Tuesday, January 13, 2009

豊島重之(1)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 ー1ー
 
 これは昨年11月9日に観た作品のことなのだから、今になってブログに書き込むなんて、おかしなことなのですが。
でも、これについてはすでに、公演あとに5日間に亘って書き済みで、「下書き」として保管してありました。しかし、
いろいろ考え過ぎて、そのままの状態で放って置きながら、何時も頭のどこかで気になっておりました。
 それが年末になって突然、高沢利栄さんから電話がありました。「いま、豊島重之といっしょに東京に出て来ていますが、会えないでしょうか」。宇野邦一さんの台本の、勅使川原三郎のシアターXでの公演のための上京の翌日のことでした。

 突然のことだったが、早速新宿の中村屋のカフェで待ち合わせることになった。在京中のご子息も一緒に見えて、そのあと場所を新宿南口の駅ビルの中の店に移動して、ビールを飲みながら話がつづいたのです。
 豊島氏はつねに、時間と地域性に追い込まれ、つねに性急に問題の核心に迫って討論しがちなのですが、すべてが散発的な私との場合はそうも行かないようで、結局まとまりの付かない話になってしまうのです。

 今になってはもう、その時に何を話したのか分からなくなってしまった状態なのですが、永いこと接触が途絶えていた豊島氏が今どのあたりに居て、ものを考えているかが朧げに分かってきたような気もするのです。
 あの3日間の公演の内容と、演劇論の「アフタートーク」については、私は1日だけの参加だったので、正直なところ了解しかねている部分もあるのですが、自分としては、直観として何が目的であのように作品が布石されていたかは推測できた積もりでいたし、その後八戸から送って来られた3枚の新聞批評コピーを参考にしながら、私なりの、あの作品をベースにしての、作品批評ならぬ豊島論を、このブログにおいて何回かにわたって展開して行きたいと思います。

 今日は、その導入部になるのですが、先ずその解析的な方向性を示しておきましょう。
 豊島重之氏は、これまで精神医学の立場を軸に、言語学とフランスの現代思想を方法手段としてやってきたのですが、時代の流れを観るのに聡い彼としては、現在注目されている脳科学の最前線と量子力学の新たな発見に目を向けはじめています。  
 しかも、決定的なことは、脳と身体との対比から、こころの定義を脳と身体からも拡張して捉えるようになったことでしょう。
 それは、おそらくドーキンスの生態学的アプローチの影響によるのかもしれないが、たとえばドーキンスが蜘蛛の巣が蜘蛛にとってそのまま、こころの表れとしての生活様態だとするならば、人間にとっての言語を手段としたウェブの世界も、さらに動きと言語を手段とした演劇も即、“こころ”の様態だということができる訳です。

 そして、それはまた一方で、人間と環境との繋がりを行為によって展開してゆくアフォーダンス(環境が生体に対して行為の可能性を提供する)の文脈でもあるのです。ここにおいて、“こころ”は脳の中に閉ざされた段階から、身体各部の内蔵に分散され、しかも環境への繋がりの行為として延長されてゆく。しかも、宇宙の“波動”と“光”がそれに及ぶときどうなるかを提示しているのです。

 さらに、これまでの“装置”を中心にした現象学的な手法から、パサージュ(通路)から文脈的な構造に変容させた演劇の構造体において、また一つ、氏によってその中心的なものを探るために文脈に対して工作がなされ、問題が提起される。
 空間と時間とがねじ曲げられ、したがって幾何学と代数学とが分離される。その時、はじめてこころが、生命がどの位置に閉じこけれれているのかが判明される、という仕掛けになっている。
 このあたりを、詳細にというより、漫談的にというか、渉猟してみようというのが私のこのブログの狙いです。

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