今日、マルセル・マルソーが亡くなった。テレビで放送されたそうだ。
仏式に手を合わせ、瞼を閉じて冥福を祈った。マルソーは、私が直接マイムを教わった師ではないが、ドゥクルーの“動きの芸術”の学校を紹介してくれた恩人であり、彼の舞台には教わることが多かった。祈りながら、私は彼の生前の面影を思い浮かべようとした。浮かんできたのは舞台姿ではなかった。来日公演を終えて、成田を発つ時の、待ち時間を持て余した彼が見送る私へのサービスの積もりか、こう話しかけたのだ。「ねえ君、あそこに写真があるでしょう。こうやると、動いてるように見えるんだよ。」と、写真を観ながら激しく瞬きをしたのだった。それを見て私も同じように写真に向って激しく瞬きをしたのだが、互いに競争し合うかたちになって、2人で無邪気に子供のように笑った。その時の瞬きをしつづける彼の顔が浮かんだのだ。
私はクラシックバレエを学ぶために渡仏した。しかし、それまで日本に紹介されていないマイムの技術も取り入れて来ようと思った。
1954年の春のことである。神戸からマルセーユまで貨客船で45日経った。途中、港々に1,2日停泊して貨物を下ろし、その間8人の乗船客は上陸することができた。当時、ドル制限があって、年に1度試験があり、芸術家は30人だけ私費留学を許可された。しかも1年間だけのビザで、それ以上は1度国外に出てビザを取り直さなくてはいけない時代だった。
バレエの方は予めレオ・スターツのコンセルヴァトワールに決まっていたが、マイムの方はマルソーとジャン・ルイ・バローの師である、目指すエティエンヌ・ドゥクルーの住所が分からない。3ヶ月ほど経って、マルセーユでマルソーの友人だったという女流詩人に出合う。まず、マルソーに紹介してもらって、マルソーからドゥクルーの住所を聞くことにする。マルソーの公演を観てから、楽屋に訪ねてみると愛想よく、彼が描いたスケッチなどを見せてくれた。それは彼の舞台のようにファンタジックなもので、淡い色だった。マルソーはマルセーユ時代には幼稚園で教えていた。
築地小劇場を小山内薫といっしょに創った土方与志がマルセーユに立ち寄った際、マルソーは日本の領事館の紹介で土方と会っている。マルソーは日本が好きだった。能や歌舞伎がある国はマイムの聖地のように思われたのだろう。土方与志は持参していた松井須磨子の「カチューシャの歌」のレコードを聴かせてくれた。マルソーはそれを聴いて、あこがれの日本への思いを馳せたという。
私が2年の留学を終えて帰国する前年の1955年に、マルソーが最初の来日公演を行なってマイム ブームを巻き起こしていた。2度目のマルソーの来日公演は1960年だった。私は日本マイムスタジオにマルソーを招待した。そして歓迎の意味で、生徒代表として大野慶人がマイムを演じた。先の空港での“瞬きの演技”は、この来日の時だった。
マルソーのパントマイムは彼独自のものだ。私はマラルメの詩に近いシンボリズムを感じる。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment