Monday, August 08, 2016

アルトー館公演



宮田 さんに

     形而上学 のこと

宮田さんとは今年のはじめ頃から、われわれが主題としているポストモダン以後の今後のわれわれアーティストに課される任務のことを話し合っていたのでしたが。ある日、とつぜん当面する芸術、文化とは直接的でない、遠く離れた感のある、カントと形而上学の問題を持ち出されたり、あるいはこれも唐突に、ヘーゲル全集を購入し読みはじめたと聴くと、なにか50年ほど前の自分に引きもどされた感じがして、戸惑いを感じたのです。
でも、考えてみると、現在のわれわれとしては、なにか根こそぎ自分を持ってゆかれた感じで、良い意味ではそれが、日本の伝統的な主題である“無”とか“空”とかを考えさせる、ちょうどその時期にわれわれは立たされているのだとあらためて思い返すのでした。
それ故にわれわれは今になって、「般若心経」とか「華厳宗」などに本格的に立ち向かっているのでしょう。

そういえば、美術専門の宮田さんは同じく美術専門の北山研二さんと現代の美術状況についてお互いに鋭い観点から話し合っていたのを、先日傍らで聞いていたのですが、視覚による認知にしろ、音に対して細密な関わりを求めている音楽家の高橋悠治氏や武満徹氏なども、その自然にたいする態度も、今は分析的な構成で行くか、スピリチュアルな態度で当たるかの2つの道のどちらかを選ぶほかないのでしょう。
考えて見ると、いづれにしろ、この分子力学、量子力学の時代に入ってからは、細密な関係からものを見て、感じてゆくほかはなく、これまでとは別の世界に踏み込むことになっており、その境目をどう繋いで行くかが新たなテーマとして生まれて来てもいるのです。

さて、私自身を振り還れば、やはり宮田さんと同じように、急に押し入れの奥から井筒俊彦氏の『神秘哲学ー第一部 自然神秘主義とギリシャ』(人文書院)を探し出し、あらためて再読し始めたり、これもまた稀覯本ですが、かっての富山房百科文庫のFr・シュレーゲルの『ロマン派文学論』とか、シラーの『美学芸術論集』を読み出しているのです。
そして、さらに急激に、ハイデッカーとの討論で打ち負かされたというより、当時の時代風潮に追われた感のあるカッシラーの『人間』とか、同じ象徴主義の、これも岩波書店から出版されているランガーの『シンボルの哲学』なども新鮮な感覚であらためて再読するということは、近来の大脳科学の発達によって「再現芸術 ルプレザンタシオン」というものが、どのような大脳の経過で行われているかが分ってきて、その脳内の経過を跳び越えて独断で判断きない時代になったからでしょう。

しかし、宮田さんのしろ私にしろ、これらの歴史を読み直してゆくような行為をはじめたということは、時代の変わり目として無意識に要求されている結果なのでしょうし、これほどまでに“無”の実感を感じさせられる時代はなかったのです。歴史を振り返るとしても、戦後70年どころか、江戸時代も室町時代も遡って、いきなり神話の時代に入ろうとしているのです。
そして、レヴイ・ストロースという偉大な文化人類学者のことを思いおこすのです。レヴイ・ストロース原住民と同じように「霊性」で語るのです。われわれは彼の忠告に従って、すでに失っている、その本質なものを心の底から蘇らせなくてはいけないのです。


ここで、最初のカントのことに戻りますが、当時のケーニヒスベルクにはカントより先輩で、「北方魔術師」と呼ばれたハーマンという天才的な人物がいて、カントはその先輩のハーマンを誘い込もうとしたのですが、肯んじなかったようです。
そして、此のハーマンにヘルダーが学び、ヘルダーがゲーテをつくり、ゲーテとシラーの後には、Fr・シュレーゲルの『ロマン派文学論』が出現するわけです。
なかでも、ヘルダーの影響力は大きく、彼の古典ギリシャからシェイクスピアを含めた解釈論は素晴らしく、また彼はハイデッカーとは違って、世界と人間を解釈するのに、時間的なものだけでなく、空間的な風土を重んじており、その点では日本の哲学者の和辻哲郎氏は大いに影響を受けており、このあたりが、私の興味を多く惹くところです。


ついでに、先の富山房百科文庫のFr・シュレーゲルの『ロマン派文学論』の訳者である山本定祐氏の解題の最初の部分を以下に掲げておきましょう。
「十数年も前のことになるが、「美神の無常」という意味の表題をもった、ウラジミール・ウェイドレの、知的感興をそそるという点で類のない本(邦訳題名『芸術の運命』)を読んだことがあった。そのなかにロマン主義とは様式の死である」と喝破した文章があって、これは当時のわたしには事情がよくわからぬなりになかなかの卓見であるように思われた。
つまり現代文学が今も抱えこんでいるさざまの問題の根はロマン主義にあるわけだ、とわたしは考え、当時出版されはじめたばかりの校訂版フリードリッヒ・シュレーゲル全集を買って読みはじめた。

これがシュレーゲルとの長いつきあいの始まりで、いま彼の文学論を一冊にまとめるという仕事をしてみて、ウェイドレのこの論断は大筋においてまちがっていないし、むしろ問題のありかを見事に言いあてているとあらためて感じ入ることになった。

しかしながら、たとえば「カントは世界の方程式を主観の側から解き、ゲーテはそれを客観の側から解いた」というジンメルの名文句とおなじようなもので、ウェイドレの規定は問題を一刀両断にして颯爽たるところはあるけれども、それだけに錯綜した問題圏の全体が単純化されすぎてしまったきらいがないわけではない。ここに選び出したフリードリッヒ・シュレーゲルの文章から、そのあたりの消息がおわかりいただけるのではないかと思う。」



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