根本さんに
ジョン・ケージ と 高橋悠治
この9月のアルトー公演は、考えてみると今年の正月の根本忍さんの来宅から始まったようです。根本さんはその時、高橋悠治氏が書いたもののコピーをたくさん抱えこんで来ました。それに加えて、メシアンの「鳥のカタログ+庭虫喰」についてのコピーも大部なもので、その中にはメシアンとケージが対面した時の写真も載っていました。
メシアンはかって来日したことがあり、日本の高橋悠治氏や武満徹氏とのその時の交流はたいへん印象的なものだったようです。根本さんはこれらの音楽家に触れながら話している内に、彼が言いたいことが少しづつ私に分って来ました。
つまり、高橋悠治氏が現在悩み求めているものと、武満徹氏が文化人類学者の川田順造氏と共同研究しているのとが同じものである筈はないのですが、音の根源的な方向の問題に当たっていることは確かなのです。
根本さんはわれわれが “龍安寺”の石庭をテーマにしていることに興味を持ってくれたようで、さっそくジョン・ケージの “龍安寺”の石庭をテーマに作曲した作品を持って来てくれ、また、それにつづいて細密な音の傾向のものを沢山用意してくれました。
根本さんは、その後イナーヤト・ハーンの『音の神秘』を贈呈してくれたことなどを考えると、何かが既に彼のなかで、この9月公演に向って、事が進んでいたようです。
そして、“無”という大きなテーマが、われわれに提示されることになり、それをこの“龍安寺”の石庭のテーマに当て嵌め、禅宗の修行によってこの石庭が提案している問題を解くことがわれわれに課せられたのです。それにはわれわれは先ず「般若心経」と「華厳経」に当たり、大乗起信論を仲立ちにして「大悲」の道に至ると同時に、われわれが念願とする「霊性」に触れ、それにより内部と外部との境界を越える“自在”の域に達することができればと思うのです。
以下に、根本さんが持参した高橋悠治氏の文章を掲示します。
断片から種子へ
高橋悠治
要素から全体を構成する あるいは全体を分析して構成要素にたどりつく このやりかたでは 全体は閉じている 範囲が限られ 細部までコントロールされた一つの構成は 予測をこえないし 発見の悦びがない
ひらかれた全体を異質な断片の組合わせ構成するやりかたもある 1960年代にヨーロッパで「管理された偶然」と言っていた音楽のスタイル その時代には 図形音譜のさまざまなくふうもあった でも 組み合わされた全体が 紙の上に見えているなら どんな順序で断片をひらいてあげても 全体の枠の外には出られないだろう
「断片」はこわれた全体の一部を指すことばだから 創造のプロセスが停まらないようにしたければ 「断片」をつぎあわせるのは いいやりかたではないかもしれない 異質なものが出会うコラージュには衝撃力がる 絵なら 画面の上で自由に視線をさまよわせることができるが 音楽ではそうはいかない
音の流れには方向がある それまでのできごとの残した記憶は消えない できごとの時間順序を変えると 結果はおなじではない 後に起こったことが近く感じられて 先に起こ ったことの効果に影響する 音楽では コラージュは 絵のような効果はもちにくい
すぎてゆく時間のなかをと通りすぎて音は 響きの痕跡が記憶のなかで一つの瞬間と感じれる それをメロディーといってもよいだろう メロディーが完結することはない 音は呼吸で区切られるが その長さはさまざま 余韻でのあり 予感でもある 瞬間のなかの音は この区切りの中なかで 作り変えることもできるが 音楽は立ち止らない 練習するときは どこかで立ち止って ちがうやりかたをためすが いつまでもこだわっていると 決まった手順のくりかえしになってしまう 作曲するときも 細部へのこだわりと先へすすむ流れとの両方を考えて作業をつづける そのバランスをとるのがむつかしい
ウィリアム・ブレイクの「虎」をきっかけにピアノ曲を書く 日本語に訳してみると 詩はこわれる リズムや響きは別のものに置き換わり ことばの意味もずれて行く それで も音楽をはじめるきっかけにはなる その音楽は いったんはじまると ブレイクからも虎からもどんどん遠くなる
虎 ウィリアム・ブレイク
虎 虎 らんらんと
夜の森に燃える
なにが 不滅の手と眼で
おそるべきつりあいをかたどったか?
はてしない深み はるかな高みに
眼は炎と燃えたか?
はばたく翼はなに?
炎をつかものはだれ?
力と技はどのように
燃り合わせたか
心臓が波打つと
なんとすごい手 すごい足
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ゆったりと呼吸でき うごきまわれる空間があれば あの読めない流れのなかでひらけた
空間に いままで見えなかったものが現れ 見えていたののが隠れる メロディーが自然
に移りかわり ただすぎていくあかりだった時間のなかにも めぐるながら変化する季節の風景が浮かぶ 作曲や作品の演奏だけでなく 即興でも ありきたりのパターンのくりかえしや組み換えだけでなく 流れのなかに移ろうかたち」が見え隠れするのが感じられるかもしれない 音楽家はもともと音楽の三つの」やるかた 即興と作曲と演奏のあいだを行き来するあそびができる人たちだった
種子を風がばらまくと そのうちに隠れていた花があらわれる 待つ時間は 何も起こらなくても たいくつはしない 音楽を選んでいくのは 音だけでではない 沈黙もたえずうごいている
時間順序のなかで 不ぞろいでそれぞれの顔を持った習慣をどうやって折り合いをつけるのか
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