Saturday, September 01, 2007

大野一雄・慶人「部屋」(3)

土方巽が60年代後半に目黒のアスベスト館を本拠として「東北歌舞伎」「暗黒宝塚」と名打って観客の人気を得ていたとき、その間大野一雄が横浜の上星川の丘の上に潜伏していた。そして土方巽が公演を突然中断した後の1977年、70歳を迎える大野さんが思い出の第一生命ホールで、「アルヘンチーナ」公演を行なった。そのことは、すでにこのブログの他のラベルでも述べている。
この公演に備えて、大野一雄は作品作りに相当不安を覚えていたらしい。そして、土方の前で「私は作品を作るのに自信がない」と、つい洩らしたしたのに対して、土方は「あなたには『部屋』があるんじゃないですか」と励ました、という。

たしかに「部屋」は、大野一雄にとってモダンダンスの創作法を越えるひとつの試金石であった。それは労苦だけが残る解体作業のように見えたが、その後“無底”の奥からいくつかの作品が生まれることになる。
憧れのスペイン舞踊手を讃える作品「アルヘンチーナ」では、アルヘンチーナへの模倣、同化ではなく、プラトンがいう“イデア”の影をそこに見ることができた。つづく「私のお母さん」では大野さんの“胎内の舞踏”が公開されることになる。
そして1980年には、ジャック・ラング創立したナンシー国際演劇祭が大野一雄を招待する。この時の出し物「お膳」の評価がひじょうに高かったため、評判がヨーロッパ中に広がり、その噂が日本にも伝わってくる。

なぜ、このように「お膳」が評判をとったのだろうか。おそらく、西洋のダンスが永い間、理念的な美に向って、ムーブメントだけに意を注いできた。それが、ごく普通の、日常的行為と佇まいに目を置き、動きの“痕跡”がそのまま見える描き方に驚異を感じたのであろう。それには、世界の最先端の動きを展示するナンシー・フェスティバルの“場”が必要だった。又、観る者の予備知識として、バタイユの“非知”が。

1 comment:

TCM said...

hello...