Tuesday, November 24, 2015

矢野作品のための演出メモ


   「触覚から空間へと飛翔するイメージング」
 
矢野作品からゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる現実の中の神話
 
    この作品は、平面立体現実空間細分化 によって、日常の場そのものが
     生体として動き始め、現実が即、神話であることを提示する。
 
      「 ----- 私には、こんどこそ、
     まさしく   今日のこの日に、 
   まさしく今、
   この1947年2月というときに、
   現実そのものが、
   現実自体の神話が、神話的な現実そのものが、
   とりこまれつつあるように思
   われるからだ。」
 (アントナン・アルトー「社会が自殺させた者」粟津則夫訳 筑摩書房)

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    及川廣信の <演出ノート>

 矢野さんの作品について、氏自身の説明を聞いているうちに、私のこころは、勝手にいろいろ幻想を呼び起こして行ったのです。その矢野さんの絵の、支持体としてのカンバスは、最初、一面に黒で塗り潰すことから始めた、というのです。その後、画面のちょうど真ん中に縦の線を入れたように、二の面を対立させ、筆の代わりに割り箸を使って、絵の具で色を点描しつづけ黒の地を埋めて行ったのです。カンバスの側面が黒く残存しているのはその証拠です。
 カンバス上に点描された色面のどこかが偶然に結ばれ、プロセスして行く中に、色価が浮上し、パサージュの経路がつくられている。また予定のサインとして口や△や十字の方向性などが小さく記されてもいる。氏はこれらの制作中、絵の具が渇いた時点で手で触れては、また仕事を進めてゆくというのです。
 画面が対立する抽象的な2面のうちに、アメリカの画家、バーネット・ニューマンの言うように、「理念的な作品」を狙っているのでしょうか、それともカントのいう「崇高美」を望んでいるのでしょうか。
 そこのところがもう一つ理解できないのですが、それよりも矢野さんのその制作プロセスについては大いに刺激されるところがあって、私はこの矢野さんの絵画と平行させ、絵筆(矢野氏のばあいは割り箸)の代わりに身体の通路を使って、自然界の中の物と生物との関わりを描いてみたいと思ったのです。東洋の身体メソッドを使用して。
 30年前のことですが、アルトー研究を通じて、豊島重之氏によって矢野氏との結びつきが出来たことを感謝するとともに、この試みが少しでも新たな価値を生み出すことを祈るのみです。


 第1場 “中(ちゅう)する” ということ
 
 “易経” に “中(ちゅう)する” という言葉が出て来ます。
 私が矢野さんのこのニューマンから受け継いだと思われる、カンバスの画面を2分し対立させた画面構成から、自然的に“陰陽”の対比を思わざるを得なかったのです。というのは、アルトーとの接触以来、アルトーが当時予測したものを、東洋の身体メソッドによって証明することを義務づけられた、と自認しているからです。
 “中(ちゅう)する”ということは、どういうことかというと、上の2分され対立する画面の間に通路を置いて、たとえば右サイドを開放的な意味を持つ“陽”とし、左サイドを凝縮した力を持つ“陰”とする。そして、その間を歩行するということは、この右サイドの“陽”と左サイドの“陰”から影響を受けざるを得ない、ということ。“易経” の“中(ちゅう)する”という意味は、自然の中に生かされているわれわれとしては、その時の周りの様相に的確な処置をとるべきだ、という事です。そして 、“中(ちゅう)する” という意味は、からだの中心線の重要さに対して、タオが “中(冲)脈” という言葉を使用するのと相通じるのです。

 からだの重要な中心線上に背柱があり、その中に脊髄が通っている。そこの造血機能を持つ赤色脊髄は、“元(原)気”を所有する腎臓の指示を受け、“血液細胞”を産出しているのですが、空海によると、そこは宇宙と合一する「アー」の音で、色彩は「黒」なのです。インドの古代語であるサンスクリット語の「ア」は否定の意味を表わし、「ア」が接頭語として付くと、その後に続くものを否定することになる。それ故に「アー」はすべての現象を否定して、その奥に隠れている宇宙の中の根源的なものと合体することになる。その絶対なる真理を「本不生」という。
 ここで、矢野さんが何故最初にカンバスに黒を塗ったか、の理由が釈明されるのです。その上、興味を持ったのは、矢野さんがゴッホの晩年の名作「黒い糸杉」のイメージを大切にしていることでした。
 
 私のダンス作品の第1場は、日本の着物の帯が左右に敷かれた間を “中(ちゅう)する”ように歩いて行く役を、ゴッホの「黒い糸杉」に演じてもらうことにしました。植物である「黒い糸杉」はなぜ歩いてゆくのか。それは悪魔が退散した夜明けの4時ごろに、その黒い糸杉が 憤怒のため“青黒く” 変じ、「蔵王権現」のように怒りをこめて歩き出すのは、なぜか。
 それは、人間の中心部である「植物性」が語る真実なので、ここにゲーテの 「葉」を“根源(ウル UR)” とする ”形態学”が絡んでくるのです。ゲーテの“根源(ウル UR)” なるものを代表する、植物の「葉」の意味するものは、果たして何なのか? それは「種子」のような時間的な起源とは違う。それを説明することに、大変な困難を要するのですが、植物が葉の葉脈を通じ化学的に自然との交流のバランスをとって生きてゆく、そのことが最初の易経が述べる “中(ちゅう)する” に相応するのでしょう。
 では、人間の中心部にある植物性としての「黒い糸杉」が、なぜ青黒く怒りを込めて明け方に歩き出すのか。それを説明するためには、密教の「金剛界マンダラ」と吉野の「修験道」との関係を、以下に語るほかないのです。

 修験道の聖地、吉野山蔵王堂に鎮座する蔵王権現は、恐ろしい神力を持つ。その怒りの形相と青黒い色で恐れられているが、この修験道独自の神も元を正せば、修験道と密教との深い繋がりによる「密教の構造とその教えの方法」に沿っているからです。
 そもそも密教の中心的な仏は、釈迦から大日如来に変更していますが、それは変更というより、人間的な釈迦から宇宙の中の太陽を象徴する大日如来に昇華したと考えるべきでしょうが、一方、釈迦と大日如来との関係は、キリスト教のキリストと神との関係に似ています。
 ただし、仏教の場合はそれより複雑で、仏身には次ぎの「三身」があるのです。つまり、釈迦が悟った真理が「大日如来」で、これは歴史的な人物というより「法・真理」なのです。ですから釈迦やキリストのように上から地上に「教え」のために応じて降りて来た「応身」ではなく、大日如来は「法身」なのです。そして仏身としてもう一人、阿弥陀さまがいます。阿弥陀さまは過去世において、この世の苦しんでいる人びとを救おうという願いをたてられた、その報いによって「報身」として加わったのです。
 
 しかし、この顥教の「三身」の考えは、密教になると大日如来の太陽のシンボルの下に、東西南北を支配する金剛界の四仏に代わります。即ち、東の阿閦(あしゅく)如来、西の阿弥陀如来、北の宝生如来、南の不空成就如来です。
 そして、この東の阿閦(あしゅく)如来は、けっして怒らないという誓いを立てた筈なのに青黒い顔をして、悪に対する「怒り」を表現しているのです。
 密教は語り出すとなかなか複雑なので、今、目前の問題に添うために端的に述べさせてもらいますが、前述の修験道で大日如来の代理として崇拝されている“蔵王権現”は、この“阿閦(あしゅく)如来”の変身なのです。
 この怒りというのは外部の悪に向うというより、本来は自分の心のなかの “貪”(どん、むさぼり)、“愼”(じん、憎しみ、いかり)、“痴”(ち、おろかさ)の「三悪」に向ってなのです。そして、本当は怒りと同時に、他人に対する暖かいゆとりもある心の、微笑みも同時に表わすべきなのです。
 人間のからだの中の“樹”を表わすものは、「枝葉」につながる肝臓のはたらきと、眼の演技です。そこから歌舞伎の演技が参考になります。しかし樹が歩くとなると、道元の「山が動く」の難問を考慮せざるを得ないのです。これは先の“中(ちゅう)する” に通じるものです。
 
 密教は、宇宙の原理と人間の実践修行の図を示すのに、胎蔵マンダラと金剛界マンダラの両マンダラを使用しています。この二つは対象的に解釈されていますが、歴史的には別々に創られたものです。胎蔵マンダラは“大日経を、金剛界マンダラは“金剛経”をそれぞれ教本としてつくられたものですが、胎蔵マンダラは「理」を、金剛界マンダラは「修行の実践」を意味しています。
 そして、この両マンダラを通じて密教の趣旨が理解されるのですが、教えを説く如来と、それを聴く菩薩は表面的には地位が違うように見えますが、実は聞いている当人が説いている如来そのものでもある、という逆説が仕込まれてもいます。
 顯教の禅宗では釈迦の両脇侍として扱われていた文殊菩薩と普賢菩薩が、大日如来の代理を務めたり、鬼神としての金剛薩埵(さった)が普賢菩薩と同体になるだけでなく、金剛手や金剛薩埵(さった)のような鬼神も、大日如来の役割りを演じることにもなるのです。そして、空海はとくに鬼神の不動明王を重要視し、大日如来の代理として捉えてもいたのです。このあたりに密教解釈の難しさと奥の深さがあるようです。
 

 第2場 “ゆったりと、ただ無心で ” 行為する → 色価の顕われ

 John Cage in a Landscape に対する私の関心は、最初にそれを初めて聞いたときから始まったのです。これがあのジョン・ケージの曲なのか? という驚きからそれは始まったのです。
 日本の音楽は浄瑠璃を初めとする「語り物」を土台にしています。義太夫、清元、常磐津など、すべてがそうす。そのことで「歌舞伎」は舞踊と演劇とが融合して、多幕物も演じれることが出来たのですが、オペラは別として西洋の器楽曲は、すべて純粋音楽です。演劇的、あるいは日常的行為に適合する曲は見当たりません。実験的な「シアターピース」は別でしょうが。
 唯一、エリック・サティの「家具の音楽」だけが、純粋音楽から抜け出していますが、人間の行為には適合しません。そして作曲家の根本忍氏の説明では、この「in a Landscape 」を作曲した当時、ケージはこのエリック・サティに興味を抱いていたということですが、果たして、この「in a
Landscape 」のCDの中に組み込まれている in a Landscape 以外の他の曲は、サティの作曲法に似ているのです。しかし、この in a Landscape   だけが違うのです。
 当時のケージはダンスや演劇のからだの動きに対して興味を抱いていたようですが、一方、発明家だった父が抱いていた独特な考えに影響されていて、「熟睡したときに、一番いい仕事ができるし、アイデアがほしければ何か退屈なことをしたらいい」という父の考えに影響されてもいたようです。 
 そのためか、ダンスでも演劇でもない、その中間にあるパフォーマンス的な行為に関心を持っようになり、カニングハムと協同で仕事をするようになったのでしょう。

 ついでに、根本氏に1950年代初頭までのケージの作品について訊いてみましたところ、以下の返答を得ました。

・単一原理で作品を統合するという発想
・構造と形式の二項対立
・自由の要素

 を基本的な特徴としており、更に1940年代後半の「プリペアド・ピアノ」(シヴィラ・フォート振付によるダンス作品のために発案したのが最初)の時代において、

・作曲前に予め作品内で使う(少ない)音素材(「ギャマット」)を規定しておく
・予め決定された時間的構造/リズム構造内にこれらを嵌め込む
・予め配列した時間枠 を響きのダイナミズムで満たしていく

 といった手法が中心となり、1940年代後半は前述の「時間枠が虚ろな反復で覆われたり、沈黙で埋める傾向が顕著」になっていきます。グリフィスは「あたかも自分の発明したリズム構造に基づく作曲法が本質的に受動的なものであることをケージが故意に暴露しているかのよう」だと評しています。 
 例の〈In a Landscape〉もこの時期に書かれたものです。

 この〈In a Landscape〉を書いたのち、完全な「沈黙期間」に入ります。
つまり「書けなくなっていた(=行き詰っていた)時期」なのかも知れないと個人的には思います。
 この沈黙の後、1951年、作曲プロセスへの「易」の導入を経て、19511952年の「偶然性」の導入(アルトーのテクストによる〈シアター・ピース〉や〈4'33"〉等)という「急展開」から、漸く作曲家としても認知されるようになっていく訳です。」

 と述べられていて、そしてだれも音楽の専門家の間ではこの in a Landscape を問題視していなかった、というこですが。
  しかし、私はこの in a Landscape の中に、専門家に笑われるかも知れないのですが「フーガ」の匂いを感じるのです。
 以下に、ケージの当時の「不確定性」のテーマを下に講演した内容の1部を掲載します。
 「これは演奏にかんして不確定な作品についての講演である。カールハインツ・シュトックハウゼンの<ピアノ曲集十一番」>が、その一例であり、ヨハン・セバスチャン・バッハの<フーガの技法>も例としてあげられる。
 <フーガの技法>では、全体の部分への分割である構造や、音から音への手順である方法、表現内容であり、継続の形態である形式のすべてが確定している。素材の振動数や持続という特性もまた、確定されている。音色や振幅という特性は指定されていないため、不確定である。
 
 この不確定が、<フーガの技法>の個互の演奏に特有の倍音構造やデシベル度を生む可能性をもたらすのである。<ピアノ曲集十一番」>の場合、素材のすべての特性は確定されており、また音から音への手順、すなわち方法も確定されている。全体の部分への分割、すなわち構造も確定している。しかし、これらの順序は不確定であり、演奏のたびごとに、特有の形式、すなわち特有の継続の形態、特有の表現内容を生む可能性をもたらしている。 
 <フーガの技法>の場合、演奏家の機能は、与えられた輪郭に誰かが塗り絵をするのになぞららえることができる。演奏家がこれを、きちんと分析しうるような組織化された方法で行なうことができる。(アーノルト・シェ=ーンベルクとアントン・ヴェーベルンによる編曲は、今世紀にふさわしい例となっている。)
 
 塗り絵師の機能はまた、意識的に組織されていない(したがって分析されえない)やり方で果たすこともできる。つまり、自我の命令にしたがって、手探りで気ままに行うこともできようし、自動速記におけるように潜在的な精神の命令にしたがい、自己の精神の構造に照らしながら内部に向かい、夢の地点にまで入りこむことによって、おおかれすくなかれ無意識的に行うこともできるのである。
 あるいはユングの精神分析における集合的無意識の地点にまで入りこんで、種の性向にしたがい、人類にとっておおかれすくなかれ何らかの普遍的な利害となりうることを行うこともできよう。また、インドの精神修養である「深き眠り」----マイスター・エックハルトのいう根底-----にまで没入し、何であれたまたま起こる事態と一体化することもできるだろう。演奏家もまた塗り絵師の機能を気ままに果たすことができる。
 
 つまり、自分の好みにしたがって、自分の精神の構造に照らしながら外部に向って感覚による認識の地点に至るのである。あるいは、自分の精神の外部の作用を用いることによって、おおかれすくなかれ無意識的にこの機能を果たすこともできよう。つまり乱数表を用いて確率にたいする科学的関心にしたがったり、チャンス・オペレーションを用いて何であれたまたま起こる事態と一体化するのである。」ジョン・ケージ『サイレンス』(柿沼敏江訳
水声社)
  ここに書かれていることが、それとも、たまたまか私がこの第2場でやろうとしてい二筋の日本の帯の中間を渉りながら、偶然的に遭遇する私のからだの部分と帯の部分とが繋がることによって、どのように色価が変化するかの現象の顕われを、ゴッホが描いた「ひまわり」の絵の色価の問題と照合させようとする意図があるのです。
 
 光は見ることと関係している。光がないと見ることが出来ないし、色も生じない。色彩は、表面的な感覚だけでなく、内的な意味と価値を持っている。そして向こう側の神秘世界と、日常の現実世界と、その間の境界の色が夫々異なる。そしてしの三つを繋ぐ緑の紐とそれらを覆う青色の段階がこの3場では重視されている。
 そして、帯が持つ色彩との関わりの“パサージュ”と“プロセス”においては、「偶然性」と方向性の「十字」、また四角の安定性とそれを対角線で分解した八つの三角形を巡る「分子状の働き」が注意される。
 
 また各人の価値(ヴァルール)も、その細部を見る力(光)が自分にあって、自覚することができ、他人に見る力(光)があってその価値が認められる。
 内部に向う光りというのは、自己反省も含まれるが、第1場の「三悪」のばあいも、この反省の光りで細分化され溶けることもできるのである。仏教と神道はその力を持っているので、われわれはそれを誇りとすべきだ。
 “光”というものが、このように象徴化されるが、本当は、物理的に現在、電子顕微鏡で原子の状態を静止状態を超えて,動く状態まで見ることができるのだ、それは強烈な光りをそれに当てる技術が発明されたからです。

 この世とあの世の色。その境界線と飛び地の色。それらを結ぶ緑の色。総合する青い色。これらは理念でなく、糸と唇と舌が織物につながるのですが、縦糸はスートラ、横糸はタントラです。ここで太陽と大地と中空の気の関係を探るのですが、密教と繋がる修験の道でもあるのです。






ICANOF主催 八戸市美術館 矢野静明 ー 種指 enclave


     『触覚から空間へと飛翔するイメージング』

矢野作品からゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる現実の中の神話

     この作品は、平面立体現実空間細分化 によって、
      日常の場そのものが
        生体として動き始め、現実が即、神話であることを提示する。
 
       「 ----- 私には、こんどこそ、
     まさしく今日のこの日に、 
   まさしく今、
   この1947年2月というときに、
   現実そのものが、
   現実自体の神話が、神話的な現実そのものが、
   とりこまれつつあるように思われるからだ。」
   (アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』粟津則夫訳 筑摩書房)

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 「ゴッホの色彩が、あれだけの固有色を用い、後世代の可能性を切り開く役割りを担ったものでありながら、死ぬまで無彩色の色のない世界を根本に据えていたのは、暗かった時代への郷愁によるのではなく、色彩のある世界と色彩のない世界を
同等とみなす感覚、力あるものの世界を力なき世界から見返す視線をゴッホが捨てなかったからである。むろん色彩の力は肯定されていたが、そのことで無色の世界が否定されたわけではない。正確に語るなら、ゴッホのあの単色の強烈な色彩は、無彩色の暗い穴の底から出現しているのである。」
   (矢野静明『絵画以前の問いから ------- ファン・ゴッホ』(書肆山田)


 1場 ゴッホの黒い「糸杉」は、明け方に動き出す
             音 MORNING  LIGHT
                                             Stuart Dempster, solo trombone,
                                             with nine other Trombonists

                「 糸杉のことがしょっちゅう頭にあるが、何とか向日葵の絵のような作品
    にしたいものだ。というのも、ぼくが見ているようにえがいた人がいない
    のが不思議に思えるからだ。(ファン・ゴッホ)
 
 サン・レミの糸杉は、ひまわりやクロー平原と同じようにゴッホを強く引きつけた。このようにして対象に出会った時、ゴッホの集中力は対象へと一気に向っていく。最初は麦畑やけし畑の彼方に遠く描かれていた糸杉が、やがて画面の中心に描かれるようになった。
 糸杉の景色について「日の当たった風景のなかにある黒い班紋」と呼んでいる。強い陽射しを受けている糸杉の姿は明るい緑色ではなく、逆光を浴びた黒いかたまりのように立っている。渦巻きながらオベリスクのようなフォルムには、本人も後で驚いたほどの大量の絵具が使われた。画面上の絵の具は固く凝固した物質にすぎないのに、絵の具を強い筆触で塗り込めた画家の熱量が、そのまま物質に溶け込み、じかに見る者へと伝わってくるような迫力と重量感がある。」
    (矢野静明『絵画以前の問いから ------- ファン・ゴッホ』(書肆山田)



 2場 触覚が、色彩を呼び起こして “遠近法” をつくり出す
                                                           音 in a Landscape
                                                    John Cage 

  「 ----- 色彩と並んでタッチがそれほど大きな役割を担ったのは、タッチこそがゴッホの画面と彼の身体とを初めて一つに結びつける通路を開いたからである。タッチによって開かれた通路を通り、それまで潜在的なままであったゴッホの色彩や物質への感覚が画面へと押し出されていくことになる。色彩は色彩だけの変化ではなく、塗られた絵の具と一緒に、タッチ(筆触)というゴッホの新しく開かれた通路のなかで繰り返し生成し生まれていった。
 それ以来、もはや後戻りのできない道に歩み出ていき、ずっと望み続けたミレーのような静謐さと安定とをゴッホは決して手に入れることはできなかった。自ら選び取り、自ら開いた感覚の扉は容赦なくゴッホの持っている感覚の全てを放出することを要求し続けたからである。----- 」
      (矢野静明『絵画以前の問いから ------- ファン・ゴッホ』(書肆山田)
       

 3場  “音の細密化” が “無音”と隣り合わせるとき
                                                音 HörbareÖkosysteme
                  Scipio

「  君が、充分に手を加えたキャンバスに、君の二人の友と君自身を描いたとき、君は、キャンヴァスのうえに、奇妙な綿毛のかげのごときものを残した。そして、私は、パォロ・ウッチェロ、天啓を受けることなき者よ、私はそのことのうちに、君の悔恨と君の苦しみを識別する。皺とは、パォロ・ウッチェロよ、紐だ。だが、髪の毛とは、舌なのだ。君の在る絵のうちに、パォロ・ウッチェロよ、私は、歯の燐光を帯びたかげのうちに、ひとつの舌の光を見た。まさしくこの舌を通して、君は、生命のないキャンバスのなかで、生き生きとした表現と結びついている。そして、まさしくこの点で、すっかりあごひげに包まれたウッチェロよ、私は君が、前もって私を理解し私を規定しているのを眼にしたのだ。君に幸いあれ、君は、深みに岩と土とで出来たような関心を抱いた。君は、生き生きとした毒のなかで生きるように、君の観念のなかで生きた。そしてこの観念の輪のなかを、永遠にめぐっている。そして私は、奇跡をさずかった口の奥から私を呼ぶこの舌の光を、言わば導きの糸として、手探りで君を追いかけるのだ。深みへの岩と土とで出来た関心、この私には、あらゆる段階において、大地が欠けている。口を開き精神を絶えずおどろきに委ねながら行うこの低き世界への下降を、君は本当に推測したのか。物狂おしくくられる糸から発するように、この世と舌とからあらゆる方向に響くあの叫びを推測したのか。皺の長き忍耐こそ、君を早すぎる死から救い出したのだ。というのは、私は知っているのだ。君は、私自身と同様にがらんどうの精神をもって生れたのだ。--------」 
 (アントナン・アルトー『芸術と死ー「毛のウッチェロ」』粟津則夫訳 筑摩書房)


 4場 その時、パォロ・ウッチェロの “大洪水” が起こるのだ
            音 DIDJERILAYOVER
                                          Stuart Dempster, solo JDBBBDJ
                                          ( John Diamond's Big Beautiful Brass Didjeridu)

「------ ある工学的な目的のためには、できるだけ静かな状況が必要とされる。こうした部屋は無響室と呼ばれており、六つの壁面が特別の素材でできた、反響のない部屋である。私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液の循環している音だ、と教えてくれた。私は死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。

 しかし、こういう大胆な気持ちが生まれるのも、わかれ道に立って、音は意図し
ようとしまいと起こるということに気がつき、意図しない音の方へ向った場合にかぎられる。この転換は心理的なものであって、はじめは人間性に属するすべてを放棄すること------のようにも思える。この心理的な転換は自然界へとつながっており、そこでは、人間性と自然とが切り離されることなくこの世界で一緒に存在していること、すべてを奪われたとしても失うものは何もないということが、じょじょにあるいはとつぜん理解されるようになる。事実、すべてが獲得されているのだ。音楽について言えば、あらゆる音が、どのような組み合わせでも、またどのような連続性のなかでも起こりうる。
         (ジョン・ケージ『サイレンス』柿沼敏江訳 水声社)
  
 ラスト シーン
           音 FURTWANGLER   CONDUCTOR
                                       R.WAGNER    Lohhengrin

台北大学での公演ために



    触覚から 空間へと 飛翔する イメージング
       ゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる現実の中の神話” 

     この作品は、平面立体現実空間細分化 によって、日常の場そのものが
       生体として動き始め、現実が即、神話であることを提示する。
                   構成・演出・美術  及川 廣信
                   出演=1場・3場  相良まゆみ
                                                            2場・4場   及川 廣信
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「 デッサンするとはどういうことだろう。どのようにして身につければいいのだろう。これは、感じられることとないうることとのあいだにある眼に見えぬ跌の気壁を通りぬけるような仕事なんだ。この壁を、どのようにして通りぬけるべきだろう。なぜといって、なぜといって、この壁をどんどんたたいてみたって、なんの役にもたたないんだからね。この壁にゆっくりと穴をあけ、やすりを使って、ゆっくりと、忍耐づよく通理り抜けなきゃならないんだという気がする(粟津則夫訳)-------- アントナン・アルトーが自らの『ヴァン・ゴッホ』に書き写した言葉である。」 (矢野静明「絵画以前の問いから ------ ファン・ゴッホ」書肆山田)
   
 
 1場 ヴァン・ゴッホの “糸杉”

「  この流れ、この嘔吐、この長い帯状のもの、まさしくこういうもののなかで、火は燃え始める。さまざまな舌の火。産襦にある腹のように開かれた、密と砂糖の臓腑を持った、大地のきらめきのなかの、螺旋状に織りあげられたさまざまな舌の火。このやわらかい腹は、その淫猥な傷口をいっぱいにひろげて、あくびをする。だが、火は、その先端に言わば渇きの風抜き穴を持った、ねじれ灼熱した舌となって、上の方であくびをする。透明な水のなかの雲のようなこのねじれた火、そのかたわらには、1本の定規と何本かのまつ毛を描き出す光。そして大地は、いたるところで開かれて、乾き切ったさまざまな秘密を示している。秘密を表面として示している。大地とその神経、その先史的な孤独、原初的な地質学をそなえた大地、そこでは、世界のさまざまな面が、石炭のように黒いやみのなかで、むき出しになっている。----- 」
   (アントナン・アルトー「芸術と死(力の跌床)」粟津則夫訳 筑摩書房)


 2場 ジョン・ケージの “音の組織化”

「------ ある工学的な目的のためには、できるだけ静かな状況が必要とされる。こうした部屋は無響室と呼ばれており、六つの壁面が特別の素材でできた、反響のない部屋である。私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液の循環している音だ、と教えてくれた。私は死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。

 しかし、こういう大胆な気持ちが生まれるのも、わかれ道に立って、音は意図し
ようとしまいと起こるということに気がつき、意図しない音の方へ向った場合にかぎられる。この転換は心理的なものであって、はじめは人間性に属するすべてを放棄すること------のようにも思える。この心理的な転換は自然界へとつながっており、そこでは、人間性と自然とが切り離されることなくこの世界で一緒に存在していること、すべてを奪われたとしても失うものは何もないということが、じょじょにあるいはとつぜん理解されるようになる。事実、すべてが獲得されているのだ。音楽について言えば、あらゆる音が、どのような組み合わせでも、またどのような連続性のなかでも起こりうる。(ジョン・ケージ『サイレンス』柿沼敏江訳 水声社)

 3場 スキピオの “音の細密化”

「 ゴッホの色彩があれだけの固有色を用い、後世代の色彩絵画の可能性を切り開く役割を担ったものでありながら、死ぬまで無彩色の色のない世界を根本に据えていたのは、暗かった時代への郷愁によるのではなく、色彩のある世界と色彩のない世界を同等とみなす感覚、力あるものの世界を力なきものの世界から見返す視線をゴッホが捨てないからである。むろん色彩の力は肯定されていたが、そのことで無色の世界が否定されたわけではない。正確に語るなら、ゴッホのあの単色の強烈な色彩は、無彩色の暗い穴の底から出現しているのである。」
   (矢野静明「絵画以前の問いから ------ ファン・ゴッホ」書肆山田)


 4場 パォロ・ウッチェロの “大洪水” 

「  君が、充分に手を加えたキャンバスに、君の二人の友と君自身を描いたとき、君はキャンヴァスのうえに、奇妙な綿毛のかげのごときものを残した。そして、私は、パォロ・ウッチェロ、天啓を受けることなき者よ、私はそのことのうちに、君の悔恨と君の苦しみを識別する。皺とは、パォロ・ウッチェロよ、紐だ。だが、髪の毛とは、舌なのだ。君の在る絵のうちに、パォロ・ウッチェロよ、私は、歯の燐光を帯びたかげのうちに、ひとつの舌の光を見た。まさしくこの舌を通して、君は、生命のないキャンバスのなかで、生き生きとした表現と結びついている。そして、まさしくこの点で、すっかりあごひげに包まれたウッチェロよ、私は君が、前もって私を理解し私を規定しているのを眼にしたのだ。君に幸いあれ、君は、深みに岩と土とで出来たような関心を抱いた。君は、生き生きとした毒のなかで生きるように、君の観念のなかで生きた。そしてこの観念の輪のなかを、永遠にめぐっている。そして私は奇跡をさずかった口の奥から私を呼ぶこの舌の光を、言わば導きの糸として、手探りで君を追いかけるのだ。深みへの岩と土とで出来た関心、この私には、あらゆる段階において、大地に欠けている。口を開き精神を絶えずおどろきに委ねながら行うこの低き世界への下降を、君は本当に推測したのか。物狂おしくくられる糸から発するように、この世と舌とからあらゆる方向に響くあの叫びを推測したのか。皺の長き忍耐こそ、君の早すぎる死から救い出したのだ。--------」 
 (アントナン・アルトー「芸術と死(毛のウッチェロ)」粟津則夫訳 筑摩書房)



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及川廣信

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及川廣信

Friday, October 30, 2015

ヒノエマタ フェス での池田さん



宮田さんに
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桧枝岐フェスの最初の頃の論客といえば、粉川哲夫、池田 一、浜田剛爾、鴻 英良、川仁宏、豊島重之、竹田賢一などでした。その中でも特異な人物は池田 一氏でした。司会は星野共か私か舟木日夫(高松次郎の同期で、その友人)のいづれかでした。何かある度にシンポジウムを開いていたのです。
池田氏は何しろボイス パフォーマンスをやっていただけに声は大きいし、発想が次々と浮かんで止むところがない、というタイプですからいちばんの曲者です。しかし、シンポジウムというものは、相当の論客でないと、どこかの大学教授だというだけでは話しが面白くならない。
その中でも、池田 一というのは論理的というより、パフォーマンス的な観点から自然とその中に生きる人間として、何がいちばん大切かということから、「水」とか「アー」という発声とかを、情熱的に語り、相手を納得させる術をもっています。

それに対して、私のばあいは理論的な語り口のようでいて、そうではなく、実はその奥に隠れた繋がりを見い出そうとする方法です。ですからこの2つを上手く繋げたばあい、常識的でない解決を得て、客は納得して帰れるわけですが、池田氏と会っていた当時とはもう30年近く経っているので、互いに相手が何を考えているのか検討がつかないのです。そして、2人の考えの接点を見い出せないと宮田さんも河合さんも纏めようがないのです。

でも、おそらく池田、及川の2人とも「自然と人間の関わり」をテーマに考えているような気がします。しかし、それに思うには、2人は多分、同じ方法でなく違った道筋を通っているのでしょう。そして、その2つの脈絡を通じさせることによって思いがけない視野を「開く」、展開への役割りが宮田さんと河合さんのやるべきことことでしょう。そう考えると、この私が最初の池田氏の提示に対して、どう次ぎの手を打つかで展開の様相も変わってくるでしょうし、受け手の私が下手すると収穫のないシンポに終わってしまうのです。でもこれを始めから決めたらば、国会の議会と同じでちっとも面白くない。
ですから、池田氏の出方を大体推測して、こちら側は、相手の出方によって変形可能な3通りの提案を用意しておいたら何とかなるだろう、と思うのです。
それで来週の頭までにこの3通りの提案を用意いたしますので、それをご検討下さい。

1)

私のパソコンは購入してからもう8年ほど経ちますので、もう限界にきているのです。でも、あきらめて今日1日密教関係の本を讀んで、自分の頭を整理して、昨日とは別の角度から池田一氏との対談に当たろうと思っていますし、折角の今度の宮田さん、河合さんの招待のこの機会に対して、有意義な成果を挙げるべく努力しようと心しております。

なぜ、空海の密教か、それは私個人の、現在の宗教的、芸術的立ち場でもあると同時に、ボイスやパイクに共鳴して、独立したパフォーマーとして出発した池田氏の立ち場は、最初から西洋向けに行動しているようですが、彼の基本的なアート観としては、この空海の“自然”に対する考えと殆ど同一なのだ、と確認したからです。

そういうことで、私が現在考えている事と、池田氏がボイスに次いでサンパウロ ビエンナーレにメインゲストとして招待された作品が制作されるまでのことを語り、当日のシンポジウムに少しでも役立つ資料にしたいと思っております。

先日の宮田さん、河合さんにお会いしたときは、突然「アビダルマ」や「唯識論」を語りはじめて当惑された、と思うのですが、そしてあの時の会話の限りでは、私が「唯識論」の立ち場に立っていると思われたでしょうが、決してそんなことはないのです。ただ、「唯識論」を否定するには、この「宇宙」の限界が証明されないかぎり出来ないわけで、それは今のところは、「ヨーガ(座禅)のやり過ぎだ」と反論する他ないのです。
そして、われわれの心と密接な関係を持つ身体があり、その外側に外界があることは、われわれが持つ身体感覚に依存する限り、外界の存在を知覚していることは科学的に確かなことなのですが、われわれは、あまりにも身体中心主義、また自分中心主義なため自分から離れて自然とか他者、他物を観ることができないのです。

自然というものを、その中にある自分から離して、それを自分のため利用すべき対称と観るか、あるいは親しむべき美しい対称物として観るかではなく、基本的に先ずこころを除外して、自分のからだと同列に他者、他物が在り、また自分の意識以外に地、水、火、風、空が存在し、それらも宇宙の中に平等に存在する。そして、人間はこの外界を「自然」と称するのですが、その自然の中に空海のように「いのち」を感じる人がいるのです。そして、「いのち」の発祥地は「水」だと感じ、さらに「大地」に棲むことによって「土」の重要さを知る。そして空海のように梵字の阿(ア)字の発音のように「アー」と宇宙に向って大声で発声すれば、万物に通じ、無限に豊かな世界を象徴することができる。

こう言ってしまえば、ごくあたり前のことを言っているだけに過ぎないのですが。
次ぎの空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中の一節をお讀みください。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終はりは冥(くら)し。」
これは空海の青年時の浮かばれなかった時期の暗い心境ですが、こんな暗さを味わった人だけが、後で上記の「いのち」とか「水」とか「大地」の生命力を、特別に感じ取る力を持つことができるのではないでしょうか。

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2)

ヒノエマタの第一回パフォーマンス フェスでの池田一氏のパフォーマンスは、正に「いのち」とか「水」の根原的なものを訴えるものでした。そしてハイデッカーの美学が、ゴッホの描いた農夫の靴のデッサンから農夫の生活を浮かばせると同時に、その靴底に付着している「土」こそが大地の重要性を語っている、と教えてくれたのですが、池田一氏のパフォーマンスは、それらに真っ正面から当たっていたのです。

奥会津の平家村である桧枝岐村には、村の中腹の小高い岡に公園らしいものがありました。そこをわれわれはメイン会場としていたのですが、その岡の麓には川が流れていました。会が始まって間もなく、公園にいる私たちの耳に池田氏の大きな発声の「アー」という声が下の川の方から聞こえてきたのです。われわれは思いがけない方角からのこの突然の声に驚き、急遽声がする川の方向に降りて行ったのです。と、川の中に立ち泳ぎで浮かんで、大きな眼鏡をかけた池田氏の顔が多少恥じらいを見せながら、子供のように手で水面をばしゃばしゃと叩いて飛沫させ、また大きな声で「アー」と発声し、周りの山々に“こだま”させたのです。それを観ているわれわれの何人かはゲラゲラと笑い、何人かは「何だこれは?」とその場で考え込んだのでした。

しかし、それにつづく池田氏のグループによる公園内での、全員泥にまみれた「朝食会」のパフォーマンスには、観る者すべてが眞に驚いてしまったのです。
それは池田氏を含めた男3人、女性が1人に、10歳ほどの男の子が1名加わっていました。服装は普段着ですが、衣服は勿論、顔から頭、首から手足から足先まで全て泥で塗りこめられていました。しかも泥まみれの地面の上のテーブルと椅子、食器類の全ても黒一色の泥に塗られているのです。まあ「どろんこ遊び」といえば、それまでですが、こうまで全員が目だけが光っていて、あらゆる行動が黒の一色に描かれているのは、正に初めて見る生きた絵画場面だったのです。実際の食べ物はなく、食事に関しては無対称の黙劇でした。ただある者は途中でテーブルから離れ、近くの樹に抱きついたり、芝生に寝転ぶ者もいたのですが、その時間はだいたい20分ぐらいだったのだろうか、それとも1時間ぐらいだったのだろうか、普通に体験する時間とはちがったので、みな唯呆然としてそれを周りから観ていて、時々意識を日常に取り戻した者はくすくすと笑うだけで、周りは異常な空気に満たされていました。
そして最後は、パフォーマーの全員がテーブルと椅子を担いで下の川に向かい、どんぶりと道具ごと川に跳び込み、しだいに泥が川の水の溶けて行って元の姿が露われるというところまでが、池田一氏の作品だったのです。いや、当時の池田氏は「作品」という形態を嫌って、それを「行為ーパフォーマンス」と称することを主張していた筈です。

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3)

翌年、1985年の第二回パフォーマンス フェスも8月の真夏だったと思うのですが、池田氏のパフォーマンスは2日目の昼過ぎだったような気がします。
私たちは今度は池田氏がどんなパフォーマンスを提出するか大いに期待していたのですが、本人にすればこの間、いろいろと思案を巡らせたことでしょう。

『生命の海<空海>』宮坂宥勝/梅原 猛という角川文庫本がありますが、この本の『生命の海』のタイトルが、たぶん池田氏の中心思想だと思うのです。しかし、ヒノエマタの公園下の川は「流れる」ので、そこで演じるものは“現象”となるのです。たぶん池田氏はこのパフォーマンスを原理的なものに仕上げたいと思っていたのでしょう。それで万物と共鳴するサンスクリット語の最初の「阿(a)」字の発音を選んだのですから。

それに、あの「泥の朝食会」はどうか、と考えた時、主体はやはり太陽圏を支配する太陽であるべきで、地球と月の圏の付属的問題ではない。これらをどう統一するか、そして「アー」によって統合させる人間の身体構造を何によって象徴すべきか。------たぶん、このとき、池田氏は「1本の管を手に持つこと」を考えたのではないでしょうか。食道管から排泄器管、それに准ずる血管と神経管。又それに准ずるリンパ管から脈管などを総合する脈絡器官をシンボル化したものとして。

このようにして、彼の発想は、具体的にインスタレーションされた。
横10m、縦5mほどの足首が埋まるほどの水の浅い矩形のプールを作ること。
1本の管を手にした池田氏が1人でそのプールに入って、発声または宇宙に向って演技する。池田氏のまわりのプールぜんたいが、ブルー色であること。
そして観る者は観客としてでなく、立ち合い人として、このプールと同じ高さの土の上に立ち取り囲むこと。

パフォーマンスは緊張の上にはじまり、池田氏の思惑通りの進んで行った。ところパフォーマンスの半ばにして突然、黒雲が現れ、あっという間に豪雨に襲われた。だが、誰独りとして声を発して、その場を去ろうという雰囲気ではなく、その豪雨に抵抗するのにいっぱいだった。もちろん池田氏は最後まで演じて終わった。が、ヴィデオカメラはその時の雨の侵入で、第2回目のフェスの映像は失われた。
しかし、この池田氏のパフォーマンスが先述のサンパウロビエンナーレにメイン ゲスト作品として推薦されたのだ。

池田氏の当時のパフォーマンス思想というのは、観ると観られるの固定された関係を強要する額縁の劇場を拒否し、理想的には自然の中で行うことであるが、観る、観られるの関係が、行うものと、それに立合うことによって参加者となるような関係を結べるような「スペース」を選ぶことが大切だったのです。

そして、やがてはイギリスの哲学者のオースティンの説である「パフォーマティヴ」に池田氏は共感する。「言語は相手を遂行させる働きを持つ」の「言語遂行」から「行為遂行」へと転換してゆくのだが、美術史の中でこの「パフォーマンス」の位置づけが曖昧になっていく分かれ道が、このあたりが原因なのかもしれない。
美術家がオブジェまたはインスタレーションに対して行為することが「パフォーマンス」である、という表面的な行為に目を向け過ぎたためなのか、また一方、哲学的にもこの「パフォーマティヴ」に対してはフランスの哲学者のデリダが立ち向うことになるのだが、結局いい結果を生まないまま終わってしまう。
ちょうどこの頃の時代とは、物と人間との間に機械やコンピュータが介在することから「行為」が「操作」に変じ、介在する機械またコンピュータに予め動く仕組みや回数などがプランニングとして「代数学」が投じられると、どうなるか。

その点では、池田氏のパフォーマンスは原理的なままで良かったのではないだろうか。
それはちょうど、形態学のゲーテの「根原(Ur ウア)」に近い、基本的な組織化の原型であって、曖昧な部分も含めた上での事を動かす重要な可能体でもあったのです。しかし池田氏のパフォーマンスと美術史との関係はどうなるのだろうか。
このあたりが論点の一つになるのかもしれません。


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4)

ちょうどわれわれがパフォーマンスを始めた80年代の当初というのはパソコンが本格的に開発された時期と合致し、また社会を透視するためのシステム論が確立した時期でもあったのです。具体的に言うと、それまでにも社会構造を組織化する意味でのシステム理論の社会学者としては、アメリカのパーソンズが存在していたのですが、かれのシステム論は純粋に分析的で機能的であり過ぎ、あまりにも複雑すぎたのです。
しかし、1980年代に入って突然、組織化の理論を好まぬルーマンという社会学者が現われ、一方、フランスに、これも理論的組織化を好まない実践的な社会学者のブルデューが対立していたのは時代の要請があったからなのでしょう。

それでは、ルーマンの社会学の特徴は、というと、それは人間の社会的様態というより、生物学の生理的原型を利用する方法だったのです。これは、もしかしたら前述したゲーテの形態学の「根原(Ur ウア)」からのヒントによるのかもしれませんが、その生物の生理学的特徴である「オートポイエティック(自己組織化的な)」コミュニケーションと、その逆方向の「自己自身への回帰性」のコミュニケーションでした。それをルーマンは南米チリの生理学者で認知科学を専門にするフランシス・ヴァレラの説から取り入れたのです。

では、それに対するブルデューの社会学の特徴は何か、というと、組織化の中の「分化」ということを問題にしたのです。この「分化」の時点で、それをコミュニケーションの共通問題として通過させるのと、個人の意志として切断する「実践的決意」を持つかで、つまりその人間の意志による「決断行為」によって、その後の状況は全く変わってくる、というわけです。
ここまで述べてきましたが、「行為」というものを、単に「物を動かす行為」、あるいは「インスタレーションに関わる」ことに留まった美術の上でのパフォーマンスは、ここで頓挫せざるを得なかったのでしょう。

その次の社会学上での大きな出来事といえば、1987年に朝日出版社から発行されたG・スペンサー=ブラウンの『形式の法則』で、これは大沢眞幸と宮台真司によって訳されたものだったのですが、世間に恐ろしいほどの反響を及ぼし、それ以来、代数学の採用が組織形成の基本となったほどです。
たとへば、音の編成でMax-mspがそれで、後には映像作家のためにはMax-mspーJitterが開発され、原音または原画に関心のある少数の音楽家あるいは映像作家以外の多くのアーティストは、幅広く利用できるソフトとして自由にそれらを使用したのです。
また、同時に構造主義の機能の意味での大きな改革として、「アルゴリズム」の用語を用いてこの方法を事業の上で、コンピュータ上でこの方法を大いに利用した。

1970年代に入って世界が最初に打撃を受けたのは、第一次の石油ショックでした。世界は慌ただしくその対策へ乗り出したのです。一方、都市は「闘争の60年代」からの脱皮を本能的にめざし、街のアート化と風俗のファッション化に向かい、日本では、正確には1974年の渋谷の“公園道り”の命名と、“パルコ”の開店からその風潮が始まったのですが、それは「ポスとモダンの時代」の始まりで、やがて80年代に入ってそれがピークとなり、80年代末には「バブル現象」がはじけ、おまけに80年代末から90年代にかけてソ連の共産圏が崩れてゆくのです。

日本はその後、90年代、ゼロ年代とつづく「空白の20年間」という恐ろしい時代に耐えざるを得なかったのですが、よく考えてみると、小泉内閣以来、アメリカの新資本主義の経済政策に巻き込まれていたのです。
『世界の99%を貧困にする経済』ジョゼフ・E・スティグリッツ の述べる世界的な「格差の時代」に入ったとすれば、今はもう、社会や政治どころか、世界の破滅に向かい出したこの資本主義経済をどうしたら救うことが出来るかの正しく「経済の時代」に入ったのだが、1975年からあの「湾岸戦争」が始まった頃までは、世は「社会学」が先端を切る時代だったのです。

そう思うと、あのG・スペンサー=ブラウンの『形式の法則』の2人の翻訳者であった大沢眞幸と宮台真司は、その後の日本を代表する社会学者としてどういう経過を辿ったかというと、大沢眞幸氏は「スペンサー=ブラウンからシステム論へ」ということで彼自身の『行為の代数学』や『戦後の思想空間』などの社会評論を出版しつづけており、一方の宮台真司氏は、G・スペンサー=ブラウンの『形式の法則』の翻訳後、この本の趣旨から外れ、日本独自のサブ カルチャーの世界に踏み込み、また当時流行した女子学生の援助交際の実情に実践的に当たって社会学的な意見を述べて、それなりにこの2人は夫々に社会学の先端として活躍して来たのですが、上記のヨーロッパのルーマンとブルデューの対比と、この日本の2人の学者の対比とが、どこか似ているようで、どこか違うように思われるのですが、どこがどう違うのでしょうか?


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5)

日本とヨーロッパとどこが違うか? 改めてそれを問うてみると、一つには、日本は他を追いかけているだけなのです。日本の最先端の哲学者たちは、あの「ニューアカ」以来、フランスの哲学物デリダを追い、その解釈に明け暮れていたのです。
なぜ日本の古代以来の文化の上で考えないのか?また明治維新以来、日本人は“小者”になり過ぎたのではないか? 自分というものを持つことを忘れたのではなかろうか。
しかし、風潮は、それ以前の東山文化を絶対なるものと見るところから始まっているのかもしれません。

前述した、ブルデューの社会学の特徴である「個人の意志として切断する実践的決意を持つ」ということは、金銭慾のため腑抜けになってしまった最近の日本人ではあまり例をみないが、数ヶ月前に起こったテレビ朝日系のニュース番組「報道ステーション」の報道現場の生放送で暴露されたメインキャスターである古館伊知郎と、本来は古舘のブレーンであるべき筈の元経産省官僚で現在古賀茂明政策ラボ代表である古賀茂明との生放送の現場で思わぬ争いの図が放送されたスキャンダルでした。

これは簡単にいうと、人も知るように古賀氏は、今の世に珍しく節を曲げない人物で、ブルデューが言うように「個人の意志として、切断する実践的決意を持つことが大事」なことを知っている、現代では珍しい人物なのです。それに対して最初この古賀氏に対して教えを受けていた古館が、最初の志と違って節を曲げて政府側に妥協しはじめている古館氏に対する古賀氏の現場でのクーデタだったのです。

易経に “中(ちゅう)する” という言葉があります。ふたたび先の池田一氏のパフォーマンスについて言っているのですが。
彼は場面の中央を進み、その結果、場面を二分し対立させる画面構成から、自然的に“陰陽”の対比を作らざるを得なかったのです。というのは、彼が自認し、当時予測したものを、東洋の身体メソッドによって証明することを義務づけられていた、と言えるかもしれません。
“中(ちゅう)する”ということは、どういうことかというと、上の二分されうる対立する画面の間に通路を置いて、たとえば右サイドを開放的な意味を持つ“陽”とし、左サイドを凝縮した力を持つ“陰”とする。そして、その間を歩行するということは、この右サイドの“陽”と左サイドの“陰”から影響を受けざるを得ない、ということです。“易経”の“中(ちゅう)する”という意味は、自然の中に生かされている我々としては、その時の周りの様相に的確な処置をとるということにほかなりません。

そして、“中(ちゅう)する” という意味は、からだの中心線の重要さに対して、タオが “中(冲)脈” という言葉を使用するのと相通じるのです。
からだの重要な中心線上に背柱があり、その中に脊髄が通っている。そこの造血機能を持つ赤色脊髄は、“元(原)気”を所有する腎臓の指示を受け、“血液細胞”を産出しているのですが、空海によると、そこは宇宙と合一する「アー」の音で、色彩は「黒」なのです。インドの古代語であるサンスクリット語の「ア」は否定の意味を表わし、「ア」が接頭語として付くと、その後に続くものを否定することになる。それ故に「アー」はすべての現象を否定して、その奥に隠れている宇宙の中の根源的なものと合体することになる。その絶対なる真理を「本不生」というのです。
あの沛然と、川の流れのように突然天から襲って来た豪雨は目の前を真っ白な幕で視界を封じ、耳も雨の音落ちる音で封じ籠められられ、誰も声を発し動きだすこともできなかったのです。ただ、その中央に立つ池田氏が発声する“阿(アー)”の音だけが「遠く、黒く」聞こえていたことを記憶しています。

空海の「声字実相義」については、先に紹介しました『生命の海<空海>』の第一部で宮坂さんが詳しく説明しています。また空海のことについても、同じ歴史の中での空海の経験についても、他の「空海」のどの本とも違って詳しく真実を突いています。というのは宮坂さんはインド古語のサンスクリット語の解釈から初めているからです。

私の今いちばん関心のあるのは空海の自然観で、その人間の身体中心でない、宇宙の中の他者、他物との平等な立場です。しかも宇宙は五大としての地・風・火・風・空の現象を起し、人間には“識”という、意識が残っているので、その解き放たれた自由な身体の動きで地・風・火・風・空からのイメージを表出できるのです。そして詩人はそれをからだでなく、ことばの音でやっているわけです。そしてこの表現はあまりにも多くのものを対称としているのでシンボル形式なのです。しかし能の場合は禅宗のため、からだの感覚的な自由さを奪い、動きを型に填めてしまったのです。

しかし、ここが大事なのですが、そもそも密教は「中観」の思想を生んだ智慧の“般若”から興っているので、仏の「五智」を大事にしているのです。そこが能面が四方の宇宙的現象を中心的に智慧で捉えて、自分のからだの感覚に振り廻されていない、というように面を使っているのです。ここは大事にすべき点なのです。

東山文化は「絶対なるもの」ではないのです。それは衰弱した南宗のすべてをこじんまりと纏めようとした文化のイミテーションに過ぎないので、なぜそのように固まったかという理由を調べると、それからの発展が出来るのが当然で、その東山文化の芸術を最高の典型とみることはそもそも大きな間違いなのです。

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6)

今日は、南米チリで、生物の自律した創造過程を想定し、師のマトゥラーナと討論の末、共にオートポイエーシス(自己組織化)の概念を提唱したフランシスコ・ヴァレラと仏教との関係につい語りたい。
私は南米の文学の隆盛は肌に感じていたのですが、チリと生物学、神経学、認知科学とは連結しがたかったのですが。
ヴァレラがアメリカのハーバード大学を出て、その優秀さに大学側からの申し出があったのを断って、アジェンデ社会主義政権の成立2日前にチリの大学に着き、その興奮のもとでの、師との“生命”に関する討論の結果得たもの、と説明されて、納得の糸口が見い出されてたのですが、チリという国は、南米の中でも特別に政変の激しい国のようです。

その後のチリは、軍事クーデターが起こるなど、危険は彼の身に迫り、結局チリから出国せざるを得ない状態に落ち入り、アメリカに渡ってコロラド大学やニューヨーク大学などで7年間を過し、チョギャム・トゥルンバなどと交流しているうちに、ナガールジュナ(龍樹)の中観派の「空」に興味を持ち、それなりの仏教の修行もし、その後パリに転居してからは、1988年から彼の死(肝臓ガンにより2001年に54歳で死去)まで、フランス最大の政府基礎研究機関である、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究部長を勤めた。その間にダライラマなど仏教徒との研究会議も行っている。
そして、彼の著書である、大乗仏教の「中観」の空論を薦める身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』は、一つの「行為論」の主張として、参考になります。

現在注目されている認識科学と、大乗仏教の教えとの間にどういう関係があるか。
それは「パフォーマンス=行為論』とした美術史が取り残した問題を認知科学の俎上に載せることによって、放り出されていた課題が突然現代の最前線の科学の
光を浴び、新しい意味で再び前面に引き出された感があるからです。
しかし、考えてみると、ゲーテが植物の「葉」を樹の“根原”として中心的に提出したばあいは、葉→枝→芽→花→葉という過程の中に「自己組織化」と「回帰性」の2つの定式を見るのですが、それに直接関わる要素のほかに、周囲の環境とか宇宙の知られざる影響の下にその「原型」の方式が行われているわけで、ゲーテ自身もそれを知った上で、それを称えていたのでしょう。

そして又、この樹に関する法則が、地球上のあらゆる生物の組織進展において同じように行われているだろうという無意識の思いがあって、それが人間が生活して編み出している社会の組織にも通用するだろう、という概念が確かに人びとの胸に浸透していたのです。それを「生命現象」としての原型として科学の上に実験し、発表したのがマトラーナとヴァレラで、さらにそれを社会学に利用したのがルーマンだったのです。
しかし、ここでその動きを生命的な「行為」としての「動力」に代行させ、予定されたオブジェまたはメカニズムを代数的計算の上に操作する、というのがこのルーマンからはじまる「システム論」なのです。

ところが、現代病として認知症が注目され,認知科学なるものが新たに考察されましたが、この認知と“ぼけ”と、認知と“非認知”との差が曖昧なのです。しかも科学上でも未知なる世界が充満する宇宙の要素が環境サイドから関係するとなると、その間に線を引かない限り計算できないわけです。
これは仏教の龍樹の「中観」の有るでもない、無いでもない「空」の世界にそのまま入ることになるのです。
ヴァレラのばあいは、それを「見えないが外に隠されて存在するもの」と捉えるよりも、座禅によって得た身体側から外に働く認知の働きを“エナクティブ”と称しているようですが、それは瞑想の結果得られる自律神経の働きにもあるし、また大乗仏教を支える般若経の般若(ちぇ)の働きとも取れ、それこそ言葉を必要としない、微笑みと、ちょっとした仕種だけで、自分の意を伝えることができる世界のことを言っているのです。
美術のパフォーマンスは、そんな大乗仏教の「中観」が考えるような思考を持つ筈はなかったわけで、物と行為を目に見えるリアリスティックな段階で考えていただけなのです。

しかし、ヴァレラの大乗仏教のこの捉え方には、私はあまり賛成できません。というのは、[中観」を称えたナガールジュナの“龍樹”は、密教の第一祖の“龍猛”と同一人物なのですが、インド密教から分離発生した独特なチベット密教の中でも、ダライ ラマが所属する無上ヨーガ タントラとインドから中国を経て、空海によって創られ日本独自の“眞言密教”とは根本的に違うものだからです。
ただ,パフォーマンスの“行為”という「キー概念」が、般若の“智慧”まで昇華されて捉えられるとは面白い現象ではあると思いますが。

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7)

池波正太郎の講談社文庫に『よい匂いのする一夜』という本があります。これが池波氏の本の中でも私が特別に好きな本で、寝る前に枕もとに置いてあるこの本を取り出してその中に掲載されているホテル、または宿屋の中からひとつ選んで眠る前に読むのを愉しみにしています。日光金谷ホテルとか、京都の俵屋とか、箱根のフ富士屋ホテルとか、今は果たしてどうなっているかわからない宿なども含んでおり、また、それが自分が泊まったことのあるものも未知のものもあるのですが、不思議儀に、どの個所を讀んでも「よい匂いのする一夜」に入ってゆくことができるのです。

「匂い」といえば、同じ講談社の文芸文庫の方に、白州正子の『お能 老木の花』という本がありますが、その中に「お香とお能」という章があって、次ぎような文章が書かれてあります。
「ーーー日本の香道も一つの道であるからには、かずかずの法はつねにつきまといます。その点、お能と同じほどの約束があるにはありますが、とどのつまり何をするかと言えば、[木片を火にくべる瞬間に芸術が成り立つ]それだけのことです。お香の場合、芸術そのものは形も色も音もないものによって表現されます。お香ほど抽象的なものはありません。
抽象的な香りの芸術をつくるうえに必要とする材料は、香木と火とあるのみです。香木はけっして目をよろこばせるに足るものではありません。火も日常私たちが見なれたものです。その見た目にはなんの感興もそそらないふたつのものが合するところにかなりの芸術は発します。そしてその存在は鼻で嗅ぐよりほかに知るすべもありません。」

私は池波正太郎の『よい匂いのする一夜』を読むとき、「よい匂い」を感じながら眠ることが出来るのは、池波正太郎氏の文章が「よい匂い」を感じさせるように状況を文で書いているからです。実際にまた、池波氏がその宿に泊まった時、「よい匂い」のするような宿のあり様で、万事に行きわたる、心地いい待遇だったのでしょう。
そして、白州正子氏は続いて次ぎの文章を書いています。
「 お能におけるシテは香木であります。
  シテ以外の部分は火であります。
  お能のシテが、シテを助ける背後のものとピタリと一致するときに、お能のか
 おりができあがるのです。その息もつけぬ微妙な瞬間は、芸術の歴史的字間であ
 ります。」

人間は五感の動物だが、とくに視覚と聴覚を中心にして生活している。その他の臭覚と味覚と触覚はそれに比較すると下位の働きをしているように見られる。とくに臭覚については犬、猫の段階の感覚と見られがちである。
しかし、これらの感覚は互いに隣接して、相通じ合っており、観音さまなどは、「音(うわさ)を観る」ほど感覚を過敏に、庶民の様態を注意して下さっている。日本の“香道”の人たちが「香りを聴く」のも、料理人が「味を見る」のも、それと同じなのでしょう。

ヨーロッパのローマ時代の演劇は、すでに失われているが、演技術は辛くも現代マイムの中に残存している。それが不思議なことに、精神分析のユングの名著『タイプ論』とほとんど同じ内容なのが驚きです。
確かにユングが開いた人間心理の内向性、外向性を土台にし、行動判断としては思考、感覚、感情,直観の4つ判断基準に分け、それに内向,外向の基本的な2つのタイプから見る判断から、人間を4×2の8つのタイプに分類した分類方法は、ローマ時代とは違う近代的な科学分類法だと思う。そして分類した結果の8つのタイプの特徴は、ローマの演劇術と同じである。しかし性格描写はローマの演劇術の方がより刻明である。
そして、これを知っていると、ダンサーのキャラクターなど直ぐ判明するだけでなく、その方法も推測が出来、結果としては、その踊られたダンスの中身があけすけに見えてしまい、そのマンネリズムな時代様相にうんざりもするのです。

もっと内密の関係を掘り起したようなダンスを見たいものだ、と長年の探索の後に探りあてたのがマンタクチャを先頭とする東洋のタオの研究でした。性格より深部の体質的な部分を。それこそ味や、匂いや,触覚などの、動物や虫や樹木に近い感覚組織の連合地帯を探ることができるのです。それによって何が判明されるのか。
それぞれの生物が持つ「原型」の、素材としての体質の可能性を掘り起こすこと。

また、日本の古代研究と山岳思想、神道,禅宗と武士道、空海の密教の夫々と、次ぎの A)〜F)の古代中国の歴史分析から始まる研究結果とを合わせ読むことです。

A) 紀元前5000年の易教の時代
B) 紀元前500年の孔子の時代
C) 紀元前2〜300年の老荘の時代
D) 紀元後2〜300年の道家の発生の時代
E)   紀元後700〜900年の唐の時代
F) 紀元後1100〜1276年の南宗時代


結局、今度のシンポジウムのためにこの4日間調べた結果を凝縮して、この章の後に付け加えようと思ったのですが、それは不可能で、結局この7)の文章をそのまま、4日前のままで送ることにします。それは何のための4日間だったのか、と今にして思うのですが、当日どこかで役に立つこともあるだろう、と自らを慰めているところです。

以上,及川

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8)

この間、仙台の教育大で里見教授が主催する「ワークショップ」がありました。ところが、青葉山の山中にあるその教室は、両サイドいっぱいの窓ガラスの両面が山の緑に覆われていて、それまで経験したことのない大いなる気の充満の中にあって、私は次ぎのような、初めての身体的秘密を知ることができました。
それは、先ずヨガと気功の身体に与える影響についてです。その実際的な経験から今日は身体の「精・気・神」の問題に入って行きたい、と思います。

私は偶然にも、その日のために「ヨーガ向けの音」と「木・火・土・金・水の五行のための、気功向けの音」を用意していたのですが、この教室のスピリチュアルな雰囲気に合わせて、さっそく17人の受講生を4組に分け、用意した「ヨーガ向けの音」で即興的に踊ってもらったのです。
その結果、各人の踊りはどうなったかというと、全てのダンサーは同じ組の他との関係を結ぶことを考えず、自分の個としての身体の筋肉の垂直的な緊張と天上に向ってのポーズに閉じこもり、同じ組の他との関わりを求めないのです。
つまり「ブラフマンという大宇宙(マクロ・コスモス)的視野から引きだされた原理と、アートマンという小宇宙(ミクロ・コスモス)的視野から引き出された原理とを垂直的に合一させる“精神性”に身を投じる感動に入って、他も己れも顧みないのです。
ヨーガが民間の身体修練からバラモン哲学の「サーンキヤ」と合一したために、このような、筋肉と骨による垂直指向が起こったのです。

次ぎに、今度は17人の受講生を「木・火・土・金・水」の5組に分け、用意した「五行のための気功向けの音」」で即興的に踊ってもらったのです。
ところが、こんどは身体内部の気の巡りを利用したいろいろな生理的感覚と感情表現が表出されると同時に、いっしょに踊っている他者との関わりにも注意を向け、それとの関係性の中に新しい解釈をつくって作品化し始めたのです。
その表現は「現象学的」なものも、「解釈学的」なものもありました。

「現象」ということを,西洋哲学の「現象学」以前の、インド哲学的な自然の現れの強さとして捉えるなら、クールベやバルテュスの絵を見るときの眼が必要とされますし、それを「解釈学」的に捉えるなら、より科学的に細分化した上での関係性を見い出すべきなのでしょう。

そして、これらの経験から、身体の原理として「精・気・神」の問題を、上体でそれを捉えると、胸の“神”はインドで、中腹の“気”は中国で、下腹部の“精”は、生命的エネルギーであると同時に、“大和魂”ともいわれる“肚”なのです。
日本人は「上・中.下の丹田」の中でも、歴史的にこの下丹田を特別にたいせつにしてきました。だから古典芸能はみな重心が下に下がりすぎているのです。


この前は、南宋と日本の鎌倉・室町の文化の関わりについて申しあげましたが、今日は、それに付属した歴史的な日本の思想的、文化的齟齬について、以下、簡略に問題点を提示します。

1 日本の場合は、仏教の理論が、西洋における哲学に相応するのですが、もっと龍樹(ナガールジュナ)の「中論」だけでなく、それ以前の「アビダルマ」に「般若経」、また、それ以後の「唯識論」と、「仏性論」を進化させた比叡山独自の「大覚思想」にも関心を持つべきではないでしょうか。

2 同じ禅宗でも、臨済宗は禅宗のことのみを論じ、仏教の歴史的な繋がりを重視しないのです。
しかし、道元系統の曹洞宗は、お釈迦様から始まり、浄土宗、浄土眞宗、日蓮宗、禅宗については勿論のこと、華厳経、密教までも一連のものとして仏教を語るのです。
というのは、曹洞宗は、密教の第一祖の龍猛が、先の「中論」の龍樹(ナガールジュナ)と同一人物であることを認識し、また、釈尊がちょうど西洋のキリストと同じように、人びとを教化するため地上に派遣された仏と解釈され、天空には太陽を象徴する大日如来(華厳経の“毘盧遮那仏(ビルシャナブツ)”から進展した)を中心に、四方を固めるためには、西方の阿弥陀如来を初めとして四如来が夫々位置することになった、それら仏教の歴史を包みこんでいるのです。

3 そして、もっとも大事なのは空海の『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』です。
空海の「アー は、頭骸骨と背骨で、黒。エー は、 臍で、白。イー は、腎臓で、赤。オーは、胸で、青。ウーは、鳩尾で、緑。」の説は、そのまま、ウランスの詩人、アルチュール ランボ−の「母音の詩」に通じるのです。
        参考文献:『空海の思想について』梅原 猛 講談社学術文庫

4 でも、空海は老荘のタオを道教と同一化していたのでしょうか。この紀元前400〜200の戦国時代の老子と荘子の教えはより現代的で、これからのわれわれの方向性にもっともヒントを与えてくれます。次に、老荘に関しての最良の参考書をご案内します。
        参考文献:『老子』金谷 治 講談社学術文庫
             『荘子』福永光司 中公新書

5 『易経』と仙骨との関係については、私なりの考えを持っていますが、これについて話すのは、後日に致します。

6 最後に、『論語』の現実的な効力の偉大さについては、その活用者である澁澤栄一の明治維新時の経済界建設の功績を思い起さざるを得ません。
        参考文献:『渋沢栄一の「論語講義」』平凡社新書

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9)

かって愛読した池波正太郎、藤沢周平、司馬遼太郎の3人の作家は、小説のほかにもその随筆は優れていて、その作家の特徴は随筆の上によく顕われていました。
池波正太郎の多面的な人生経験からは前述した“肚の坐った”その性格と、人の心理を憶測する才能に長けていて、一方、藤沢周平は東北の鶴岡から東京に移住しても、つねに東北の自然から離れず、都会にあってもその生活方法を変えない、というのは異常でした。さて、最後の司馬遼太郎のばあいですが、この作家の時によって報じる氏の意見には、多くの人は感心すると同時にその意見には肯んじない人もいる、という特異性を持っていました。

私はこの三人の特性を、日本人が持つ伝統的な特性だと思っているのですが、それは私の師である人類学者の山崎 清博士が生前にふっと語ってくれた2つことを今にして思いだすのです。山崎博士の言うことは、今にして思えば、常に真実を突いていたのです。
その2つの内の1つの「及川君、これからは小説より、随筆の時代になるね」は、この話しの前哨になるのですが、博士が専門の人類学に関することとして、民族学的に日本人は蒙古系であることを顔面の特徴から語ってくれたことでした。

そして、系列ということは日本民族より蒙古民族の方が旧く、根源である、ということです。これは、もう誰も口しなくなったが、大相撲の日本人の横綱はもう望み薄になったのではなかろうか、と不吉な予感もするのですが、日本人の特性としては、日本の最初の髄・唐との交流の時代は、髄も唐も一族で、これは日本の基本的な特性を築いたと思われますが、平安の“漢”からの影響の方は、後の本居宣長だけでなく、平安時代にしても、利口げな“漢ごころ”は拒否されていたのです。

では、次ぎに日本民族に徹底的に影響を与えた時代は何時かというと、それは蒙古襲来以前、蒙古の一族の“元”が中国を北方から侵略しはじめ、北宗を南に追い込んで上海以南に南宗として閉じ込めた際に、優れた中国の和尚が鎌倉などに移住し、その後2度に亘る“蒙古襲来”があったのですが、暴風のため危うくその難を逃れたという経験と、その後、南宗から儒教と禅を主体にした文化を導入したことが大きかった、と思います。

その後、南宗は元に吸収されるのですが、問題は中国の元だけでなく、モンゴルぜんたいの当時の世界の中での勢いでした。
というのは、西暦の13〜4世紀、モンゴル帝国はユーラシア世界、また北アフリカを含めたアフロ・ユーラシアを統合した時代でもあり、それはあの西洋歴史の近代を飾る“大航海時代”の100年ほど前の事なので、世界歴史的にみると歴史家杉山正明氏が言うように、正しく歴史の分水嶺に相応するものなのです。つまり、「モンゴル時代の前提の下に西洋が海の出て、グローバル時代が始まった」ということです。
このようにして世界はその後、中国とイスラム地域のオスマン帝国と、ロシア帝国と中央アジアの4つに別れ、近代の歴史の到来を待つことになるのです。

しかし、ヨーロッパの眞の近代は18世紀からと見るのが正統で、その歴史の流れはそれほど長いものではなく、しかも既にそれが崩壊し始めると同時に、キリスト教世界に対するイスラム側からの反撃がつづき、中央ユーラシアの道があらためて確認され、かってのソビエット圏内にあった、ユーラシアの中央アジア地域のウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、トクミニスタン、キルギスなどの今後の政治的なゆくえが問われています。
そして、われわれは、ヨーロッパの今後を考える上でも、またアジアの中でのプランを起す時でも、この中央のユーラシアの道を考慮に入れざるを得ない時期に入ったということです。そして横軸だけでなく、縦軸の関係も加わってきているのです。

と、いうことで、外語大で蒙古語を学び、これらの動静を内的に観察していた司馬遼太郎のばあいは、一般人とは観察の眼が違っていたのでしょう。

    この問題も、次ぎの2つの参考書を挙げておきます。
         『歴史と政治の間』山内昌之 岩波現代文庫
         『アジアの歴史』松田壽男 岩波現代文庫

これで、お粗末な私見を述べるのを終わります。14日の当日は、シンポジウムが3時に開始ということですが、2時前後には、相良さんといっしょに中野のゼロホールに到着する予定ですので、よろしくお願いします。
                     以上、及川

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10)参考資料の追補文

A)

 杉山正明「ーーーーー多くの方が、中国というと、初めから巨大で、その“かたまり”が4000年も続いたというイメージで語ってしまう。
中華文明という、ある同じような色彩は一面否定できない部分はありますが、地域の“かたまり”、国家の広がりという点では、こういう説明は歴史の現実に反しています。繰り返しになりますが、18〜19世紀にヨーロッパ人がアジアや世界を再認識し、それをヨーロッパ風に文明化していく視線の中で認識した文明世界論や文明圏イメージは、その時の真実ではあったけれど、人類史の真実ではない。これは大事な点だ思います。
 山内昌之「まさにそう思います。イメージの中で形成された中国、逆立ちした「虚の中国」ともいうべき存在ですね。ヨーロッパ人だけでなく、漢籍を通してのみ中国を見てきた過去の日本人にも似たようなバイアスが遊牧民に対してある。
 杉山「一方、モンゴル帝国は、帝国に至るまでの長い歴史があります。ユーラシアの東西を見てみると、たとえば中国と中東で同じ時期に同じ変動をしていることがわかります。それを中国と中東は違う文明で、基本的には孤立し合っていて、西洋人が来るまでは一体化されていなかった。というイメージで語ってしまうと、歴史や現実を見誤ります。
 巨大なユーラシアには真ん中に遊牧民とオアシス民との世界があって、それが良くも悪しくもつなぎ手だったのです。ですからローマ崩壊の動きが、漢の崩壊と連動するのも当たり前のことです。また、8世紀半ば、中国ではソグト人による安史の乱が起こり、唐が崩壊しましたが、まったく同時期に中東でも大変動が起きる。アッパーズ朝の出現です。アラブ中心に動いてきた7世紀以降のイスラームの世界で、もともと古代文明をもっていてイスラーム以前から中東の中心的存在だったイラン系の人たちが蜂起して、アッパーズ朝という新しいシステムを出現させる。ソグド人はそもそもイラン系のササン朝が滅んだ時に東方に広がった子孫といっていい。ほぼ同じ時期に東西で新しい国家運動を起した。今でいう中国地域においてはその運動は破産したけれど、中東では成功した。
 山内「中央アジアの遊牧・オアシス世界が東西文明の「配電盤」あるいはターン・テーブルの役割りを果たしたことになる。
 杉山「そう考えるといろいろなことがわかってきます。最近は中国で考古学的発掘が続いていて、当時の唐の都の長安、今の西安の街の中や郊外からソグド人関連の遺跡が発掘されています。山西省の太原からもソグド人のリーダーでその時の政権の要人でもあった人びとの墓や文化遺産が出てきました。中国史の北周や髄唐を研究している人びとは、それに十分に対応しきれない状態です。−−−−−−−−」
                            『歴史と政治の間』山内昌之 岩波現代文庫 より

B)

     松田壽男「ーーーーギリシャ的勢力は、地中海東辺に偏っていた。アレクサンダー大王の死後にヘレニズム文化の中心が、エジプト、シリア、および小アジアの沿岸に見出された事実がよくそのことを語るであろう。のちにイタリア半島から台頭し、カルタゴを征服(西暦前201年)して地球界の対抗勢力を断ち、その結果として西地球界に覇を称したローマが、東地中海を掌握するために、上記のアレキサンダー大王の轍を踏んだことは、まことに当然とはいえ、興味ある事実といわなければならない。すなわちそれは、ギリシャ(マケドニア戦争による)、シリア(セレウコス朝を亡ぼす)、エジプト(プトレマイオス朝を倒す)の順序だったのである。こうして地中海世界をはじめて政治的に統一したローマ帝国にとって、シリアとエジプトは依然として大きな立場を占めたのであった。
 シリアは、ローマ帝国がイラン勢力と亜欧通路(イラク)を争奪した激烈なそして長期にわたる戦争にとっての重要な基地であった。だからシリアは、帝国の辺境と見られる。しかし、エジプトまでローマ帝国の辺境視することは許されない。というのも、ここは、エジプト王国いらいの伝統ある文化に加えて、ヘレニズム文化に輝き、ローマ帝国領とはいっても本土に優る文化的地位を誇っていた。のみならずここは東方貿易の中継地として、ほとんど唯一の位置を占め、帝国もそれを充分に利用していたからである。エジプトを基地とするローマ人の東方通商がいかに華々しかったかは、前の諸章でその片鱗に触れておいたが、それが紅海貿易に著しい活気を帯びさせて、アラビア半島突端部のヤマン(イーメン)を賑わせ、またメッカ、メディナなどの沿岸の諸
オアシスの発展を刺激した。これは後代のイスラムの勃興にもつながっている。西暦後1世紀にエジプトで『エリュトラ海案内記』が公にされ、また同じころにはエジプトの船乗りヒッパロスによってモンスーンが発見された。これは、西紀後2世紀のエジプトで数学・天文学・地理学の大家プトレマイオスが有名な地理書を著作して、当時の地理的知識を集大成したこととともに、エジプトが保っていた国際的地位をみごとに告げているのではないか。 
 ヨーロッパの側からいうならば、カエサルのガリア戦争(西紀前58ー51)によって、はじめて二つの世界(西欧世界と地中海世界)の存在が明瞭になる。ところが、これほどの発展を示したローマ帝国も、五賢帝時代(西暦後96ー180)を過ぎると、質的に変化が目立ちはじまる。それは2つの新しい傾向にあらわれた。その1つは、海外からの奴隷の輸入や穀物の補給が、市民生活の向上に追いつけなくなったことから、中世の西欧で展開した農奴制に似た貢納制(コロナテトス)が社会に大きく浮かびあがってきたこと。その2は、帝国がその中心をビザンティウム(いまのイスタンブル)に置き換えはじめたこと、にほかならない_」
                                『アジアの歴史』松田壽男 岩波現代文庫より
 以上です。 これ迄参考資料として提出したものは、アジアに身を置くものとして、これからの芸儒家がバックボーンとして持つべき歴史観と身体意識と環境意識に関してのものですが、われわれアーティストとしては3.11以後の活動として、これまでのポストポダンの時代を模索したパフォーマンスの精神と、これからの時代に見合った芸術スタイルをどう探索すべきかという問題が、池田一氏と私を交えての今回のシンポジウムの中心テーマとなりそうですが、後はお相手の宮田さんと司会の河合さんに順を追って巧く結末へと運んでいただくことをお願いするばかりです。しかし、このシンポジウムの内容が単に面白かったということでなく、これからの時代への起爆剤であるような記念すべきシンポジウムになることを望みます。 及川


Wednesday, October 21, 2015

10月公演のために


⓪ 特別通信5
清水さんに

通信がちょっと長過ぎるかも知れませんが、この作品の共同制作経過と内容の真意を、せめて批評家や後援者、仲間に知って頂くだけでも有意義なのかもしれません。それと同時に時代が社会・経済・文化・政治とどう関わっているかの問題ですが、先ず身体と心のつながりが大切で、環境としてはもっと自然に直接向い、他者としてはモノ、動物、植物などに対当に向うべきであることを反省するためにもこのような制作過程を纏めてみるのも必要なのかもしれません。

最近、新潮社から出版されて評判になっている単行本、高村馨の「空海」を購入し読み始めました。だいたい私の考えている方向と似ているのですが、私が “空”に対して量子力学的観点から捉えようとしているのに対して、小説家である高村さんは、空海が中国に渡る前の修行の段階や渡航時の難局に関してなど、これまで空海について書かれたどの本よりも克明に調べて記されているのに感心しました。

この本を読み進めるに当たって、何かこの作家なりの独自の視線が空海を新たに読み解く鈎を与えてくれそうで、それを期待しているのです。
ですが、その前に、元高野山真言宗管長の松永宥慶氏が、卷末に次ぎように記した文章がありましたので、思わず拾い読みをしてしまったのですが、その事について触れます。
氏は次ぎのように語っています。
「空海の思想は、モノと心は、本来一つだという考え方です。「地・水・火・風・空」の五つの物質的な原理に「識」という精神的な原理をいれた「六大」説です。それに基づく教えが現代社会に生きてくる点は三つあります。第一に人間だけでなく動物、植物まですべての生きものと互いにいのちがつながり合っていると考える点。人間を主体とする文明から、動物も植物も同じように生存してゆく権利を持つという考え方への転換は環境問題に役立ちます。
第二は多元的な価値観を持つ点。
第三は人間の欲望を頭から否定するのではなく、積極的に活用し、現実生活での実践を重視する点です。これは社会福祉活動と言っていいでしょう。」

これは、ずばり、われわれが2場の主題として求めていたものです。
第一の「六大」説に関しては、もはや問題はありません。しかし、この「六大」とか「五臟」とか言ってその中に、それこそ「大いなるもの」の関係性を解くことを読者に委ねる方式というものは、複雑系のものを単純化する方式としての「自己組織化」の方式と似ていると思いませんか。
しかし、同じ方式でもこの方式の方が、対象として排除するものがない宇宙的な広がりを感じるのです。

そして、第二の「多元的な価値観を持つ点」というのはどう解釈すべきでしょうか。
これも、われわれはいろいろな“意味”を持たせて検討して来た問題です。
「中観」が取り上げる“有るような無いようなもの”を、例えば“色が有るような無いようなもの”とするならば、それは仮の姿であり、ひとつの環境の中で、観るものは仮りの色を“認知”するが、それは“真相”でも“真実”でもないのです。この“色”と“かたち”は、“分節”によってそのものの“意味”が、またそれが置かれた“状況”によっては、そのものの“価値”が変わるのです。

又、このような分節と状況の変化のほかに、“次元”が変わる、という根源的な土台の変化もあります。前に述べた老子と荘子だけの影響で生きた次元を2次元世界とすると、それに孔子の教えが加わったばあいは、三次元の世界なのです。
空間的には絵画は2次元の支持体の上に描かれるのですが、画家の横尾龍彦の場合は、2次元の支持体の上に、立体派とは違った3次元の世界が開かれるのです。それに批評家の宮田氏が「遠心と拮抗」という命題を付したのですが、それを解く行為も又難業です。
なぜなら、その根底にあるのは「認知」の問題で、それはじょじょに視覚の問題として解決して行かないといけないのです。
しかし、それらの幾つかはこの公演で試みがなされ、大串、加藤両氏が相良、高橋両ダンサーの映像でそれなりの成果を挙げています。

第三の「人間の欲望を頭から否定するのではなく、積極的に活用し、現実生活での実践を重視する点です。これは社会福祉活動と言っていいでしょう。」については、それをどう捉えていいか、というと、眞言宗は「大日教」「金剛頂教」の二大経典を大切にし、それを元に両マンダラがつくられていて、その教えとしているのですが、それに並んで重要視され、儀式などでは禅宗の「般若心経」と同じように頻繁に朗唱されるのが、この“秘教”と言われる「理趣経」なのです。

その内容が秘教であるに関わらず、なぜいちばん朗唱されるのかというと、「理趣経」は「般若心教」と同じように“般若系統”の経典で、朗唱するに良く又写経するにも可なのです。
松永氏はこの人間の基本的欲望である性欲について書かれている秘教の「理趣教」について、それといっしょに人間のもっとも大切な「智」とその五仏についてよく説明されているので、この教典の教えをとくに大事にしており、それを分かり易く解説した氏の『理趣教』が中公文庫にあるのです。
その本の「あとがき」に氏は次のような文を掲載していますが、それが上掲の文と呼応するもので紹介しましょう。
「『理趣教』は20世紀後半の暗闇の時代に、光を求めて模索する現代人に、生きざまを教える経典だといっていいであろう。」

さて、ここまで、われわれは10月公演のための模索をヴァレラとルーマンの「自己組織化」の線に添って、ポスト モダンの経過と今後の展望に向かおうと、その思想的なバックボーンとして空海の思想に依拠し、西洋の自然への関心の無さを攻撃していたのです。
が、ここでわれわれ日本人が現在や行っている行動を反省するなら、地球環境として今いちばん人間がやってはいけない行為、つまり3、11以後の無対策と、日本人の環境意識に対する鈍感さこそが、世界の嘲笑の的となっていることを自覚し、強烈に反省すべきなのです。この日本人の恥じべき心情はどこから来ているのか。それが、われわれの差し迫ったテーマなのかもしれません。


Tuesday, October 20, 2015

10月公演のために



10 宮田さんに

あたま中心の記号学や後期構造主義の20世紀後半を過ぎ、21世紀に入るに及んで、期待していた次ぎの新しい近代を見い出すことが出来なかったのです。
反省して次ぎの世紀を迎える筈のものが、21世紀に入ってから20世紀後半のあの知の空騒ぎはいったい何だったのかと後から反省する始末で、本職の数学者や科学者から、哲学者たちの理論の土台の甘さが批難されて以後、俄然光りを放ったのはフランスの科学史の権威者であるカンギレムは当然として、数学者であり科学者であり、文学の面にも明るいバシュラールとセールの仕事が改めて注目を浴びる時代となったのです。
バシュラールは詩人の創作の想像と幻想の跡を追跡することによって、人類原初の形成期の心理に戻ることを試みていたのに対して、セールは彼の好きな旅をしながら、人間の智慧と知識が開かれて来た民族の歴史を観察していたのです。
そして、それと平行する作業は、日本の吉本隆明の「幻想論」の仕事です。

私は「絵画の技術論」が今ほど後退している時代はないような気がしています。絵画が目的を見失ない、漠然とした、単なる場の飾りに終っているような気がするのです。
もっともそれは一般的な傾向のことで、横尾龍彦、野見山暁治.、池田龍雄などの先端者は未だ顕在で毎回自分の道を切り開いているので、尚更ほかの画家達と対比的に孤立しているよう見えるのです。

それは写真やヴィデオ、またデザイン、マンガなどによって絵画の領分が完全に冒されてしまったからでしょう。
しかし宮尾さんの今度の11月のキッドでの展示公演の仕事は、その事とは別の次元として絵画の認知の2次元を、舞踊の「うごき」を吸い込んで3次元に換えるる画期的な試みなのです。その意味で、今度のその制作者の宮田さんの役割りは大変大事な仕事だと思いますし、その作品の解釈の一端を任された私と相良さんの2人の舞踊家は責任を重く感じているのです。

今朝になって、私の今やっていることを反省してみましたが、それは宮尾さんの11月の個展まで続くテーマで、「光と反射」のことです。
最近亡くなったシュウ ウエムラがそれを、水といっしょに仕事の原点とし、一生じぶんの中心テーマとして守っていたのですが、太陽の光りの「反射」があって、吸収される黒と完全に反射される白とがあり、観る者の視覚範囲と視覚目標によって「その人が意味によって対象を解釈するために」反射の色の3原色を決めるわけです。
なぜなら、このという数が曲者で、それをベースにして陰と陽のエネルギーが素粒子の段階も含めて動きはじめるからです。

このことを理解するためには、以下の身体の細胞をベースにした呼吸による生化学の上で行われる、細密な化学変化を知っておく必要があります。

アルトー館では今、踊りの段階を4つに分けて、その身体的技法を大雑把に言えば、次ぎの4つの方法に分けているのです。
赤血球と筋肉による躍動する動きを主体にしたもの/各器官の類別と交感神経の興奮による神経ベースを主体としたもの/リンパ(白血球)と副交感神経による気の流れとミトコンドリアが寄生する細胞をベースにしたもの/皮膚を境に内・外の圧力と、胸の中丹田と臍との中間にある太陽神経叢(脾臓と膵臓と胃、また肝臓とも関わる)によって、からだの内・外を取り巻くエネルギー(性と生命力と霊的な)をコントロールする動き。

しかし、これはインドの人間の3つのタイプ、活性的なラジャス/官能的なタマス/神秘的なサットヴァと、最後は人間の類別キャラクターを越えて宇宙との交感を感じさせるもの、つまり宇宙(ウパニシャッド)と個(プルシャ)の精神・霊的部分が合一したものを差しています。

さて、ここで人間の体内でのエネルギーの創り方の様態を次に簡単に説明しますが、それを知ると私が陰と陽で東医学で話していことが、西洋医学の生理学でもそのまま通用することが理解されるでしょう。
先ず、最初に人間の身体は基本的には細胞で出来ていることを理解すべきですが、この細胞は、38億年前の、この地球上にまだ樹木がなく、無酸素状態のときに発生したのですが、それは体内のブドウ糖を使ってエネルギーを生成し、また乳酸もつくる<解糖系>のもので、現在もそれを行っている細胞が残存しているのです。
しかし、地球上に苔状の光合成細菌が発生し、それに次いで植物が繁茂する時代になり、植物が空気中の炭素ガスを使って光合成して糖をつくり、老廃物として酸素を放出し空気中に酸素の量が拡大する。
と同時に人間の細胞の中にミトコンドリアという寄生物が住み込み、これが人間が外から吸った酸素を使って糖をエネルギーに変換する役割りをすることになる。
それ以後、人体にはこの酸素を利用する<ミトコンドリア系>の細胞と、酸素を必要としない前述の<解糖系>の細胞との2種類をもっていますが、酸素を使わず糖化する<解糖系>の細胞を使い過ぎるとがんに成り易いという試験結果が出ています。

そして問題となるのは次ぎの生理化学の現象なのですが、この際に水素のプロトン(陽子)が内膜の外に汲み出され、それが再び内膜の中に汲み入れられるとき、水力発電に似た仕組みで行われるのですが、野菜に含まれるカリウム40は水素を電子とプロント(陽子)に乖離させる役割りをしているのです。
この例を知るだけで、如何に陰子と陽子とが体内の生化学のはたらきの中で陰子と陽子が動き回って、自分の位置を決め、それぞれが役割りを演じているかを理解できるのです。

私がこう断言するのは、身体の生態学的構図がそうなので、その微細なエネルギーの動きを大きく囲むものは円か四角なのです。円には中心点があり、四角には対角線を結ぶと大小の三角形が8個つくられ、その構造の中でこれを直観的に掴んだのが、空海の胎臓マンダラと金剛界マンダラの両マンダラへの解釈なのです。

大串さんの黒の濃淡で描かれた墨絵の前に立つと、白は勿論ですが、何色の服でもその絵の中に吸収され、その絵の前で画面に平行してしずかに弧線で動くか、角ばってある点と点を結ぶように動くか、そこで細かい動きをして何かあたらしいものが生ずるかのように動くのが、ちょうど支持体の前で筆を動かして模索している画家の動きの姿と結局は同じなのです。

それを私は青と緑と黄色の画家の描く行為の三原色だと言うのです。
向こうの世界から生まれてくる色は「ひよこの黄色」か、江戸時代の小娘の頬と唇に指す「薄紅」です。この世と向こう側との間の色はピカソが愛した浮世絵の「紫」の色です。まさに、江戸の「浮き世」観にぴったりな江戸紫です。
そして現実の宇宙の深さに通じるものは空と海の「青」で、樹木の「緑」は枝から枝への連結を意味し、それはいろいろな「組織図」の繋がりを描くのによく使われます。そして反射させず色を吸収する黒に対して、太陽の「赤」があります。

今度のわれわれの10月公演は、「水鏡」が代表するこの反射を中心とする例です。太陽の光が水面に向った反射することかが「智慧」の原理で、「智慧」から「慈悲」の慈(他人と自然とに親しむこころ)と(他人の不幸を悲しむこころが生じることを中心テーマにしています。
知識と科学以前の人間が、持っていた感覚智慧の働き。それを失って、複雑系を自己に都合のいいように単純化したポストモダンの時代の後に、なぜ「リスク社会」が起っているかの原因を究明にしているのでしょうが、その一つは科学の土台である知識の真ん中に外部を入れないからです。大串孝二さんは、それを「中庭」という言います。

ルーマンの「社会システム論」の中心テーマであった「自己組織化」を提案した神経生理学者のヴァレラが亡くなる前に、『身体化された心』というタイトルの本を世に出し、ヨーロッパ人に向って現在問題になっている「認知」の問題と平行して、東洋仏教の「大乗仏教」の部分を研究すべきだ、と忠告したのです。
しかし、この本が忠告する「心が身体化される」と同時に、環境としての自然を大切にし、人間世界よりも、われわれを取り囲む宇宙とその中の地球を対象とすべきであることはこの10月公演で、宮田さんが企画する横尾さんの個展では「認知」と「動き」の問題から「遠心と拮抗」」というテーマに当たろうとしているのですが、それが又、われわれのヴァレラに対する返答でもあるのです。