2)ブレヒト/ハイナー・ミュラー/ウィルソン
『ユリイカ』の「ハイナー・ミュラー特集号」の中で、聞き手のペーター・フォン・ベッカーのインタヴューの冒頭の質問「あなたは折り触れておっしゃっていますね。あらゆる芸術は、自分の書いたものを含めて、死者の記憶である、と。」に対してハイナー・ミュラーは「ふむ」と応じた後、次のように語る。
「私が戯曲を読み始めたのは、 10か12の時。確か最初はヘッベルで、それからシラー、その後クライストとシェイクスピア。そこにして死者たちのダイアローグです。そしてどの時代でも戯曲というものは後に生まれるもの。まず叙情詩、叙事詩、それから散文。それはつまり、戯曲は前もって作られた素材を、源を頼みとするものだとも言える。最初の特殊な例外はチェーホフであり、家庭劇に限りますがストリンドベリとイブセン。」(本田雅也訳)
私はこの中にハイナー・ミュラーの『ハムレット/マシーン』の秘密のすべてが含まれていると思う。
ハイナー・ミュラーが『ハムレットマシーン』を書いたのは、マテリアルなもの(素材)を対称にしながら、戯曲の形式では多くの大切なものが漏れるので思い切って詩の形に凝縮して、それを元にどのような形式の演劇でも演じれるマシーンにつくり変えたのである。
それには、最も矛盾を含んだ、複雑なテキストとして彼の記憶の中に残っていたシェクスピアの『ハムレット」を素材として使うのが最良と考えたにちがいない。
そもそも戯曲は演じるがためにあるもの。アリストテレスの「ミメーシス」論によれば、現実の問題を解くため、虚の場を借りて仮に仕組みを建て、事を起して、見えなかった現実の事柄の底辺にあるものを掘り起こして見せるのである。そして観る者は、それを見て「カタルシス」を感じ、己れを浄化し、外に開く。
それは祭りにも準じる催し物だったのである。
その上演にあたっては、劇の仕組みとしての時間的、空間的構造が必要で、またいづれも「数」の問題が重要だったのです。
たとえば、時間であるなら、日本では序破急という三段階がある。幕仕立てなら三幕劇、またその中の山場の“破”の部分を、さらに序破急の三段階に分割して五幕劇にする。
それに対して、四幕劇に三の破綻の元を含ませて家庭劇をつくったチェーホフという作家はミュラーの言うように変わった作家だったのだ。
芸術家の創作とはいえ、しょせん頭の中の過去の歴史の記憶の組み合わせに過ぎないので、それは形式づくりの競争にすぎない、とミュラーは言う。
そして演劇のばあいは、時間的なストーリーにこだわり過ぎた結果、再演(現実を仮の虚のステージに模倣、再現する行為。 ミメーシス represantation )の中で演出家たちはその演出法に足掻いて来たのである。
その代表的な演出家とは、まずブレヒトであり、その影響を受けたフランスのブレヒティアンのロジェ・ブランション。同じくフランス人のヴィテーズとシェローたちであった。
東ベルリンの“ベルリーナ・アンサンブル”を率いるブレヒトをハイナー・ミュラーは尊敬していた。それを正統に受け継ぐ者として自らを任じてもいた。1970年、バルリーナ・アンサンブルの文芸部員となる。
しかし、ブレヒトの若い時の「マテリアル」の時代は納得できたが、スターリン体制下の東ベルリンに移動してからのブレヒトの作品については、その演出法と演技術の“異化効果”は別として、共産主義へのプロパガンダ的な“教育”向けの戯曲については肯んじなかった。
ブレヒトの友人のベンヤミンは、ブレヒトの演劇を「階級闘争を明確化する“ジェスチュア”の演劇である」と評していた。
それは京劇または歌舞伎に類似した、一般民衆にも明確にその社会的位置とキャラクターが了解できるような演技と舞台構成だった。
19777年にミュラーは『ハムレットマシーン』という作品を世に提出した。それはひとつのスキャンダルだった。この『ハムレットマシーン』をどのように演出するかが、世界の演劇界に与えられたテーマでもあった。
1979年に『ハムレットマシーン』はパリで自作『モーゼル銃』と合わせて初演されたのを皮切りに、幾多の演出家によって試みられた。1983年にミュラーはアメリカの演出家ロバート・ウィルソンと知り合う。
そして翌年の1984年、ウィルソンの『死・破壊そしてデトロイト1(DD&D1)につぐ大作『ザ・シヴィル・ウォーズ』ドイツ版のボッフム初演にテキストを提供。1986年にはミュラー自身から白羽の矢を向けられ、1988年に『ハムレットマシーン』はロバート・ウィルソンによってニューヨークとハンブルクで演出される。東ドイツの国家賞を受賞。
そして1990年には、ドイツ座にて上演時間7時間半におよぶ『ハムレット/マシーン』をミュラー自ら演出する。またフランクフルトでは、ミュラーを17日間にわたって特集する<エクスペリメンタル6>が開催され、インタヴュー集『人類の孤独』が刊行される。そしてこの年10月3日に東西ドイツの統一が行なわれるのである。
ここでわれわれは、あのベルリンの壁のあった「鉄のカーテン」の時代に、このように自由に西側で自由に動いて仕事をしているハイナー・ミュラーという人間の不思議さを思う。
実際には、彼は東側のベルリンでは“ベルリーナ・アンサンブル”に籍を置いているものの、危険人物として作品を東側では発表することが出来なかったが.しかし西側でドルを稼ぐ人間として自由に「鉄のカーテン」を越えて出入することが出来たのである。
1990年にミュラーによって東ドイツのドイツ座で7時間半におよんで上演された『ハムレット/マシーン』(壁の崩壊と前後して構想されたこの公演『ハムレットマシーン』ではなく、『ハムレット/マシーン』となっている)は、本体の『ハムレット』をそのまま新解釈で上演し、進行する中程の、ハムレットがイギリスへ旅立つ場とオフェリアの狂乱の場の中間に『ハムレットマシーン』を挿入している。
それに対する1988年の、ロバート・ウィルソンによってニューヨークとハンブルクで演出され『ハムレットマシーン』は、ウィルソンの質問に対して50分ぐらいが適当だろうとミューラーが応えたのだが、実際には上演が2時間半にも及んでいる。
それは最初、俳優の動きだけが振り付けされ、後からテクストが分割されて配分され、5つの場面のシークエンスがそのまま角度を変えて繰替えされるような、凝縮されたテキストをあらゆる面で拡散、拡大するような演出であった。
このようにして、上演不可能とされていた『ハムレットマシーン』がロバー『ト・ウィルソンによって(配置)と(イメージ)を主眼とした見事な静的ドラマツルギーが展開されたのだった。
ウィルソンはすでにフィル・グラスの音楽監督といっしょに1976年にオペラ『海辺のアインシュタイン』を上演していた。そして1995年、アメリカのテキサス州ヒューストンのアレイ劇場で『ハムレット ー独白』ウイルソン構成・演出・主演の一人芝居が上演された。
それはウィルソンのドラマツルギーとセノグラフィーの空間にハンス・ペーター・クーンの音の協力が加わったものだった。
その年の12月30日、ハイナー・ミュラーは癌に肺炎を併発し死去。