Friday, August 14, 2015

「鴻氏との対談」のための基調講演



       「鴻氏との対談」のための基調講演
    
        テーマ「モダンとポストモダン」
   -------- ヒノエマタ パフォーマンス フェス から 現在時へ ---------
                                及川廣信

 モダンは、歴史的に近代の意味で解釈したばあい、18世紀半ばからと捉えることもありますし、芸術面では画家マネーへのボードレールの美術批評から始まり、モネー、ピサロなどによる光をテーマにした印象派の主張がモダンへの道を開いたという捉え方。もう一つは、19世紀末のアール ヌーボーやそれに続くアール デコの装飾美術から展開し、ディアギレフのロシアバレエ団からはじまり、1920年代の狂乱の時代、コクトー、シャネルなどが注目を浴びた時代をモダンの典型と言っても良いのでしょう。
 そして、日本では、大正ロマンからはじまり、大正12年の関東大地震を経て、昭和の時代に入り、大正ロマンの残照と西洋から新しく輸入されたデザインとの融合によってつくられた、昭和3,4,5,6年(ミヨゴロ)の時代。文学で言えば、川端康成や横光利一などの新感覚派や、食器など日常の道具類や洋装の女性のモダン風俗がそれに当たるのでしょう。
 しかし、ここでモダンの意味を、時代区分による風潮からでなく、的確にその底辺にある本質的ものを探り出してみせたドイツの社会哲学者ジンメルの「貨幣の哲学」から始めることにします。
 
 
 ジンメルの「貨幣の哲学」
 
 ジンメルは1897年頃から「価値(ヴァルール)」という観点から時代を包括して解釈することを考えていたのですが、1900年にそれをまとめた形で『貨幣の哲学』という書物を出版したのです。
 ジンメルのこの「価値」というのは、マルクスが言う「物と物とを交換するばあいの同価値を意味する、「物々交換」を代理する「貨幣」の「価値」とは違ってくるのです。その現実の生活においての「価値」と違った、もっと深部に関わる、人間の人格の「価値」にも関わるものだったのです。
 と、いうのは、ジンメルがどのようなきっかけで、この「価値」の問題について
哲学的に掘り下げようとしたかの事の起こりは、たとえば、一人の女性が当たり前の仕事をした時の「価値」として支払われるお金と、自分のからだを援助交際として売ったばあいの「価値」のお金の差は大きく違います。この事にジンメルは思考の焦点を当て、哲学的に「価値(ヴァルール)」の意味を考えはじめたのです。
 その事についての、彼の哲学的思考の経過と結論は次のようになります。

 ジンメルのばあい、当時の「売春」をテーマに“価値”の問題を考えているうちに、彼の頭のイメージの中に、時代の原理としての“貨幣”の問題がクローズアップされて来たのです。
 ジンメルは、使用価値や交換価値を、彼の思考の対象にしていたのではなかった。物の価値は交換しようと望むその人によって違うし、また物が持つ価値そのものも固定せず、交換しているうちに、その関係性の中で変わる。価値(ヴァルール)は動いているうちに変わるものだ、とジンメルは捉えたのです。ジンメルは、そこから「関わりの<動き(ムーブマン>の中に“価値”がある」と捉えたのです。

 産業革命以後の社会は工場の機械や、列車の動きのように、すべては機能的に連結して動き出していたのです。時代の特徴は、ニュートンの絶対的な物の考え方から、アインシュタインの[相対主義」に代っていたのです。したがって、物を相対的に動きの面から捉えるようになっていたのです。人々は世界がダイナミックな動き(ムーブメンント)を中心に変わってゆくものと考えていたのです。
 従って、当時は身体の中でも人をダイナミックに動かす“筋肉”が神聖化され、モダンダンスがクラシック バレエに対抗して勃興し初めていたのです。
 また、人間や社会というものも、近代が当初考えていたようには実体がなく、いろいろな関係性の中で動いている内に、変わってゆくものと捉えられている。そしてジンメルの考えでは、社会とそれをつくっている人間とは、内部的に共通するものを持っており、共に実体ではなく、関係性のなかで動いているものとしたのです。こように彼の哲学的思考は現実の社会を目の前にして、直接的に身をもってそれに当たることによって、生きた社会学が生まれることになったのです。
 
 ジンメルのこの一見単純な疑問から発した価値論を、それまでのアカデミックな学問から捉えたばあい、いささか学問の領域を踏み外した感じがしたのでしょうが、彼は現実の社会を観察し、それを分析することが社会学だと、その信念の下に物事に当たっていたのです。これらの事実に潜む価値(ヴァルール)問題が、その後大きく経済学にも転換されていったのですし、またモダンからポスト モダンの時代を越えてグローバル時代に放り込まれた現在においては、「貨幣」がその中心的な動力となって、あらためて注目されているのです。
 ジンメルの哲学は、カントの理性主義の批判によって成された範疇の分類分けとは違います。時代はもうニーチェたちによる「生の哲学」の思想が浸透していました。したがって、彼の社会学は認識の面だけでなく、感覚と感情がどのように時代の傾向として織りなしているかも観察に加え、しかも大衆演劇やオペラなどに覗かれる、時代の病理学的現象をも見逃すことなく加え、それら全体の社会の様相と制度的な社会の仕組みとを、機能的な社会の動きの特性に加え、その総合的な時代特徴を「モダニティ」と称したのです。
 ジンメルの社会学は、彼自身が「自分は哲学者である」という自覚で生きていたのですが、理念的な哲学の分野では満足することが出来なかったのでしょう。結局、人びとへの愛情を大切にする彼の素質から、実践的な彼独特の社会学を創ったことになるのです。

 
 ポスト モダンは、近代を越えられるか
 
 モダンは機能的な動力と感覚を主体としておりました。では、それにつづくポスト モダンとは何か。モダンが「機能」なら、それを取り巻く「構造」がポスト モダンの特徴だと思うのですが、もの事を全体の枠の中での構造から捉えるようになったのです。しかし、この構造主義は最初、レヴィストロースの民族学的研究から起こったものです。それを精神分析にまで応用したのがラカンで、言語学的に敷衍して社会に当たったのがロラン バルトで、社会の権力と制度を歴史的に解明したのがフーコーでした。
 しかし、これらすべてが、人間とか国家とかの枠組みの中での内部の仕組みを対象としていたのです。そして、構造主義の構造を解体する作業をして“脱構築(デ コンストラクション)”を主張し、後期構造主義に変じたのがデリダなのです。
 また、1972年に出版されたドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の底辺にあったものは、アルトーの俳優論の「器官なき身体」でした。その器官の意味を国の政府と制度の意味に解釈して、その政治と制度を革新する意味に応用したのです。
 これら哲学思想の構造主義/後期構造主義と芸術スタイルとしてのポスト モダンの風潮が時代的に平行、交差していたのですが、厳密に言うと、ポスト モダンという呼称は、最初、建築家の間で使われた芸術形式だったのです。日本でいえば磯崎新などが最初に始めた建築様式に対して言われたものだったのです。更に元を正せば、それまでのモダン形式をあまりにも象徴的に抽象単純化したル・コルビュジェに対する反抗でもあったのです。そのことをアメリカの社会学者のデヴィット・ハーヴェイが彼の著書『ポストモダニティの条件』の中で説明していることによると,次のようになるのです。
 モダンを継ぐ「ポスト モダン」は何時、どこから始まったかは、アメリカの建築家の間では、ル・コルビュジェのモダニズムの象徴的建築物であるセントルイスにあるブルーイット・アイゴー住宅団地を倒壊した1972年7月15日午後3時12分ということになっていて、この時から建築家たちは新しい様式で家を建てはじめ、他のアートも生活様式もその傾向によって動き出し、世界全体がその時代様式に移ったという現象事実にあるのです。
 
 さらに、歴史的に観ると、アメリカのカニングハムやアンナ ハルプリンの弟子たちがジャドソン チャーチで始めたダンス形式を、それまでのマーサ グラハムを主体とする「モダン ダンス」の動きに対して批評家が「ポスト モダン」と称していた事実もあるのです。
 ただ、これらの「ポスト モダン」と、1980年代にフランスの哲学者たちの影響下で起こった時代風潮とは若干異なるものと考えたい。
 
 それは、フランスのロラン・バルトやジャック・デリダを先頭にしたものでした。しかし、このポスト モダンの風潮以前に、同じフランスの哲学者のジャン=フランソワ・リオタールが1979年に『ポスト モダンの条件』を出版し、別の角度から物議を醸し出してもいたのです。
 これは、本来は芸術批評論としての内容だったのですが、歴史的な近代という時代に対して疑問を呈するものでもあったのです。彼の説は、これまでの近代はすべてを「大いなる物語」として包括してしまうことへの不信感だったのです。それに対して彼が掲げるポスト モダンの条件というのは、現代においては「知」が情報化され、当人から分離されたまま売られている。本来の「知」の真実さを失ってしまっているこの状態から自らを救い出すことこそが第一に行うべきことである、という主張なのです。
 しかし、この説に対して、ドイツのフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスは、彼なりに近代という制度に対して問いかけ、彼が主張する「公共圏」の立場から、近代が抱き持っている伝統的なものに対して、各人がその公共圏の中で、理性を働かして積極的に意見を述べ、社会を変化させて行かなくてはいけない、というコミュニケーションを主体とした立場から反論だったのです。
 やがて、東西の冷戦も終り、ベルリンの壁が崩壊して20世紀も終末に向かう頃になると、「近代という時代がここで終わって、次の新しい時代に入ろうとしているのか」という大きな問題が提出されたのです。
 
 そして、この問題に結論づけるかたちで現れたのが、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズを中心とする社会学者の一派でした。その中には前述のアメリカのデヴィット・ハーヴェイも含まれています。彼らの主張とは、「近代という制度形式はまだ終わっていない、もう一度近代を振り返って見て、組織を再編成し「第三の道」を選ぶべきだ」というものでした。
 このあたりの実情を詳しく知るため、ここで1990年に出版されたギデンズの『近代とはいかなる時代か?』(松尾精文/小幡正敏 訳 而立書房)の序論の最初の部分を引用させて頂くことにします。
 
 「これから私が展開するのは、文化論と認識論を加味したモダニティの制度分析である。その際、私の意見は近年の多くの議論とかなり見解を異にするが、それは、互いに正反対の点を強調しているからである。まず、モダニティとは何か。手始めに、「モダニティ」とは、およそ一七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会生活や社会組織の様式のことをいう、と簡単に述べておきたい。この規定では、モダニティを、それが最初に確立された時期や地域と結びつけて考えているが、さしあたりモダニティの主要な特徴については慎重にブラック・ボックスに入れたままにしておきたい。
 二〇世紀末の今日、多くの人びとが論ずるように、われわれは新たな時代の幕開けに立ち会っている。社会科学はこの幕開けに対応しなければならないし、また、この幕開けは、われわれをモダニティの彼方に連れて行こうとしている。こうした時代の転換を指称するために幻惑するほど多様な名称が提唱されており、なかには、(たとえば、「情報社会」や「消費社会」といった)新たな社会システム類型の出現に積極的に言及するものであるが、そのほとんどは(「ポスト・モダニティ」や「ポスト・モダニズム」、「ポスト・工業社会」「ポスト資本主義」など)むしろ既存の社会のあり方が終わりを迎えはじめている点を指摘している。この問題をめぐる論争では、主に制度変容に焦点を当て、とりわけわれわれが物的財の大量生産に基盤を置いたシステムから、もっと情報に中心を置くシステムへ移行していると主張する議論も一部でなされている。しかしながら、これらの議論は、通例、主に哲学上の認識上の問題にむしろ焦点を当てている。その点は、たとえば、ポスト・モダニティという概念を最初に広めた責任を負う論者、ジャン=フランソワ・リオタールに特徴的な見地である。リオターによれば、ポスト・モダニティとは、認識論を基礎づけようとする努力や、人間が画策した進歩にたいする信仰からの転換を指している。ポスト・モダニティという状況は、「壮大な物語」------  われわれが、動かしがたい過去と予測可能な未来を担った存在として歴史のなかに身を置く際の手段となる、そうしたすべてを包摂する「物語の筋」----- の消散を、その際立った特徴にしている。ポスト・モダンという見地は、複数の異質な知の主張を容認しており、その主張では、科学が特権的地位を占めることはない。
 リオタールが表明したような考え方にたいする典型的な反応は、理路整然とした認識論が確立可能である-------- したがって、社会生活や社会の発達様式に関して一般化が可能な認識を獲得できる------- ことをさらに証明すべきである、というのである。しかし、私はそれとは異なる取り組み方をしていきたい。社会組織について体系的認識を得ることができないという感情のなかに表出する方向感覚の喪失は、自分たちには完全に理解できない。大部分統制が不可能に思える事象世界のなかに自分たちょが巻き込まれているという、われわれの多くがいだく意識に主に起因している、と私は主張したい。なぜそうなったのかを分析するためには、ただポスト・モダニティ等々の新語を創作するだけでは不十分である。むしろ、ある明らかな理由から従来の社会科学では十分解明がなされてこなかったモダニティそのものの本質について、もう一度考察し直す必要がある。われわれは、ポスト・モダニティという時代に突入しているのではなく、モダニティのもたらした帰結がこれまで以上に徹底化し、普遍化していく時代に移行しようとしている。モダニティの彼方に「ポスト・モダン」という新たな、いままでとは異なる秩序の輪郭を確かに目にすることができる。しかし、その秩序は、現在多くの人びとが「ポスト・モダニティ」と称している秩序とは、明らかに異なるものである。  --------- 」
                                 
  日本の若者文化としてのマンガ、アニメーション、映画。それにフィガーなどに主体的に現われていた彼らのサブカルチャー運動は、それまで「西洋に学び追いつけ」という方向性を中止したものだった。また、日本文化の代表として西洋に提示していた東山文化から標的を転じ、先ずいちばん近い近世の「江戸文化」に振り向くことを手始めに、平安朝時代から古代にまで歴史を遡って、その中に自分を見い出そうとする気風が起こったことは、この世界という現在時で「レフレクション 再帰性」という思考の転回が行われたからだった。

 また、ギデンズなどと違う道から「歴史は、過去を振り返ることによって前へ進むことが出来る」と言ったベンヤミンは、彼の「パサージュ論」によって19世紀から始まる「モダニティ」を求めた場所は、ナポレオン三世がつくった大道り(ブールヴァール)の内側に取り残されている「パサージュ(通路が蜘蛛の巣状に混み入った商店街であり、人びとの散歩道でもあった。特徴は雨の場合を考えて天井をガラス張りのアーケードにしていること。)」でした。
 エンヤミンはパサージュを対象に観察することによって発見したものは、「ヴァルール、プロセス、作用がつくるモダニティの“機能”とは違って、それは「くもの巣状に張り巡らされたWWW、袋小路の行き止まり、思いがけぬ大道りへの抜け道」の、人間の思考の忘れられた道を暗示するものであったのです。そしてまた「内と外」「閉ざされた空間から開かれた空間へ」の問題を暗示する空間現象でもあったのです。
 このベンヤミンが新しい思考を生み出す対象として選んだ「パサージュ」のイメージが湧かない人のために説明しますと、次のような説明になります。
 今でも何々銀座として東京に残るアーケード商店街を、1本の筋道だけでなく、もっと複雑な、例えば岐阜市の柳ケ瀬商店を人が路に迷うように蜘蛛の巣状に複雑にしたものと、想像して頂きたい。
 更に納得するためには、六本木ヒルズがわざわざ店を探すのに迷うようにぜんたいの構図を造ってあるのは、この「パサージュ」のイミテーションである、ということです。お台場の「ヴィーナス フォート」もその典型例。その後に出来た六本木の「ミッド タウン」は、危険度を怖れて、この迷路の部分を少なく、オーソドクスに戻したものです。
 そしてこのような「パサージュ」の店が突然流行したのは、パリのポンビドー センターで「ベンヤミンの展覧会」が開かれ、その影響でラスベガスがこの「パサージュ」風の商店街をつくって評判になり、それが日本に伝播した、というわけです。


 アダム・スミス と グローバルな時代
 
 アダム・スミスが1776年にイギリスで『国富論』を出版した頃は「重商主義」の時代で、同じ商品でどれだけ儲けることが出来るかを競っていた時代だった。それに対して「労働価値説」というのは、その商品をつくるのにどれだけの労力を要したかで、商品の価値を決める説なのです。
 この「労働価値説」はアダム・スミスからイギリスの経済学者デヴィット・リカードに接がれ、その後にマルクスによってプロレタリア階級のために『資本論』が組み立てられたのです。
 分業化され単純化された作業の中では、人間の「価値」という問題がそこでは平均化されていたが、「価値」というものを時代がつくる状況の中で、いかに価値が生じ、どのような作用がそれを動かして行くかという新たな問題が提出されて行ったのです。
 その後、社会学物のジンメルは、「価値」と、それに向かっての行為としての「作用、または操作」と、それが働く関係経路としての「プロセス」の三者を重要な要素として捉えたのです。
 時代精神としては、その底辺には産業、鉄道などによる「機械が物を動かす」という「機能的な働き」の観念があり、それが社会を動かしているというのがモダンの考え方の特徴なのです。歴史的にみると、その後の「構造主義」の時代、それにつづく「脱構築」の時代以前の特徴なのです。
 その機能を包むかたちで次に考え出されたのは「構造」で、構造という思考が働くには、国家という枠組みと組織という制度が必要になってゆくわけです。物事をぜんたいから見ることで、したがって、近代の枠組みとしての国家が主体となるのです。それに対して「脱構築」というのは、革新的な意味から、目の前の制度をいかに解体するかを問題にしたのです。

 アダム・スミスが経済学における重要な項目として取り上げた「分業、市場、貨幣、労働価格、労働の賃金、資本の利潤、国民資本など」のなかで、中ほどの「労働価格、労働の賃金」の部分がモダンの時代に問題視され、そこから国の全体的構造の問題として、「全体と部分」の関係が揺らぎ始めたのがポス モダンの時代で、「貨幣」の流れを転機として、国家の枠組みを越えて前掲の「分業、市場、」と後掲の「資本の利潤、国民資本」が国家の枠組みを越えて複雑に絡みはじめ、そのため強固に枠組みをつくっていた欧州連合帯のEUが思わぬユーロの苦難を嘗めているという現実から、人間よりも「貨幣」が主体となって国または連合体の外で動きはじめたのが、現在のグローバル世界なのです。

 そのグローバル世界での現在(2013年10月)のアメリカの状況を素描すると、次のようになります。
 事の起こりは、アメリカの上下議院の「ねじり現象」によってオバマが提出する国民皆保険制度が通らないことが最初の原因で、それに続いた最も重要な2014年度の会計予算が通らない、という時点に至ったのです。そして、このまま議会の対立が続けば米国債の債務不履行(デフォルト)が避けられない状態になっているのです。
 結果、大統領が10月に予定していた、28日のバリ島で開かれるAPEC首脳会議とTPP首脳会議。9,10日のブルネイでの東アジア首脳会議に出席出来ず、この原稿を書いている10月17日がちょうど政府債務上限の期限になっているのです。
 米政府の債務上限は法律的に決まっていて、現在その限度である16兆7000億ドル(約1630兆円)に既に5月には達していて、今は政府内の資金融通で凌いでいる状態なのです。それもこの17日が限度で、ルー財務長官がこの10月1日に下院の共和党を代表するベイナー下院議長に書簡を送り、議会が政府債務の上限引き上げを認めるよう依頼している状態です。
 
 そして、今日17日の朝刊によると、16日に上院の与野党幹部が超党派の打開策をまとめ、暫定的な債務上限引き上げや政府の全面再開などで合意したと報じています。しかし、米国債のデフォルト(債務不履行)が回避できるかどうかは、下院が上院案を可決するかどうかに焦点が移っている、と報じています。
 結局、この執筆を休憩した後の午後になって、米議会の上下両院は16日の夜(日本時間17日午前)、2014年2月末までの米政府の債務上限(借金の限度額)引き上げと、米政府機能を再開するための14年1月までの暫定予算を盛り込んだ法案をそれぞれ賛成多数で可決したことを知りました。
 が、このことは、数か月の時間稼ぎで、いづれ米債券のデフォルトと政府機能の一部停止という異常事態が何時起るとも限らないのです。
 このような状態では、アメリカはすでに「パックス・アメリカーナ」の地位を既に失っている、と言えるのです。

 先ず、近代国家を形成する国民のための経済と、国境を越えたグローバルな交流のための経済とが、いま国境の内、外の関係としてクローズアップされる時代となっているのです。貨幣が先端を切って、国境を越え、それぞれのグループで通貨戦争を演じる段階に入っているのです。
 物を製作する上での分業が、各国で造られた部品が国境を越えて集められ、完成品として組み立てられるプロセスとして演じられるグローバルの時代となったのですが、部品工場と完成品の組み立て、最後の輸送までのプロセスを、それが外国の商品であるのに、すべて中国の地で中国人で成されているとしたら、どうなるか。そして又、その作業がタイとかベトナムに変じたとしたらどうなるかを考えてみると、このグローバルという世界が透けて見えて来るのです。
 また、輸出の段階でドルまたは円が安い場合、アメリカと日本が輸出において得なのですが、ドルと円が安いということは、本来はドルと円の価値が下がることになるのです。ここに矛盾と、事の不公平さが見えるのです。それは基軸通貨国のアメリカのドルとそれに準じる日本の円を、その中央銀行であるアメリカのFRBと日本銀行とがみだりに金融緩和してドルと円を乱発すること。G5やG20などが互いの基準によって、輸入、輸出のバランスを決めることに成功していないこと。これらの不当行が原因なのでしょう。
 要はパックス・ブリタニカの後をパックス・アメリカーナが第二次大戦以後に継いだのですが、ニクソンが金本位制からドルを外した「ニクソン・ ショック」以来ドルが権威を失い始めたのです。それ以後、アメリカは金融緩和を矢継ぎ早に行って、最早この2013年10月に至って、上記のような状況になっているのです。
 しかし、これは「アベノミックス」のばあいにも、われわれは合わせて考慮すべき問題なのです。

 
 終 章

 ジュゼフ・F・スティグリッツが、彼の著書『世界の99%を貧困にする経済』で述べているように、世界の1パーセントの政治家と資本家たちが自分たちだけの利のためだけに動いているのです。そして、財務省を中心とする各省が「財務拡張」によって膨大な予算を放漫に使用して来た過去を国民は管理することが出来なかったのです。
 金融という金銭の架空の動きが国境を越えて動き出した現在至っては。、もはや元に戻ることは出来ない。それをどのようにプラスの方向に変えることによって近代を越えるほかないのだが、今のところは自国の利益ための通貨戦争の場となっているのです。
 しかし、本来の商品作りとその交換による商売というものはそんな筈のものではなかった筈なのです。
 良い物を創って、それをお金と交換して相手に喜んで頂き、そのことによって相互に親しい交友関係が結ばれる。そして本来は「お金は溜め込むものでなく、使うためのものでる」。その考えこそ、経済学を倫理学の一部と考えていたアダム・スミスと共通するものです。「貨幣」が「資本」へと膨らんで、それが「私欲」と結びついたらば、折角の海外での「分業」で互いに利を分ち合うことによっての「友好」を結ぶ機会を失うことになる。理想的なグローバルの世界から見たばあい、国の野望から戦争を起こすこと、環境を汚すことによって、地球の気象を生活できぬほどまでに乱すことは、もはや時代遅れなのです。

 ルーマンの社会システム論に生物学の側から影響を与えたチリ出身のフランシスコ・ヴァレラは、その後フランス国立科学研究センター研究部長となり、2001年5月に逝去しましたが、彼は晩年にこの世に言い残したいことは、仏教を大乗仏教から讀みなおさなくてはいけない、という勧告でした。それが仲間の協力を得て『身体化された心』として纏められたのが1991年でした。これはヨーロッパに対してだけの忠告ではないような気がします。
 それに、驚くべき現象が、身近な中国で今起こっているのです。あの利にばかり走っていると思われていた中国の民衆が、政府官僚の賄賂の酷さと、自分たちの身は一生「99%」の枠の中から抜け出せないと自覚することから、突然伝統的な精神に気づきはじめ、それが急激に広がり始めているのです。内訳を言うと、民衆がキリスト教の教会、あるいは家庭を教会代りにした「家庭教会」に集まりはじめ、一方では儒教の信仰による「道徳観」に向かう民衆の心が驚くべき勢いで増して来たということです。そして政府としても各地で起こっていた経済的格差の不満からの暴動を軟化させる目的でそれを推す方針を取っているようで、この現象は長い中国の歴史から考えると、いづれこの運動は政治的に押さえきれぬほどの動力に拡大するだろうことが予測されます。

 ここで、われわれとしては、あの経済学の聖書とも言われる『国富論』を著したアダム・スミスは、この書物を倫理学の道徳の立場からこの本の著作に当たったことを思い出すべきです。
 そして近代から新しいグローバル世界をこれから創ることを負わされたわれわれとしては、目前の成すべきことの整理と、日本の伝統的な「心と精神」の問題を大切にすべきだ、ということです。

これは、予定された鴻英良氏との対談のため、予め基調文となるものとして2013年17日に書かれたものです。


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