Thursday, October 29, 2009

かもめマシーン(10)

1)チェーホフのドラマツルギー

萩原雄太氏は『家族』では作家/演出家で、またプロジューサーでもあったが、ときには俳優の役を買って出ることもある。ただし役を演じるのは自分の「かもめマシーン」以外の他の劇団に依頼されたときである。じぶんの「かもめマシーン」の公演のときは彼は舞台には出ないそうだ。
以前、集団「たま」の公演のときには彼は俳優として出演していた。今度の『家族』の配役のなかに集団「たま」の中西彩華さんが出演しているのは、2劇団の交流を意味しているのだろう。

そのように萩原氏は多彩な才能を持っているのだが、本筋は劇作家ではないだろうか。ただ、書くだけの劇作家に止まることなく、演出構成を予測した描き方をする作家である。
それが新しいドラマツルギーの発生の傾向なので、戯曲の根幹としての「時間的な劇の流れ」としてのドラマツルギーから脱出した「空間的な場面構成」として演出法と密着する、新しい観点からのドラマツルギーである。

チェーホフは他の劇作家と違って、波乱を含んだ3幕、5幕の方式でなく、周期的な日常の循環性をベースにした4幕形式をとっているが、進行する機械(マシーン)の内側の微妙な軸のズレから土台柱が破損の道に向うかたちになっている。
とくに『かもめ』の劇進行においては、第三幕までの時間的な劇の流れのドラマツルギーとはちがって、第四幕は「空間的な場の構造」の新しいドラマツルギーへと変じている。そして現在の演劇・ダンス界のドラマツルギーへのフォーカスは、このチェーホフの作劇術を初原としているように思われるのです。

チェーホフの『かもめ』の演劇史においての重要な位置は、はじめての記念すべきモスクワ芸術座の成功というだけではない。次の『かもめ』第四幕での、ニーナのトレープレフに向ってのセリフにもあるようです。
「------ 今じゃ、コースチャ、舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。私たちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくて、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよー だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。」(神西清訳)
このチェーホフの主調音が『ワーニヤ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』へと変わることなく伝わってゆく。それがソヴィエ連邦の社会主義リアリズムの方針に折よく吸収されて行ったのだと思う。

演出と密着する、場面構成と場の構造の「新ドラマツルギー」はやがて「間テキスト」の方向へと向う。一人の作家の文章だけでなく、幾人かの作家の文章をコラージュする。まさしく、ことばが俳優からも、聞くものからも離れて中間に位置し、たがいに他のセルフと結びつきながら自動的にすすんでゆく。この方法は豊島重之、イエリネク、ロバート・ウィルソンなどが使用している方法である。

私はここで言っている「新ドラマツルギー」というのは、かっての作劇術の意味とは違うもので、具体的に演出と溶け合ったかたちで構成を重要視する。劇作家が突出した、今の時代の傾向を指している。
それはかってパトリス・シェローなどが美術家の援助のもとに、歌舞伎的なステージの転位を行なって観客を驚かした「セノグラフィー」につぐ動きである。
つまり、ピラミッド型の演出独裁の時代ではなくなりつつあるのだ。
このあたりを理解するには、ブレヒトからウィルソン、ハイナー・ミュラーにかけての演出上の経緯を述べなくてはいけないのでしょう。
どうも今日一日では纏められなかったようです。



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