Thursday, August 06, 2015

10月公演のために


3)  大串孝二さん に 


                       眞言密教の空海(C)

この通信は、美術家の大串孝二・映像作家の加藤英弘 両氏と及川廣信によってキッド・アイラック・ホールにおいて数年の間行われて来た「アートは症状である公演」に、今回の10月公演では 、アルトー館のメンバーも加わって発表するに当たって、この転換の期に何がわれわれにとって必要なのかを探索する思考のプロセスを、通信として関係者に送り、芸術家の新しい共通の精神領域を作れればという願いから発するものです。

その思考の対象がどこに向うかはランダムですが、目標とするのは、この芸術のポストモダンの流れは未だに終息せずに続いているのは、世界が混乱のまま継続して
一定の方向性が定まらないためなのですが、しかしそのような時にこそ先に、方向性を明示した作品を製作して世界に訴えることが、芸術家の役割りなのではないかと思うのです。
その時に、日本独自の空海の思想をこそ、その新解釈によって世界に訴えればその混乱を鎮める一役を担うことになるのではないか、と思うのです。そして、思うことを、実践してその可能性を海外に向ってひらくことが今の日本の政治状況は必要としているのです。そのことを自覚することが芸術家の役目なのだ、ということを信じて実践するだけです。それこそが前述した空海の「成所作智(じょうしょさち)」の実践的な“智慧”であって、“智慧”のはたらきがそのまま行為として現れることなのです。

日本人としての私たちに、このような時、大切な暗示を与えてくれる人は空海ではないか、と直観的に感じているのです。宗教家としての空海は“慈悲”として、そして哲学者としての空海は、何よりも“智慧”としての空海です。
空海の“智慧”には、先に分析したように「妙観察智(みょうかんさつち)」という、あらゆるものをことごとく微細に観察する絶対なる“智慧”があります。これこそが現在の量子力学の科学の“智”なのです。
それに、現在の世界に欠けているものは、あらゆる生物、草木、山河、大地、諸物の上に充満している、空海の自然に対する“智慧”なのです。

その実践のためのプランは、われわれがこれから作品の上で取り上げる、空海の「識と、木・火・土・金・水」との関係です。
“識”は意識としての精神的なものから、意志的に構造化するもの、幻想を起すもの、識別するもの、細密な粒子としての性質を持つものとしてまで、身体的なものから抜け出して四大と関わることになるのです。

われわれはポスト モダンをある意味で先導して来たパフォーマンスの試行者でした。しかし来るべき新たな世界と時代に向ってすすむ際に、次ぎは、どのような対策をすればいいのか。その実際的活動のための試作品としてこの10月公演を当てるのですが、そのためにも空海の解釈と同時に、これまでのポスモダンの解釈のためにもヒノエマタのアーティスト達の作品をあらたに読み直す必要が起こってくるのです。
これまでの大串さんの作品の中での未来的なもの、加藤さんのマンダラ作品の再評価など。それに、われわれの精神活動の「キー概念」である“智慧”の根源としての“金剛経”と「六祖恵能」のことにも戻らなくてはならないのです。

でもいっそ、大串さんのデッサン論と、先月の7月6日に逝去したノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏の説との対比から、問題に入って行った方が“智慧”の問題に広がりが見え、結果としてその中心点が明瞭になるような感じがしますので、そこから始めることに致しましょう。

大串さんのデッサン論とは、「デッサンは、なだらか円形の線と、角ばった2つの線の交わりと、小さな曖昧な集まりの部分の三つの要素から成っており、その部分の本質的な色は、「なだらか円形の線」は青で、「角ばった2つの線の交わり」は緑で、「小さな曖昧な集まりの部分」は黄か、あるいは薄桃色かもしれない。

それに対して、南部陽一郎氏の2004年に物理学賞の対象になった量子色力学論は、「本当に色がついているわけではないが、3色のどれか1色を量子が持つと考えることで、素粒子が結びつく理由が説明できる」というものです。(この2つの論から始まる展開は、次回に廻します。)

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