした。
 しかし、ハーバマスのコミュニケーション論は互いの同一性を求めることを主眼にすすみます。豊島氏のばあいは、それに対して自分の差異性を確認するためにコミュニケーションを拡げているように思われます。
 
 二項対立を無くする方法としては、細密化を劇団名に掲げる「モレキュラー」の方法論と、理念としての演出学「絶対演劇」の“脱構築“の場の構成なのです。
 三角形の頂点に上昇されている“善”と“徳”と“慈愛”と“正義”とが、底辺に向って呼び戻されるのですが、これまで排除されていた下層の部分と溶解し、新たな再生への道を求めているのです。

 チラシに書かれているように、深海の、つまり意識の底にある発光体=イリュミシオールが「ILL=
錯誤の/病んだ」夜光虫=イリュシオールとなって浮かび上がってくるのを、冷静な眼で観察する必要が出てくるのです。
 
 そして、これらの現象を解くために、表の舞台として「権力」と「自由と創意」の二項対立においての「排除の劇」を演じて、その裏面に、または一点に結集する“種子“の上に、ジャン・ジュネの『シャティーラの四時間/アルベルト・ジャコメティのアトリエ』を挿入する必要があったのです。

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