その代表が萩原雄太氏だと思っていたのでした。ところが劇団と名乗っているものの正規の団員は萩原氏一人しかいないというのです。つまり、萩原氏がスタッフとか俳優を一人でかき集めて、自分の書いた作品を演出しているプロジュース・システムの仮の劇団システムなのです。
それで公演チラシの裏に<公演主宰者募集>の欄など載せている。またその下には<脚本公開>の欄もあって今作の脚本をwebにて公開します。読んでから来るもよし、来てから読むもよし、来ないで読むもよし。
ぜひご欄下さい! とある。
ところが、その作/演出 萩原雄太 かもめマシーン『家族』の観想・批評をこのブログで10回に亘って書きつづける積もりなのですが、私は今になってもまだその脚本を読んでいないのです。その芝居を観たまま書きつづける内に、だいぶ台本の筋と食い違って理解しているような感触を持ちつつあるのだが、あえて私なりの考えがあって、観て聴いた限りでの観想・批評を述べつづけているわけです。それもこの今日の9回の後の、明日のブログで最終回にしたい。
それで、萩原氏のプロジュース・システムのことだが、今はそういう時代なのかと知ったと同時に、その方が面倒が起こらず、じぶんが思った通りに事が運べるだろうな、と気付かされたのでした。そういえば、ヤン・ファーブルの芝居づくりもその形態を取っている。
でも常住のマネージメント・ディレクターを抱えているし、最初募集した中からこれはと思った女優は今でも出演している。
劇団というものは、なかなか経営の維持が大変だし、団員を抱えていると人間関係が厄介で、とかく問題が起こり易く、そこから内部分裂が始まることが多い。個人の意見というものは、本人が有名ならば、納得してそれに従う人も出てくるのでしょうが、強引に自分の意志を通すためにはこのプロデュース・システムがいいのかもしれない。
「かもめ・マシーン」という名前からは当然チェーホフの『かもめ」とハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』を思い起すことでしょう。
萩原氏の芝居への道は『かもめ』から始まったようです。それに“マシーン”を付けた理由は、その後ハイナー・ミュラーの影響があってのことのようです。そしてチェーホフとハイナー・ミュラーとの間には創作の上でひとつの繋がりを見い出せる。
「かもめ」は単に最初にやった脚本だからという理由だけでしょうか。そもそも最初にそれを選んだ理由、それに萩原氏が惹かれた理由があったのでしょう。それとハイナー・ミュラーの「マシーン」というもの。その繋がりが今度の萩原氏の『家族」という芝居の演出を観察すると理解できるような気がします。
チェーホフの四大戯曲の中でもこの最初の作品『かもめ』は同じ四幕仕立てですが、いちばん矛盾を抱え込んだ作品だと思います。そして同じシェークスピアの作品の中でも『ハムレット』は、よく読んでみるといちばん分かり憎い面を持っていますが、そこが似ています。
ハイナー・ミュラーが『ハムレット・マシーン』という作品をつくった理由がそこにあるのですが、萩原氏が「かもめ・マシーン」というプロジェクト・システムをつくって、今後彼の作品を上演して行こうとする意図がそこにあるようです。
次のブログで、この萩原雄太氏の「かもめ・マシーン」の特徴を、私なりに箇条書きに記してみます。
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