触覚から 空間へと 飛翔する イメージング
ゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる “現実の中の神話”
この作品は、平面→立体→現実空間→細分化 によって、日常の場そのものが
生体として動き始め、現実が即、神話であることを提示する。
構成・演出・美術 及川 廣信
出演=1場・3場 相良まゆみ
2場・4場 及川 廣信
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「 デッサンするとはどういうことだろう。どのようにして身につければいいのだろう。これは、感じられることとないうることとのあいだにある眼に見えぬ跌の気壁を通りぬけるような仕事なんだ。この壁を、どのようにして通りぬけるべきだろう。なぜといって、なぜといって、この壁をどんどんたたいてみたって、なんの役にもたたないんだからね。この壁にゆっくりと穴をあけ、やすりを使って、ゆっくりと、忍耐づよく通理り抜けなきゃならないんだという気がする(粟津則夫訳)-------- アントナン・アルトーが自らの『ヴァン・ゴッホ』に書き写した言葉である。」 (矢野静明「絵画以前の問いから ------ ファン・ゴッホ」書肆山田)
1場 ヴァン・ゴッホの “糸杉”
「 この流れ、この嘔吐、この長い帯状のもの、まさしくこういうもののなかで、火は燃え始める。さまざまな舌の火。産襦にある腹のように開かれた、密と砂糖の臓腑を持った、大地のきらめきのなかの、螺旋状に織りあげられたさまざまな舌の火。このやわらかい腹は、その淫猥な傷口をいっぱいにひろげて、あくびをする。だが、火は、その先端に言わば渇きの風抜き穴を持った、ねじれ灼熱した舌となって、上の方であくびをする。透明な水のなかの雲のようなこのねじれた火、そのかたわらには、1本の定規と何本かのまつ毛を描き出す光。そして大地は、いたるところで開かれて、乾き切ったさまざまな秘密を示している。秘密を表面として示している。大地とその神経、その先史的な孤独、原初的な地質学をそなえた大地、そこでは、世界のさまざまな面が、石炭のように黒いやみのなかで、むき出しになっている。----- 」
(アントナン・アルトー「芸術と死(力の跌床)」粟津則夫訳 筑摩書房)
2場 ジョン・ケージの “音の組織化”
「------ ある工学的な目的のためには、できるだけ静かな状況が必要とされる。こうした部屋は無響室と呼ばれており、六つの壁面が特別の素材でできた、反響のない部屋である。私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液の循環している音だ、と教えてくれた。私は死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。
しかし、こういう大胆な気持ちが生まれるのも、わかれ道に立って、音は意図し
ようとしまいと起こるということに気がつき、意図しない音の方へ向った場合にかぎられる。この転換は心理的なものであって、はじめは人間性に属するすべてを放棄すること------のようにも思える。この心理的な転換は自然界へとつながっており、そこでは、人間性と自然とが切り離されることなくこの世界で一緒に存在していること、すべてを奪われたとしても失うものは何もないということが、じょじょにあるいはとつぜん理解されるようになる。事実、すべてが獲得されているのだ。音楽について言えば、あらゆる音が、どのような組み合わせでも、またどのような連続性のなかでも起こりうる。(ジョン・ケージ『サイレンス』柿沼敏江訳 水声社)
3場 スキピオの “音の細密化”
「 ゴッホの色彩があれだけの固有色を用い、後世代の色彩絵画の可能性を切り開く役割を担ったものでありながら、死ぬまで無彩色の色のない世界を根本に据えていたのは、暗かった時代への郷愁によるのではなく、色彩のある世界と色彩のない世界を同等とみなす感覚、力あるものの世界を力なきものの世界から見返す視線をゴッホが捨てないからである。むろん色彩の力は肯定されていたが、そのことで無色の世界が否定されたわけではない。正確に語るなら、ゴッホのあの単色の強烈な色彩は、無彩色の暗い穴の底から出現しているのである。」
(矢野静明「絵画以前の問いから ------ ファン・ゴッホ」書肆山田)
4場 パォロ・ウッチェロの “大洪水”
「 君が、充分に手を加えたキャンバスに、君の二人の友と君自身を描いたとき、君はキャンヴァスのうえに、奇妙な綿毛のかげのごときものを残した。そして、私は、パォロ・ウッチェロ、天啓を受けることなき者よ、私はそのことのうちに、君の悔恨と君の苦しみを識別する。皺とは、パォロ・ウッチェロよ、紐だ。だが、髪の毛とは、舌なのだ。君の在る絵のうちに、パォロ・ウッチェロよ、私は、歯の燐光を帯びたかげのうちに、ひとつの舌の光を見た。まさしくこの舌を通して、君は、生命のないキャンバスのなかで、生き生きとした表現と結びついている。そして、まさしくこの点で、すっかりあごひげに包まれたウッチェロよ、私は君が、前もって私を理解し私を規定しているのを眼にしたのだ。君に幸いあれ、君は、深みに岩と土とで出来たような関心を抱いた。君は、生き生きとした毒のなかで生きるように、君の観念のなかで生きた。そしてこの観念の輪のなかを、永遠にめぐっている。そして私は奇跡をさずかった口の奥から私を呼ぶこの舌の光を、言わば導きの糸として、手探りで君を追いかけるのだ。深みへの岩と土とで出来た関心、この私には、あらゆる段階において、大地に欠けている。口を開き精神を絶えずおどろきに委ねながら行うこの低き世界への下降を、君は本当に推測したのか。物狂おしくくられる糸から発するように、この世と舌とからあらゆる方向に響くあの叫びを推測したのか。皺の長き忍耐こそ、君の早すぎる死から救い出したのだ。--------」
(アントナン・アルトー「芸術と死(毛のウッチェロ)」粟津則夫訳 筑摩書房)
及川廣信
及川廣信
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