1956年の ハンガリア事件
あの1956年のハンガリア事件というものは、いったい何だったろうか。
フランス留学の2年を終えて日本に帰ったばかりの私が、あの事件の新聞記事を見たとき、そのまま力なく足下の畳に崩れ落ちた記憶は確かなことでした。
ご存知のように1953年の3月にスターリンは亡くなります。そして6月には東ベルリンの労働者が暴動をおこしていますが、反乱はただちにソ連の戦車によって鎮圧されます。1956年までこれらの不安がつづくのですが、フルシチョフは二十回大会で、スターリン神話をあばき、それ迄のスターリン方針をゆるめることを約束したのです。
が、すでに染み込んだ体質はそう簡単に変えられるものではなく、その戸惑いの中の当局に対してポーランド、ボズナニの労働者は、自分たちが社会主義の別の道を考えていることを訴えておりますが、そこまでは問題が起らなかったのです。
しかし、その後中央部の方針が急に変わって強行な路線をとることに転じていたのです。そして、その経緯を知らなかったハンガリアが、今はその時とばかりに立ち上がった瞬間にかれらは粉砕されたわけです。そして全世界の人々はこの残酷な絞殺事件に大きなショックを受けたのです。
それは、1917年10月以来の労働者階級の歴史の中で、最も重要な事件だったのです。これで社会主義の理念のために闘ってきた「正なる歴史」は消えてしまったのです。
私がパリ滞在中は、「鉄のカーテン」もフルシチョフ時代になってからはようやく解かれるような気配が見えてきて、先に東ベルリンの「ブレヒト劇団」が2度も、パリの国際演劇フェスティバルに作品を提出し、絶大な賞賛を受けていたのにつづいてチェコ、ハンガリア、ルーマニアなど東欧の民族舞踊が相継いで招聘され、終演後は劇場前の広場で、お互いに距離を置きながらも和やかな親和の情を見せ合い、この久しぶりの接触を互いにまだ信じきれない様子でした。それがこの無惨な労働者を殺戮するハンガリア事件を突然、起こしたのです。
当時、私は黒田喜夫という詩人になぜか共感を覚えていて、豊島重之、鴻英良、粉川哲夫、ヒグマ春夫、池田一らの諸氏といっしょに福島県の奥地にある桧枝岐(ヒノエマタ)という平家村でパフォーマンス活動を起したときには、黒田氏の詩の中にある、緊迫したその精神性に強く心を打たれるものがあり、彼の詩を愛読しておりましたが、彼の詩集の中に「ハンガリアの笑い」という、このハンガリア事件を対象にした詩がありましが、私と同じように、いや私とは違って政治運動に直接関わっていた黒田氏のこの詩を読んで、私があの畳の上に崩れ落ちた日を思い起こしながら、この黒田氏の「ハンガリアの笑い」の底意を探った記憶があります。
この黒田氏の詩を愛読していた時期は、前述した84年からのヒノエマタ・ フェスをはじめる前のことで、ちょうどその頃、バタイユとシモーヌ・ヴェーユなどを読んでいたのですが、私は考えるところがあって、みすずや筑摩や角川、それに美術出版社などの製本を行っている製本所に工員として朝8時から残業を含めて夜の8時迄、“丁合”の部門で職工として働いていました。勤めたのが5年間だけですが、角川書店の書道辞典があまりにも重過ぎて、その時に腰を痛めて悩んでいた時にシュウ ウエムラに誘われ、彼の会社の企画と芸術顧問を兼ねる仕事を引き受けることになったのです。
あのバタイユがもっとも恐れていたのは、シモーヌ・ヴェーユという女性でした。彼女はスペイン内線時には、人民戦線側について戦っていたのですが、ジャンヌ ダルクの再来のようなイメージを周囲に与えていたのでした。しかし病弱のため1943年に死亡。マルセーユで保養中に親交のあったペラン神父によって彼女の遺稿が『重力と恩寵』という題名で出版され、反響を呼びます。
彼女が言う“重力”というのは、人間としてこの世に生まれたからにはだれでも体内に背負う重力、東洋の「般若心経」で解釈すれば、それは“五蘊”なのです。
“五蘊”とは「色・受・想・行・識」で、“色”は肉体、“受”は感覚、“想”は想念、“行”は意志、“識”は心です。人間はこの世に生まれて。体内の「重力」のように悩み続けるのは、この五蘊のためです。
シモーヌ・ヴェーユはこの重力を消して体内を真空にしなければいけない、と考えた。そして、その真空となったからだの中に、神が「恩寵」として上から“霊”を吹き込んでくれると魂が生じる。
これを東洋の“五神”の身体観でいうと、次ぎのようになる。
神の霊が人間の背後から肝臓に入りこんだものを“魂”と呼ぶ。ついでこの“魂”が五臟を統一する心臓に移動すると“精神”となる。また、この“魂”が人間の骨まで染み込んだものを“魂魄(こんぱく)の”魄(はく)”という。
そして、人間が亡くなる時に人魂(ひとだま)は躰から抜け出し、しばらくは自分の死体の周り人たちの嘆き悲しむ人たちの様子を上部から観察している。そして屍体がそのまま土葬された場合には、燐となって地上に浮きだす。それが魄で、部首の“へん”の白は、死者の頭蓋骨を示す。
また、脾臓は“意(い)”を表わし、腎臓は志(こころざし)を意味し、二つ合わせると“意志”となる。こうして神の霊から“五神”となって人間のからだと結びつく。このようにしてからだの真空は神によって埋められる。
これが仏教の場合は、人間はだれでも体内に仏性を持っていて、それを修行によって浮き出させればいいことになっている。
鵜飼さんの略歴を拝見しますと、パリに留学されたのはちょうど1984年から1988年ですね。そして1981年の5月10日に社会党のフランソワ・ミッテランが大統領に選ばれ、それからのパリの雰囲気というのは以前とはがらりと変わりました。
たとえば、以前は、英語を話すのを恥としたフランス人がみんな得意になって英語を話している。私から観ると魂を売ったフランス人ばかりのように見えるのですが、まだフランスにはブルデューとか、ル・クレジオのような人が残っています。
そして、鵜飼さんがパリに留学された1984年から1988年というのは、私もシュウ ウエムラの店の仕事、ショーの演出の仕事、ジャパン フェスティバルや日本のパフォーマーの公演などで、この館、続けて滞在していたわけではないけど、間を縫ってこの時代のフランスのことは経験しているのです。しかし、私の場合はヨーロッパにはその後まったく行っておりません。
さて、次ぎの本題は、このハンガリア事件と連結した「68年の革命」に入って行かないといけないのですが、鵜飼さんが通われたパリ大学第8というのは、この68年の事件にさいしょに問題を起したところなんですね。しかし、鵜飼さんがパリに留学されたのは1984年のようですが、遠い過去のことではなく、何かその名残りというものがありましたでしょうか。
私はこの世界的な1968年の問題というものは、日本の68年もそうなんですが、フランスの68年の問題というのは、なかなか複雑で分り難い。結局大学の問題から事が起って、それが共産党とからんで複雑な問題を起していただけでなく、フランスの場合はその上、知識人という政治に五月蝿い階級があってさらに混乱を招いており、さらに、その判断となると時代が移るごとにその価値判断が代わってくるのです。そういう意味ではフランスの68年問題はいまだに尾を引いているようです。
たとえば、フーコーとレヴィ・ストロースのばあいにしても、あの騒ぎのためにもっと問題にすべき大きなものが取り残されているようです。
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