Saturday, October 31, 2009

かもめマシーン(12)

3)萩原氏の「かもめマシーン」


チェーホフの『かもめ』とハイナーミュラーの『ハムレットマシーン』との繋がりは、だいたい推測できたと思います。

が、果たしてそのような結びつきを考えた上で、萩原氏が「かもめマシーン」を自分の劇団名としたかどうか分かりません。

しかし、彼が上演した『家族』を観た限りでは、テキストを大切にしていると同時に、それを再現するにあたって、ハイナー・ミュラーやロバート・ウィルソンなどの手法を頭のどこかに置いていたように思われます。


ステージに配置する役者の幾何学的構図

舞台ぜんたいの方角的な使い方

断片化したセリフのやり取り

会話の論理的な進展と、突然の頓挫

沈黙の場の息使い

薄明の中に浮かぶ赤いランプの光

精神病者の言葉にならない声

ラジカセから聞こえる外部の音楽


『家族』は家庭劇ではあるが、家族間の交流は閉ざされていて、外界は空間的には遮断されているのに家族に死刑犯が生じたために、外界からの空気の圧力が強く、家族全員が死に隣接したいのちの淵に立たされている。

そのあたりがチェーホフの『かもめ』とハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン]がのぞく世界と共通したものがあるような気がします。


演劇は“実”から“虚”の世界へ踏み込むことですが、その踏み込む跳躍のエネルギーが演劇の歴史の上の世代によってそれぞれ違う。

1997年以降に演劇の世界に入った人たちは、それを軽やかに飛び越えているように見える。

それは虚の世界と実の世界が平面化したコンピュータ世代の特徴かとも思うが、サブカルチャーの動きのせいもあって、日本の風土がじかに身に付いて、芸術の「形式」において底辺から変革が行なわれつつあるような気がします。


最後に、前にも触れましたが、「集団」のつくり方が求められる時代になってきたように思います。それは、芝居づくりをする時の集団の力の配分と言ってもいいでしょう。演出についても、すでに独裁的な演出家の時代ではないような気がする。

もし天才的な演出家がいたとしても、一人の才能では間に合わないものが今は演劇に対して求められてきている。それは脚本、美術、映像、音楽のそれぞれが芝居の中心的な部分に入って来ることが要求されており、各部門がこれまでのような一人の演出家のスタッフとして協力すれば済む段階を越えてしまっている。

これまでの劇団づくりとスタッフへの依頼の時代から、緩やかな集団づくりと同時に、関連する学問、芸術分野の研究体制をこそ考慮すべき時代となったような気がします。

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