Saturday, June 21, 2008

シュウ ウエムラと大河内菊雄

シュウ ウエムラのほかに、一昨年、私はもう一人の親友、大河内菊雄を失っている。これもやはり癌による死亡だった。
今になって考えてみると、私はこの二人から人間の暖かさと、大きさを教えられたような気がする。二人とも家柄が良かったのだが、それだけでなく人柄の良さとその才能によってだった。
私を間に置いてこの二人は全く接触がなかったのは、大河内は社会に出ての出発時は、神奈川県立美術館の学芸員だったのだが、それから間もなく大阪に移転し、読売テレビから伊丹美術館の館長になり、そのまま関西に住み留まったからである。

ウエムラと始めて会ったのは、大河内が大阪に移転してからだった。
しかし、数年前のクラス会で、隣りに坐っていた大河内から思わぬことを知らされたのである。それは、シュウ ウエムラのメイクアップ コンテストとメイクショーの大阪公演では、私とウエムラの二人は千里の読売ホールが気に入っていて、よくそこを使っていたのだが、そのホールはじつに変わったホールだった。
歌舞伎の花道のよう二本の張り出し通路が付いているだけでなく、なんと舞台と客席が同じ広さなのである。ステージが広すぎるばあいは、必要によってそれを半分に区切ることは出来るのだが、こんな思い切った劇場はヨーロッパでも見たことがない。

「だれが、あんなものを考えたのだろう。劇場の事務所に訊いたら、ステージをテレビ撮影にも使用できるようにしたのです、と言っていたが、花道はモデルが歩けるだけでなく、テレビ・カメラがそのまま、同じ高さでステージまで進める。あれは素晴らしいホールだよ。」と隣りの大河内に話したらば、彼はぼそりと「あれはぼくが考えたんだ」と言ったのだ。

そのように、学生時代から大河内は意外な発想をする人だった。
彼の祖父は元東京帝国大学教授で、後に貴族院議員になった大河内正敏氏だ。理研こと、理科学研究所の所長を終戦時まで25年間務め、研究成果を産業につなぎ偉大な事業を成し遂げたことで知られている。

理研グループの最初の工場が、新潟県の柏崎に建てられた関係から、田中角栄が氏に近づけ、生涯の師と仰ぎ、彼の「列島改造論」の発想の元になった、といわれるが果して実質はそうだったのか。
物理、化学の科学者の研究集団であった理研は、研究した成果を産業化して60を越す大企業のコンツェルンを築いたのだが、今のベンチャー企業のように利益に向って暴走しないように歯止めをかけていたのだ。

一方、研究所本体の方は研究、人事、財政に自由を与え、事業とは一線を劃して、代りに産業団への特許料を理化学研究所の研究資金に当てていた。必要な資材は遠慮なく購入できるようにし、研究だけに専念できる環境をつくり、世界にも例を見ない産学の独立・共生、循環方式の成功を成し遂げたのである。


シュウ ウエムラの祖父も明治生まれの成功者だった。若くして単身イギリスに渡り、洋服生地のラシャに着目し、それを日本に輸入することを実現し、天皇の洋服生地に使用されることからはじまって、日本橋の日銀の隣りに店を構え、郊外の成城の地に5000坪の別荘を持つまでになる。

私がウエムラに家を訪ねたときは、すでに祖父も父もこの世を去っており、日本橋の店も閉じて、彼の住んでいた成城の家は5000坪から3000坪になっていたが、宏大な芝生の庭の中央に池があり、それを囲んだ家屋の部屋数は空き部屋を数えて30余もあった。

これは後で知ったことだが、彼の母親は諏訪家の出なそうで、諏訪家といえば、天皇家、出雲家と並んで日本三大旧家のひとつに数えられる。そしてウエムラ自身は亡くなる前には諏訪家の直系にいちばん近い位置にいた。
そう考えると、六本木ミットタウンに“shu sanctuary”という神がかった名前の美容ゾーンをつくった意味も分かるような気がする。

Wednesday, February 06, 2008

シュウ ウエムラ

シュウ ウエムラが亡くなったのは昨年12月29日だったそうだ。ちょうど年の暮れなので、親族だけの身内で密葬し、今年の松の内を過ぎて公表した。
私がウエムラの秘書からそれを電話で知らされたとき、思わず、むせび泣きをしてしまった。こんなことは、かって無かったことだ。

肺炎が原因というが、末期癌が骨にまで侵していたのだ。最後に「及川に会いたかった」と言ってから、大きくひと呼吸してそのまま逝ってしまった、という。ちょうど、その日の朝、「なぜ、連絡がとれないのだ」と嫌みの手紙を出していたのだ。

シュウ ウエムラの後には、もうあれだけの人間は美容界には出てこないだろう。アートを理解し、その上に大きな人柄だった。ヨーロッパでは「シャネルが化粧品をファッションにし、シュウ ウエムラがアートにした」という定評がある。

ウエムラは80年代の頭初からアートを後援してくれた。たんに金を出すだけでなく、アートの意向を察してくれた。前衛的なパフォーマンス運動に援助する人など他にはいなかった。そして、彼のメイクアップ ショーもパフォーマンス的だった。

ヤン・ファーブルの『劇的狂気の力』、パリ オペラ座のGRCOPの招聘。それに東京アートセレブレーションやパフォーマンスのパリ公演など。
しかし、彼の見識の素晴らしさは、バブル期に起こった企業メセナや文化事業の風潮と同時に、アートへの後援を中止したことだったかもしれない。

ジョン・ケージとカニングハム

ジョン・ケージとカニングハムはほとんど同じ思想を持っていた。思想と言っても観念的なものでなく、生きることに結びついて、そのまま彼らの芸術活動の芯になっていたものである。
あれだけ永いあいだ、いっしょに仕事をしていて2人は一度も言い争ったことがない、という。
私は2人の本は読んだことはあるが、実際には会ったことはない。ただ、ヴィデオで観たかぎりでは、考えは同調したのだろうが、性格が全く違うようだ。たぶん互いに相手の才能を尊敬していたのだと思う。
カニングハイムが、最初シアトルのコーニッシュ・スクールという芸術学院に在籍していたとき、ダンスレッスンのピアノ伴奏をケージがやっていたのだ。
先に、カニングハムがマーサ・グレアム舞踊団に誘われて入団し、その数年後にケージがグレアムのところに現れたとき、直ぐに「2人でコンサートの準備をしよう」と言い出したそうだ。じっさい、ケージもインタビューで「カニングハムをグレアム舞踊団から去らせたのは自分だ」と言っている。

彼らの尊敬する人物は、ソロー、フラー、マクルーハンであった。ソローからは自然とアナーキーを、フラーとマクルーハンからは有用性(ユーティリティ)とネットワークを学んだ。ついでインドの東洋思想から東アジアの中国の荘子・易と日本の禅へと関心がすすむ。それが2人の創作方法にそのまま応用されて行ったのである。

不思議なことに、マース・カニングハム舞踊団のカニングハムの振付けと同舞踊団の音楽監督のジョン・ケージの音とは別々につくられ、平行して演じられた。いわゆる音楽をもとにしてダンスが振付けられるということはなかったのである。
カニングハムは空間の中のポジションと動きに、ジョン・ケージは音の調性とリズムを。また、カニングハムは内側からのエネルギーの連続を、ジョン・ケージは反復と沈黙をベースにしていた。

しかし、考えてみると、これは“偶然”をベースにしたハプニングから出発しているのである。

Wednesday, January 30, 2008

ポストモダン(2)

ここに『カニングハム 動き・リズム・空間』(石井洋二ほか訳 ジャックリーヌ・レッシャーヴ 新書館)という本がある。これはジャックリーヌ・レッシャーヴがマース・カニングハムにインタビューして纏めて本にしたものである。その中からマーサ・グレハムから分離してジョン・ケージとの共同作業に向うまでの状況を語っている部分を以下に引用しましょう。

「ー グラハムの周辺にはあいかわらず、閉鎖的な雰囲気があるような気がしてしようがありませんでした。彼女の作品そのものは決してそんなことはないのですが、彼女をとり巻く周囲の人たちにそういうところあったのだと思います。時とともにそういう雰囲気にも変化が生じたかもしれませんが、当時は非常に閉鎖的でした。もっとも(ドーリス・ハンフリーなど)他のモダン.ダンスのダンサーたちのところでも。似たりよったりだったのですが。ひとつのグループに属している以上、他の誰とであっても、何もできないというのが一種の暗黙の了解でした。私がクラシック・バレエの仕事をし始めた時、モダン・ダンスのダンサーたちの多くは、奇妙なことをするやつだと、ほとんど気違い扱いでした。もっとも私は、自分がクラシック・バレエの勉強をしてみたいという気持ちで始めたのですから、人が何を言おうと気にはしませんでしたけれど。
画家のグループと知りあいになり始めたちょうど同じころ、ジョン.ケージを介して音楽家たちとの往き来も始まりました。1944年に私たちが例の第一回目のコンサートを催した時、私たちを見にきてくれた観客は数の上ではもちろん少なかったのですが、その大半はこれらのアーティストたちだったのです。ダンサー仲間はほとんど来てくれず、たぶんグラハム舞踊団の何人かが見にきてくれていたと思うのですが、誰だったのかも思い出せません。いずれにしろはっきりと覚えていることは、新しい可能性の開拓に興味を持ってくれた、たくさんの画家や若い音楽家たちのことで、ダンサーたちは記憶の外なのです。ーーー いづれにしろ、私は自分の仕事を進めていけばいくだけ、モダン・ダンスの仲間とのあいだに距離を置くようになり、事実そうならざるをえなかったのです。」(訳 石井啓子)

カニングハムは、1946年にマーサ・グラハム舞踊団を去ることになる。その後、カニングハムとケージの2人は巡業に出かけるが、ノース・カロライナにあるブラック・マウンテン・カレッジの夏期講習会に招かれる。2人にとって、これが思いがけない幸運となった。そこに集結している、大勢の優れた前衛の画家、音楽家、詩人たちに出会うことができたからだ。
とくに、ジョン・ケージが企画したエリック・サティ=フェスティバルの『メドゥーサの罠』では尊敬するバックミンスター・フラーと関わることができたのである。この後の52年に再度招待された際には、画家のロバート・ラウシェンバーグと初めてそこで知り合い、その後のカニングハム舞踊団の協力者となる。
このブラック・マウンテン・カレッジは、芸術家たちに自由な場を与えていたので2人は計らずも実験の場を得たことになる。
また、そこに集まった詩人たちはブラック・マウンテン派を形成し、サンフランシスコ派のビート詩人たちと呼応して、時代の風潮を変えつつあった。
カニングハムにとってのブラック・マウンテンは、後のトリシャ・ブラウンやイヴンヌ・レイナーらのジャドソン・チャーチに匹敵する。

この時点では、もちろんポスト・モダンという名称は生じてはいない。しかし、ポストモダンダンスはこの時から芽生え始めていた、と思う。
カニングハムは踊りの技術を与えられたものとしてでなく、自分のからだで納得した上で動きをつくり出そうとし続けた。そして同時に、人間の感性をいかにして越えられるかを動物を対象に研究してもいた。また、コンピュータ技術が発達した80年代に入ったとき、誰よりも率先してそれを振り付けに応用したのはカニングハムだったのである。

ポストモダンダンスを語ろうとし、また自らを納得させるために歴史への解釈を辿ろうとしたのだが、カテゴリーの落とし穴に入る寸前にカニングハムとケージの息吹に触れ、思いをあらたにしている。ポストモダンダンスはスタイルや傾向ではないのだ。デリダがいう無意識のエネルギーがつくる“差延”の働きの交錯が、すでにこの時代に“脱構築”のポストモダンを準備していたのだ。

ポストモダン(1)

ケイの関わったアメリカのポストモダンダンスについて、ここで触れておきたい。ポストモダンとポストモダニズム、あるいはポストモダニズムとデリダの“脱構築”との関係についは、詳しくは、このブログの後で1984年以降のパフォーマンス活動を語る際に検討する積もりだが、その前にこのアメリカのポストモダンダンスに触れるに当たって、その論議対象の全体の構図を設定しておきたい。
そうしないと、ポストモダンダンスの展開もポストモダンの傾向の範囲内で動いてきたわけで、その大枠を掴んでおかないと歴史の判断を誤ることになるかもしれない。

この問題はひじょうに複雑化しているので、その歴史的な区切りと、その傾向を動かした重要事項をおさえて置かないと、明確なイメージを描くことは難しい。そして、これはすでに歴史としてすでに過ぎ去った芸術の傾向または時代思想ではなく、私の思いでは、これらを釈明しないかぎり前へ進めない状況なのである。
そこで先ず直接問題を提案したことによって起こった、区切りから始めることにします。一つは1977年のイギリスの批評家、チャールズ・ジェンクスの著作『ポストモダンの建築言語』、もうひとつは1979年のフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』という書物によるものである。

前者はポストモダンを、後者はポストモダニズムを問題としているのだが、やがて傾向と思想とが、モダンと近代が、さらにモダンと近代の時間範囲がそれぞれの対象によって違って捉えられ、論議が交差し、ますます混乱しているのである。
ポストモダンに関しては、前記のように、最初に建築の側から問題視されたので、その当初の状況と建築に関する傾向については『ポストモダンの時代と建築 磯崎新対談』(鹿島出版社)、『週間本17 磯崎新 ポスト・モダン原論』(朝日出版社)、『新・建築学入門』(隈 研吾 ちくま新書)などを参照していただきたい。

だが、ダンスについてはどうか。それはアメリカから起こったのである。そしてそれをモダンダンスのマーサ・グレハムの舞踊団から離れた時点での、舞踊家のマース・カニングハムと音楽家のジョン・ケージの仕事の発足に置くか、またはその後のトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナーらのジャドソン・ダンス・シアターの創立の時点にするかだ。
その選択にはフランスの哲学者デリダが、1966年にアメリカのジョン・ホプキンズ大学で“脱構築”に関する講演を行なったセンセーションを契機に起こった“脱構築”の風潮を汲む必要がある。しかしケージに関する限り、彼は生まれながらにして脱構築されている人間なのである。そのためカニングハムのダンスはある意味で先行していたのかもしれない。
その他に、ポストモダンのもうひとつの特徴“差異と反復”の問題もる。これもデリダの“差延”と平行して、やはりフランスの哲学者のジル・ドウルーズの同名の『差異と反復』という著書の影響も、その後の80年代のミニマリズムのダンスの動きの思想的な背景となる。

だが、このポストモダンの傾向を単なる目先の時代の兆候として捉えていいものだろうか。音楽の歴史において、“差異と反復”はフーガやソナタ形式にしろ、それを土台にして創られていたので、その方法が壊されたのはロマン主義の感情を主体にした内面描写からなのである。ということは、近代のユーロッパはギリシャのプラトン哲学のイデア(理念)の“同一性”を基準とする知性の概念操作を芸術の伝統の基礎にしていたのである。
それがフロイドの無意識の世界と,20世紀に入ってからの分子化の進行によって、抽象化、還元化に向い、差異と反復の問題が無意識またはエクリチュールの深部でどのように織りなされているのかが問題視されてきたのである。脱構築というのは、これまでの構築のそれらの内部からのひび割れと解釈するといい。

Saturday, January 19, 2008

『ランチ』前後のケイ・タケイ(2)

ケイのフルブライト給費生としての留学前の、日本での舞台歴を辿ってみよう。

1965年1月 グループVAV公演(朝日ホール)『傾斜の存在』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 武井 慧 三浦一壮 西森守・出演
1966年3月 アルトー館第1回公演(草月ホール)『爆弾』 河野典生・作 MJQ・曲 及川廣信・演出 及川廣信 後藤博道 武井 慧 高藤 翠 松岡園子・出演
1967年4月 アルトー館第2回公演(草月ホール)『ゲスラー・テル群論』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 土方 巽・主演 武井 慧 大野慶人 石井満隆 笠井 叡 大橋純一 三橋郁夫 吉村 修 城山忠正 堀 澄子・出演

その後、たぶん1968年に、ケイは渡米したのではないだろうか。
そしてジュリアード音楽院在学中の1969年に『ランチ」を発表したのである。つづく「ライトシリーズ」の活動の後、前述のように1977年に10年振りに来日公演を行なったのだが、その翌々年の1979年にも彼女は再度、来日公演を行なっている。これも同じく“ムービング アース”による「ライト シリーズ」の新作品だっ
た。それについての私の『肉体言語』の寸評も以下に紹介しておこう。

「彼女がまだアメリカに渡る前の、踊るモチーフは“怖れ”だった。
その頃の彼女は、小鳥が慌てて羽ばたくような、痙攣する踊りをしていた。しかし、他面、作品を作るときには、自分の内面をよく構図化して網を張り、その中で捕らえられた小鳥のように、怖れの戦きを小刻みに、ダイナミックに踊っていた。作品を客観化しながらも、踊り手の側の、主観がその頃は中心だった。
今度の公演を観て思うことは、彼女は自分も、周りと同じように客観化している。そのために作品は形而上的である。
生身の“怖れ”の生命がいつの間にか消え、物体との抵抗が失せて昇華するということは、アメリカの乾燥度なのか、モダン・ダンスの風土か、異国の独り暮らしのためか。」

ケイの素質とアメリカのダンスの流れとが少しづつ乖離しながらも、その後のミニマリズムやパフォーマンスの動きに取り残されることなく、第一線で自分の位置を保ちつづけて来たことは立派だ。

Friday, January 18, 2008

『ランチ』前後のケイ・タケイ(1)

ケイは『ランチ』の成功の後、「ライト シリーズ」で作品の発表を続け、アメリカ公演だけでなくカナダ、イスラエル、スペインなど海外公演も行なううちに、彼女の人気も高まり、しだいに教えを求める生徒も集まり、やがて“ムービング・アース”という舞踊団を結成する。
その活躍の噂は、情報が切断されていた当時の情勢の中でも耳に聴こえて来たが、1977年に突然彼女は“ムービング・アース”という一団を引連れて来日公演をする。作品は「ライト シリーズ」。

それについての私の寸評を、当時の同人誌「肉体言語」(9号)から抜き取って以下に紹介しよう。タイトルは「向う側から来たケイ・タケイ」。
「向う側とはアメリカのことでなく、未知の鬼の住む国のことである。
※ 舞台奥の垂れ幕の中央に、日の丸のように暗黒の穴が空いている。その前面に四角に敷きつめられた仮りの場。人間どもは暗黒の片隅から這い出て、ロボットのように生活する。一人は算えて、奥の暗い穴にボールを投ずる。
※ 「あんたがたどこさ、肥後どこさ」小石をもてあそぶ子供の遊びが、いつの間にか賽の河原の場面となる。小石で作られたサークルの内と外。子供と鬼の世界、やがてサークルがいろいろと形を変え、魔術的に働くサインとなる。

1977年の夏、彼女は10年振りにやって来た。アメリカの市民権を得たという。その時、私にお土産にくれた
ものは、直径約4㎝の、丸味を帯びた平たい、なんの変哲もない石だった。ただ珍しいことに、その真ん中に、直径1㎝ほどの穴が空いている。彼女はそれにプルーのリボンを通して結んであった。アメリカのどこかの地区の川縁にだけある石だという。
ベケットの小説の中に、放浪しながら小石をポケットに入れて、手でそっと触れる男の話がある。私も小石が好きだが、小石を好きなのは分裂質の人間なのだ。硬質の手触り。この世界のリアリティの殻の固さ。その穴の向う側にひそむ、暗黒の未知の世界。そこから生まれて来たが、死がひっそりとそこに待ち構えている。

ケイ・タケイは、小石が秘めるそのぎりぎりの意識を、あの作品の中に構造化して見せてくれたのだ。」

Wednesday, January 16, 2008

ケイ・タケイの『ランチ』

ケイ・タケイは「今、思いだすこと・・・」の中で次のように語っている。
「ランチの創作に初めて入ったのは、ジュリアードの学生時代である。とても小さくて暗い北向きの窓が一つだけの部屋、その学生寮(インターナショナルハウス)の一室で私は何とも心晴れない日々を送っていた。そして、このベッドの上と、机とベッドの間の細長い空間が私のリハーサルルームであった。外へ出るのも明るいところに出てゆくのも嫌なそんな時期、しかし私には舞踊を志す親友たちがいた。チリのカルメン、ペリーのエルシーとノエミ、ウェルズのマール、彼らは私の発想や動きを“incredible(驚き)”といつも支えてくれた。『ランチ』のなかで私と共に動く女は、このカルメンであった。私は時々、カルメンのアパートへ行く。イーストサイドの貧しい地域、暗い生活を送る人々が集まるところだ。しかし、カルメンと私はこのアパートで踊った。夕方になると56丁目のウェストサイドにあった日本レストラン「ヒデ」にバイトに行く。そしてシーズンになると、カキをテーブルに運ぶのだ。ピカピカ白く光るカキの殻がお皿に残ると、私は嬉しくて、嬉しくて大急ぎでお盆にのせ、裏に運び懸命に集めた。そのカキの殻が『ランチ』の中で白くどこまでも続く細道になった。」

ケイがフルブライト留学生として渡米し、1969年にニューヨークで初めて上演して注目を浴びた作品、彼女がその説明に苦しんで“白昼夢のような”という、この舞踊演劇を観ることを私はながいこと待ち望んでいた。なぜなら、その作品を契機にその後70年代に入ってからの彼女は、アメリカの現代舞踊の最前線の5人のダンサーに選ばれたのだから。
他の4人のダンサーとは誰だろう。あえて彼女に問うてみなかったが、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーについで、ローラ・ディーンとルシンダ・チャイルズだろうか、それともメレディス・モンクとトワイラ・サープなのだろうか。いづれにしろ、ケイはアメリカのポスト・モダンダンスの中心に位置を占めることになったのである。

幸いなことに、ケイのアメリカでのこのデビュー作『ランチ』を昨年2007年の12月29日、シアターXで観ることができた。ショックだった。“白昼夢”どころか恐ろしい衝撃だった。ケイが前もってそれを説明することができなかったように、私もブログでこのダンス劇を説明することができない。どうしてだろうか?
それは、あの1968〜9年という世界的な動乱の時を身をもって経験したものでなくては表出できないものであり、又その頃のアメリカと日本の生活の落差の狭間に放り込まれた一人の若い日本女性にしか描けないものである。

社会に生きるための衣をはぎ取られたままの孤独な女性の痛々しさと、ただひとつの支えとして心に燃えるダンスへの一途な熱意。ただ、それが直接的でなく、寓話的に一匹の猫と2人の女と、一人の男の昼食の場の会話を契機に、人が交わす無意識の流れと、社会の底辺にうごめく無意識と、猫の人間への変身とが同一平面に構成されてゆく。
シュールレアリスムの技法のパターン化をはずしているのだ。無意識がより細分化され、シュールと現実とが連結してシュール自体が現実なのだ。それが、まことに恐ろしい。
その恐ろしさが、あの時代と、ケイのあの頃に置かれた立場から遠く離れた今となっては、当時のアメリカの観客が受けた衝撃を感じれるかどうか疑問だ。
ただ、この『ランチ』があって、次の「ライト シリーズ」の作品に続くことで彼女のアメリカでの評価が決まったのだろう。