Sunday, July 29, 2007

内面の葛藤

“へび”と炎が噴出された姿として60年代を説明したが、制度的な、あるいは世代間の対立以外にも、その内面には様々な葛藤が含まれていた。1960年の池田内閣が掲げた「所得倍増計画」、'64年の「東京オリンピック」、'72年の田中角栄の「日本列島改造論」と日本ぜんたいをすっかり画一化してしまった現状からは推測できないことだろうが、それ以前の中央都市と地方との格差は、とくに東北地方から東京に住み込むばあい、なかなか入りきれぬ壁があったのだ。地方がもっている固有の文化は、維新以来じょじょに失われ、それに対して東京を中心に欧米の生活文化が積極的に取り入れられていたのだ。

そこに突然、土方巽が殴り込みをかけるように、東北・秋田の縄文文化の踊りを、これもまた縄文の匂いの濃いヒッピー風の横尾忠則のポスターを掲げて登場したのだから、人を驚かすのに十分だった。

それより以前、土方巽は1958年に安藤三子、堀内完ユニーク・バレエ研究所を退所した。生活が困窮し、舞踊家への夢も挫折し、尾羽うち枯らして故郷秋田県湯沢市に帰る。ところが半年も経たずに再起して上京、ヨネヤマ・ママコのところに内弟子として住み込め、1958年12月にヨネヤマ・ママコ振付けによる金田一京助の「ハンチキキ」(バレエ・パントマイム)に出演。だが、ママコのところも去り、翌年の1959年5月に全日本舞踊協会主催の「新人公演」に『禁色』(土方巽、大野慶人出演)を提出する。これが“舞踏”の出発となる。

Saturday, July 28, 2007

“へび”と炎

“ねじれ”が内側に向って深部に達したとき、そこには“へび”がとぐろを巻いている。また爆発寸前の炎が渦巻いている。このようなイメージは“神秘主義”の教義にあるが、じっさいには人間の内部も社会の動きも、そのような解釈で納得できる部分がある。
“へび”はエネルギーとスピーディなねじれ運動を暗示する。舞踏の中では笠井叡の踊りがそれに相応する。彼のばあい、姿勢(アチチュード)を主眼とし、跳躍をしないことを原則として出発した舞踏から個性的にはみ出さざるを得ない結果となり、現在では自分の踊りを“ダンス”と呼称している。

しかし、炎という意味では、土方巽の直系の弟子、石井満隆の踊りはそうだった。ここで「だった」と言わざるを得ないのは、彼はその後何段階かの変化、進展を経過し、もはや舞踏の枠内に留まれない部分もあるからだ。

また、時代的にいえば、1955年からはじまるいわゆる“55年体制”継続期間の、初期としての1950年代後半の時期は、“大人たち”の体制に抑えられていた若者たち(“怒れる若者たち”)が反逆の姿勢で立ち上がった時代である。それぞれタイプが違うが、三島由紀夫、石原慎太郎、土方巽などが青年として大人世界に対峙した時代である。そして、60年代はその炎が外に吹き荒れた時代で、さらに1967年の全共闘の激化から70年代に入っての赤軍派の浅間山荘事件があった1972年までの時期は、“へび”と炎が空間的に散乱した時代ということになろう。

Friday, July 27, 2007

“ねじれ”から姿勢へ

“ねじれ”は動きの現象であり、またその人の“在り方”としての姿勢(アチチュード)でもある。
これはキャラクターの類別とは違って、深部の本質的な特徴を表し、背骨を中心とした体の全体、あるいは部分的な方向性をベースに判断される。ユングの“タイプ論”は心理的な、内向性、外向性や思考/感覚/感情/直観の判断機能を基にしたものである。

脊柱を中心にして左右の“ねじれ”現象を持っている。あるいは背骨を真っ直ぐに立つ人、前後左右に傾く、また体のある部分を突き出す人。からだの各部分が分離している、または統一されている。これらによってその人の動きも変わるし、人間だけなく、時代も同じような傾向を持って動いているということである。それに心情的なものが絡む。“ねじれ”は右に廻るときは外部に拡大の方向へ、左に廻るときは内部の凝縮へと向う。

では真っ直ぐな自然な立ち方をする大野慶人のばあいはどうか。内面の精神的な緊張が欲しい時は、“濡れタオル”を両手で絞るように全身の筋肉を中心へと絞る。剣道の竹刀(しない)を持つときの姿勢である。そして脊柱の“気”が下部の仙骨の方に向うと色々なイマジネーションが湧き、頭部に昇ると意識が冴える。舞踏発足時の少年慶人の踊りは前者で、色彩まばゆい演技をしたが、最近の彼の踊りは後者で、あまり動かない“さび”の効いた禅的な踊りになっている。

Thursday, July 26, 2007

土方巽と“ねじり”

一口に舞踏と言っても、その表現の基底となっている“からだの在り方”は、土方巽、大野一雄、大野慶人、笠井叡、石井満隆のそれぞれが違っている。たとえば、舞踏の中心的な存在だった土方巽を例にとってみると、これは典型的な“しぼりの表現様式”が習慣的に固定してキャラクターにまでなっている。それは先ず“立ち方の構え”としては片方の足が前方を向いているとき、他方の足が爪先を内側にしてその前に置かれる。ここから“ねじれ”の方向に向おうとするのだが、胴体と頸、頭、また腕の“ねじれ”、さらに手首と指の“ねじれ”にまで及ぶ。またその上、この性向は空間的に膝を折り曲げての下への凝縮した押さえと、上部の天空への爪先立った拡張の表現が加わる。このイメージにぴったりするのが、ルネッサンスの古典形式から“ねじり”様式に転位するミケランジェロの彫刻である。

この分節した相互の肉体の反乱は、古典からバロックへ移動する際のマニエリスムの特徴で、1950年代後半から60年代の半ば過ぎまでのにも相応する時代特性だった。それが1967~69年の全共闘のピークの頃から70年代にかけては、身体自体から空間への広がりの中に散乱する、歌舞伎の世界にも似たバロック状態に入る。大駱駝艦が活動を開始する時代である。その様式はミケランジェロの晩期の、殆どバロック的な混乱を現す「最後の審判」を憶い起こさせる。

マニエリスムのもう一つの大きな特徴は、イコン=アイコンである。奥に潜む理念的なもの。寓意の働き。土方巽のばあい、“馬”がかれの理念であった。そのことを知ると、彼の踊りが理解できる。

Wednesday, July 25, 2007

土方巽のこと

先日、舞踏の土方巽のことを本にまとめるため、資料や関係者へのインタビューを求めて来日した、アメリカのMITの助教授・ブルースさんに会った。そのあと、間に立っていた橋本さんからメールがあり、当日聞いて分からなかった部分を問いただしてきたので、それを含めて土方巽の自分の感じている本質的な部分を数行にまとめてメールすることにした。

土方巽とは舞踏発足前後の1950年代後半と、1967年の草月ホールでのアルトー館公演『ゲスラー/テル群論』のときにのみ直接関わっただけで、あとは大野一雄・慶人親子を通じての間接的な間柄だった。だが、彼の没後、長い間を置いて元藤燁子さんから依頼を受けて、アスベスト館の“アイコン”という教室のプラグラム作成に参加し、また実際にクラスを持って教えもした。これは“アイコン”の後半期に当たり、約5年ほどの期間だった。ところが、事情があって突然アスベスト館を売却し、閉館する羽目になったのである。そして、これまでの繋がりからアスベストの最後のお別れ公演『江戸マンダラ』の演出を私が受け持つた、という経過も持つ。

元藤燁子夫人はアスベスト閉館後も、若い舞踏家たちとエネルギッシュに関西や富山まで飛び回っていたが、残念なことに銀座資生堂ビルの中の新しいホール開設記念での連続出演中に突然この世を去った。その5日ほど前電話があり、踊りのことを熱心に語って、ぜひ公演を観に来てください、と進められていた。前日、遅くまでウイスキーを飲み、そのまま床に就いたのが永遠の眠りとなった。