1) 大串孝二さん に
眞言密教の空海(A)
「眞言密教を称える空海は、われわれの身体の外にある自然空間を、素材として「地水火風空」を挙げ、「地水火風」の四大に、それまでの歴史的な“宇宙としての意味の「空」”とか、大乗仏教の中観派が称えた“有るでもない、無いでもない哲学的な「空」”とも違って、われわれの眼の前に広がる“日常的な空間を「空」”を追加し、五大とした。
そして、その中でも空海は「水」を一番大切に考えていたのです。「水鏡」という言葉がありますが、「水面」に太陽の「光」が当たると反射します。密教の教主である“大日如来”は、天空に輝く“太陽”のことで、その陽の光は智慧なのです。
宮坂宥勝氏によると空海の著作とされる『秘蔵記』に、次ぎのように記されているという。「絶対の智慧を、遍満している水そのものにたとえており、また、あるがままにあらゆるものを映し出す智慧は、その水がよく澄んでいて万物を映すのにたとえている。そして、平等性の智慧は、いっさいの事物が水のおもてに平面的にまったく平等に映し出されるものにたとえ、さらにそれぞれのものを差別相さながらにありのままに映し出しているのを、水がさまざまな事物の色彩や形をそのままに映し取っているのにたとえる。実践的な智慧のはたらきは、その水が万物を養って成長させているのにたとえているのである。」
大串さんの、こんど作品に反射鏡を使うアイデアは、思いがけなく有効な働きをすることになります。よくも考えついてくれた、と感心しております。
と言いますのは、この作品の第2幕で展開する場面は、第1場面の現実世界のポスとモダンの「自己組織化から始まり、その停滞時期の反復と内省の時を経て、反省と過去への回帰に至る時代の流れ」を、ホモンクルスの役の里見さんが突然の豪雨の来襲を機に、舞台を「大地」の軸を中心に逆転させ地下の真相世界を露に見せることになるのですが、この内サイドの場面は空海の眞言密教の“陀羅尼の世界”なのです。(舞台を逆転させる里見さんのホモンクルスの役は、第2場の五大の中では「水」の役にしました。それで雨を操ることが得意ということになります。なお、このホモンクルスと、柳田国男が語る遠野のザシキワラシとの差については後述します。)
空海は日本を代表する宗教家であると同時に、最高の思想家でもあるのです。日本を代表する思想家として西田幾太郎と鈴木大拙を挙げるのが普通
ですが、その思想の根底を為すものが禅宗と言っても「臨済宗」で、その彼らの思想の根底に“華厳宗”が与えている影響について触れる人は少ないです。
法華経からの中国の天台、日本の道元に与えた影響、華厳宗から密教への繋がりなどに注意を注ぐ人も多く出て来ていますが、この際、もっと紀元前後のそもそもの大乗仏教の始まる頃から歴史を細密に辿って調べて行かないと、旧来の歴史学の慣習に添って、奈良・平安朝の宗教は鎌倉仏教よりも劣っていて呪術的なものに過ぎない、と決めて終わるだけなのです。
顯教と密教との差こそ大事なので、それには密教というものを、これまでと違った別の観点から捉えて行かなくてはいけない、と思っています。
大乗仏教と密教とはどう違うのか。大乗仏教が起こり始まる頃から、大乗仏教への最初の徴候として般若系統の経本と平行して、密教的な呪術系統の経本も出ていたのです。
そして、はっきりと密教と類別されものが発祥したのは4世紀頃と言われていますが、時代がさらに下った7、8世紀の、大日如来の教えを中心とするものを「金剛乗(こんごうじょう)」と呼んでおり、同時期にインドにおいて『大日教』『金剛頂経』の経典を元にして明確な密教の体系を創ったことを基準に、それ以前の密教を雑密(ぞうみつ)、それ以後の中国に伝わり、不空を経て恵果から日本の空海に伝わった密教を含めて純密(じゅんみつ)としたのです。
しかし、同じ純密の「密教」でも、空海の「眞言密教」は違う。それだけ空海の「眞言密教」は独自なものです。
でも、その前に「密教」の“密”とはどういう意味を持っているのでしょうか。西紀初めの頃の「密教」は呪文(「じゅもん)を称えて呪術的効果を願うものだったのですが、『大日教』『金剛頂経』の経典が出てから以後の純密教の“密”は、日常的な領域を越えた真相の世界の状態を“密”と解釈し、それを対象としたのです。そして空海は、そこに至る独自の道を“眞言”に求め、自らの「密教」を「眞言密教」と称したのです。
では、空海の“眞言”の“眞なる言葉”とは何か。それは「日常の言葉では達し得ない“密”なる世界に達するためには「からだでサインをつくり」“眞なる言葉”としての“陀羅尼(ダラニ)”を称える道を考えたのです。
人は「それが哲学か」と言うでしょう。そうではないのです。これは理解出来ない真実、真相を見い出すためのそれは空海の宗教的手段であって、その背後の空海の哲学は両マンダラの、これも理と智の構図の内側に隠されているのです。
その内側にどうしたら入って行けるかの解釈の紐が、今度の作品のテーマなのです。そうです。“紐”と“かたち”と“色”が今度の三大テーマなのですが、その内側に秘められているのが空海の哲学です。
インドにナガールジュナ(龍樹)という大乗仏教の「中論」を称え、「空」の問題を提出した人がいます。西暦2世紀頃に活動したと言われていますが、その龍壽の『大智度論』には、上の大乗仏教と密教とが同時に隣り合い、発祥して行った時期のことが書かれていますが、その両方に詳しかったナガールジュナの大乗仏教の龍樹こそ、一方で内側の教えを説いた密教の初代の祖である“龍猛”その人ではないか、と問わているのです。
東大の名誉教授で「仏教学会」の理事長でもある高崎直道氏は、禅宗の曹洞宗の方ですが、同じ禅宗でも臨済宗と違って仏教の歴史を釈迦の時代から大乗、禅宗、浄土宗、唯識論、仏性論から密教まで、全てを通じて詳細に眺める態度を崩さない方です。そのような思考観察によってしか、空海の偉大さを知ることが出来ないのかもしれません。
以下、3度に亘って、空海とこの作品との関係について進めて行きたいと思っております。
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