『触覚から空間へと飛翔するイメージング』
ー 矢野作品からゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる “現実の中の神話” ー
この作品は、平面→立体→現実空間→細分化 によって、
日常の場そのものが
日常の場そのものが
生体として動き始め、現実が即、神話であることを提示する。
「 ----- 私には、こんどこそ、
まさしく今日のこの日に、
まさしく今、
この1947年2月というときに、
現実そのものが、
現実自体の神話が、神話的な現実そのものが、
とりこまれつつあるように思われるからだ。」
とりこまれつつあるように思われるからだ。」
(アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』粟津則夫訳 筑摩書房)
------------------------------------------------------------------
「ゴッホの色彩が、あれだけの固有色を用い、後世代の可能性を切り開く役割りを担ったものでありながら、死ぬまで無彩色の色のない世界を根本に据えていたのは、暗かった時代への郷愁によるのではなく、色彩のある世界と色彩のない世界を
同等とみなす感覚、力あるものの世界を力なき世界から見返す視線をゴッホが捨てなかったからである。むろん色彩の力は肯定されていたが、そのことで無色の世界が否定されたわけではない。正確に語るなら、ゴッホのあの単色の強烈な色彩は、無彩色の暗い穴の底から出現しているのである。」
(矢野静明『絵画以前の問いから ------- ファン・ゴッホ』(書肆山田)
1場 ゴッホの黒い「糸杉」は、明け方に動き出す
音 MORNING LIGHT
Stuart Dempster, solo trombone,
with nine other Trombonists
「 糸杉のことがしょっちゅう頭にあるが、何とか向日葵の絵のような作品
にしたいものだ。というのも、ぼくが見ているようにえがいた人がいない
のが不思議に思えるからだ。(ファン・ゴッホ)
サン・レミの糸杉は、ひまわりやクロー平原と同じようにゴッホを強く引きつけた。このようにして対象に出会った時、ゴッホの集中力は対象へと一気に向っていく。最初は麦畑やけし畑の彼方に遠く描かれていた糸杉が、やがて画面の中心に描かれるようになった。
糸杉の景色について「日の当たった風景のなかにある黒い班紋」と呼んでいる。強い陽射しを受けている糸杉の姿は明るい緑色ではなく、逆光を浴びた黒いかたまりのように立っている。渦巻きながらオベリスクのようなフォルムには、本人も後で驚いたほどの大量の絵具が使われた。画面上の絵の具は固く凝固した物質にすぎないのに、絵の具を強い筆触で塗り込めた画家の熱量が、そのまま物質に溶け込み、じかに見る者へと伝わってくるような迫力と重量感がある。」
(矢野静明『絵画以前の問いから ------- ファン・ゴッホ』(書肆山田)
2場 触覚が、色彩を呼び起こして “遠近法” をつくり出す
音 in a Landscape
John Cage
「 ----- 色彩と並んでタッチがそれほど大きな役割を担ったのは、タッチこそがゴッホの画面と彼の身体とを初めて一つに結びつける通路を開いたからである。タッチによって開かれた通路を通り、それまで潜在的なままであったゴッホの色彩や物質への感覚が画面へと押し出されていくことになる。色彩は色彩だけの変化ではなく、塗られた絵の具と一緒に、タッチ(筆触)というゴッホの新しく開かれた通路のなかで繰り返し生成し生まれていった。
それ以来、もはや後戻りのできない道に歩み出ていき、ずっと望み続けたミレーのような静謐さと安定とをゴッホは決して手に入れることはできなかった。自ら選び取り、自ら開いた感覚の扉は容赦なくゴッホの持っている感覚の全てを放出することを要求し続けたからである。----- 」
(矢野静明『絵画以前の問いから ------- ファン・ゴッホ』(書肆山田)
3場 “音の細密化” が “無音”と隣り合わせるとき
音 HörbareÖkosysteme
Scipio
「 君が、充分に手を加えたキャンバスに、君の二人の友と君自身を描いたとき、君は、キャンヴァスのうえに、奇妙な綿毛のかげのごときものを残した。そして、私は、パォロ・ウッチェロ、天啓を受けることなき者よ、私はそのことのうちに、君の悔恨と君の苦しみを識別する。皺とは、パォロ・ウッチェロよ、紐だ。だが、髪の毛とは、舌なのだ。君の在る絵のうちに、パォロ・ウッチェロよ、私は、歯の燐光を帯びたかげのうちに、ひとつの舌の光を見た。まさしくこの舌を通して、君は、生命のないキャンバスのなかで、生き生きとした表現と結びついている。そして、まさしくこの点で、すっかりあごひげに包まれたウッチェロよ、私は君が、前もって私を理解し私を規定しているのを眼にしたのだ。君に幸いあれ、君は、深みに岩と土とで出来たような関心を抱いた。君は、生き生きとした毒のなかで生きるように、君の観念のなかで生きた。そしてこの観念の輪のなかを、永遠にめぐっている。そして私は、奇跡をさずかった口の奥から私を呼ぶこの舌の光を、言わば導きの糸として、手探りで君を追いかけるのだ。深みへの岩と土とで出来た関心、この私には、あらゆる段階において、大地が欠けている。口を開き精神を絶えずおどろきに委ねながら行うこの低き世界への下降を、君は本当に推測したのか。物狂おしくくられる糸から発するように、この世と舌とからあらゆる方向に響くあの叫びを推測したのか。皺の長き忍耐こそ、君を早すぎる死から救い出したのだ。というのは、私は知っているのだ。君は、私自身と同様にがらんどうの精神をもって生れたのだ。--------」
(アントナン・アルトー『芸術と死ー「毛のウッチェロ」』粟津則夫訳 筑摩書房)
4場 その時、パォロ・ウッチェロの “大洪水” が起こるのだ
音 DIDJERILAYOVER
Stuart Dempster, solo JDBBBDJ
( John Diamond's Big Beautiful Brass Didjeridu)
「------ ある工学的な目的のためには、できるだけ静かな状況が必要とされる。こうした部屋は無響室と呼ばれており、六つの壁面が特別の素材でできた、反響のない部屋である。私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液の循環している音だ、と教えてくれた。私は死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。
しかし、こういう大胆な気持ちが生まれるのも、わかれ道に立って、音は意図し
ようとしまいと起こるということに気がつき、意図しない音の方へ向った場合にかぎられる。この転換は心理的なものであって、はじめは人間性に属するすべてを放棄すること------のようにも思える。この心理的な転換は自然界へとつながっており、そこでは、人間性と自然とが切り離されることなくこの世界で一緒に存在していること、すべてを奪われたとしても失うものは何もないということが、じょじょにあるいはとつぜん理解されるようになる。事実、すべてが獲得されているのだ。音楽について言えば、あらゆる音が、どのような組み合わせでも、またどのような連続性のなかでも起こりうる。
(ジョン・ケージ『サイレンス』柿沼敏江訳 水声社)
ラスト シーン
音 FURTWANGLER CONDUCTOR
R.WAGNER Lohhengrin
No comments:
Post a Comment