ケイのフルブライト給費生としての留学前の、日本での舞台歴を辿ってみよう。
1965年1月 グループVAV公演(朝日ホール)『傾斜の存在』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 武井 慧 三浦一壮 西森守・出演
1966年3月 アルトー館第1回公演(草月ホール)『爆弾』 河野典生・作 MJQ・曲 及川廣信・演出 及川廣信 後藤博道 武井 慧 高藤 翠 松岡園子・出演
1967年4月 アルトー館第2回公演(草月ホール)『ゲスラー・テル群論』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 土方 巽・主演 武井 慧 大野慶人 石井満隆 笠井 叡 大橋純一 三橋郁夫 吉村 修 城山忠正 堀 澄子・出演
その後、たぶん1968年に、ケイは渡米したのではないだろうか。
そしてジュリアード音楽院在学中の1969年に『ランチ」を発表したのである。つづく「ライトシリーズ」の活動の後、前述のように1977年に10年振りに来日公演を行なったのだが、その翌々年の1979年にも彼女は再度、来日公演を行なっている。これも同じく“ムービング アース”による「ライト シリーズ」の新作品だっ
た。それについての私の『肉体言語』の寸評も以下に紹介しておこう。
「彼女がまだアメリカに渡る前の、踊るモチーフは“怖れ”だった。
その頃の彼女は、小鳥が慌てて羽ばたくような、痙攣する踊りをしていた。しかし、他面、作品を作るときには、自分の内面をよく構図化して網を張り、その中で捕らえられた小鳥のように、怖れの戦きを小刻みに、ダイナミックに踊っていた。作品を客観化しながらも、踊り手の側の、主観がその頃は中心だった。
今度の公演を観て思うことは、彼女は自分も、周りと同じように客観化している。そのために作品は形而上的である。
生身の“怖れ”の生命がいつの間にか消え、物体との抵抗が失せて昇華するということは、アメリカの乾燥度なのか、モダン・ダンスの風土か、異国の独り暮らしのためか。」
ケイの素質とアメリカのダンスの流れとが少しづつ乖離しながらも、その後のミニマリズムやパフォーマンスの動きに取り残されることなく、第一線で自分の位置を保ちつづけて来たことは立派だ。
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