「illumiole illuciole」
2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見
ー 第三の眼 ー
港千尋さんが、著書『新編 第三の眼』(せりか書房)を贈って下さいました。
その中に<観察者の自由>というタイトルの章があります。アメリカのプラグマティズム哲学者のチャールズ・サンダーズ・パースの記号学の「三項論理」を出発点にして語っておられるのですが、私も以前からパースのその特異な記号論に興味を抱いていた関係から、氏の論説に惹かれるままに読みすすんで行ったのです。
ところが、私がこの作品批評とも豊島論ともつかぬブログを、延々と10回も続けてきましたが、偶然というのでしょうか、計らずもその「三項論理」と同じことをやっているような気がするのです。
もちろん、パースや港さんが考えているような満足なものではないでしょうが、ただそれと同じような方向に自分が進んで来たということです。
港氏はこの本で次のようにパースのことばを紹介しています。
『二項関係の代表は因果律です。「原因ー結果」という二項の関係がそれですが、この関係を図示しようとすると、それをどんなに続けていっても、二項の線がつながってゆくだけで、一次元の線形を描くことしかできない。パースはこれでは、あまりに制限が厳しすぎると考えた。』
最初、このブログのテーマをこんなに続ける積もりはなかったのです。ただ自然にこうなったのは、こんな遣り方でなくては豊島氏の作品の真意に触れられないような気がしたからなのです。それに、豊島氏個人のことも語らなければと、まるで誘われたかのように氏の内面を推測し、それに加えて自分の演劇観まで述べるまでに至ったのです。
そして方法としては、この豊島氏の演劇形式の中心部に入り込むために、正面から当たらずに、時間的な呼吸の「拡大と縮小」とその「切断」の場に置こうとしました。演繹法と帰納法を相対化させ、その交差する呼吸の脈絡の“間合い”に豊島氏の真意をさぐろうとしたのです。
観察者が対象の演劇作品を批評するという二項でなく、対象の作品、演出の豊島氏、観察者の自分の三項がそれぞれの立場から語り出し、関係し合いながら拡大してゆく、その網の目の合間に透けて見えてくるものがある、という手法です。
先に“交差する呼吸の脈絡の間合い”ということばを使いましたが、豊島氏のこの作品には、人間の呼吸の、呼気と吸気とが自己から離れて、自己と外部との圧力と引力関係に転じ、ゴッホの絵のように外界の空気が化学変化して渦を巻いているような気がしたのです。
そして、豊島氏がこれまでどのような“痕跡”を残してきたかということと同時に、自分自身の“こころ”の経路も反省してみたくなったのです。
『そこで、「原因ー結果」に「観察者」を付け加える。関係は三項になると系は分岐することが可能となる。連続してゆけば、三項関係は次々に分岐して面となり、それによって描かれる論理空間は多次元のネットワークとなる。パースの考える記号とは、このような三項論理である。』
そのように、どこか地球を超えて、宇宙的な波動にまで及ぶような印象を受けたのです。 俳優の心の状態が内蔵と表情に表れ、しかも意識の出発段階の発意の行為として表出され、しかも“光面”の中に露になっていたのです。
そこには現在の地球の環境の問題もありますが、世界政治が近代の末期を迎えているリアリティにまともに当っている印象を受けたのです。場に置かれた俳優の身体がぎりぎりの境界に立っていて、したがってそれを観察する者も、思わず中空の気の律動を胸に感じとる構えとなっていたのでしょう。
私が呼吸から作品をとらえるというのは、その意味からです。
港さんは痕跡を記号として考えると分かり易い、と言います。
「痕跡という現象は、因果律だけで理解できるものではない。なぜなら、その痕跡を観察する第三者の状況に応じて、その意味は変わってくるからである。痕跡を残す主体(原因)とそれが残された表面(結果)、それを観測し解釈する主体(観察者)の三項の関係のなかから生成するのが痕跡という記号なのだ。」
説明する必要はないことでしょうが、このブログのばあい、痕跡を残す主体(原因)は演出家の豊島重之、それが残された表面(結果)はこの舞台作品で、それを観測し解釈する主体(観察者)は私なのです。
三項といえば、禅定のための調身、調息、調心があります。
調身とは、普通には、からだを解いて正規に整えることです。しかし、発生学的に身体を細密に観察するばあいには、内・外・中の三胚葉からそれぞれ内蔵と腺、皮膚と神経、筋肉と骨への個体発生段階を認識することになります。これを記録のゲノムとし、他にDNAと受精卵を加えれば、発生学の三項関係の記号となる、と港さんは言っています。
さらに実践的な修練の方法としては、上・中・下・裏の4丹田の役割を知り、心と精神、霊と神、魂とエネルギーのからだの中での住処を確認することです。
調息とは、まず“数息”して息を整えるだけでなく、上述したように人間の呼吸から宇宙の律動に及び、老荘の思想を通じて量子力学の微細な領域にまで意識が至ることを望みます。
そして調心こそが、この三項の中で第三項の役割を担うものです。なぜなら「肉体よりも、精神が重要」ですから。肉体は「こころと精神」のために、空間と時間の中に道具として置かれ、生命の実感を経ることによってそれを捉えようとしているわけです。
こころは大脳の中にも、内蔵の中にも、からだと言葉の行為の遂行の中にも展開します。しかし、こころを決める指針となるのは“意識”です。“意の”指向性による対象に向っての結び付き、その網の目の繋がりです。
ここでやっと、港氏のいう「第三の眼」の目標に近づいて来ました。港さんは、第三項の神経構造の存在を仮定するアメリカの神経学者アントニオ・R・ダマシオの説を紹介しながら以下のように話をすすめています。
ですが、その科学的知識の仮定の説に加えて、さらに私見として、民族学的、または霊的観点から次のように想定することも、芸術の創造的自由の側では許されると思うのです。
ダマシオと港さんの言う、三項関係の二項の初期感覚の“大脳皮質の感覚分野”と感覚・運動領域の“大脳基底核”に継いで、第三項の集合域として未だ大脳科学において科学的に実証されていないが、“視床”を仮定としてその任に当てるということ。それは「第三の眼」のための、単なる神経生理学的なメカニズムにすぎないものだとしても。また潜在する記憶と、感覚皮質と運動皮質との間で活性化してトポグラフィックな表象としてあらわれ、自己の心のなかにイメージとして生まれるものだとしても。
このように、そのことに関心を持って述べますのは、大串孝二氏が昨年の12 月に彼のライフワークである「ラスコー解読」の展示パフォーマンス<意識の庭>において、私も参加して実験的に試みたテーマなのです。
その時は大串孝二の意図から、視床の内側に「感覚と運動による外部世界」が包まれているというイメージ世界の<意識の庭>の床面へのデザイン設定でした。内と外とが逆転しているイメージ発想なのですが、「第三の眼」という仮想的視点からは在り得ることだと思います。
その時それを演じる私は、“視床”にあたる床面を北斗七星が北極星の周りを巡るようによたよたと歩いたのです。
それにしても、あのデカルトが思考の核として捉えた“松果体”が今では大脳科学分野で“ふるもの”扱いされて、すでに忘れられているということいはどういうことなのでしょうか? “視床”にしても同じでしょうが、なにも無い中間の空間地帯こそが、形而上の思考の“結び”の場になり得るのではないでしょうか。
以上、北極星の周りを巡る、よたよたした北斗の歩みのようなこの筆の進め方は、「第三の眼」を求めて三項関係で逍遥するこのブログの特徴なのです。
「ラスコー解読」の展示パフォーマンス<意識の庭>の写真は
http://www.nona.dti.ne.jp/oik/(及川廣信のホームページ)へ
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