Wednesday, January 28, 2009

豊島重之(5)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
             ー人は健康をのぞむように、心の病から救われるべきなのだー

 “気“とは、宇宙が活動する電磁波のエネルギーと考えられれるし、身体自体も一塊の“エネルギー体”として捉えられ、スピリチュアルな面から見れば、“魂”を持った生物体なのだ。その“魂”が肉に浸透した状態を“魄”といい、2つを合わせて“魂魄(コンパク)”と称してきた。
 古代からの日本は、アニミズムの宗教観を持っている。外気、または自然の中にひそむ霊気(カミ)と通じ合う生き方で、意識の働きのまとまりとして“精神”は、“魂”とは別のものとして捉えられている。

 からだ全体の機能的な役割を考えたばあい、大脳は思考、感情、感覚、直観の判断機能の中でも特に思考の場所と考えられ、目は五感の中でぜんたいを統御するものであり、心臓は五臟六腑を統括する器官として考えられている。
 中国から伝えられた“養生学”では、五臟の中でも肝臓がは魂”、肺臓は“魄”、心臓は“精神”が宿る器官として捉えられてきた。脾臓はこのエネルギー体の中では、生命の力としての“意”の役割を担い、大脳の「志向性」と連れば「意志」、地からのエネルギーを結集した腎臓の「欲望」と結ばれて「意欲」となる。

 しかし、物事を便利にするために、このように特定の対象に部分的な役割を与え、機能的な解釈を行なうということは、より大切なものを見失うことにもなる、という事に気付きはじめたのである。
 大脳皮質の中の「運動野」「感覚野」に対しても同じことである。
 アルトーの「器官なき身体」からもいろいろな解釈の道が取り出され、それを逆転させたジジェクの「身体なき器官」という、今のウェブ時代を風刺する批評概念も生まれている。五線譜に書けないもの、共通のアプリケーションを超えた、個的な通路を求めはじめているのである。

 科学で未だ証明されていない霊性の世界は、われわれにとって未開発の分野であるが、それを直観だけで安易なヒーリングの道具として使うのは危険が伴う。
 心の病は、感情のコンプレックスから生じる。悪性の気の流れと、局所への凝結が原因と思われるが、原因が大脳だけの問題だとすることは間違いなのである。心は、内蔵の各器官にも分散しており、その上、自分をとりまく環境との関わりにおいてもつくられる。

 心の病を持つ人が、社会から、また家庭から分離されて一時的に治癒されたと見えても、社会状況が政治的に替えられず、その家庭での関係がそのままなら、病状はまた元に戻る。
 おそらく豊島氏は、理論だけの、経験のない、安易なユートピア的なセラピーやヒーリングに対しては、反対の立場に立つている。豊島重之氏の精神医師としての心情と構想が、この作品のなかに籠められている。

 生命の根である“意”への重視と社会に対する政治的な攻勢。氏のコピーの中に見られる「生ー政治学的な古層」という用語は、そのことを証すると同時に、フーコーの“エピステーメ“の世界を彷彿させる。


 この作品でいちばん思いがけなかったのは、ダンサー、田島千征さんの微笑みの演技でした。
 あれはこの作品の中でどういう意味があったのかが、この作品の意味を解く一つの鍵のような気もするのです。
 一見、その作られたような微笑みの演技は、田島さんの独創ではないようです。演出の豊島氏といろいろ2人でその表情術を試していたようですから。
 あれは“タオ”の「内笑微笑」に通ずるものです。それとは別に豊島氏が発想し、田島さんにひとつの目的のために提案されたのでしょうが、そこに至る経緯が推測されるのです。
 それには先ず、“タオ”の「内笑微笑」の方法から説明しておいた方が納得できると思いますので、以下にその仕法を順を追って説明致しましょう。
 
 まず、目の前の90㎝ほどのあたりに微笑みの対象のイメージを浮かべます。その結果、表情に表れた微笑みの気を“第三の目”である眉間のツボから吸い込むように下方へと、胸腺から心包(胸部の中心にある心臓センター)へと下方に降ろし、“微笑み”を吹きかけるようにしながら次々と各器官に移し換えてゆく。この心包から次の肺あたりが、狙いの効果の中心なのですが、体内の五臟からつづいて六腑、さらに大脳の各部と脊髄の各部の“腺“の上を、一つづづ進んで、最後に下丹田に収めるというやり方なのです。
 これは体内の臓器と腺に微笑みかけて、生活のストレスから生じた邪気をそこから脱ぎ払って、否定的なエネルギーを肯定的なエネルギーに変換しようとするもので、じっさいに大変効果のあるものと評価されています。

 ですが、豊島氏の意図で作品の中で演じられた田島さんの演技は、結果としてはこのタオの「内笑瞑想」の微笑みの手法と似ているのですが、それは豊島氏の精神医としての経験から産み出された独自の手法なのだと思います。
 つまり、患者の心の悩みを払底させるために、この方法が効果があるという、規定の治療法があってのことでなくいのです。患者の感情のコンプレックスを解くための方法を見出したという以前に、長年患者を診察していた間に築かれた人生哲学から生じたものだと思うのです。治療よりも患者の生き方の方が大事だという観点です。

 それと同時に、演劇は、とかく愛と憎しみとの、世情の混乱の中での葛藤を演じるのが常なのですが、この作品においては、それらの日常的な感情の次元を超越したかたちで各種の演技が提出されていますが、これも患者との診察経験の上から発想されたもののような気がするのです。
 その超越の標として“微笑み“が使われているのでしょうか。あるいは、メイエルホリドの消え行く生命に対比するものとして、あのような微笑みの場面が必要だったのでしょうか。

 医師は“仁徳”を先ず心がけなくてはいけないと言われます。ですが、患者の閉ざされたこころを開くのは“徳”のモラルだと気付いたのかもしれません。タオでもこの“徳”のモラルを引き出すために、心臓センターに“微笑み”で働きかけているのです。それにつづいて“同情”ではなく“共感”の心としての“慈悲”がその背後に潜んでいるような気配がするのです。それは愛憎の愛とは違って憎しみの方、排除や怒り、殺意と相対するするものです。

 “徳”とか“慈悲”とかの言葉は、儒教とか仏教の教えを思い出させるものですが、これらの概念を科学的に再考する必要があるのでしょう。
 要するに、「解剖学」を土台にした脳や内蔵を対象とした“形態学”の時代から、「分子生物学」を出発点とした“大脳科学”の時代に移行したということです。
 また、意識を“指向性”の側から捉えていることです。“微笑み”が感情を逆転させているように、“眼球の動き“が演出家の思考と構想を自由に転じさせているのです。
 豊島氏のばあい、バタイユの「眼球」がここで生かされているのです。
 

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