「illumiole illuciole」
2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見
ー光の中に“ill”が潜在するー
公演のあと、会場から少し離れた箇所でパーティが開かれた。20人ほどの集りで、4人のテーブルの一つに誘われるまま、豊島氏の隣りに私が席をとり、豊島氏の前には港千尋氏が、私の前には根本忍氏が坐った。
根本氏はこの公演を3日間、連続で観ており、作曲家であるだけに、全ての場面を数で計算し、メモしていた。演出家の豊島氏としては、それについては無意識でやっていたようで、それを何気なく根本氏にそれを指示されて多少驚いた風だった。
その後、豊島氏は港さんに向って「イリュミナシオン(光)」にはいろいろな意味がありますね」と問いかけた。港氏はそれを受けて考えをめぐらせているようだった。私が傍から「『イリュミナシオン』という詩集がありましたね。ボードレルだったかーーー』というと。港さんが「ランボーですね』と応じてくれた。
ちょっとした、このあたりの会話を糸口に、ブログを先にすすめたい。
先ず「イリュミナシオン(光)」から入って行こう。
その日、家に帰ってランボーの原書を捜したが見当たらない。20歳過ぎた頃に読んだ詩集なので、押し入れの奥に仕舞い込まれたままなのだろう、見つけ出すのが困難だ。
翌日、街に出て岩波文庫のランボオ作『地獄の季節』(小林秀雄訳)と、ちくま文庫の『ランボー全詩集』(宇佐見斉訳)を購入した。『地獄の季節』(小林秀雄訳)の中にも「イリュミナシオン」は「飾画」の訳名で入っている。
私が、今ここでランボーの詩集『イリュミナシオン』の中から宇佐見斉氏の訳で一つの詩を紹介するのは、「illumination(光)」を“慧(ひらめき)”と“創意”のみでなく、その中に“ill”の部分が潜在していることを伺わせる訳になっているからです。
豊島氏は、原初的に「illumination(光)」の中にはマイナス部分の“ill”の部分が含まれていて、同じ「illumination(光)」でも近代になると、イリュミネーションの人工的な光に変じ、「人工的に光る虫/病気で光らない虫=季節を間違った蛍」になる、と述べているのです。
豊島氏の「illuciole(深海の発光体)」=意識の底にある光も、近代末期のグローバリズムの時代となってはもはや人工的な光の、邪気と悪徳を含んだ“ハエ”となってしまっているわけです。
そこで豊島氏の思考の経路は次のようになるでしょう。
イリュシオール=深海の発光体→ 人工的に光る虫→ “ハエ”
イリュミオール=錯誤の、病んだ夜光虫→ 病気で光らない虫=季節を間違った蛍→ “ハエ”のたかる屍体
そのことを前置きにしてランボーの詩、「王権」に入りましょう。
「ある朝のこと、とても穏やかな気性のひとびとが住む国で、惚れ惚れとするような一組の男女が公共の広場で叫んでいた。「みなさん、わたしはこの女(ひと)に王妃になって貰いたいのです!」女は笑い、身を震わせていた。男は朋友に向って、啓示について、すでに終わった試練について語っていた。ふたりは身を寄せ合ってうっとりとしていた。
実際に彼らは王であり王妃だった。深紅の垂れ幕が家々に高く掲げられたその日の午前中と、そしてまた、ふたりが棕櫚の庭園の方へと歩いていった午後のあいだは。」
「とても穏やかな気性のひとびとが住む国で」というのはベルギーで、のこと。そして作中の男女とは、ランボーとヴェルレーヌの2人のことで、1873年7月10日に泥酔したヴェルレーヌがランボーに向って拳銃を発射、左手に傷を負わせてヴェルレーヌは逮捕された事実を、この詩の裏に読み取る人も多い、ということです。
これがランボーの感じた「illumination(光)」の一部です。
たとえば、霊性には、聖霊と悪霊がある。“慈悲に似た愛”があると同時に、“愛欲”がある。ハンナ・アーレントが彼女の第一作『アウグスチヌスにおける愛の概念』に述べているように。
仏の“慈悲”と“知恵”は、観音・文殊両菩薩の役割で、普賢菩薩は“大行”の実践行為である。
私がこのように敷衍して話しているのは、豊島氏がこの『イリュミオール・イリュミシオール』の演劇を提示しながら、世界の現状について次のように語っているからです。
「そこには一切の希望は失われている。本当にそうだろうか。イメージに幻惑されることなく、イメージの底をぶち抜いて、その形姿の根源に「微光」を掘削すること」。
追補 豊島重之氏より以下のようなご丁寧な間違いのご指摘がございました。ご報告申し上げます。
「ここは、ちょうど正反対だと思います。リュシオール=蛍ですから、イリュシオール=間違った蛍、となります。
つまり、
イリュシオール=錯誤の、病んだ虫→ 病気で光らない虫=季節を間違った蛍→ “ハエ”
イリュミオール=深海の発光体→ 人工的なまでに壮麗なスペクタクル=光景→ “ハエ”のたかる屍体
しかし、及川廣信さんのおっしゃる大意に、このことは少しも瑕疵にはなりません。
むしろ、「光の王権」は、中世・近世ヨーロッパから、近代ヨーロッパに移行するエッジを意味していたようです。
その御指摘に、めくるめく思考をいざなわれて、深く感銘を受けたしだいです。」
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