Tuesday, October 20, 2015

10月公演のために



10 宮田さんに

あたま中心の記号学や後期構造主義の20世紀後半を過ぎ、21世紀に入るに及んで、期待していた次ぎの新しい近代を見い出すことが出来なかったのです。
反省して次ぎの世紀を迎える筈のものが、21世紀に入ってから20世紀後半のあの知の空騒ぎはいったい何だったのかと後から反省する始末で、本職の数学者や科学者から、哲学者たちの理論の土台の甘さが批難されて以後、俄然光りを放ったのはフランスの科学史の権威者であるカンギレムは当然として、数学者であり科学者であり、文学の面にも明るいバシュラールとセールの仕事が改めて注目を浴びる時代となったのです。
バシュラールは詩人の創作の想像と幻想の跡を追跡することによって、人類原初の形成期の心理に戻ることを試みていたのに対して、セールは彼の好きな旅をしながら、人間の智慧と知識が開かれて来た民族の歴史を観察していたのです。
そして、それと平行する作業は、日本の吉本隆明の「幻想論」の仕事です。

私は「絵画の技術論」が今ほど後退している時代はないような気がしています。絵画が目的を見失ない、漠然とした、単なる場の飾りに終っているような気がするのです。
もっともそれは一般的な傾向のことで、横尾龍彦、野見山暁治.、池田龍雄などの先端者は未だ顕在で毎回自分の道を切り開いているので、尚更ほかの画家達と対比的に孤立しているよう見えるのです。

それは写真やヴィデオ、またデザイン、マンガなどによって絵画の領分が完全に冒されてしまったからでしょう。
しかし宮尾さんの今度の11月のキッドでの展示公演の仕事は、その事とは別の次元として絵画の認知の2次元を、舞踊の「うごき」を吸い込んで3次元に換えるる画期的な試みなのです。その意味で、今度のその制作者の宮田さんの役割りは大変大事な仕事だと思いますし、その作品の解釈の一端を任された私と相良さんの2人の舞踊家は責任を重く感じているのです。

今朝になって、私の今やっていることを反省してみましたが、それは宮尾さんの11月の個展まで続くテーマで、「光と反射」のことです。
最近亡くなったシュウ ウエムラがそれを、水といっしょに仕事の原点とし、一生じぶんの中心テーマとして守っていたのですが、太陽の光りの「反射」があって、吸収される黒と完全に反射される白とがあり、観る者の視覚範囲と視覚目標によって「その人が意味によって対象を解釈するために」反射の色の3原色を決めるわけです。
なぜなら、このという数が曲者で、それをベースにして陰と陽のエネルギーが素粒子の段階も含めて動きはじめるからです。

このことを理解するためには、以下の身体の細胞をベースにした呼吸による生化学の上で行われる、細密な化学変化を知っておく必要があります。

アルトー館では今、踊りの段階を4つに分けて、その身体的技法を大雑把に言えば、次ぎの4つの方法に分けているのです。
赤血球と筋肉による躍動する動きを主体にしたもの/各器官の類別と交感神経の興奮による神経ベースを主体としたもの/リンパ(白血球)と副交感神経による気の流れとミトコンドリアが寄生する細胞をベースにしたもの/皮膚を境に内・外の圧力と、胸の中丹田と臍との中間にある太陽神経叢(脾臓と膵臓と胃、また肝臓とも関わる)によって、からだの内・外を取り巻くエネルギー(性と生命力と霊的な)をコントロールする動き。

しかし、これはインドの人間の3つのタイプ、活性的なラジャス/官能的なタマス/神秘的なサットヴァと、最後は人間の類別キャラクターを越えて宇宙との交感を感じさせるもの、つまり宇宙(ウパニシャッド)と個(プルシャ)の精神・霊的部分が合一したものを差しています。

さて、ここで人間の体内でのエネルギーの創り方の様態を次に簡単に説明しますが、それを知ると私が陰と陽で東医学で話していことが、西洋医学の生理学でもそのまま通用することが理解されるでしょう。
先ず、最初に人間の身体は基本的には細胞で出来ていることを理解すべきですが、この細胞は、38億年前の、この地球上にまだ樹木がなく、無酸素状態のときに発生したのですが、それは体内のブドウ糖を使ってエネルギーを生成し、また乳酸もつくる<解糖系>のもので、現在もそれを行っている細胞が残存しているのです。
しかし、地球上に苔状の光合成細菌が発生し、それに次いで植物が繁茂する時代になり、植物が空気中の炭素ガスを使って光合成して糖をつくり、老廃物として酸素を放出し空気中に酸素の量が拡大する。
と同時に人間の細胞の中にミトコンドリアという寄生物が住み込み、これが人間が外から吸った酸素を使って糖をエネルギーに変換する役割りをすることになる。
それ以後、人体にはこの酸素を利用する<ミトコンドリア系>の細胞と、酸素を必要としない前述の<解糖系>の細胞との2種類をもっていますが、酸素を使わず糖化する<解糖系>の細胞を使い過ぎるとがんに成り易いという試験結果が出ています。

そして問題となるのは次ぎの生理化学の現象なのですが、この際に水素のプロトン(陽子)が内膜の外に汲み出され、それが再び内膜の中に汲み入れられるとき、水力発電に似た仕組みで行われるのですが、野菜に含まれるカリウム40は水素を電子とプロント(陽子)に乖離させる役割りをしているのです。
この例を知るだけで、如何に陰子と陽子とが体内の生化学のはたらきの中で陰子と陽子が動き回って、自分の位置を決め、それぞれが役割りを演じているかを理解できるのです。

私がこう断言するのは、身体の生態学的構図がそうなので、その微細なエネルギーの動きを大きく囲むものは円か四角なのです。円には中心点があり、四角には対角線を結ぶと大小の三角形が8個つくられ、その構造の中でこれを直観的に掴んだのが、空海の胎臓マンダラと金剛界マンダラの両マンダラへの解釈なのです。

大串さんの黒の濃淡で描かれた墨絵の前に立つと、白は勿論ですが、何色の服でもその絵の中に吸収され、その絵の前で画面に平行してしずかに弧線で動くか、角ばってある点と点を結ぶように動くか、そこで細かい動きをして何かあたらしいものが生ずるかのように動くのが、ちょうど支持体の前で筆を動かして模索している画家の動きの姿と結局は同じなのです。

それを私は青と緑と黄色の画家の描く行為の三原色だと言うのです。
向こうの世界から生まれてくる色は「ひよこの黄色」か、江戸時代の小娘の頬と唇に指す「薄紅」です。この世と向こう側との間の色はピカソが愛した浮世絵の「紫」の色です。まさに、江戸の「浮き世」観にぴったりな江戸紫です。
そして現実の宇宙の深さに通じるものは空と海の「青」で、樹木の「緑」は枝から枝への連結を意味し、それはいろいろな「組織図」の繋がりを描くのによく使われます。そして反射させず色を吸収する黒に対して、太陽の「赤」があります。

今度のわれわれの10月公演は、「水鏡」が代表するこの反射を中心とする例です。太陽の光が水面に向った反射することかが「智慧」の原理で、「智慧」から「慈悲」の慈(他人と自然とに親しむこころ)と(他人の不幸を悲しむこころが生じることを中心テーマにしています。
知識と科学以前の人間が、持っていた感覚智慧の働き。それを失って、複雑系を自己に都合のいいように単純化したポストモダンの時代の後に、なぜ「リスク社会」が起っているかの原因を究明にしているのでしょうが、その一つは科学の土台である知識の真ん中に外部を入れないからです。大串孝二さんは、それを「中庭」という言います。

ルーマンの「社会システム論」の中心テーマであった「自己組織化」を提案した神経生理学者のヴァレラが亡くなる前に、『身体化された心』というタイトルの本を世に出し、ヨーロッパ人に向って現在問題になっている「認知」の問題と平行して、東洋仏教の「大乗仏教」の部分を研究すべきだ、と忠告したのです。
しかし、この本が忠告する「心が身体化される」と同時に、環境としての自然を大切にし、人間世界よりも、われわれを取り囲む宇宙とその中の地球を対象とすべきであることはこの10月公演で、宮田さんが企画する横尾さんの個展では「認知」と「動き」の問題から「遠心と拮抗」」というテーマに当たろうとしているのですが、それが又、われわれのヴァレラに対する返答でもあるのです。


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