「illumiole illuciole」
2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見
ー劇場空間が即、社会学の“場”なのだー
よく考えてみると、豊島重之氏のこの作品は、演劇形式をとりながら、動きとセリフが分離されて、また俳優が相互にドラマティックに絡み合うこともなく、各場面がそれぞれ切断されていて劇的誇張がない。
俳優の表現が、すべて日常的な行動の次元を土台にしているのです。
その上、流れのぜんたいの構成と、俳優の立つ位置の空間布置が、関係性を超えた一つの“磁場”をつくり出しています。テクストによる台本をベースにしているのではなく、構成と配置が演出によって操作されている。
俳優はそれぞれ、狭められた自由さの中で、その物質的な場と関わりながら、自然らしさを持って、“真実”を表出し、それが記録的な他者の口述と平行してすすめられて行く。
先に、スターリンに相応する役の俳優がステージの中央に屹立し、権力としての光を壁を背にした俳優に向って投射している、と表現しました。しかし、それは劇的な空間配置と、俳優の身体的な構え、読み上げられる文章のシンタックスから受ける意味性と、光の一方的な投射方法によって感じ取られた印象なのです。
もし、それを劇的な解釈を抜きにして客観的に観た場合には、スターリンに相応する役を演じた若い女性の秋山容子さんは、べつに厳めしい演技をしていたわけでもなく、普段着のまま普通に真っ直ぐ立って、相手を撮影するためにカメラを構えたポーズに過ぎないのです。
ということは、この作品は社会状況を“演劇空間”として捉えるギアツの社会学の方法とは、ちょうど逆の方向からの観察法なのです。つまり、演劇をテキストから分離させて、トポロジカルな配置において、現実の社会の中枢権力とメディアによって絡めとられた、限定された自由の状況を描きだすためにとられた、演劇空間を使用した社会学の“場”なのです。
「権力と自由」、あるいは「自由と平等」の関係が語られた段階から、ロールズの『正義論』を機に、“公正”としての意味での自由が討論され、それが人間の根源的な“こころ”の問題へと移行して行ったのです。
これらは「分析哲学」の言語による明晰化の動力方向性なのでしょうが、人間のモラル(徳)の“正義”、“愛(慈悲)“、あるいはギリシャ以来の哲学用語である“善”とか“真実”という概念が再検討されることになったのです。そして最終的には、これまで曖昧にされていた“神”と霊”の合一と分離、“心”と“精神”の区分けまでが論議されることにもなっているのです。
“自由”に対する制約を出来る限り取り除こうとするアメリカの1980年代以来の“新自由主義”と“グローバリゼーション”の破綻が見えてきた現在、改めて“自由“の問題が、その限界線において生命と絡んだかたちで捉え直されることになったのでしょう。
しかも、それはあくまでも現実的な政治的な尺度の上で語られなくてはいけないわけです。豊島氏がこの公演のチラシのコピーで「ーーー イメージの底をぶち抜いて、その形姿の根源に「微光」を掘削すること。そこには生ー政治学的な古層、いわば深海の発光体=イリュミオールがーーーーーー」と、「生ー政治学的な古層」という言葉を使用しているのは、そこから出ているのでしょう。
ちなみに、豊島氏のアーティストとしての政治的なスタンスはポストモダンの経過を踏んだ「差異の政治」の側にいると判断します。たとえば、サイード、スピヴァク、バトラーなどのような、“ポストコロニアル的な理性批判“を持ったアーティストだと思うのです。
日本にドイツからモダンダンスを移植した江口隆哉氏の下で、学校ダンスの制約に屈しなかった2人のダンサーがいます。ひとりは大野一雄氏で、もう一人は豊島重之氏の実姉の豊島和子さんだと、私は思うのです。モレキュラー シアターの俳優すべては、この和子さんのお弟子さんなのです。
豊島重之氏は仙台の東北大学の医学部の学生時代に、休みを利用して横浜の大野一雄氏のスタジオに稽古を受けに行ったことがあるそうです。あらかじめ電話をし、慶人さんが上星川の駅に出迎え、あの長い坂道を登って行ったということです。これも新宿で出合ったときの話です。
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