前述した先駆者を含めて、以下のいくつかに分類された領域のダンス傾向を、コンテンポラリーダンスと捉えたい。私はその大きな動きを5つに分類する。
1つは、モーリス・ベジャールが59年にベルギーのブリュッセルのモネ劇場に活動拠点を移し、ストラビンスキーの『春の祭典』成功後の60年には、モネ劇場専属バレエ団「20世紀バレエ団」を結成、新バロック形式のブームを巻き起こす。ヌーベルダンスとして活躍するメンバーとしては、20世紀バレエ団からはドミニック・バグエがその出身者であり、ベジャールが主宰するバレエ学校「ムードラ」からはマギー・マラン、アンリ=テレサ・ド・ケースマイケルなどを排出したこと。
2つ目は、モダンダンスのクルト・ヨースの2人の弟子がアメリカに渡り、そこで新しいダンスの息吹に触れ、帰国後“タンツ セアター”というダンス劇を創造し、ダンス界に旋風を巻き起こしたピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン。それにスザンヌ・リンケを加えてクルト・ヨースの“3人姉妹”という。
それに、マリー・ヴィグマンの流れも含まれるダンス実験集団「ダンス工場ベルリン」を加えておこう。
3つ目は、パリ・オペラ座を発祥とする。アメリカのアルヴィン・ニコライの弟子のカロリン・カールソンがパリ・オペラ座に招かれてモダンダンス研究所GRTOPを創ったのが最初で、それをジャック・ガルニエが継いでGRCOPとなる。周辺にジャン・クロード・ガロッタ、ドミニック・バグエ、また「ムードラ」の出身者たちも加わり、フランスのヌーベルダンスと呼ばれる一派を形成し、ドイツの表現主義に対抗することになる。
4つ目は、ベジャールの場合と同じように、クラシックバレエからの流れなのだが、ドイツのジョン・クランコのシュツットガルト バレエ団を出発点とする、オランダの「ネザーランド・ダンス・シアター」のイリ・キリアンと「フランクフルト・バレエ団」のウィリアム・フォーサイス。それに、「ハンブルク・バレエ団」のジョン・ノイマイヤーもいる。
5つ目は、同じベルギーでもフランス語圏のブリュッセルとは違って、フラマンのアントワープ出身のヤン・ファーブルとその弟子ヴィム・ヴァンデケビュス。
それにカナダの「ラララ・ヒューマン・ステップス」とイスラエルの「バットシェバ舞踊団」を加えようか。英国から入れるなら、マイケル・クラークだ。
日本のモダンダンスとコンテンポラリーダンスとが見分けが付かないのは、コンテンポラリーダンスが始まる以前から、モダンダンサーを対象にして、東京新聞の主催で新人コンクールと現代舞踊展が毎年開催されるうちに、時の流れにつれて二つのジャンルが混同しはじめたからであり、またユーロッパのコンテンポラリーダンスが日本に遅れて吸入されたからでもある。
さらに混乱を招いているのは、江口隆哉・宮操子、邦正美、津田信敏などのモダンダンスとはちがって、モダンバレエという分野が存在していることである。
1912年、チェッケッティの弟子イタリア人のバレエダンサー、ジョバンニ・ビットリオ・ローシーが、帝国劇場に新設された歌劇部の研究生の教師として招聘され、そこで学んだ石井漠と高田雅夫・せい子は独立して舞踊をはじめ、自分たちの踊りをモダンバレエと命名しており、その後継者たちがドイツ系のモダンダンスといっしょになっていて、今になっては判別が付かなくなっている。だが、内実には差がある。
(なお、この記事は「モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界」のテーマに添って、その概略を記したもので、近代以降のダンスの歴史を語ったものではない。そのため当然、重要なイベント、作品、振付け家、ダンサーについて触れていない部分が多々あることを了承していただきたい。)
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment