Friday, August 26, 2016

鵜飼さんに(3)




鵜飼さんに(3)

 黒田喜夫氏の詩「ハンガリアの笑い」の、1956年の「ハンガリア事件」から68年の「五月革命」に至るまでの経過について、この3回のブログで私の触れた文化と芸術の様相を、私の拙い文章ながら鵜飼さんといっしょに考えてみようと思ったのですが、それはとても無理なことであることに気付かされてしまいました。そこで私としては別の観点からこの時代の流れを観察してみることに方針を変えました。

 私はあの「日本の68年」の頃を振り返ってみたのですが、それは確かにあの頃の「反体制の空気の中でも、あの“68年”という年はその前後の継続された時間の中でも、“切迫した息苦しさ”を感じさせられた記憶を呼び起こされました。
 そこで居たたまらず、私は書棚の中から、ちくま文庫の高野慎三の『つげ義春1968』を取りだしてみたのです。そして、つげ義春のあの傑作「ねじ式」が1968年に、この本の著者高野慎三氏のすすめによって作られ、その時の時代の空気が発想の元になっていることと、なんとそれが戦後作家の埴谷雄高氏あたりからの影響と繋がっているようなのです。

 このような日本の伝統的なこころの連結の道がまだあって、しかも、あの“68年”という特別な時機に触れてこそ、つげ義春という特異な頭脳を借りて表出できたのでしょう。
 それが、70年代に入ると石油ショックのあおりもあって、政府の対策のもとに、東京都は利益誘導の政策をとらざるを得ず、また大阪は大阪万博の旗印のもと、すべてが前方に向うことのみを考え、浮かれ気味でいる時、政府と経済界は共に再開発の道を選んで保守と資本の態勢を築くため「システム」という目に見えない欺瞞の手法を演じ、芸術家はテクノロジーと予算の拡大を目前にして、68年当時まで保持していたあの芸術家の心をいつの間にか失ってしまった感がするのです。それが1975年以降の、あのポストモダンの風潮だったのでしょう。

 それでは、前述した68年のフランス座における、バローとイギリスのピーター・ブルックが共同主催し、計らずもあの騒乱の渦中に投げ込まれた「諸国民演劇祭」の企画はどのようなものであったのでしょうか。
 ピーター・ブルック自身はまだイギリスの本国に留まっていて、シェクスピアの作品にに対しては、ピーター・ブルック自身も、ヘルダーが考えていたようなものがあり、ソフォクレスがギリシャ劇に対していたのと同じように、その時代を丸ごと形象化した古典劇として尊重し、その中でのピーター・ブルック自身の演出力を発揮することを望んでいたのでしょうし、一方の事件の直前に仕事を終了したばかりの日本の能と歌舞伎と文楽については、からだと声の技術訓練の点から観て、バローにとっては現代演劇の前衛グループであるグロトフスキやバルバや、裏切りを行うことになったアメリカのリビングシアターなどと同等に“実験演劇”としてもそれらを捉えていたような気がします。

 ここで私は、かっての絶対演劇と演劇批評家の西堂行人との対立のことを思いおこすのですが、豊島さんの絶対演劇が、ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』を上演するばあに、シェイクスピアの『ハムレット』を読む必要はなく、西堂行人のばあいにはシェイクスピアの『ハムレット』を先ずその前提として読む必要がある、という対立があったのでした。
 ここで豊島氏と絶対演劇のグループと西堂行人側とが袂を分かつことになったのですが、このバローとイギリスのピーター・ブルックが共同主催した「諸国民演劇祭」は、それと同じような問題を抱えていたことになるのです。

 しかし、私の判断としては、の当時の世界的な人気は、このばあい、共催側に立つていたイギリスのピーター・ブルックは別として、社会的には恵まれ過ぎていたのです。それにバローが現在立つ地位そのものが国立劇場のディレクターであり、それに体質的に見たばあい、
日本の能、歌舞伎、文楽は前衛というよりも伝統芸能なのであり、どちらかというと革命の対象にされかねない立ち場にいるのです。

 バローにすれば時の文化相であったマルローに依頼されてその任に就いて努力して来たのに、この場になって見捨てられ、犠牲にされたと嘆いているのですが、相手の文化相のマルローは、日本の歌舞伎に出て来る、人気役の「善にも強く、悪にも強い“河内山宗俊”」のような人間だから諦める他はないのです。

 さて、最後にこの問題のマルローのことについて書いた、ジャン=フランソワ・リオタールの『聞こえない部屋 マルローの反美学』について触れたい。そして、ついでに鵜飼氏がこの“五月革命”を最初に引き起こしたパリ大学第八で教わったデリダの現象学と、デリダが晩年に深く関わるジャン=リュック・ナンシーについても若干触れたい。

 まず最初にリオタールの『聞こえない部屋 マルローの反美学』の翻訳者である北山研二氏の「訳者あとがき」の中から次ぎの文を拾ってみました。
 
 「アルトーの声、マルローの声は聴取不能な金切り声のような高音である。自己は金切り声から自己が自己でないことを知る。そのとき、聴取することに、自己に内在する潜在的な超出性が解き放たれるのである。耳のための声を聞く自己と、喉から出る鋭い鳴き声を聴く自己=のない=私とは同じではない。
 金切り声は声音でもパロルでもない。モダンの大きな声の対位法は限界にきている。残るは、声の出ない怪物つまり存在することそのものなのである。瀕死の自己、ある匿名の私が不易な夜に触れる、一瞬のあいだ。断末魔で、抱き合う、耳が聞こえなくなる、ひとかたまりになる、ひとつの喉になる。物語りが忘れられ、神も人間中心主義もなく、不安が喉によって聴かれるのだ。

 芸術作品もまた絶対的な孤独という孤独を交換させる。バルトならば、写真にプンクトゥムつまり息子の魂を砕くものを見て取り、そのことでエクリチュールが現前するが、バタイユならば共有つまり分割を願いながら、非共有つまり非分割を貼り合わせる。聞き取れないものの伝染病(アルトーならば、ペストと言う)の上には、制度はない。「未聞のものは、行ったり来たりして、偶然任せで、しかじかの作品に出現する。マルローの想像美術館にあってさえも、どんな作品といえども、金切り声の責め苦に同意するような耳に出会うことを保証しはしない。特異なものは、交換されることも聴かれることも出来ないかぎりでしか、融合しないのだ。如何なる弁証法も統一体の中に多様なものを読みとれない。
 
 人々が語を使って、「肉体」の感じうるものを使って、空っぽの気管をいくつもつくる。その気管の中で沈黙が震えるだろうから。文体=様式は、聴取不可能なものを集める小箱をつくる。それが聞こえない部屋=無響室である。つまり声を失っているかもしれないし、あるいは少し声が漏れて来る彼方が、一瞬、喉に触れはするが、この喉を隠蔽するかぎりで、何ものでもないものに従って鋳造された鋳型が開くような、ほとんど聞こえないものを待ち伏せする喉の窪みが、聞こえない部屋=無響室のことなのである。」 

 ここまでよく解説してあるものを、さらに解説する必要があるのだろうか。そもそも題名の『聞こえない部屋』というのは、「聞こえているような聞こえていないような部屋」なので、つまりマルローの身体はバローの悲鳴が聞こえているような、聞こえていないようなボックスなのである。
 これらはカントの『純粋理性批判』と同じように表徴としての図式によるものです。アルトーの喉の“天突”と後方の背骨の”大椎”とを結ぶ動物の四つ足の時代の線と、直立した場合、人間の頭部がつくる線とが90度の差を生じたことを証明する、人類が四つ足の段階からホモサピーエンスの直立した時代に起した90度の差の変化から生じたもので、人間の五官の統一は左右の耳の斜め上のあたりに微かな響きとして聴こえるか聞こえないかの振動によって行われているのです。
 これらは前のシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』のばあいに、重力と恩寵とがからだとどのように関係しているかの構図を図式的に表徴していたのと同じことで、それは、カントの『純粋理性批判』以来、使用されている同じ手法なのです。


 さて、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に出版した本は、白水社の「文庫クセジュ」に『現象学』の題名で高橋充昭氏によって翻訳されている。内容がとても良く出来た本で、メルロー・ポンティのこともよく理解できる。そして最初にフサールが狙った“現象”という研究の対称範囲が、それがハイデッカーを経てサルトル、メルロー・ポンティからデリダにまで至る経過がとてもよく理解できるのです。
 そして、その長い道のりの果てに、デリダの現象学がジャン=リュック・ナンシーに遭遇することになるのです。

 私がいま、手にしている水声社が発行している月刊誌の「水声通信」ですが、「ジャン=リュック・ナンシー」の特集号で、2006年8月発行のものである。ちょうどジャン=リュック・ナンシーが来日した時に合わせて出版されたもので、ジャック・デリダとジャン=リュック・ナンシーの対談が掲載されているほかに、来日したジャン=リュック・ナンシーを囲んでの錚々たるメンバーとのシンポジュムの記録が掲載されているのです。
 そして、それがいかにも大仰なタイトルの「無ー無神論」なのです。
 そもそも、このようなタイトルは個人の哲学論としてはあり得るのででしょうが、「空」とか「無」というテーマは、討論の場のテーマとして掲げるのは結果として無意味な混乱を招きかねない。
 しかし、それをジャン=リュック・ナンシー氏は混乱のないように上手に裁いてみせたのは流石の腕だと感心したのですが、最後に鵜飼さんにバトンが渡された時、鵜飼さんは次ぎのように語り始めたのです。

 「私は、自分の発表が、とても栄養価の高い食事の後に出されるちょっとしたデザートのようなものになるように願っています。実に詳細にわたる紹介、きわめて内容豊富な三の発表があり、これに続くジャン=リュック・ナンシーの応答はそのいづれもが発表内容をただたんに解明するだけでなく、新たな展開をもたらすものでした。
 ジャン=リュック・ナンシーのテキストを読み、また、その発表を聞き、その声に耳を傾けることは、私にとってつねに大きな喜びです。前回、私があなたの話を聴く機会を得たのは、昨年、十月、高等師範学校のデュサンヌ・ホールでのことでした。ジャック・デリダの1周忌に、フランス哲学者による共同のオマージュという形で彼に捧げられたコロックのときです。あの日---------それは郊外で若者の反乱が始まる数日前のことでもありました-----、あなたは、デリダとドゥルーズをパラレルにとり上げ、意味、差異、政治的なもの等々の主題に沿って並外れた読解を聞かせてくれました。
 
 ところで、その前に私があなたの発表を聞いたのは、2002年7月、スリジー・ラ・サールでの「来るべき民主主義」コロックの一環としてでした。あの別の日にあなたはわたしたちの前で「人民
(peuple)」について語りました。私たちの前にはたしかにジャック・デリダがいて、あなたの言葉に耳を傾け、忘れられない仕方で反応していました。あの日、あなたが行った発表のタイトルを私は引用することはできないのですが、それがタイトルが楽譜だからです。出版されたあなたの論考の冒頭部分を引用しておきますと、「発表の最初に『出陣の歌』[エティエンヌ=ニコラ・メユールによるフランス革命期によるフランス革命期の愛国歌]の一節が聞かれた]とあります。
 つまり、あなたは発言するというより歌うことから始めたのでした。私は引用するだけにとどめて歌うことは差し控えますが、「ラーファーミーレードーシードーレーシーソーソー。「至高なる人民が前進する」というように。--------------------------------------------
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 鵜飼さんという学者は、単に学者に留まらず、つねに世界の闘争の直中にあって、発言し、しかもバタイユやジュネのような、内向的な作家にも耳を傾けると同時に、黒田喜夫のような貴重な反抗心のある作家も歴史に埋没しないように、丁寧に拾いあげる方のようです。
 結局、シモーヌ・ヴェイユやハンナ・アーレントのような芯の強い人があってこそ、歴史は後で救われるのです。

 豊島重之さんが企画されるこの貴重な会が、今度の鵜飼さんたちの発言によって眞に日本が救われる気運に向うようになってくれることを願ってこのブログに当たり。以上ブログ上で3回、応援歌を歌わせてもらいました。

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