Sunday, November 18, 2007

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(1)

先に記した仲野惠子の作品『自分の卵』は、2007年11月9日(金)、きゅリあん小ホールで行なわれた“わびすけ舞踊倶楽部”(在外研修員ダンスパフォーマンス)の第1回公演の中で行なわれたものである。
この際、ついでにモダンダンスとコンテンポラリーダンスについて触れたい。
いまになって、モダンダスとコンテンポラリーダンスの差は何かと言っても、技法と空間の捉え方(=振付け者の内面)の違いというより、むしろ研究所の歴史とその教授法から来ている。しかし、これは旧い研究所ほど旧いシステムでやっているとは限らず、それなりに努力して改革されていることもあるし、また、その出身の優秀なダンサーが海外に研修生として派遣されるか、または自費で渡航して向こうのダンスグループに加わることもある。

一方、モダンダンスの世界からその独自の主張の下に“舞踏”という名を掲げて分離した土方巽、大野一雄の一派があるが、その中の中心的な3人のメンバー大野慶人、石井満隆、笠井叡のうちの笠井叡はじぶんの踊りの分野をダンスと称している。

ヨーロッパにおいては、舞踏の名になにか東洋の神秘的な幻想を抱く人が多いらしく、日本人の踊りに舞踏という名が付くと、期待または、自分なりに解釈し納得する傾向があるようだ。そしてまた安易にそれを利用する舞踏家もいる。その点からいうと、自ら舞踏の道を拓いた一人である笠井叡が自分の踊りをダンスと名称するのは彼なりの信念からなのだろう。
しかし、ヨーロッパではすべての踊りを総合してダンスというのであって、バレエもダンスクラシックなのである。
こういう風に語って行っても、はっきりしない部分があると思うが、その混乱の一つの原因はダンスの歴史の流れと、欧米からの日本のダンスの受け入れ状況から来ているようだ。

ダンスとバレエの関係をも含めて、これらの世界的な発展の“ねじれ現象”は1954.5年頃から起こっているようだ。その顕著なものとしては、1955年クラシックバレエのモーリス・ベジャールが彼の“エッフェル塔バレエ団”で、作曲家のピエール・アンリとピエール・シェフェールとともに創った『孤独な男のためのシンフォニー』という「具体音楽」をバレエ化している。また同年に、パリオペラ座に戦後はじめて招聘されたニューヨーク・シティ・バレエ団のジョージ・バランシンの作品といっしょにジェローム・ロビンスの作品も招聘され、そのドビュシーの『牧神の午後』(53)では、ロシアンバレエのニジンスキーの振付けとは全くちがって、誰もいない稽古場で、一人の男性舞踊手が鏡に映る自分の踊る姿を見てナルシシスムに浸るのだった。
それと、まだ潜伏されたかたちだったが、サドラーズ・ウェールズ・バレレ団の内部ではジョン・クランコが最初の創作を行ないながらも、居心地の悪さを感じて外部でも活動を開始している。それがやがてドイツのシュツットガルト バレエ団に移転することによって才能が一気に花ひらいて行く。
これが後のコンテンポラリーダンスの基盤となる、準備期の時代と言っていいのであろう。

ダンスの様相の変化が明かになるのは、アメリカからだった。マーサ・グラハムの下を離れて音楽家のジョン・ケージの協力を得、先鋭的な画家たちとコラボレーションを行なったマース・カニングハムのアヴァンチュール。さらに、その研究所の出身者でアンナ・ハルプリンの影響を受けたイヴォンヌ・レイナやトリシャ・ブラウンが中心となって、ジャドソン・チャーチで身体への記号的な新しい試みを行う。
そしてジャドソン・チャーチから場所が移っても、各地でトワイラ・サープ、ルシンダ・チャイルズ、ローラ・ディーン、メレディス・モンクなどが活動の手を広げ、アメリカのポストモダンの運動を展開して行くのである。
また、西海岸ではパフォーマンス活動が後続して起こっており、海を越えては、ピナ・バウシュやヤン・ファーブルが、日本では勅使川原三郎がパフォーマンスを経過して、ポスト・モダンからコンテンポラリーダンスへの橋渡しを担うことになる。
(ただし、ポスト・モダンの名称、概念、時代区分、内容、技術などにについては後述する。)

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