Wednesday, August 05, 2015

10月公演のために


  2 )  池田 一さん に 


                       眞言密教の空海(B)

それでは、われわれの身体と外部の自然界を包む、この宇宙の存在の“いわれ”としての原理の“理”と、その中心的存在である太陽、即大日如来の“はたらき”としての現象の“智”の2つの特性、それは象徴的に密教の2つの胎臓マンダラと金剛界マンダラに仕込まれていて、それを解く道が空海の哲学そのものであるのですが、先ず、大日如来の“はたらき”としての現象の“智”、すなわち“智慧”から入ることに致しましょう。

大日如来の太陽の光が水の表面に反射するとき、どのような反応を示すのか。
今は亡きメイクアップ アーティストの第一人者シュウ ウエムラは、この世で一番大切なものは“水”だと言い、次ぎに“光”は「反射」だ、と断言しました。
そして、その反射という意味をもっとも効果的に、断層的に捉えることができるのは、光の水面への反射なのかもしれません。
空海は、空想的に描くその“水鏡”の光の反射の特性の上に、どのように彼の密教哲学のキー概念となる用語を選び出したのでしょうか。

まず、1)光の水への反射があり 
   2)その中に智慧を見た。
   3)その上に慈悲も感じとり、
   4)更に活力性も覚えたのです。

そして、ここからが空海の宗教家としての独自の解釈が始まるのですが、この「智慧」は法身の「智慧」ですので、法身は「智身」とも言われるのです。そして全ての人間は、その心の内側に「仏性」を秘めたまま自覚していませんが、仏の智を身内に持っていて、誰でもが「智身」となる可能性を持っている、というのです。そして空海の世界では、この「智慧」があらゆる生物、草木、山河、大地、諸物の上に充満していることになるのです。

それでは、大日如来の智慧というのは果たしてどういう性質のものかというと、空海の言葉に添って説明しますと、以下のようになります。

第1)法界体性智(ほっかいたいしょうち) ちょうどわれわれが、今問題にしている場面にそのまま相応するものです。それは全宇宙のことを“法界”という言葉で差しているのですが、その本性は“智”である、と言っているのです。
そして、そのことは前述した“地・水・火・風・空”の五つの粗大な物質要素と、“識”という一つの精神要素とが「六大」として“法界”という宇宙の本体をなしている。そしてこの六つの要素が、「法身」大日如来の象徴として全宇宙の生命的活動を行っているということになるのです。しかし、“識”へのその時の解釈によって、それに対する「五大」の要素との関係がどの様にも解釈できるので、それまで「現象学」的な“場”であったものが、「解釈学」的な“場”にもなり得るのです。

第2)大円鏡智(だいえんきょうち) 絶対の智慧の働きを“鏡”にたとえているのです。つまり“法身大日如来”の絶対なる智慧のはたらきによってあらゆるものが明かに顕われている、ということです。

第3)平等性智(びょうどうしょうち) “法身大日如来”の絶対の智慧によって、あらゆるものが平等に顕われていて、それを平等性の智慧といい、無知なるものの差別的、また部分的な視野とは区別されるのです。

第4)妙観察智(みょうかんさつち) その絶対なる智慧はあらゆるものをことごとく微細に観察することができる。

第5)成所作智(じょうしょさち) これは実践的な智慧であって、智慧のはたらきがそのまま行為として現れる。

空海は偉大なる宗教家であると同時に、以上のように類い希な哲学的な思考の保持者でもあり、また“書”や“文学”や仏像のあしらい方などにも美術的な才能が見い出されます。そしてさらに、漢字から日本独自の“ひらがな”への美的転換を行った当事者にも推測され、日本各地には庶民に対する仏教的な「慈悲」から行われた遺跡
が残されています。

私はシュウ ウエムラが創設した、高知県の室戸岬のホテルのすぐ傍にある、青年時の空海が修行したという場所、そこは海辺の近くにある2つ並んだ洞窟なのですが、そこに何度か足を運び、洞窟の中で波の音を聞きながら中国に渡る以前の空海のことを想像するのが好きでしたが、そこでは多分青年空海は、波の音を聞きながら「生命の海」を感じていたに違いないのです。

その事を考えると同時に、今、私は日本のランド アーティストの池田さんの作品を思い起さざるを得ないのです。
池田氏は1984年に始まった桧枝岐(ヒノエマタ)フェスティバルに参加したというより、このフェスティアルを先導した人とも言えるような、時代の先を見たアーティストでした。
彼が最初にこのフェスティバルで提出してくれた作品は、彼を中心とした男女の数人と1人の子供を含めて、公演の広場で行う「泥の朝食会」なるもので、衣服から顔まで全身、それにテーブルと椅子、皿までが全て泥まみれで朝食会を演じるパフォーマンスで、周りを囲んで観る人全員を驚かせたものですが、食事会が終わると全員、道具類を運んで、公演の下にある川に同時に跳びこんで、泥がじょじょに溶かれてゆくまでのパフォーマンスでしたが、これは今考えると、「ゴッホが描いた農夫の泥のついた靴のデッサン」を例に、ハイデッカーが説く「大地の美学」に通じるものを感じるのです。

次の年に池田氏が提出した作品は「水鏡」という作品でした。これは自然の風景のど真ん中に、木枠の十字の掘を作って水を溜め、その中に池田氏が大きな眼鏡をかけて顔だけ出してボイス パフォーマンスを演じることから始まるのですが、作品の意図するところは全くこのメールで空海について語って来た内容と驚くべきことに殆ど同じなのです。

だが、空海は前述した“智慧”の解説の後、宗教家としての空海の“慈悲”について解説すべきなのですが、今われわれは空海の哲学と芸術面だけを提示し、それを話題にしているので、空海にとっては大切な“慈悲”の問題には触れていませんが、各地に伝わる空海の伝説と共にある、見ようによっては「ランド アート」的に見える伝説の遺跡は、全て庶民に対する“慈悲”から作られたものです。

池田氏のこの「水鏡」はその後、美術の三大国際フェスティバルの一つであるブラジルのサンパウロ ビエンターレでヨーゼフ ボイスの後、メイン ゲストとして招待され絶賛を受けてからは、世界各地でランド アーティストして活躍していますが、私の観るところ、池田氏の作品は地球とか環境、社会問題に直接関わるテーマで動いていますので、いわゆる「ランド アート」の域を越えているのです。

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