⓪ 特別通信5
清水さんに
通信がちょっと長過ぎるかも知れませんが、この作品の共同制作経過と内容の真意を、せめて批評家や後援者、仲間に知って頂くだけでも有意義なのかもしれません。それと同時に時代が社会・経済・文化・政治とどう関わっているかの問題ですが、先ず身体と心のつながりが大切で、環境としてはもっと自然に直接向い、他者としてはモノ、動物、植物などに対当に向うべきであることを反省するためにもこのような制作過程を纏めてみるのも必要なのかもしれません。
最近、新潮社から出版されて評判になっている単行本、高村馨の「空海」を購入し読み始めました。だいたい私の考えている方向と似ているのですが、私が “空”に対して量子力学的観点から捉えようとしているのに対して、小説家である高村さんは、空海が中国に渡る前の修行の段階や渡航時の難局に関してなど、これまで空海について書かれたどの本よりも克明に調べて記されているのに感心しました。
この本を読み進めるに当たって、何かこの作家なりの独自の視線が空海を新たに読み解く鈎を与えてくれそうで、それを期待しているのです。
ですが、その前に、元高野山真言宗管長の松永宥慶氏が、卷末に次ぎように記した文章がありましたので、思わず拾い読みをしてしまったのですが、その事について触れます。
氏は次ぎのように語っています。
「空海の思想は、モノと心は、本来一つだという考え方です。「地・水・火・風・空」の五つの物質的な原理に「識」という精神的な原理をいれた「六大」説です。それに基づく教えが現代社会に生きてくる点は三つあります。第一に人間だけでなく動物、植物まですべての生きものと互いにいのちがつながり合っていると考える点。人間を主体とする文明から、動物も植物も同じように生存してゆく権利を持つという考え方への転換は環境問題に役立ちます。
第二は多元的な価値観を持つ点。
第三は人間の欲望を頭から否定するのではなく、積極的に活用し、現実生活での実践を重視する点です。これは社会福祉活動と言っていいでしょう。」
これは、ずばり、われわれが2場の主題として求めていたものです。
第一の「六大」説に関しては、もはや問題はありません。しかし、この「六大」とか「五臟」とか言ってその中に、それこそ「大いなるもの」の関係性を解くことを読者に委ねる方式というものは、複雑系のものを単純化する方式としての「自己組織化」の方式と似ていると思いませんか。
しかし、同じ方式でもこの方式の方が、対象として排除するものがない宇宙的な広がりを感じるのです。
そして、第二の「多元的な価値観を持つ点」というのはどう解釈すべきでしょうか。
これも、われわれはいろいろな“意味”を持たせて検討して来た問題です。
「中観」が取り上げる“有るような無いようなもの”を、例えば“色が有るような無いようなもの”とするならば、それは仮の姿であり、ひとつの環境の中で、観るものは仮りの色を“認知”するが、それは“真相”でも“真実”でもないのです。この“色”と“かたち”は、“分節”によってそのものの“意味”が、またそれが置かれた“状況”によっては、そのものの“価値”が変わるのです。
又、このような分節と状況の変化のほかに、“次元”が変わる、という根源的な土台の変化もあります。前に述べた老子と荘子だけの影響で生きた次元を2次元世界とすると、それに孔子の教えが加わったばあいは、三次元の世界なのです。
空間的には絵画は2次元の支持体の上に描かれるのですが、画家の横尾龍彦の場合は、2次元の支持体の上に、立体派とは違った3次元の世界が開かれるのです。それに批評家の宮田氏が「遠心と拮抗」という命題を付したのですが、それを解く行為も又難業です。
なぜなら、その根底にあるのは「認知」の問題で、それはじょじょに視覚の問題として解決して行かないといけないのです。
しかし、それらの幾つかはこの公演で試みがなされ、大串、加藤両氏が相良、高橋両ダンサーの映像でそれなりの成果を挙げています。
第三の「人間の欲望を頭から否定するのではなく、積極的に活用し、現実生活での実践を重視する点です。これは社会福祉活動と言っていいでしょう。」については、それをどう捉えていいか、というと、眞言宗は「大日教」「金剛頂教」の二大経典を大切にし、それを元に両マンダラがつくられていて、その教えとしているのですが、それに並んで重要視され、儀式などでは禅宗の「般若心経」と同じように頻繁に朗唱されるのが、この“秘教”と言われる「理趣経」なのです。
その内容が秘教であるに関わらず、なぜいちばん朗唱されるのかというと、「理趣経」は「般若心教」と同じように“般若系統”の経典で、朗唱するに良く又写経するにも可なのです。
松永氏はこの人間の基本的欲望である性欲について書かれている秘教の「理趣教」について、それといっしょに人間のもっとも大切な「智」とその五仏についてよく説明されているので、この教典の教えをとくに大事にしており、それを分かり易く解説した氏の『理趣教』が中公文庫にあるのです。
その本の「あとがき」に氏は次のような文を掲載していますが、それが上掲の文と呼応するもので紹介しましょう。
「『理趣教』は20世紀後半の暗闇の時代に、光を求めて模索する現代人に、生きざまを教える経典だといっていいであろう。」
さて、ここまで、われわれは10月公演のための模索をヴァレラとルーマンの「自己組織化」の線に添って、ポスト モダンの経過と今後の展望に向かおうと、その思想的なバックボーンとして空海の思想に依拠し、西洋の自然への関心の無さを攻撃していたのです。
が、ここでわれわれ日本人が現在や行っている行動を反省するなら、地球環境として今いちばん人間がやってはいけない行為、つまり3、11以後の無対策と、日本人の環境意識に対する鈍感さこそが、世界の嘲笑の的となっていることを自覚し、強烈に反省すべきなのです。この日本人の恥じべき心情はどこから来ているのか。それが、われわれの差し迫ったテーマなのかもしれません。
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