そのシンボルとして、芝居の初めから終りまで一言も語らず、居間として設定されたステージにしばしば登場しては、その中心にある陥没したソファにからだを沈めては黙り込むだけの人物の役が置かれていたのだろう。
芝居は当てもなく何かはっきりした対象、または概念を、というよりいろいろな関係性の中での明確な意味と価値を持つものを捜していた。それがミステリアスな雰囲気を纏っていた理由なのだろう。
この芝居は感情的なドラマを求めているのではない。しかし確実な存在感というより、ぼんやりとしたミステリアスな関係性の中に、命のひらめきが危うく消えかかっているのを感じる。
事物と表象の中間に置かれた身体の、その内側のもつれた感覚から生まれるイメージだけが実感として存在しているのだ。それこそが唯一支えられる触覚的な感性だ、というかのように。
私はここまで書いて、チラシに書かれた筋書きを始めて見る。それは以下の通りである。
その街では3年前に事件が起こった。たしかに、筋書きはそうなのだろう。それを今始めて明確に知る。また配役を見るといくつかの思い違いがあった。それほど表面的な事実というもは不確かなものなのだ。
幼女2人が殺害され、遺体は観覧車の下から見つかった。
未成年の犯人が逮捕されると、マスコミの報道は加熱したが、しばらくすれば人々はその事件を忘れ去った。裁判は進み、どうやら彼には死刑の判決が下るようだ。
家族は70年代に建築されたその街の団地にひっそりと住んでいる。
観覧車はもうそろそろリニューアルオープンされる。
判決が下るまでにはまだ時間がかかるらしい。
絵画が描かれる内容の主題より、色と形とそれらの混合した関係性で作り出されるものだが、それと同じようにこの芝居づくりの本当の狙いは、そのドラマを描く素材、その動きと語りの物質的な関係性のなかに、萩原雄太の創作の真の意図があるのではないかと思う。
私はそれだけをこの芝居の中に捜し求めていたのだ。
私は、ラカンがポーの小説を対象にして精神分析で読解した「盗まれた手紙」のように、この芝居に当たろうとしていたのかもしれない。
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