“五 月 革 命” と称されるもの
1968年の“五月革命”を、ポスト ボダンを起した現象としてだけでなく、もっとおおきな近代のモダニティの視野の中で捉えてゆくためには、北山研二氏が翻訳し、「訳者あとがき」も付されている、ジャン=フランソワ・リオタール著の『聞こえない部屋 マルローの美学』(水声社)を参考にすべきだ、と私は考えたのです.。
それに、このリオタール氏はあのポスト・モダンの時代に『ポスト・モダンの条件』という書物を出版し、当時の討論テーマの中心的な役割を演じたのですが、氏はこの5月事件の翌年の1969年に、パリ大学文学部のソルボンネの講師として入り、その後68年に最初に事件を起したパリ第八大学に移動している。このあたりが如何にもパリの知識階層が“五月革命”なるものを起したかの印象を与える。
そして、この“革命” と称される騒乱によってフランス座を不当にも占拠され、汚名を受けることになり、結果として、ドゴールとマルローの戦略のため犠牲になったジャン=ルイ・バローは、氏の自伝『明日への贈物』石沢秀二訳(新潮社)の中で、この事件のパリ市内での暴動の経過を語り、ついでフランス座に中心部部が乱入した経過を述べながら、“革命”と称するものが、いかに本質的なものが隠され、結局、当面する事態は不満のあまり暴れたいだけの学生の空騒ぎに終り、しかし歴史的にはいかにも思想家が時代を動かしたかのような印象を残し、それを革命と称することに対する参考人としてこの2冊の本を取り上げます。
また事件の検証と同時に、これを今こそ、モダニティーぜんたいから捉え直す必要があり、それには、あの『ポスト・モダンの条件』の著者で、しかもこの“五月革命”に応じた当事者のマルローのことを書いてあるリオタールこそ、ポストモダンからというより、もっと幅の広いモダニティぜんたいから捉えるばあい、最適人者であると思います。
この本の訳者は北山研二氏で、載せられてある氏の「訳者あとがき」の文は、訳者の域を脱して5月革命の現場を訳者の側から作者を透視している感があるのです。と言うことは書いているリオタールと書かれているマルローを、その時代といっしょに訳者の眼で重ねて見ているのです。
これこそ、ベンヤミンの言う“翻訳”の役割というのは、こういうことなのでしょう。そして大事なことは、歴史を書くものは、さらにそれを訳す者はヘルダーのように歴史哲学者の眼がなければいけない、ということです。
しかもこの“五月事件”のようなものを、仕掛ける者が構想をもって演じるばあいには、モダニティのドイツロマン派の巨匠であるフリードリッシュ・シュレーゲルが「アテネーウム」の“断片”で、次ぎのように言っているのです。
「構想(プロジェクト)とは、生成の途上にある客体の主観的萌芽である。完全なる構想とは、したがって同時にまったく主観的にしてまったく客観的でなければならないだろう。生きた不可分の個体でなければならないだろう。その成立ちからすればまったく主観的かつ独創的であり、まさしくこの構想の精神においてのみ可能なものである。」
結局、歴史というものは真実を書かれてこそ歴史なので、物語とちがって、現実の過去に動いていた歴史の上での主観と客体とが合一しなければいけないのですが、それには主観が客観的に歴史を観る眼といっしょに、その歴史家が哲学を保持していなければいけないわけです。
この5月革命に対してドゴールは「事態は流動的で補足し難い」と述べて、その参謀のマルローとともに身を隠している。ただし、ハンガリアの場合とちがって軍隊を派遣しなかった。また、警察隊も最初は様子を見て出動させなかった。
そして他方のカルチエ・ラタンのパリ大学文学部のソルボンヌ中心に集結した群衆は、自然的な流れとしてその近くのリュクサンブルグ公園をめざすのは当然で、その北端にある国立フランス座が、暴動を起した前衛部が会合する場所として、また相手、政府側と交渉する場として用意するのに適当なことは誰でも気付くことで、しかし、これは予め予定していた計画ではなかったようで、事の偶然的な成り行きで、群衆のデモ隊が偶然のきっかけでバローが統治するフランス座に向って乱入し、そこを革命側の本拠とすることになったのです。
このバローのフランス座は、通称オデオン座と称され、第2国立劇場なのです。第1国立劇場は右岸にあるコメディ フランセーズ座です。
レヴィ=ストロースの『野生の思考』の、彼の言わんとする「無文字民族」の本当の姿が一般に理解されるのは、トロント大学から『神話と意味』が1978年に英語で出版されてからです。しかし、それは “68年”から10年も後のことなのです。また、あれほど社会的に盛りあがったフーコーの主張する思想の意味も同じことなのでしょう。
そして、ポストモダンの眞の思想の流れとは別に、この“68年”の騒乱は、日本の場合と同じように大学生の当局にたいする不満から発したものだったのです。それが、いちばん痛い目に合って、マルローの犠牲になったのがフランス座のジャン=ルイ・バローだったのです。
バローは次ぎのように語っています。
「マルローはテアトル ド フランス創立を私たちに要請した。ドゴール主義は人間的であり、進歩的であった。それは反植民地主義、民族主義、婦人参政権、フランス解放のドゴール主義であった。九年間、文学、劇芸術のジャンルにおいて愉しみが排除された一種の<貯蔵物(たくわえ)>を創造することができた。
同様に、私たちに変化のあるいろいろな<生息相を持つ動物圏>に近づき、それらに沿いながら進むことができた。クローデルージュネーベケットーモリエールーイョネスコーラシーヌーデュラスーナタリー・サロートという作家たち、ブランーベジャーループールセリエーラヴェルリという演出家たち、ビェドゥーシェアーデーヴォーチェという若い作家たち、等々の動物圏である。すべて自由な生命たち。狩猟探検隊を組織できるほどだ。
それに加えて諸国民演劇祭がある。シェイクスピアの偉大な演劇伝統と能・歌舞伎・文楽という極東の演劇伝統と現代の再先端を行くグロトフスキー、リビングシアター、バルバの実験劇とが一堂に出会ったのだ。そして本年諸国民演劇研究国際センターが更に加わる。法律で公認された狩猟者たちが再び姿を表わすだけでなく、若い密猟者たちが自分のパチンコでこれらの野獣たちを狙ってくるのももっともだ。
教訓。<貯蔵>は終った。再び森に戻る。無念!今回の私は五十八歳。これからの生活が難しくなるに違いない。私たちはゼロからの出発となる。」
劇場内の乱入と破壊の跡での、バロー独りの悲愴なつぶやきである。
ちょど折り良くと言うか、また折り悪くと言うべきか、上の諸国民演劇祭のプログラムの日本の伝統芸能の公園が終った時で、あとはアメリカのリビングシアターの公演が控えていたのだが、どうも占拠された劇場内の様子から観ると、この動きの先端を従事っている学生蓮と知らぬ間にリビングシアターのメンバーが同調し、バローを裏切ることになったようなのです。現に、このリビングシアターのメンバーがその後、ジャン・ヴィラールの民衆劇場が主催するアヴィニヨンのフェスティバルに乱入しているのです。
「私はこの歴史的事件におけるオデオン座の役割が何であるかを理解し出した。政府はゲイ=リュサック街の批難された夜を考慮して、もはや五月十五日の夜は、警察を行動させようとは考えず、犬の骨を投げ与えるごとく、オデオン座を占拠させるに任せたのだ。そしてオデオン座は固まる膿となった。こうしてアカデミーや上院、ルーブル、国営放送局が難を免れたのだ。警察はやがて慎重に姿を再び表わし、間もなく救いの神となるであろう。オデオン座を実際に占拠している者たちはーーー。<彼らは自分から退去するだろう>と言われていた。-------------------------六月十四日。ヘルメットをつけたフランス警察がオデオン座を包囲し、解放した。根城のソルボンヌ大学を追われていた<コンゴの黒人>学生たちは劇場の屋根裏に逃げこんでいたようだった。そこで警察は、彼らが<極悪な過激派>と呼ぶ者たちから<学生を保護する>義務があったわけだ。いつものように私が着いた午前中、作業が終りつつあった。劇場支配人は私に前もって通報しなかった。建物内には、もうそれほど多くの人々はいなかった。いずれにしろ学生たちはもう殆どいなかった。警視総監(今回の事件の間、警察はひじょうに人間的に振る舞ったように私は思う)の立ち合いの下で簡単な儀式があったのち-------総監の背後には、文化相の2人の役人がいた-------、秩序は回復された。」
ここでこの“五月革命”なるものの動きの断層と、これが過ぎた後の歴史的な精算が必要なのでしょう。
バローの場合でいうと、演劇というジャンルをギリシャ劇から日本の能にはじまり、現代劇の前衛的なものまで含めて研究を進めている。
この後、それまで雲隠れしていた文化相のマルローが、テアトル フランスを動乱者に自分から開け渡したという理由でバローを辞職させている。
結局、この“五月革命”の後の選挙では、ドゴールとマルローが勝利し、左翼が政権を勝ち執るのは1981年まで待つことになるのです。
次ぎは、アンドレ・マルローとフランソワ・リオタールの厄介な問題です。それに68年の問題もここまで来るとモダニティにまで幅を拡げざるを得なくなります。
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