塩谷敬(静岡大学教)について記したい。日仏文化交流とナンシー国際演劇祭を語る上で欠かせない人物だからである。
ジャンク・ラングの下でフェスティバルの選考委員と実行委員も兼ねていた彼は、ジャック・ラングがナンシーを離れ、ミッテラン大統領体制の文化相に任ぜられるのと平行して、パリ大学の大学院に移転する。そして、フランスに於ける日本演劇の受容の歴史をテーマにした彼の博士論文がパリで出版され、文化人類学者クロード=レヴィ・ストロースの強い推薦を受けて、アカデミー.フランセーズより1987年度のロラン・ド・ジュブネル文学賞を日本人として初めて受賞する。
昨日のブログで紹介した、塩谷敬の小冊子での記録によると、1972年にジャック・ラングの招聘でナンシー国際演劇祭の事務局に入ったのだが、前年の1971年は「芸術的に最も実りの多い演劇祭となった。ポーランドのタディオス・カントール、アメリカのロバート・ウィルソンそして我が国の寺山修司がナンシーから世界にデビューした。結城人形座と青年座の合同劇団も参加している」。そして1973年には、事務局にいた彼は鈴木忠志の早稲田小劇場と白石加代子を受け入れている。
彼が選考委員のミッションとして日本に向ったのは1974年である。フェスティバル出演の交渉相手は唐十郎と土方巽だった。しかし、唐十郎には「今のところ外国に出るつもりはない」と断られる。そして「土方巽に関しては、ナンシー国際演劇祭の慧眼は、土方の率いる暗黒舞踏の活動に当時から注目していたことです。交渉はかなり具体的に進んだのですが、渡航費を助成してくれる国際交流基金という組織がありまして、その国際交流基金が土方巽の評価は未だ定まっていないということで書類を受け付けてくれなかったのです。ー ほかのスポンサーは見つかりませんでしたので、結局この話は残念ながら流れてしまいました」。結局、1975年の演劇祭への参加者は遠藤啄郎のグループとなったのである。
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