Saturday, September 15, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(1)

土方巽の暗黒舞踏の中でいちばん優れた、というより飛び抜けて印象に残った作品は、1965年11月に千日谷ホールで行なわれた「バラ色ダンス」だろう。これは白黒の映像フィルムが残ってはいるが、臨場感と色彩の鮮烈さにおいて公演当日のリアルな場面の方が勝っていた。
千日谷ホールと言っても、じつはお寺の本堂なので、当時は貸ホールとしても使用されていたのだ。開演の扉が開くと、そこは浄土の世界だ。一面真っ白。本堂のステージと床の全面が白い布で敷き詰められ、その上に椅子が蓮の華のように並べられている。奥の壁面の高い窪みには、全身白塗りの男たちが後ろ向きで仏像のようにじっと立ったままでいる。やがて舞台袖から車夫に引かれた3台の人力車が現れ、上には鹿鳴館風の華麗な洋装姿の大野慶人、石井満隆、笠井叡の3人のダンサーが乗っている。帽子には羽を付け、扇子を煽ぎながら微笑む、白面の貴婦人たちである。

次いで、奇異と幻想の舞踏が繰り広げられるのだが、中でも白と赤の強烈な色彩で、今だに記憶に刻まれている場面がある。ステージ中央の椅子に坐した石井満隆の頭を土方巽がバリカンで刈りはじめるのだが、土方の乱暴な手捌きが原因で、満隆の頭から血が流れ出し、白塗りの満隆の顔を真っ赤に染めてゆく。そして、土方はさっと舞台袖に去り、満隆はやおら立ち上がって踊り出したのである。

土方巽がダンサーとして開眼したのは、1967年4月、草月ホールで行なわれた「ゲスラー・テル群論」の公演でだった。台本は大沼鉄郎だが、彼の本業は記録映画監督である。作品「マリンスノー」でベネチェア映画祭の短編部門の金賞を獲得している。
では、この時の土方の踊りがどれほど素晴らしかったを言葉で言うより、現実面からのレポートで応えよう。それ以前の土方の踊りは3分以上は続いたことがなかったが、この時の彼の踊りは観客を呪縛させながら、ソロで30分も続いた。公演後、観客の多くは約1週間ほど、彼の踊りの強烈なイメージを頭から振り払うことができず、すぐその話が口に出た。さらに、宝塚ファンのある女性は、その公演を観た後、1週間ほど寝込み、下痢が止まらなかったのである。

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