Wednesday, August 12, 2009

かもめマシーン(1)

8月1日(土)西荻窪の劇場“がざびい”で観た、かもめマシーン「家族」の作品について以下に述べたい。萩原雄太の作/演出である。

この作品の話術について語りたいのだが、それには“からだの動き”の分類から話した方がいいようです。マイムの技術用語を使うのでフランス語になりますが、英語で推測される範囲内です。

いわゆる“動き”という概念を大文字のMouvement(ムーヴマン)とすると、以下のように3つの様態に分類されます。
  1. geste(ジェスト からだの1部分が動くとき)
  2. attitude(アチチュード からだの内側と外側との関係から体全体でつくる形または型。それは停止の内に過去と未来の動きを含む)
  3. 小文字のmouvement(ムーヴマン 空間的にA地点からB地点に移動するばあい。歩行、跳躍、飛翔によって)
ヨーロッパのばあい、ディドロの俳優術の伝統を変えたのがブレヒトの演技術だと言われますが、ベンヤミンはブレヒトの演劇を、資本主義による各階級の様相を染み込ませた“ジェストの演劇”だと評している。ブレヒトの脚本でなく、ブレヒトが演出した作品のことを言っているのですが、じつに的を得た批評だと思います。

そのことから推して、私の言い方をすると、“舞踏”はアチチュードのダンスなのです。それは空間の中にからだを素材として動き(mouvement ムーブマン)を描く、それまでのダンスの創作法とは違っています。跳躍して空間的に移動することが無いのです。

私はここで萩原雄太のこの「家族」という作品は、からだの空間の配置もそうであるが、まず話術を主体とする“アチチュードの演劇”を作り出している、と思うのです。
それはどういうことかと言うと、会話の文章がつねに完結せずに、動きのattitudeのような体言止まりで、そうでなければそれに付属されたgesteのような副詞、あるいは接続詞の後はぷつりと切れて、沈黙の時間となる。そして時間的なmouvementといえば、知能の廻らない娘役のセリフ、言葉にならない断絶した音の連続なのです。

孤立した、動きのアチチュードまたはセリフの体言というものは何を指しているのか。それは人間の「立ち位置」、“存在”に焦点を合わせているからなのでしょう。

「かもめマシーン」という劇団名は、チェーホフの作品「かもめ」から取っているそうです。それとマシーンはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」から来ているに違いないのですが、そのあたりから迫って行かないと、この作品を解読出来ないのかもしれません。

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