5) 北山研二さん に
南部家の人たち(B)
1 ) 悲しみは どこから起こるのか
私は最近、本屋で偶然に目に入った赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』を購読し感動して記憶にそのまま残っていたのですが、南部陽一郎氏の訃報が出ていた同じ「朝日」に、“戦後70年” 関連の彼女へのインタビュー記事が「いびつな日米関係、よじれと鬱屈秘め、迫れぬ戦争の核心」というタイトルで載っていました。その中から抜き取った次の文章をお読みください。
「東京大空襲や原爆投下を受けながら、戦後、日本人はなぜこれほど、かっての敵を愛したのか。軍国主義よりアメリカ民主主義の方がいい、というのは当時の実感だったのでしょうが、自分たちをたたきのめした国のお陰で復興し、豊かに暮らせている現実は、どこかよじれていたはず。闘う対象が見えにくい葛藤の中、日本人は『よじれ』と『鬱屈』を不問にし、敗戦を『なかったこと』にしたかったのでしょう」
この記事といっしょに載っている赤坂真理さんの大きな写真の顔は、ちょうど南部範子さんとほぼ同じ年齢なのか、この二人とも笑顔の中に悲しみの色が滲みで出ているのです。正しく二人とも身についたピエタの存在なのです。
この2人の女性の悲しみは、当人だけの悲しみではないようです。
どうして世界はこのような残酷な状態に落ち入ってしまったのか? このままの状況では、人びとが思っているより先に人類が滅びるか、地球の限界が来るかも知れない。そんな不安と悲しみにとつぜん襲われることがある。
それは公共とか、他人のためより,自分の利得のことばかり考える人間が多くなったからであることは誰でも納得しているのだが、「富国論」を著したアダム スミスが倫理学の積もりで書いた筈なのに、資本主義の教本のようになり、マルクスの資本主義に対抗して書いた「資本論」に従って、闘ってつくられた共産主義国家の内部が利得の泥沼にあるという状況は、思想や主義ではなく、もっと自然的に人間のこころとからだの生活環境を代えてゆく方法を考えて、その転機をつくるより他はないような気がする。
かってヨーロッパの危機を訴えたヴァレリーに継いで、ポストモダンの動きの原理を創った生理学者のヴァレラが、氏が亡くなる前に著した本「身体化された心」の中で、ヨーロッパの未来のためには東洋の仏教を大乗仏教から学ぶ必要があると忠告しているが、理論としては半分当たっているが、もっと具体的な方法論として提出した方が良かったと思う。
それには先ず、彼自身が神経生理学の研究によって発見した「自己組織化」の原理を利用してポストモダンの流れを源流として支えた感のあるニコラス ルーマンの「社会システム論」が、そもそも人間社会のベースにある自然と大乗仏教の主題である“空”なるものを抱え込んでいたかを反省する必要がある。その社会システムは環境としての自然を排除し、万事を包容する宇宙も排除し、人間だけの、利を生じる“物”と、人間がつくっている「世界」だけを対象としたものだっだ。
それに対する反省と同時に、現在の世界の混乱情況と地球のリスク状態がなぜ起ったのか、その原因を考える必要がある。
ポストモダンが、ほんとうは対象とすべきだった“身体”と“環境”と“宇宙”の「複雑系」を、勝手に都合のいいように人間中心に変更し、しかも上部社会の人間の利益のために知的に数式、簡易化し、社会システム化したことを、この経済中心の「社会システム論」から除外されている文化の側から芸術家がそのシステムの欠陥をまず問題にすべきである。
そして先ず、われわれが立つ大地の、地球に対して関心を向け、自然を愛する運動からはじめ、こころと身体との結びつきに的を当て、次第に生活方法を換え、終いには個人の利得だけを考えることが如何に人間として低級かということに気付かせる道しかないような気がする。
しかし、それには、先ず知識と科学には限界があり、その先にはリスク社会が待ち受けていたことに気づくこと、そしてこれまで顧みなかった“智慧”の問題と、自然環境の有り難さに気づくことである。
そもそも、ニコラス ルーマンがポストモダンのシステムに、師のマトゥラーナとヴァレラが神経生理学の研究で得た「自己組織化」のシステムを取り入れて、社会の複雑系を一つのシステム原理で簡略化していることに問題がある。
というのは、それ以前のパーソンズの社会システムは「構造/機能」だったのを、ポストモダンの革新性として「機能/構造」と機能を構造の前に置いたのだが、パーソンズの場合は社会の中に重要な部分として文化面が入っていたのに、このルーマンの場合は社会の文化面が初めから切り取られているのです。あまりにも社会の複雑系を単純化し、そのシステムに載せているのは、あくまでも人間中心主義で、外部環境として挙げているのは、人間の組織と資本主義の対象としての「物」だけで、恩恵を被っている自然そのものを外してあるのです、さらに広がりをもった次元としては宇宙の万物としての動物,植物、無生物を取り外して人間だけの「世界」だけを対象にしているのです。
そして誰も比較していないのですが、ゲーテの根源(UR ウル)の植物の「葉」は 、植物の成長過程として同じように葉から枝、枝から芽と花へと「自己組織化」する中心的な根源として選ばれているのです。
そして、生理学的に人間が活動するエネルギーに関しては、体内の無酸素状態でブドウ糖を使ってエネルギーを生成する流れの「解糖系」と、酸素を使って効率よくエネルギーを生成す流れの細胞内にある「ミトコンドリア系」の2つの系で人間は活動していることになるのですが、人間が外の空気として吸い込む酸素を植物が炭素から酸素へと変換して与えてくれているわけで、その他にもこの樹木と華花は人間の生活文化の上で排除できない決定的な影響を与えているわけです。
さらに、なぜポストモダンの後に世界的混乱とリスク社会が起こったかは、このルーマンの社会システムが文化面をカットし、経済面から“もの”だけを複雑系の社会の中から選び出していて、しかも最後の回帰的反省において、そのことを反省せず、さらに土台となっている自然とか宇宙の複雑系を完全に無視し、“利益”だけを目的に計算しているからこういう世界情況になったのです。知と科学についても、それを信頼し過ぎたのです。福島の被災の後始末が何らなされていないことでもその限界が照明されているのです。そして、そのリスクは今や地球環境にまで及んでいるのです。
結論として、ポストモダンにおいて、この複雑な宇宙世界のもとで生活している人間社会をシステム化するに当たって、この「複雑系」の宇宙世界と、人間が環境として生活している自然を外して、人間社会として単純化し、生物の神経生理学で発見した「自己組織化」の法則を活用し、人間組織と人間が使用する「物」のみを対象とし、またその上の万物を含み抱える“宇宙”の代りに人間だけの“世界”にしていたのです。
この「自己組織化」の単純化で漏れたものを組織化を反復することによって外部から拾いなおし、最後的段階で回帰的に反省することになっているのですが、人間そのものと、利益に関係する「物」以外すべてを除外していたことに対する反省、いちばん恩恵を被っている大切な自然や宇宙内の万物をも除外していたことをも反省していない、ということです。
No comments:
Post a Comment