Wednesday, January 30, 2008

ポストモダン(2)

ここに『カニングハム 動き・リズム・空間』(石井洋二ほか訳 ジャックリーヌ・レッシャーヴ 新書館)という本がある。これはジャックリーヌ・レッシャーヴがマース・カニングハムにインタビューして纏めて本にしたものである。その中からマーサ・グレハムから分離してジョン・ケージとの共同作業に向うまでの状況を語っている部分を以下に引用しましょう。

「ー グラハムの周辺にはあいかわらず、閉鎖的な雰囲気があるような気がしてしようがありませんでした。彼女の作品そのものは決してそんなことはないのですが、彼女をとり巻く周囲の人たちにそういうところあったのだと思います。時とともにそういう雰囲気にも変化が生じたかもしれませんが、当時は非常に閉鎖的でした。もっとも(ドーリス・ハンフリーなど)他のモダン.ダンスのダンサーたちのところでも。似たりよったりだったのですが。ひとつのグループに属している以上、他の誰とであっても、何もできないというのが一種の暗黙の了解でした。私がクラシック・バレエの仕事をし始めた時、モダン・ダンスのダンサーたちの多くは、奇妙なことをするやつだと、ほとんど気違い扱いでした。もっとも私は、自分がクラシック・バレエの勉強をしてみたいという気持ちで始めたのですから、人が何を言おうと気にはしませんでしたけれど。
画家のグループと知りあいになり始めたちょうど同じころ、ジョン.ケージを介して音楽家たちとの往き来も始まりました。1944年に私たちが例の第一回目のコンサートを催した時、私たちを見にきてくれた観客は数の上ではもちろん少なかったのですが、その大半はこれらのアーティストたちだったのです。ダンサー仲間はほとんど来てくれず、たぶんグラハム舞踊団の何人かが見にきてくれていたと思うのですが、誰だったのかも思い出せません。いずれにしろはっきりと覚えていることは、新しい可能性の開拓に興味を持ってくれた、たくさんの画家や若い音楽家たちのことで、ダンサーたちは記憶の外なのです。ーーー いづれにしろ、私は自分の仕事を進めていけばいくだけ、モダン・ダンスの仲間とのあいだに距離を置くようになり、事実そうならざるをえなかったのです。」(訳 石井啓子)

カニングハムは、1946年にマーサ・グラハム舞踊団を去ることになる。その後、カニングハムとケージの2人は巡業に出かけるが、ノース・カロライナにあるブラック・マウンテン・カレッジの夏期講習会に招かれる。2人にとって、これが思いがけない幸運となった。そこに集結している、大勢の優れた前衛の画家、音楽家、詩人たちに出会うことができたからだ。
とくに、ジョン・ケージが企画したエリック・サティ=フェスティバルの『メドゥーサの罠』では尊敬するバックミンスター・フラーと関わることができたのである。この後の52年に再度招待された際には、画家のロバート・ラウシェンバーグと初めてそこで知り合い、その後のカニングハム舞踊団の協力者となる。
このブラック・マウンテン・カレッジは、芸術家たちに自由な場を与えていたので2人は計らずも実験の場を得たことになる。
また、そこに集まった詩人たちはブラック・マウンテン派を形成し、サンフランシスコ派のビート詩人たちと呼応して、時代の風潮を変えつつあった。
カニングハムにとってのブラック・マウンテンは、後のトリシャ・ブラウンやイヴンヌ・レイナーらのジャドソン・チャーチに匹敵する。

この時点では、もちろんポスト・モダンという名称は生じてはいない。しかし、ポストモダンダンスはこの時から芽生え始めていた、と思う。
カニングハムは踊りの技術を与えられたものとしてでなく、自分のからだで納得した上で動きをつくり出そうとし続けた。そして同時に、人間の感性をいかにして越えられるかを動物を対象に研究してもいた。また、コンピュータ技術が発達した80年代に入ったとき、誰よりも率先してそれを振り付けに応用したのはカニングハムだったのである。

ポストモダンダンスを語ろうとし、また自らを納得させるために歴史への解釈を辿ろうとしたのだが、カテゴリーの落とし穴に入る寸前にカニングハムとケージの息吹に触れ、思いをあらたにしている。ポストモダンダンスはスタイルや傾向ではないのだ。デリダがいう無意識のエネルギーがつくる“差延”の働きの交錯が、すでにこの時代に“脱構築”のポストモダンを準備していたのだ。

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